つぶやき

今日は「アチラ側」に行ってつぶやいてきます。


「梅雨の合間の青空は綺麗だなぁ。」
「ああ、うきうきしてくるよなぁ。」
共感以外、何も生みはしないのだが,なんてことない会話に小さな喜びがある。

「でも、露に濡れたアジサイも趣があるから梅雨もまんざらでもないよ」

なんて言ってみても良い。
(文学的才能はゼロなのでその点はご容赦)


でも認識論のように厳密な正しさを問題にすると
同じ青空を見ていても、「私」が見ている青空の「青」と相手が認識している「青」が同じ物である保証など無い....なんて事になる。

もしかすると相手に乗り移って青空を見てみたら「緑空」だったなんてことがあるかもしれない。
ひっそりとたたずむアジサイの「紫」や「淡いピンク」もまた人により別の認識をしているかもしれない。

恐らく相手も同じ色を同じように認識してくれているのだろうと思ってはいるものの、それを確かめる術は実は(少なくとも今は)無い。
科学的に光の波長を計ってみてもそれが「同じように認識している」という証拠にもならない。
「共感」に喜びを感じても、実はそれは「幻想である」なんていわれてしまうかもしれない。

そこに囚われてしまっては何とも味気ない。


実際には「違う可能性もある」、「確認できない」というだけのことでしかないのだが、人の生み出した「認識論」の成果により、この小さな齟齬により「誤解」が生じる「可能性」が無いわけではないことになってしまった。

安全の為に「誤解」が起きる可能性に必要以上に「注目」するならば「疑い」を持たなければならない。

こうして、シンプルな共感による喜びはそこで「厳密な正確さ」の為に、損なわれてしまうことになる。


科学は論理を携えて「分からない事」を知ろうと試み、実際にそれを解明はしていくのだが「分からない事」は逆に増えていくような気がする。
(科学的な論理を取り入れた哲学もまたそうではないだろうか?)
科学で発見された事象の先に「新たな疑問」をもたらさない発見があるのだろうか?
実際には、新たな発見はその先にさらに多くの「新たな疑問」を我々に投げかける。


科学は「認識」だともいえるかもしれない。
発見する以前にもその原理や現象などは存在していたはずだが、それが人にとって意味を持って認識されていなかっただけ。
考え様によっては、科学はこの世の万物を人が認識しようとする壮大で無謀な試みであると言ってもいいのかもしれない。。
解明すると言う事は「認識する」ことで、そのいずれもが「厳密な正確さで断定できない」可能性を有するとするならば、それによって生ずる「小さな齟齬」もまた「分からない事」と同様増えつづけそうである。

もしそうであるならば、やはり謙虚でありたいと思う。
知識(認識)が増えても、「知らない事」や「疑問」はそれ以上の勢いで増える事に対して。
それに伴って増加する「齟齬」に対して。
そして何より、人は「知りたい」という本能を満たす事に喜びを感じ、その本能に抗う事ができないからそれを求めているに過ぎないのに、それによって万物の未知を支配しているような錯覚に陥りがちな事に対して。

既知にだけ注目すれば傲慢にもなろうが、未知に注目すれば謙虚にならざるを得ない。
その謙虚さがあれば「青空」にも「アジサイ」にも感動し、その喜びを人と共感しつづける事ができるのではないだろうか?
そうすれば、ちょっとばかり幸せになりそうな気がしてくるのだ。

つぶやき 終わり

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ブラックゴースト団

ブラックゴースト団
これは私が子供の頃夢中になって読んだ「サイボーグ009」に出てくる「主体」の知れぬ「死の商人」。
主体の知れないことは子供心に釈然としなかったのを覚えているが、今思えば「そうある必然性」も何となく理解できる。

様々な「負の事情」を持つ多国籍の若者が、彼らブラックゴースト団により拉致もしくは勧誘され様々な戦闘能力を備えた戦争の為のサイボーグ戦士として作り出される。
その彼らが、ブラックゴースト団を裏切り、彼らと戦うと言う物語だ。
主人公のジョーこと009も少年院出身、ジェットこと002はウェストサイドストーリに出てくるようなギャングのリーダーだったと思う。
001(赤ん坊のイワン)と003(女性のフランソワーズ)以外はどちらかと言えば見捨てられた者ばかり。

NHKスペシャル「戦争請負人」の再放送を見ながら、ぼんやりこの昔のコミックの事を思い出していた。
子供の頃に読んだ「作り話」としてのストーリーが、なんとも「リアル感」を持って現れてきたような感覚と言ったら言いのだろうか。(今思えば当時から見る人が見ればリアル感を持ってみていたのかもしれないが)

後半の途中から見たのでイラクに派遣される南アフリカの「請負人」たちの話しである。
傭兵の話を発端に戦争ビジネスの話は出てくるが「ニュース」のような物でこのようなものは出てこないので見ようと思わなければ目にしない。
イラク戦争ではアメリカ正規軍の死傷者はカウントされ注目されても彼ら「請負人」達が注目されることも少ない。
ついでに言えば軍法会議もない「請負人」たちにより殺されたイラク人のことも当然のように注目される事はない。

背景には「アパルトヘイト」廃止後の職を失った白人たちの困窮があるようだ。
南アフリカではこれまで虐げられてきた黒人の復権の影で、それまで定職を持ち文化的な生活を送ってきた白人たちの失業・困窮がある。
ここに出てきた白人たちはある程度まともな住まいに住んでいるところを見ると、まだまだバラックのようなところに住む多くの黒人の困窮よりはましだとは思うのだが、これまでの生活との格差からみれば別の意味での「困窮」はやはり「深刻」なのだろう。
同様に経済生活に組み込まれ囚われた私には想像可能である。
貨幣による経済生活からもともと疎外された人々と、どっぷり組み込まれた人々とではそれを絶対的な「持つ持たない」だけでその「度合い」を比較する事もできない。
「生きるため」といいながら「なりふり構わぬ」ものというより「経済生活を成り立たせる為」に「命」をリスクとしてかけているような印象もあり、その部分にも思うところはあるが、本当のとことは分からないのでそれは今は触れない。

ここでは元軍人、元警官がイラクでの警護の仕事を請け負っており、現職警官(?)も休暇を利用して派遣されたりもしているようだ。
それを斡旋するのは「企業」であり、これも元軍人がかかわっているという。
立派な資本主義経済の中の一部である。
扱う物が「人」であり、付加価値は「命のリスク」、「その安さ」が競合差別化の要因、それを調達(供給)する事ができる条件がそこにあり、その市場(需要)が「イラク」にあることが「ビジネスチャンス」となって、資本主義的な市場原理が働き、成り立っている。
「倫理観」や「人の命の重さ」といった理性が生んだ「不純物」を取り払った誠に分かりやすい「純粋な」市場原理が働いている。

ドキュメンタリーの中では派遣された夫を失った家族、後遺症を負った「元請負人」がでてくるのだが、それを後悔するのは彼らだけ。
保険の利かないリスクに呆然とするのも、後遺症を負ってこの仕事の酷さを知るのも彼らだけ。
経済生活の危機にある者は、その他のお金を持って無事に帰ってくる「請負人」だけを自分に重ね合わせ、市場に「労働」と「命のリスク」を提供しつづける。

そこに見るのは「したいからする」というよりは「せざろう得ないからする」姿。
「勝ち組みとなった少数の元軍人・警官  と  負け組みになった多くの元軍人・警官」の物語。

確かに、本当の飾り気のない市場原理がそこで働き、現存する。
一見すると「混乱」でしかない状況の中に「整然」と現存する。

日本もそれを目指すのだろうか?
その気配はある。

私はいつまでもブラックゴースト団を「悪」にしておきたいのだが、もう「悪」としては成り立たないようだ。

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最悪を想定する事

最近「リスク管理」的に「最悪を想定」するのも良し悪しだななどと思う事がある。
物を対象にして「科学的」な手法で「最悪」を想定する事にはそれほど違和感を感じないのだが、「安全保障」などを考えたときなどにそれを強く感じる。

たとえば、BSE問題(公共交通機関の安全問題などもそうだが)などを想定した場合、トコトン「最悪を想定」しても基本的に「(異常プリオンなどの)問題の対象」そのものが、それにより「変質」してしまう事はないのだが、「安全保障」で「最悪を想定」した場合、その「最悪を想定した」事により「対象」(例えば仮想敵国)そのものがそれに呼応して「変質」していく。
その変質の仕方がまた「予想」しにくいと来ているから性質が悪い。
前者は最悪を想定すればするほど、少なくとも「安全への選択肢」を増やすことに繋がるとは思うのだが,後者は一概にそうとも思えない。
場合によっては「最悪を想定」すればするほど「危険への選択肢」を増やしてしまうような気がしてくるのだ。
典型的な例は冷戦時代の米ソだろう。
互いに「安全」の為に「最悪」に備えることで、実際に増したのは「危険」だったのではなかろうか。
戦争や紛争の多くもそうだろう。
最悪を想定する事で「安全」が指の隙間から零れ落ち,「逃げ水」のように逃げていく。


仕事などを通じて「リスク管理」の重要性を肌で感じたり,社会生活で「リスク管理」の必要性を悟ったり、政府の対応(内政)を見て「リスク管理」の欠落を憂いたりする事は多い。
大抵の場合、それは合理的で有用であるのだと思う。
だから、それをどの対象に当てはめても有用と思いがちなのは私も同じだが、やはり何か違うような気がしてくる。


最悪を想定して防犯を高める。
最悪を想定して厳罰を求める。
最悪を想定して人を疑って掛かる。
なども、似たようなところがあるように感じる。

余談だが,浅学の私には哲学的な論理的思考で、真理に近付いたと言われても、そこにある思考すべき対象は、思考前の対象とは既に別物(思考の結果に「囚われた」現在の思考すべき対象)に変質し、ただそれがそこに横たわっているだけで(それだけならまだしも),ふと気がつくと人の本質とは益々隔たったところにそれが立っているような錯覚に陥る事がある。
囚われが増え、求めるものは逃げていく。
これも「逃げ水」のようだ。

それはさておき、一体何が違うのだろう。
「人」が対象としてそこにあり、「恐れ」「不信」がそこに介在している事だろうか?
それとも突き詰めれば同じなのだろうか?
もう少し足りない脳みそで「逃げ水」を追ってみたい。

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凡庸

BigBangさんが凡庸に対する怒りを搾り出していた。
初めて、一つのエントリーに向けてTB用のエントリーを書いてみようと思う。


この文章を読んで、以前「内にある矛盾」を書いた時の心情を思い出す。
自己責任などを考えた時の抑制と自由を思い出す。
これまで書いたエントリーの断片が頭を掠める。

考えてみればこれまで書いたエントリーでいつもこのあたりと格闘しているような気がする。
どうしたら私自身の中で整合性を付けるか、どう処理するか。
処理すべき物なのか、そのまま受け入れるべき物なのか。

このあたりまで来るとBigBangさんのエントリーとは離れてしまうのだが、私の中の何かのトリガーを引くような文章だった。

何をきっかけに凡庸をイメージするかは違うと思うけど、BigBangさんは戦後日本や日中関係を置いている。
そのことを直接考えればいろいろ思う事はある。
・戦勝国には凡庸は訪れないのか(いや訪れるだろう)とか
・明確な勝敗など有りうるのか(いやないだろう)とか
・凡庸をもたらす抑制や卑怯を取り払ったならば凡庸を振り払う事ができるのか(いやできないだろう)とか

でも、それは大した問題ではない事も分かる気がする。(あくまで気がするだけだが)
凡庸を振り払う事ができなくとも、振り払おうとする事(過程、行為)そのものに絶大な誘惑がある。
そこにもまた(愚かだと言われようと)人らしさ、何か失いがたき物、生きている証・・・言葉にすると違う物になってしまうがそのような物が有るように感じる。

このことを考えると色々な事に話が広がってしまう。

そんな思いの中でも、あえてBigBangさんのエントリーに記された物に「限定」し、かろうじて、考えるならば。

「卑怯」は「平和」の中にもあるが「戦争」にも有る。
「凡庸」は「平和」の中にもあるが「戦争」の中にもある。

「平和」の中にいて「平和」と戦う事。
「平和」の中にいて「平和」の為に戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」と戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」の為に戦う事。

これらを放棄したところに凡庸があるのではないか。
そのいずれにも本気でコミットしてこなかった数十年に凡庸を見るのではないか。

身に降りかかる不幸や損失を覚悟できない事に対する後ろめたさ、恐れ、保身、迎合・・・・

凡庸に対する怒りは状況に拠るのではなく、むしろ状況への対し方にあるのではないか。

「今」凡庸に甘んじる姿を見るならば、武器を持った戦いの中でもまた凡庸な役割しか演じられないのではないか。
その場合、その対極が実感できないから、凡庸を振り切る事ができるような気がするのではないか。
武器を持つことを決意した一瞬間だけ凡庸を離れ、また次の瞬間凡庸に埋没するのではないか。

自身の凡庸に対する苛立ちは自身の中にある凡庸への苛立ちで、対象は二次的なものなのではないか。
でも、これは私の事。

プラグマティックな世界では考える必要すら無いのかもしれないが、だからこそ立ち止まりたくなる。

BigBangさん BigBangさんの伝えたかった事とずれているかもしれません、もしそう感じられたらご容赦ください。

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意思の自由と振る舞いの自由

「自由」というのはけして楽な物ではない。
実際の世界では自由が保障されていようとも全く自由に振舞う事はどんな社会でもまず不可能だろう。
そのように振舞おうとすれば、自ら振る舞いの不自由に陥りかねない。
下手をすれば犯罪者にすらなりかねない。
自分1人で生きているわけではないのだから当然と言えば当然のこと。
実際は、自由な意思が不自由に見える振る舞いをも決めるのではないかと思う。
自由なのは意思であり、だからこそどんな状況でも開放感をもたらす「可能性」を秘めているのだと思う。

極端な例を一つ。
例えばイラク派遣のアメリカ兵の「兵役拒否」があったとする。
これは「振る舞い」であり廻りにそぐわない(軍規に違反する)から身は拘束される。
拘束された彼らは意思の自由を行為に移した為に身を拘束される(振る舞いの自由を奪われる)のである。
しかし、それを不自由と簡単に結論付けることができるのか?
自らの意思に反して兵役につくことで身の拘束は免れるが、彼の意思も行動も兵役に沿った行動に拘束される。
自らの意思に反して人を殺し、自らの意思に反してそれに目を瞑る。
それにより苛まれ苦悩する例は少なくは無い。
どちらを自由とみなすかと言う事である。

身近な例を一つ。
自らの所属する企業が不正を働いている事を知りその不正に反発したとする。
これもやはり「振る舞い」であり、周囲にそぐわないからその組織から排除される。
排除された彼らは意思の自由を行為に移したために経済的な自由を制限される事になるのである。
しかし,それを不自由と簡単に結論付けることができるのか?
自らの意思に反して不正に荷担するすることで経済的な制限を免れる事ができるが、彼の意思も行動もその組織に沿った物に拘束されるのである。
自らの意思に反して不正を行い,自らの意思に反してそれに目を瞑る。
それに思い悩み人生を無意味な物と見なしてしまう人も少なくは無い。
どちらを自由とみなすかと言う事である。
(ちょっと倫理的に過ぎる例ではあるが、倫理的であっても無くても自らが大事(例えば夢)に思う事と廻りとの間にギャップが在れば同じような例題が出来上がる。)


「意思の自由」は保障されようが保障されまいが意識するかしないかという違いだけの事で、本来、意識さえすれば遮る物は無い。
しかし、行為に移す際のギャップを乗り越えるには個人の意志の強さもそうだが、もう一つ社会のあり方とも大きく関わっている。
「振る舞いの自由」は多かれ少なかれ社会の洗礼を受けるのである。
社会がどのような洗礼を用意するか、それがその社会を特徴付けるのだと思う。
固定化した閉塞社会を望むのか、開放的だがリスキーで刺激的な社会を望むのか。
前者であれば意志を貫くためのギャップは大きい物が必要とされ多くは「へたれ」やすく、後者はギャップは小さい代わりに自由同士の衝突は起き易くなるだろう。
単に自由だからといって原理的に考えて解決する物でもなく、そのあたりは結局は我々自身が良いと思う物をテクニカルに選択していくしかないのだろう。
個人的には、より「自由な意思」を「行為」に移し易い社会で、しかし他を尊重して自重するところはするような社会を望むのだが...

いずれにしても、およそ社会は自分の思い通りなどはならない物だが「意思は自由」である事だけは常に意識できる自分でありたいと思う。
そして、必要なときに逆風を恐れて、知らぬ間に気がついたら不自由にからみ取られている自分に気づくようにはなりたくないものだ。

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前回の続きのようなもの

以前、私の住む県のとある学校の近くの水路(川?)で児童の水難事故があり残念ながらその児童が亡くなった。
そして、先月、学校と隣接する川との境界に危険があった事を知りながら、何の対応もしなかった学校側の管理の不備を認める判決が下った。
私は、ニュースに出てくる映像しか見ておらず、事故以前にどれだけその場所の危険性が指摘されていたかも判らない。
しかし、私の頭の中で危険な遊びが楽しかった子供の頃の思い出が頭を掠めた事を告白しなければいけない。
そのとき同時に、公園などにある遊具が起因となる事故が発生し、危険と見られる遊具が全国の公園から消えていった事を思い出していた。
私自身も海の近くに住んでいるので、危ないところに秘密基地を作り海に落ちたり、遊具に挟まれたり、本来の遊び方とは違う遊び方をして怪我をしたことがあるので、今考えるとぞっとするようなこのような危険性をイメージする事はできる。

私の場合は幸運にも命には別状が無かった。
しかし、私は私自身がどこからが危険であり、どこからが危険でないかの判断基準を養うのにこのような経験が少なからず寄与している事を無視はできない。
一方で、こんな経験をしなくともそれを教育(学校だけではなく)などを通じ疑似体験もしくは、別の手段を以って身に付けることが「できるならば」それはそれでもいいのかなとも思っている。(そのためには想像力を育成しなければ無理だろうが)
今の私達の社会はどちらかと言うと経験、選択の機会を奪ってでもこのような事故を規制して防ごうとする傾向が強い社会だと思う。
事故は「異常」であり、あってはいけないと考え、もし、そのような事態が発生したならばその原因、責任が必ずどこかにあると考え、その所在をどこかに見つけ出し、何らかの強制的な権威(法)に位置付けていく傾向が強い。(品質管理でいえばPDCAをまわして標準化すると言うような事をしたがる)
一方の結果として、いたるところにルールや責任が溢れ、そこから来る閉塞感と不自由さに苛まれ、消極的になってしまったり、何もしない者が何かをする者を批判する風潮を作ったり、無関心が居心地がよくなったり、ルールや責任そのものの信頼性自体が低下してしまったりすると言う代償を払う事にもなる。


私自身にも、私の身近にいた友達にも同じような危険があったことを考えると、当時今回と同じような事故で不運にも命を落した子供達はいたのではないかと思う。
「人の命」の大切さは言うまでも無い事であって、我が子、近しい人が事故で亡くなれば、今も昔も変わりなく悲しく、辛かったに違いない。
でも、今ほどマスコミが騒ぐ事も、訴訟になる事も少なかったような気がする。
かといって最近良く耳にする「自己責任」だと言って突き放された記憶も無い。

本来日本人は「人の命」の大切さは、周りの人がそれに注意を払いながら守りつつ、不幸にして事故がおきたならば、周りの人が命の大切さを思いながら彼らをいたわるという共助により果たされていたのではないだろうか?
(今ではおせっかいでしかないのだろうが)
ほとんどの人がその方法に異論が無かったのでそれが機能していたのかもしれない。
根っこの部分に責任を明確にすると言う対処ではなく、責任をある程度曖昧にしながら、事を荒立てずに穏やかに物事を処理していこうとする傾向が強かったのではないだろうか?


今はなかなかそうも言っていられない。
戦後、共産主義的な思想が力を持った時、労働運動などを通じて、対決を前提としたシビアな「責任」を明確にして追求する傾向は強くなっただろうし、日本の経済が他国の脅威となってからはそれまで資本主義の中にあっても社会も経済も黙認されていた共助的なシステムも非関税障壁として解体が求められるようになり、今もそれは続いている。
私には、どちらも曖昧さが受け入れられない点では共通しているような気がする。
共産主義も共助的なところはあっても曖昧さを許さない「制度」であるし、自由主義経済も自由であってもその責任を自己に置く事で整合性を付け曖昧である事とは全く違う。
いずれも日本的な「問題の解決法」とは異なる。

これは日本以外の特に欧米を中心とする「論理」を重視する先進国の手法なのだと思うが、論理性はこれらの先進国と付き合う上での共通言語として無視はできない。
我々は深層に本来の「曖昧さ」を持ちながら、その共助的な親近感を左派的なものに感じ、現実性から資本主義を採用しそれに付随する自由を何とかだましだまし操っていると言う状況なのだと思う。
多かれ少なかれ、そんな複雑な状態を抱え芽生えた疑問を抱きながら、夫々が皆どれかに重点をおき、それが各々の主張として表明されているように思えるのだが、私自身などは何か出来事が起こるたびにこの矛盾に直面し右往左往して論理的に矛盾した事を疑うことなく平気で口にしてしまったりすることがある。

会社や社会の中にあって社会的責任を曖昧にし、生活や身近なものを守りたいと思いながら、一方で自由経済の名を借りて官僚の曖昧さを守ろうとする抵抗勢力をためらいも無く批判してしまう事は無いだろうか?

以前の穏やかな社会、安全な社会を取り戻したいと思いながら、無批判にグローバル自由主義経済を受け入れていないだろうか?

自由を標榜しながら、自由意志に拠る選択に「曖昧性で保たれている和」に背くものを感じ「迷惑」だと強い拒絶反応を持つことは無いだろうか?

私が人様に対し謙虚であると言う本来の「迷惑」を、自由に伴なう行動への対抗策として、相手に求めるものに変質してはいないだろうか?

個人主義を根幹とする「自由」を標榜しながら、一方で日本の持つ和や礼儀や風習を社会に取り戻したいと主張したくなる事は無いだろうか?

そして、今回の最初に上げた事件で私が持った感覚のように、様々な問題を「責任」を追及し社会制度により制約を強化しながら、昔の穏やかな社会を懐古したり、または一方で自己責任を伴なうはずの自由を熱望する事は無いだろうか?

私の心の中を覗くとそんな矛盾した多面性を見つける事があるのだが、どうだろうか。
いずれももっともらしく思え、語る内容によってぶれてしまうことは無いだろうか?
時々日本人の得意な「いいとこ取り」が相乗効果を生むどころか、相反する価値観が交錯することで元のどちらよりも悪い結果を選択しようとさえしてしまう。
もし多くの人がこのように何の気なしに常識と思える相反する2面性に直面するケースが多いなら、我々が持つ社会の常識や規範は信用するにはかなり混乱しているのだと思う。
結局これらは常識からさらに一歩踏み込んでいくしかない。
(多様性による意見の違いと、矛盾による多様に見える意見とは違う。多様性はその個々の中で整合性は必要とされ、それが無ければ尊重はされないだろう。)

どこの国の人でも同じような矛盾を抱えてはいるのは同じだろうが、政府そのものまでが曖昧さで秩序を維持しようとする国は特に先進国には少ないと思う。それなりに論理武装している物だ。
政治なので当然妥協や齟齬があるのは当然としてもそれは基本線を維持するための物であろう。

だから対米追従で経済至上主義を謳い、一方で日本の伝統を強要しようと言う政府与党(最近の民主党も同じような物だが)のような基本の部分の節操の無さを目のあたりにすると、たとい現憲法に矛盾を見出しても、そんな立ち位置で「器を作って魂入れず」の改憲改正案などを基準に改憲などして欲しくは無いと強く思ってしまうのだ。要するに全く信用できないのだ。

日本人の中には世界に挑戦してきた経済や技術を通じ培った論理的な一面と従来からの曖昧な一面が同居している。
日本の道徳の根幹をなす「和」や「精神」はそのままでは既に論理的な共通言語を身につけてしまった個々の日本人の共通認識として定着させる事は難しい。
そればかりでなく、その本来の有用性さえも忘れ誤用・悪用されたり、必要以上に敬遠されたりしているのが実情なのではないだろうか?
西欧諸国が宗教と論理性と整合性をつけるためのフィクションを作る努力をしたように、我々日本人も「和」や「精神」のような物を論理に訳していく(多くの人が妥当な認識として受け入れられるように整合性をつける)と言う非常に困難ではあるが、そのような努力が必要なのではないだろうか?
宗教や言語と同じく「本質そのもの」を論理的にイコールであらわす事はできないだろうが,曖昧さならば曖昧さの、和なら和の論理的な有益性を、あるいは存在の意味からのアプローチのような中間言語的にあらわし整合性を付けていく試みならば可能なのではないだろうか?

憲法前文にあるような国際社会(特に先進国での)での名誉ある地位を得るには他を模倣することなどではなく「論理性に基づいた基本理念」を共通言語で示しながら「それに沿った振る舞い」を示していく事の方が、「違い」を恐れて「同じ」であろうとすることなどよりもよほど重要な事なのではないだろうか?
私は国際社会で「政策や見解の違い」が常に協調を疎外するとは思っていない。
共通言語で対話できない「理解不能」のほうがより協調を疎外するのではないかと思っているのだがどうであろう?

その「訳」(つまり多くの日本人が受け入れる事ができ、外に向け伝える事ができ評価に耐えうる「新たなフィクション」)こそが「論理的な認識」と「日本の既存の規範」の間で右往左往する日本人の新たな規範となりうるもので、それが世界に向けて主張できるならば、そこにこそ本当の誇りが在るのではないだろうか?
私は、このような「内と外」に整合性をつける作業こそが伝統やアイデンティティーの継承を担った保守に今必要とされる役割なのではないかと思ってしまうのだ。
大きな矛盾をそのままにし、それによりいつも期待を裏切る結果に直面しなければならないようであれば、誰がそのような規範を信用するものか。
「日本人の同一性」と「現実と言う外圧」に頼った刷り込みや強要で認識を植え付ける試みは、国民の精神的な2重性を助長するのみならず、外に向けては「理解不能」でありつづける事に他ならず,気が付けば中身の無い器だけの国家になり下がりはしないだろうか?

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最大の「災い」

今年もまもなく終わりを迎える。
「災い」が今年の言葉ということだが、最大の「災い」を最後の最後に用意していようとは...
スマトラ地震は調査が進むにつれ、その被害の大さも拡大する一方だ。
被災者の方には心からお悔やみを申しあげます。

私は東海地震が予想される地域の海岸線に住んでいるので子供の頃から地震といえば「津波」という意識が刷り込まれている。
子供の頃には防災訓練があり、防災頭巾なるものを椅子にクッションとして置き、非常食を常備していた。
その間に、近くの海岸線の堤防もより高いものに改修されたりもした。
地震が起き、津波に襲われる夢を見たりしたのも1度や2度ではないと思う。
それくらい、身近な危険だった。
東海地震が騒がれてからどれくらい立つのだろう。
もう30年以上経つ事になる。
今,私自身の防災意識は以前に比べどうなのか?
明らかに子供の頃思っていて程ではないと思う。
自然にとっては30年など瞬く間の事なのだが、人間である私にとっては長い時間であり、気付かぬうちに防災意識が低下している。
30年以上もの間、東海地震が起きなかったとはいえ,それが東海地震への警戒を緩める根拠になどならないことなど判りきったことなのだが、(私にとって)長い期間それが起きなかった事で「来ないのではないか?」という希望的観測が意識の中に広がっている事を大きな災害が起こるたびに自覚する。
でも、しばらくすると普通に過ぎていく日常が繰り返される中で少しずつ忘れていくのだ。
「天災は忘れた頃にやってくる」
これも、災害の後には誰もが実感する事なのに、実際はその時が来るまで頭の片隅に追いやられてしまう。
人はすぐ忘れる。
戦争(人災)の悲惨をすぐに忘れるように。


海外旅行に行ったりした時に、自然そのままの海岸線を見て美しいと思う事がよくある。
それは海岸線に限らず、河川でも同じだ。
私の住む近くでは海岸線には大きなコンクリートの堤防が横たわり、河川は護岸工事でこれもコンクリートで固められている。
昔の写真などを見ると海があり、砂浜が有り、松林が有り、それが自然の調和の中に存在しているのだが、現在はコンクリートの建造物がその景観を無機質にしてしまっている。
もし、このような人工物がなければどんなに美しい事だろうと思ってしまうこともある。
しかし、この無機質な塊がなければ、東海地震や高潮などが発生した時には大きな被害をもたらすであろう。
ダムの建設なども、他のよからぬ思惑が絡むにせよ、人を悲劇から守ろうとする側面を持つことは間違いない。
もしかすると、このような人工的な世界に住む我々だからこそ、今回災害の起きた地域のありのままの自然にあこがれ、観光地としての価値が発生するのかもしれないと思うと複雑なものが有る。

自然は日々の人の生活に安らぎを与えてくれる。
一方で人の生死など歯牙にも掛けない冷酷さを見せつける。
人にとっては災害でも、自然にとっては必要な循環の一部でしかない。

しかし、人はその冷酷さをそのまま受け入れるようにはできていない。

人はこのやさしく凶暴な自然とどう向き合っていけばいいのだろうか?
天災も人災も仕方がないでは済まされないから人の知恵が試される。

来年こそは皆さんにとって「幸」多い年となりますように。

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クルシュー砂州

今日(正確には昨日)のTBSの世界遺産はリトアニアのクルシュー砂州だった。
バルト海沿岸のこの地域には太古の樹液が化石化した琥珀を使った独特の文化を築いた人々が住んでいたということだ。
驚いたのはこの世界遺産であるクルシュー砂州の森林のその殆どが人工の物で有るという事だ。
もともと有った森林は16世紀の産業の拡大で伐採され、その殆どが砂漠化してしまったらしい。
またもや人間の愚かさを知ることになったのだが、ここでは人の愚かさだけではなかった。
砂漠化したはずの全長百キロにも及ぶこの砂州は今、立派な森林に覆われている。
これは自然に再生された物ではなく、クペルタスという人が植樹を始め、それに住民が呼応して植林運動が起こり人の手により一本ずつ植樹された結果今のような美しい姿を再現する事ができたのである。
富や欲の為に自然を壊すのも人ならば、それを意思により再生させたのも人なのである。
人の人たる所以をそこに見るような気がする。
最近の日本の現実主義者ならば「富と欲は人の性」、それに抵抗するのは理想論で片付けてしまうところであろう。
しかし、現実は違うのだ。
人はそれに逆らい自らの「意思」によりそれを為し遂げたのだ。

スターリンの時代になり、それを為し遂げた多くの人々はスターリンへの恐怖からそこから逃げ、残った人々の多くはシベリアに送られ、結局クルシュー人は消滅する事になる。
しかし、彼らの「意思」が為し遂げた「結実」は今も人々にその美しさを誇らしげに見せつけている。

最後まで示唆的ではないか。

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内にある矛盾

北朝鮮拉致被害者 横田めぐみさんの遺骨が偽物であった事が判明し、ほっとしたと同時に、改めて北朝鮮政府の不実な対応が対話の可能性を悲観的なものとし、我々の気持を不信と反感で埋めていく。
そんな中で我々が持つ選択肢は経済制裁か更なる屈辱的な対話。
どちらを選ぶにしても拉致被害者を救い出す決め手とはならないのが現状。
イラク人質事件同様、米国以外の解決する為の信頼できる多国間チャンネルを持つわけでもなく、それを築いてきてもいないのだから間に合いもしない。

これまで国民にも無視され、今も尚、出口の見つからない苛立ちを抱えながら家族には貴重な時間だけが無駄に流れていく。
子供を取り返すためにできる事は何でもしたいと思うに違いない。
あまりにもあたり前の気持であり、そうある姿を諌める言葉など持てない。

もしかするとこれは、9.11で亡くなった方の家族が感じたものであり、何もせずに報復に巻き込まれて殺されたアフガニスタンの子供の母が感じたことであり、チェチェンで夫を連れ去られ殺された妻の感じたことであり、ベスランで監禁され犠牲になった子供達の両親であり、パレスチナでかばいながらも銃弾にあたって倒れた子供の父の感じたことであり、イスラエルで爆破されたバスに横たわる少女の兄であり、スーダン内紛で殺された家族の親族であり、ファルージャで.........なのかもしれない。

私が本当に実感できるのは同じ日本人として北朝鮮という国に対しての不信と反感だけでしかない。
そこから先は被害者の置かれた状況を想像し、自分の身に置き換えて感じることだけで、彼らの本当の気持を知る事などできない。
それでも充分苛立ち、怒りは募る。

これも 9.11で受けたアメリカ人(やその他の国民)の気持であり、その報復を受けたアフガニスタン人の気持であり、虐げられたチェチェン人の気持であり、テロに遭ったロシア人の気持であり、スーダン人の気持であり、パレスチナ人の気持であり、イスラエル人の気持であり、イラク人の.........なのかもしれない。

理性として頭の中で想像することはできる。
でも本当に実感を持てるのは私の身に近いところで起こることだけ。
もし「より近い者」に「より強い思い」を馳せない自分をそこに見つけたら、自らの人間性を疑うかもしれない。
それこそが恨みの連鎖の始点であり,争いの元である事を知りながら、それを認めないわけにはいかない。
何かを解決すべく争いがおこることで、それとは全く関係の無いものに新たな争点を作り出し,たとえ当初の問題を解決できても、それがまた新たな火種になる事を予想しながら、それを認めないわけいにはいかない。

しかし、認めながらも、想像を実感に近づける自分でありたいと願うのも国や民族という[意味]を守る為に国民や人々という[実体]が犠牲になる理不尽を素直に受け入れる事ができないのも私自身。
もちろん、これは絶望に生きるか、希望に生きるかに帰結しようとする私自身の全く非論理的で個人的な勝手な思いに過ぎないのは言うまでも無いが、それでも私が私であるためには大事な事で無視はできない。

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退廃美術展

私は全く絵画に詳しくは無いが嫌いではない。
旅行に行く時は美術館に立ち寄ることも時々ある。
好きな画家については絵画集を買ったりして、その背景を読んだりする事は有るけどあまり長くその内容を頭にとどめることもない。(記憶力が弱いだけなのだが...)
Monetも好きな画家の一人で、Bostonに多くの作品があったためその時間の多くを美術館に費やして、ボーとながめたりして時間を過ごしたりした。
筆遣いや絵の具の質感などは写真では判らないので、実物を目の前にすると近くによって眺め、離れて眺め、じっと見つめなどということをしてしまうので、時間はあっという間に過ぎてしまう。
そのボストンで私がMonetを好きになったきっかけになった絵がワシントンにあるという事を知って、急遽旅行期間を延ばしてワシントンDCまで足を伸ばした事も。(その結果以前のエントリーで書いたように中西部をバイクで移動中雪に閉ざされるという失態に繋がることになったのだが)
当然印象派を見る機会が多くなりルノアールやピッサロ、そしてゴッホやシャガールなども見る事も多くなる。
抽象画も目にすることにもなるが、そのあたりになると何かを読み取ろうとするような努力はしない事にして、目にとまるか、目にとまらないか、綺麗か綺麗でないか、奇妙か奇妙じゃないかなど殆ど見た印象だけで立ち止まったり通り過ぎたりして、作品を見る前にタイトルや作者を確認しないようにして、作品から受けた印象とタイトルとのギャップを楽しむ程度だ。
(やはりここでもblog同様、感覚的な見方しかしないようだ)

その程度なので昨夜NHKBSで取り上げたクレーの名は当然のように知らなかった。(「金色の魚」はどこかで目にしたようなしないような...)
その番組は画家パウル・クレーに焦点を当てながらナチス政権下で開かれた「退廃美術展」のことを取り上げていた。
これはヒトラーの芸術に対する統制・弾圧の1つとして行なわれ、プロパガンダ的な要素を帯びながら「退廃した」絵画を集め、さらし者にするような美術展だったようだ。
ナチスが本を焼却させたのと同じように危険な思想、民族の退廃の象徴として槍玉に挙げられたという。

退廃のターゲットにされたのは「常識で理解できないような物」「戦争の悲劇を表現した物」「ユダヤ人に関する物」などだそうで、私が気になったのはやはり「常識では理解できない物」という理由だ。
ある意味、芸術と言われる物は秩序を打ちたてようとする権力者の敵になる要素を持つのかもしれない。
秩序には認識の共有が必要となり、何らかの同質性が要求されるのだと思うが、芸術はむしろ既成概念への挑戦であったり、新しい価値の創出であったりして、同一性の枠からはみ出る物に違いない。
芸術の持つこれらの性質こそが人に感動を与え人に潤いを与える物になりえるのだと思う。

先日、「盲目的で愚かな試み」というタイトルで私は「赤裸々な人の姿」のまま人は生きることはできないと書いたのだが、芸術には「人の根源を求める」要素も含んでいて、私の中にある「それを大事したい」という気持をどう帰属させるべきかは結構厄介な問題に思える。
「赤裸々な人の姿のまま人は生きていく事はできない」をさらに発展させ飛躍させればヒトラーに繋がる可能性も秘めているような気がする。
一方で芸術もまた人にとって無ければ生きていけない物の1つなのかもしれないとも強く思うのだ。
だから何処かしら相反する物を含んでいるように思える。

これはまだ突き詰めて考えたわけではないが、突き詰めて考えていくと戦争にしても平和にしても愛にしても憎悪にしても相反する矛盾を色々な場面で見つける事ができる。
人は矛盾に対し究極の答えを探しつつ、試行錯誤により新しい認識を生みながらその解決を図ろうとする、しかし、永遠にその答えに到達する事は無いだろうと確信にも近い物も有る。
それでは人にとって答えの見つからない試行錯誤が無駄なことかといえば、そうでもない。
試行錯誤という行為そのものにすら「意味」を見つけてしまうのが「人」(私でありあなた)のような気がする。
「究極の答え」の代わりに時間軸と変化を含む試行錯誤があればそこに有用な意味を見出す事もできる。
今を生きる私達もそこに「意思」を反映させる事ができればさらにその「意味」は増す。

絶望は矛盾に耐え切れず試行錯誤を止めてしまったときに、そして最大の絶望はその矛盾がすべて解決してしまった時に起こる事であって、本当は解決できない矛盾があるからこそ人は希望を持って生きていけるのかもしれない。
ならば、人を取り巻く矛盾に満ちた世界(宇宙)は人にとって意外にやさしいのかもしれない。
などと
都合のよいことをちょこっと考えてみたりする。

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叔母の死

先週小さな頃からかわいがってくれた叔母が心不全で亡くなった。
子供の頃は毎年正月には親戚が一同に会して酒盛りとなるのが恒例だったのだが、世代が代わるにつれて親戚とはご無沙汰となっていき、なかなか会う機会が無かった。
そんな中でも、叔母と最後に会ったのは去年だった。
突然たどたどしい足取りで杖を突きながら何時間も電車を乗り継ぎ、脳梗塞で倒れ寝たきりになっている母の見舞いに来てくれたのだ。
叔母は叔母の家族にこちらに来る事をしっかり伝えていなかったらしく、周りをやきもきさせたが、そのあたりがまた叔母らしかった。
多分、その時しか叔母が自分の足で来る事はできなかったと思う。
叔母はその時、何かを感じたのかもしれない、と今だから思う。
人から見れば苦労も多く、けして楽な人生を送ってきた人とはいえないかもしれないが、いつも笑顔を絶やさず、明るく前向きな人だった。
家の事情で通夜は兄が父を連れて参列し、私が翌日の葬儀に参列して父を連れて帰るという形になってしまったがしばらく会うことができなかった親戚とは顔を合わすことができた。
いとこもその子供達も会わなかった時間分の人生を積み重ねてそれぞれに成長していたり、くたびれていたりはしていたが、共有する話題になればやはり私の中にあるいとこ達そのもの。
いとこの話では叔母の誕生日を家族が集まって祝い、皆と過ごした翌日お風呂場で叔母は倒れたとの事だった。
叔母は誕生日に駆けつけた娘(いとこ)と親子で布団を並べて誕生日の夜を過ごしたらしい。
布団を並べながらどんな話をしたんだろうと思ったが、そんなことを聞く事はできなかった。
いとこはその夜のことを一生忘れる事はないのだろうな...
棺に叔母の好きだったバラの花や使われずに残った誕生日のプレゼントを添える「いとこ」の目に光る涙を見ながら私も心の中でつぶやいた。
「おばちゃん、ありがとう、安らかに眠ってください」

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盲目的で愚かな試み

皆それぞれ

勝手に生きたい。
思うが侭に生きたい。
欲に満たされたい。
指図はされたくない。
支配もされたくない。
嫌いな相手はいて欲しくない。
殺されたくは無い。
傷つけられたくは無い。

昔も今もそれほど変わらない。
これが、赤裸々な人間の本能的な姿なのかもしれない。
しかし、仮にこれらが満たされたとしても、なぜかそれだけでは幸福感を満たす事を保証しない。
また、仮にこれを人間本来の姿として全面的に認めたとしても、全てが満たされる事は無い。
人が一人で生きていても自然の摂理がこれを許してくれるはずも無い。
自然が許してくれても一人で生きたいように生きることが他人と生きること以上に幸福を保証する事も無い。
人が生物である以上その限界から逃れられる事も無い。
科学でその制限を軽減する事ができても、それだけでは幸福を保証する事は無い。
人との係わり合いは本能を制約する物には違いないが、それ無しにその本能を満たす事もありえない。
殆ど赤裸々な人の欲求を満たす事ができなくてもそこに幸福感が無いとも言い切れない。

どちらにしても人との係わり合い無しに我々は存在し得ない。
赤裸々な人の姿があったとしても、人との係わり合いの中で幸福を満たす方策を模索しながら生きる。
社会生活を営む者が普段の生活で「赤裸々な人の姿」そのままで生きていくことなどできない。
それは、そうする事で「赤裸々な人の姿」を求める「他」から、自らの「赤裸々な人の姿」を否定されてしまうことを意味する。
だから延々と答えの無い「最大公約数」を求めて試行錯誤を繰り返しながら生きている。
その生き方は、「赤裸々な人の姿」として生きることではない。
それを「理性」というのか「知恵」というのかは判らないが、それに近い物だろう。
それを「人は本来の姿を偽っている」と考える事に意味など無い。
人が置かれている「世界」に厳然と存在する「係わり合い」を否定する事自体が「盲目」であり「偽り」なのではないか。

実生活では、大抵の人はそれを肌で感じ、実践している。
そうでなければ
マナーなど必要ない、思いやりも必要ない。
言葉も無用なら、コミュニケーションなども必要ない。
家族を持つ必要も無いし、親を子を愛する事などあるはずもない。
友情も必要無ければ、法を守る必要も無い。
働く必要も無ければ、学ぶ必要も無い。
全ては「赤裸々な人の姿」に制約を与える手段である。
何れも、「係わり合い」を知るが故の最大公約数を求める試行錯誤だ。

しかし、共同体を形成し、その中に埋没する事でこの単純な「係わり合い」を平気で否定する。
試行錯誤までも放棄する。
共同体を擬人化しながら、擬人化された共同体には「赤裸々な人の姿」こそ「真」であるとみなして憚らない。
人同士であろうと共同体同士であろうと「係わり合い」には変わらないにも拘わらず、あたかも例外であるかのように扱う事に躊躇も無い。
その事がまた、実生活で大抵の人が実践しているモラルまでも崩壊させようとしている事になど見向きもしない。
なんと盲目的で愚かな試みであろうか。

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ごめんなさい

まんがめがむんど[news]館さんのサイトで
Sorry everybodyというサイトを目にした。

アメリカがブッシュ大統領を選出した事を、投稿者が写真入で謝っているサイトです。
このサイトでアメリカの良心や反ブッシュを語る訳にはいかないけど、このような試みを実行し、それに賛同する人がいるということに意味があると思う。
現実の前に何の実効的な効果は望めないかもしれない。
でも、今できる小さな事をしていこうとうする姿勢に学ぶものがあるような気がする。
このサイトの一人一人の言葉は少なくとも遠く離れた私にメッセージを届け、その存在が私に小さな希望を与えてくれている。
もし、私のこのエントリーを見てくれる人がいて,このサイトを目にし、何かを感じる人がいればそれはそれほど小さな事ではないことを意味するのではないだろうか。

このサイトのメインはGalleryだが、FAQ(よくある質問)で次のような質疑が書かれている。
Why does America need to apologize?
It doesn't. Our message isn't normative; it doesn't require anything of anybody. We don't say you should be sorry or you must be sorry. Our apologies are voluntary. Situations like this are great sources of misunderstanding and rancor between cultures. We don't pretend apologies are the solution, but we don't see the harm in offering them.

同じく謝罪について
Don't you understand that an apology is a sign of weakness?
You are free to think so; we are of the opinion that the willingness to apologize is a sign of courage and strength.

同じく私の印象に残った質疑
Are you ashamed to be an American?
No. Are you ashamed to be a human?

人が別のどんな代名詞で呼ばれようと、その前に人であることを忘れないようにしたい。

最後に:
「何もできなくてごめんなさい。」
「知る努力が足りなくてごめんなさい。」

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信頼

人の命というエントリーで瀬戸さんにいただいたコメントへのコメントを書きながら頭に「信頼の喪失」と言う言葉が浮かんでいた。
文脈とは直接は関係ないのだが、「どこかで世界は冷酷な現実のみで動いていると勘違いして、それを受け入れる事が現実的だと自らを戒めようとしている。」という部分を書いている時にそれを考えていた。

以前「姪の一言」というタイトルで少し「信頼」について触れた。
本当はこの出来事に関連して別の記事を書いてUPしようと思ったのだが、自分が納得できずボツにしたことがある。
人から見ると関連性は判りにくいが私の頭の中では繋がっている。
実は最近、数学屋のめがねの秀さんが紹介していた宮台氏の「社会学入門」を目にする機会に恵まれた。
いろいろ興味深い概念が紹介されていたのだが、その中で出てくる「社会秩序の合意モデルと信頼モデル」(連載第八回)を読んで、ボツにした記事で書きたかったことは多少なりともこれに関係があったのではないか、今回頭に浮かんだ「信頼の喪失」とも関係があるのではないかと思ってちょっと長いがここに引っ張り出そうと思う。


今、世の中の事、共同体、社会を考えるとどこにでも顔を出すのがこの言葉。
不信は伝染し蔓延する。
一つの不信が隣の人を不信に陥れ、またその不信が隣の人を不信に陥れたり、不信を与えた元の人の不信を更に煽る。
日本で使われる「自己責任」は周りに対して「不信でありなさい」といっているのだからなおさらだ。

これが蔓延してくると、もうにっちもさっちも行かなくなる。
普通は車道の左側を走っていれば対向車とぶつかる事はないのだが、「人がルールを守るなどと期待するな」となると車も安心して運転できない。
車にカギをかけなければ「盗まれて当然」であり、盗まれるほうが悪いとなる。
警察に通報しようとも「警察がそんなことに真剣に取り組むはずないだろう。」言われてしまう。
銀行に金を預けておけば安心だなどと言おうものなら大変だ。

悪意を持つほうも大変だろう。
善意を信じる者を信頼できれば簡単だったのにこうも皆に不信をもたれてはこれまでの生易しい方法ではわが身が危ない。
当然、巧妙に周到にしかも強行になるだろう。

困っている人を助けようものなら「偽善」のレッテルを貼られ、その人が少しでも間違った事をしたら「それ見た事か」と総攻撃、やはり「人など信用するものではない。」は勢いを増す。
人など助けなければ「ただの人が間違った」で済むのに人を助けた事があるばかりにそれではすまなくなるのなら、とても人を助けるなどといったおこがましい事はできなくなる。下手をすれば訴訟にもなりかねない。

私達の生活は何をするにも何らかの事を信用できることが前提で社会生活を営む事ができるのだが、そんな事を言っては「非現実的」とか「甘い」とのそしりを受けることになる。
一種の防衛本能なのだろう。
かなり、不信が蔓延した共同体では当然「不信」を前提に話をしなければ、現実的な具体策とはみなされない。
この現実的な具体策でなければ、採用される事がないのだからますます「不信」は発言権を強め、更に不信の和は広がっていく。

戦争、防衛などでよく引用されるのは「強盗に襲われたら黙って殺されるのか?」
「不信」を前提にした話なので、答えは

「身を守るために皆が銃を持って生活する事だ。」

と言う事が妥当なのか?
しかし、ここで現実論を打ち切るのは現実的ではない。
ここで止まればいいのだが必然はそれを許さない。

更に現実的には隣人も常に銃を持つわけだから

「銃を持った隣人には常に気をつけろ」

中には奇妙な行動を取る人もいるだろう。そのときは

「やられる前にやるのは正当防衛」

といって先制攻撃で引き金を引くのだ。

「やられるほうが悪いのだ」

強盗も殺されちゃたまらないから

「相手は銃を持っているのだから、躊躇するな」

と・・・・・・
更に続きはあるのだろうが、「不信」とそれに対して
「現実的」である事を前提にすれば充分可能性を考慮できる事だと思う。

極端すぎるなどとは言わないで欲しい。
アメリカでは実際にハロウィーンで射殺された日本人がいたのだから全く現実的な話だ。
過激な犯罪も浮世離れした話ではない。
紛争地域ではなおさらだ。
つまり非常に現実的にはこうなる事は全く不思議はなく、実際にをれを選んだ人々がいるから
現実に存在するのだ。
そういう世界は存在し、そういう世界に同調する事に違和感など存在するはずがない。
(意図しようと意図しまいと)それを望んでいるのだ。

私はそれを望まない。
これを意図的に望んでいる立場の人から非現実的な理想主義といわれても構わないが、途中で流れが止まることを期待する立場の人にはあまり言われたくない。
大きな流れに「身を任せながら」その流れが「自然に止まる」のはその結果としての戦争、自然災害などのような流れのエネルギーを一気に放出するような事態を待つしかないような気がする。
でも、大きな流れに逆らう小さな流れが少しずつ大きくなり流れを変える歴史は存在する。


以上引用

ボツにした文をそのまま修正せずに写したので文脈的に変なところもあるのだが、この中で納得できなかったのはその文脈のおかしさもそうだが、あまりに唐突な結論に何かしらの違和感を感じたからだと思う。
もともと化学出身(大昔)の私には究極的には無秩序に向かう流れは抗し難いものであり、それが自然の法則であるという考えが頭の片隅のどこかにある。(エネルギー論(熱力学)のエントロピー的な概念)
ついでに言うなら「恨みの連鎖」を考える時は化学の「連鎖反応」を、緊張を考える時は「エネルギーの励起状態」を無意識に頭に浮かべる。

私の内面から湧き上がる「現実という流れに異を唱えたい欲求」を感じつつも、この概念(前提)から来る無力感と自分の「頼りない思い」との葛藤が常にある。
しかし、社会学入門を読んでこのことに小さな光を見る気がした。(連載はまだ続いているが)
あまりに多くの私にとって有意義な概念があったのだが、この自分の意識の「頼りなさ」に勇気を与えてくれたのは
「現在、人がまがりなりにも社会を構成しシステムを維持しているのはもともと、ありそうもない事の実現に他ならない。」(素人である私が文脈からこう解釈したに過ぎないが)
ということを感じたことであり、社会の存在自体が物理現象にはない「エントロピーの低い状態を維持する」可能性に光を与えてくれたことだ。
また、この中で出てくる「信頼モデル」という概念も私の思考の方向性(上記のボツにしたエントリーのような)に力を与えてくれる。
それは「物質」と「意味」との持つ性質の違い(物理的であることと意味的であることの違い)であり、意味は選びなおしを可能にする事であり、コミュニケーションであり、自発性を持つ etcです。
逆に、ここに取り上げたエントリーのように武器が必要となる状況でも「同一性を互いに供給しあう」事で、それは秩序が維持されていると考えられる課題を生むことにもなるが、そこではどういう形で秩序が保たれるかを考えればいいと思う。

そのほかにも社会学入門を読んで考えさせられる事は多かった。
政府と国民の「信頼」が現実により歪められる事により社会という秩序にどのようなダメージをもたらすかも予期させる。
力や権力で法が歪められる事で同じ信頼モデル内でもどのような予期の変化を生じどんな社会が想定されるかにも興味がでてくる。
「選択前提」を考慮すると教育のあり方、マスコミ操作の効果にも繋がりそうだ。
「選択連鎖」は私が良く使う「必然」や「なし崩し」を考える時にポイントになりそうだ。
「意味の持続性」は「歴史問題」にも関わるだろうし
「自由」や「多様性」はイメージとは違い、必ずしも即それが政府の言うように「複雑性」(無秩序)を意味するのではなく「複合性」による、よりエントロピーの低い高度化した「秩序」として考える事の妥当性を感じる。
国際社会が直面する混乱した多様性の中で秩序を見出す時、システムとシステムが新たなシステムを生むような概念として考えてみたい。
アメリカの試みが何処に位置し、宗教同士の絶対的な対立をどう見るかにも興味が湧く。
入門と謳っていても「社会学入門」は難解で分からない事が沢山あるが何度も読み返したいし、連載は今も続いているのでそちらも読みたいと思う。関連する書物にも手を出そうと思う。

私は常に不完全であり、けっして完全にはなれない。
だから、完全になる事を待つことはできない。
生きている以上、常に選択(先送りも含めて)の連続であり、その不完全な状態でその選択をし続けるわけだが、現時点で納得できる「より良い選択」をしようと「あがこう」と思う。
それは心地よい秩序を模索する事であり、同一性を供給しあう要素の一端としてコミュニケーションを試みる事かもしれない。
おそらく今後のエントリーにこんな難解な用語がでてくる事はないと思うし、そうしたいとも思わないがエントリーに書く内容は体験的で感覚的でも、常に私の中で整理しながら勉強していきたいと改めて思う。
同時に、皮肉にも「システム概念」が一箇所にとどまる事がない事も示唆しているようにも思えるので、私は自身の感覚的な物には錯誤が付き物であると疑問を投げかけ続ける事を前提にしながら、この感覚的なものも大切にする立場をとりたい。

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人の命

ここしばらく天災が続いた。
台風が連続して大きな被害をもたらし、それに追い討ちを掛けるように地震が起きた。
便利な社会が天災の前にあえなく分断される。
大事な人の命の喪失感、悲しみは何処に向ければいいのだろう。

台風が発生し上陸が予想される時にいつも思う事は、今普通に家族と暮らしている人の何人かがまた犠牲になるのだろうと言うこと。その人たちは自らが犠牲になる事などは夢にも思っていないはずだということ。
そして台風でも、地震でも天災が過ぎてみて、犠牲になった方たちが、その直前まで家族とどんな会話を交わし、どれだけ長い歴史を生き抜き、どれだけ多くの人と関わってその人たちに影響を与えてきたのだろうということを思う。
この世に生れ落ちて、大事に育てられ、周囲の人に幸せを与え、幸せを受け取り、傷つけ傷つけられながら過ごした歴史が一瞬にして終止符が打たれる。
なくなった方、一人一人に忘れがたい歴史があるはずだ。
生き残った家族にも同様の歴史が刻まれているはずだ。
直接被害を受けなかった私には「天災」であっても、被害者の方やその家族にとっては「人生」であり「命」そのものであるはずだ。

これはいつでも自分の身に起こっていてもおかしくない事であって、今私がその当事者でないのは単に運が良かっただけなのだ。

その一方で生きることに真摯に取り組み、協力し、分断された便利な社会に頼らずに立ち上がろうとする姿、1つの命の為に危険を顧みず救出しようとする姿、少しでもできる事をしようと支援の手を差し伸べようとする姿。
頭が下がる思いであると同時に、なんともいえない救いの思いがある。


こんな中で、ちょうど今、バグダッドで見つかった遺体が人質となった香田さんであった事が確認されたと報道している。
どんないきさつがあったにせよ同じように両親に愛され、歴史を負った人一人の命が奪われた。
大事に育てた困難にあっている子の無事を祈っていた両親に最悪の結果がもたらされてしまった。
またもや卑劣な誹謗を浴びせ、悲しみに追い討ちを掛けた者がいたというが、そのもの達は国民である以前に人であることを終に忘れてしまったのではないかと疑った方がいい。
政府は「このような卑劣極まりない行為はけして許されない。テロとの戦いは断固として続けていかなければいけない」といっていた。
テロと戦うのは良いが、そのやり方が同じような「歴史を背負った罪のないイラク人の命」を犠牲にする卑劣極まりない行為をいとわぬような物であるならば、それはテロとの戦いとは違う、全く的外れな言動である事を自覚してもいい頃だろう。
イラク戦争は、もはやその大儀を失い、その汚さは人々の目にさらされてしまっている。
戦う相手が歪められてしまっていることを白日の下にさらしてしまっているのだ。
その白々しさは、全くもって人の死を冒涜する物だという憤りのみが残る。
「人」であることを失った時、「国民」である事に何の意味があるのか?
そこに愛国も誇りもあるはずもない。

台風でなくなった方、地震でなくなった方、そしてイラクの犠牲者、パレスチナの犠牲者、ベスランの犠牲者、ダルフールの犠牲者、アメリカ兵の犠牲者、残念ながら香田さんも 命を落とされた全ての方のご冥福をお祈りします。

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学問(補足)

先のエントリー(学問)で前触れも無く突然「技術的な手法」という言葉を使ってしまったので、もう少し関係する事で補足したい。

根本から考える事で問題を解決しようとすると、それがゆえに壁にぶつかる事がある。
例えば私の体験だが、ある数学の問題に直面したときに、問題を考える過程でAをBに置き換えると見事にその問題が解決できるというものがあった。
Aは問題を考える流れの中で自然に出てくる要素なのだが、Bはどこからとも無く突然そこに現れる。
このBは大抵、別の問題を考えた時の結論であったり、その過程で出てくる一形式であったりその変形だったりするわけだ。
「技術的な手法」の見地に立てばBをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないかと言う事になる。
しかし、根本から考えようとすると「なぜここでBというものを結びつける発想が出てくるのか」というものが気になって来るものだ。
ここでBを持ち込むという発想が解明されなければ気持ちが悪いのだ。
私はそのとき、その問題自体を解くことよりも、同じような別の問題でも同様に、一見全く違うものの要素を結びつける事に気がつくことができなければその問題を理解したと思えなかったのだ。

よくよく考えればこれを結びつける発想をした人(先人)は何万人かに1人で、偶然見つけたものかもしれないのだから、その発想を一からたどって結論に至ろうというのは非常に無謀な試みである。

だから、成績をあげるには
「Bをここに適用すればうまくいくのだから、それで良いではないか」(技術的な手法)
と割り切れた方が効率的に違いない。
「Bを持ち出す発想」にこだわって引っかかってしまえば次に進む事すらできない。
私は、この時点で「技術的な手法」に魅力を感じてすっかり乗り換えてしまった。
今考えてみて、こだわったそのときの私は知的好奇心が無かったかといえば、むしろ素直に受け入れる子よりは知的好奇心は強かったのだと思う。(手前味噌とおしかりを受けるかもしれないが)
でも、そのままでは成績は明らかに悪くなったことだろう。

知識の積み重ねにはこういう側面があり、先人の偶然の積み重ねを生かすには「真似る」(まねぶ→学ぶ)事が重要だとされる根拠にはなると思う。
しかし、真似る事の必要性を知りながらも、「こだわりの過程を持ちつづける」人と、最初から気にかけない人では、新しい事を発見したり、矛盾に気づく力には差が出てくることだろう。
既存の物をそのまま受け入れる習慣が染み付いてしまえば、よほどの幸運に恵まれない限り、新しい事やそのきっかけとなる矛盾に出会っても気が付くのは難しい。
気が付いても無視してしまうか価値の無いものとして切り捨ててしまいかねない。
数学ではあまり既存のものに矛盾を感じる事は無いのだろうが、これが他の自然科学では「原理の発見」とか「発明」など、つまり独創性の分野では大きなウェートを占めると思う。
普通の社会でも、閉塞状態から抜け出すには既存のものに縛られた発想では難しい。
これだけ情報が氾濫する中で、見抜く力(メディアテラシー)の面から見れば今後ますます重要になるだろう。

成績や効率から考えれば無駄な回り道に違いない。
それは、ナンセンスに見えるかもしれない。
しかし、それでも、そこには大事なものがあり、簡単に切り捨ててはいけない事のような気がする。
ある時期、それが重要だと思い返した私だが習慣を変えるのはなかなか容易な事ではない。

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学問

小さい頃、算数は覚えなくても考えれば判る事だと信じていた。
頭にイメージして一つ一つその場で考えていけば解けると。
だから前のエントリーでも書いたが宿題をやらずに先生にビンタを食らう羽目になったのだが。
でも、さすがに普通の脳みそでは算数が数学になり中学の後半から高校になるとそうもいかない。
基本的な事をいちいち最初から考えていたのでは時間かかるし、局部に集中しすぎて問題の全体像もつかめなくなる。
基礎的なことや反復の重要性を実感するのはこんなときだ。
一つ一つを良く考える事も重要だし、その結論を体に染み込ませすぐに取り出す事ができるような訓練も大事なのだろう。

色々な意味で多様になり、複雑さが増して来ると学ぶべき事柄の絶対量も増える一方だ。
そんな増えつづける知識を教えるのに人の持つ時間は限られている。
どんなに社会が高度化して複雑になろうとも、それに比例して子供が義務教育を受ける時間が増える訳でもない。
学校の先生も大変だろう。
子供の可能性を考えると多様化した社会に対応する「基礎」自体も多様化しておかなければいけない。
限られた中で多くのことを教えるには、できるだけ結論の出た物を暗記し、技術的な手法を用いるしかなくなってしまうのも無理からぬ事にも思える。
技術的な手法ではやはり、根本から考える機会は少なくなり、その習慣すら無駄に思えるようになるのが自然なのかもしれない。

科学に関する知恵は先人の知恵を学び、その確実な知恵を拠り所に次から次えと積み上げていくものだろう。
科学の中でも特に「数学」はその仮定の存在による絶対性から先人の知恵が崩れる事はほとんど無いような気がする。積み上げ、分岐し更に積み上げていけば良い。
一番論理的な科学の分野なのではないだろうか。
「物理」とか「化学」などといった分野は論理性を仮定の世界から現実のものに適用していくという意味で数学の次に先人の知恵が確かなものだともいえるかもしれない。
しかし、ここには現象の捉え方(観測,解釈)の中に人の要素による限界や不確かさが加わるため先人の知恵が覆される事がしばしばある。
その他もろもろの自然科学もこれに準ずると思う。
哲学を科学とすると、それは人そのものを対象にするだけに、この限界や不確かさはかなり大きくなるのではないだろうか。

どれも思考の過程に論理性を必要とする事には変わりは無いが、その扱う対象は学問によって確かさが大きく異なってくる。
もっと簡単にいえば同じ科学でも不確かさが高ければ高いほどほど根本を見直す必要に迫られる可能性が高くなるのではないかという事。
(もちろんもっとも論理的な数学でさえも、発展させるためには根本を見直す事は必要だがそれはひとまず置かせてもらいます)

先ほど出てきた「技術的手法」に頼る事は確実に積み上げられるものには有効で効率が良いかもしれないが、限界や不確かさの比率が高くなればなるほど対応していく事が難しくなるような気がする。
そして、長く続いた技術的な学問の積み重ねが「人」という不確かのものへの関心を遠ざけている遠因にもなっているのではないだろうか?

歴史の本などを見ると、昔の人の「学問」にはその時代その時代で「人」について、今よりもっと学んでいたのではないかと思える。
科学としての「哲学」も、知恵の集大成ような「宗教」もそうだが、「どう生きるか」を重要な「学問」として学んでいたのではないだろうか?
確かに不確かで積み上げにくいもので理論でまとめきれないかもしれないが、先人の知恵を拠り所に時代に即して学び、追求していたのではないか?

現代の我々は確かな科学に対する技術的手法を、どうも不確かで根本を見つめる必要のあるものにも同じように適用してしまう癖がついてしまっているのではないだろうか。
いわゆる、(あまり好きな言葉ではないが)「思考停止」はそれに当たるのかもしれない。

「どう生きるか」と社会のかかわりは深い、政治との関わりも、国際問題との関わりも、地球規模の環境との関わりも,戦争との関わりも....

技術的で効率的な教育を受けてきた私の未熟さから、これらを再確認する必要性を感じている。
だから、日本の教育を考える時も、効率も良いが、答えのなかなか見えない不確かなものが気になってしかたがない。
確かな分野の科学は技術的な手法で専門分野化しても構わないが、この不確かな分野は共通して根本から学ぶ(考える)癖をつける必要があるのではないだろうか?
これは、あくまで不確かな感覚的な思いにすぎないが・・・

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姪の一言

夏休みに遊びに来た小学生の姪がたまたまテレビでニュースを見ていたので「お前、興味があるの?」と聞いたら「どうせ政治家なんか皆悪い事しかしないんだから」というので驚いた。
体を動かす方が得意な(つまり勉強など好きではない)姪の口から出てきたから尚更だった。
それを聞いて、ついいたずら心が働き
「一生懸命やっている政治家も居るんじゃないのかなぁ?」
と振ってみた。
姪は
「ふーんそうなんだ。」
それで私は
「うん、悪い事をする人も居るかもしれないけど一生懸命勉強して日本を良くしたいって人もいるよ。」
と言うと姪は
「へー」
と言いながらもすでに別の事に姪の興味は移っていた。

たったこれだけの会話だったのだが、後になってもどこか引っかかってまだ覚えている。
考察の結論ではなく「政治家」ときたら「悪い」という条件反射のようなやり取りだったので、そこがどうも引っかかったのだと思う。
小学生ぐらいでは子どもは目や耳に入るものをそのまま受け取って覚えていくのだろうから不思議だなどと思ったわけではないのだが、その覚えた内容が面食らう。
いつ、どんな風にして姪は「政治家」=「皆悪い事をしている」というルーチンが頭の中に作り上げられたのか?
学校での会話に出てくるのか。
政治家のニュースを繰り返し見てそう思ったのか。
バラエティーなどのネタで覚えたのか。
両親がいつも言っているのか?(そんな話をする親ではないと思うのだが)

このような条件反射を見ていると、「学校の先生」とか「警察官」なども同じなんだろうなと思ってしまう。
小さいうちから「どうせ政治家なんて」とか「どうせ警察官なんて」と言ったルーチンが頭の中に刷り込まれているのかも知れない。
今の小学生は私の頃よりも「賢い」ので本気かどうかは別にして、時々このようフレーズを口にする。(姪が口にするとは思わなかったが)

私達大人の会話ではこんな事はいつも飛び交っている。
マスコミでも、特に「先生」と言われてきた人たちが何か間違いを犯せばニュースだけでは終らず、トコトンこき下ろし、話のネタにして一切の容赦はない。
番組でも「まじめな物」は、それを落とす事で笑いを取るのに実に都合がいい。
「笑い」は「まじめ」より陽気であり(本当は陰湿な部分も多分にあるのだが)、人気があるから、子供同士では「学校の先生」や「警察」を擁護する「まじめ」よりも笑ったり、馬鹿にしたりする方に傾いていっても不自然ではない。

それが理由かどうかはわからないが「先生」と言われる人は尊敬される象徴的な存在であった訳だが、軒並みこれらが力を失って来ているようだ。
私が子供(小学校)の頃の「先生」が特別立派だったかと言えば、勉強は嫌いではなかったが宿題をしない私は良くビンタをされたのだからそのときの担任は今で言う「暴力教師」だ、いつも二日酔いで髪の毛がぼさぼさで不精なくせに掃除にうるさい担任もいたし、露骨に女子が好きな学年主任もいたわけだから品行方正な方々ばかりだったとも言えない。
今のマスコミが当時あったら皆不良教師に違いない。(笑)
でも、どの先生もおおむね好きだった。(中学以上になればそうも行かないが)
もちろんビンタをされたことで、「それだけ私の事を思ってくれたのだろう」などと感じて好きになった覚えもないので、愛の鞭が良かった訳ではないだろう。
恐らく、ただ単に理由もなく「信頼」していたのだと思う。
教師を悪く見る環境が私の周りにはなかっただけなのだろう。
「信頼」をあたまの回路に刷り込まれていたのだとも言えるのかもしれない。
つまりはそういう風潮だったのだ。
そのおかげで、ある程度の許容度を持って受け止める事ができ、先生に対する不信感も持たず、学校が嫌いになる事もなかったのだから私は幸せだったのだろう。
ただ鈍かっただけなのか?
その可能性もある。
でも、「信頼」とか「不信」とか言う物は、必ずしも「実態」によってのみ生じるわけでもないようだ。

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先人の知恵

小さい共同体、例えば3人程度の仲間で1人が自分の利益の為に他の2人にとって嫌がる事をすれば、その場でその反応は現れるだろうし、もしかすると嫌な事を返されるかもしれない。
少なくとも3人は快適に過ごしにくくなる事がすぐわかる。
恐らく人の嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事を自然に自覚するだろう。
もちろんこの共同体から逃げる事ができない状況を想定しての事だが。

中ぐらいの共同体、例えば100人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても、その相手以外の人達の陰に隠れる事は可能になるかも知れない。
この1人は利益を得ながらも嫌な思いをしなかったわけだからその行為をやめる必要はないと思うだろう。
もしかすると利益を得た自分に優越感すら感じるかもしれない。
そんな彼を見て俺もやってみようと思う者も出てくると考えるのが自然だろう。
恐らく皆,自分だけが損はしたくないから彼を見習う事になるかもしれない。
しかし、100人程度の共同体ならば自分のした不快な事が自らに戻ってくるのも時間の問題だろう。
やがて,始めの1人もそれを見習った他の者も、この状態を快適だとは思わなくなるに違いない。
こうなれば、小さな共同体同様、「嫌がる事をすれば自分が快適に過ごしにくくなる事」を自然に自覚するかもしれないし、そうでない場合には皆でそのような者にあえて制裁を与えるような知恵を働かせるかもしれない。

大きな共同体、例えば数万人程度の中で1人が自分の利益の為に人の嫌がる事をしても,10万人の影に隠れる事は至極容易になることだろう。
そんな彼を見て真似しない者が出ないと思うほうが不自然。
数万人もいれば自分の利益の為に人の嫌がる事をする者は最初から複数かもしれない。
いずれにしても彼らの近くにいる者には彼らのまねをする者が現れるに違いない。
しかし、これだけ大きな共同体になるとまねをする者が行き渡るまでには時間が掛かる事だろう。
自分にそれが戻るまでは「嫌がる事をすれば自らが快適に過ごす事ができない」と自覚する事などない、その間は「人より得」でありつづける。
さらに、利益の為にする行為の種類にも「新種」が現れるに違いない。
自分のした行為と違う事(新種の行為)をされ、実はそれによって不利益を被っているのだが,それが自分のした行為と同質の単なる「新種」である事など知る由もない。
自らが起源となっている不利益を受けながらも、それとは知らず自らは利益になると思っている行為を「得」だと思い込みながらその行為を続ける事だろう。
いずれこの共同体の人々は皆「快適ではない」事に気づく。
しかし殆どの人は何が快適ではない原因なのかわからないまま、自らが「得」だと思っていることをやめることはできない。
辞めることは「損」以外の何物でもないから。
きっと不快さが絶え難いほどの極に達するまで・・・。


共同体が大きくなればなるほど「原因」と「結果」を結びつける事は難しくなるだろう。
本質は同じでも「原因」の姿も、「結果」の姿も多種多様になり絡み合ってそれがわかりにくくなる。
しかし、規模が小さかろうと大きかろうと本質は変わらない。
感知ができなくなり想像ができなくなり錯覚してしまうだけだろう。
恐らく、こんな事は宗教や哲学を持ち出すまでもなく、人が共同生活を始めた頃にはみな知っていたに違いない。

先人はこの結末も何千年も前から知っていたのだろう。
言葉や生活習慣などにも残して充分警告している。
「してはいけないこと」を「現実にそった賢い選択」と思い込み、してしまう事をずっと以前に見透かしていて、それを「浅はかな事である」と伝えようとしている。

見透かしているが為に「疑うことなく信じる事」でこれを伝えようとした試みもなされたが、こちらは伝える中身ではなく「伝える形式を疑いなく信じる」事に変質し、同じ「伝える中身」を持つ違う「形式」を排除し、先人が本当に伝えたかった「中身」に反する事を互いに繰り返すことになってしまっているようだ・・・
また,その「伝えたい中身」ではなく「伝える形式」が「科学」と対立し矛盾を生んでしまったようでもある。

おそらく我々自身も「してはいけないこと」を先人から受け継ぎ、知っている。
「してはいけないこと」に従って「しない」ことで、たった今、「損」をするのが恐いのだ。
ついでに言うならば多くの人は「結果」も知っている。
知っていながら「得」をして今をやり過ごす為にそこに目を向けずに済む「言い訳」や「解釈」を探すことにきっと夢中なのだ。


heteさんの「情けは人の為ならず 巡り巡りて己が身の為」を読んで
瀬戸さんの「哀しみが憎しみに変わることを知っている」の
「ならば、
やってはいけないのです!!!」
という言葉を見て、お二人のエントリーとは直接関係はないのですが私がそこから連想した事を書かせていただきました。

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つぶやき

今日は取りとめもない話なので久しぶりに「つぶやき」

私は海外旅行が好きだ。
自然が好きなのであまり都会には長くとどまらない。
といっても色々な事情があって、ここ4年ほど外には出ていない。
うずうずしているが、しばらく行けそうにない。

旅行するときは個人で大まかなコースを決めユースホステルやBBを使って旅行していた。
最初の頃はバイクで回り,それ以降はレンタカーや、バス、鉄道等。
こんな無計画で旅行をするとやはり思いがけないトラブルにもでくわす。
もう秋だというのに、バイクでアメリカを横断したときは見渡す限り何もない一本道で突然の大雪に道を閉ざされ立ち往生して工事のトラックの運転手に拾われたり、駐車場に置いたバイクが壊されたり、ものをぬすまれたり、目の前でホールドアップの逮捕劇があったり(これは都会)、熊にぶつかりそうになったり。
幸いな事に命に関わる事には出会わずに済んだ。
しかし、偶然に出くわす状況を楽しんだり,見る風景に見とれ、時間を忘れる事があったりするから止められない。

そんな旅行をすると同じように旅行をする人たちと出会い、いっしょに行動したり,車をシェアしたりなかなか楽しい事がある。
耳の不自由な若者と筆談で会話(?)をしながら食事をしたり、そこで知り合ったアメリカの学校の先生といっしょにトレールを歩きながら道に転がっている糞の話で盛り上がったり、日本人が嫌いだという海の大好きな女の子と鯨の話を夜通ししたり、その人の国の事情を知らずたしなめられたり,アメリカ人のいないところでアメリカ人の悪口で盛り上がったり、スキューバーダイビングのスクールで会ったイスラエルの女性と経営者ににいっしょに食って掛かったり、オーストラリアのご夫婦と3日連続で同じYHにとまることになり雪が降る中暖炉の前で夜遅くまで語り明かしたり、スカイダイビングで知り合った韓国の女の子と再会してNZのダニーデンの観光を一日いっしょにしたり・・・
若いときも中年といわれる歳になっても、意外に隔てなく接してくれる。
夫々お国柄は当然あるのだけれど、やはり人同士なんだと実感できるのだ。

もちろんカナダに住んでいたころも仕入れや、スタッフ管理をしていたのでアルバイトに来るカナダ人やイギリス人や中国人や日本人、ドイツ人等がいてなかなかインターナショナルな中、いろんな場面でお国柄の違いは出て面白かったし、困ったりもした。
でも基本的な部分では同じ人間、いっしょに喜び,いっしょに悲しみ,いっしょに悩み,喧嘩もした。
ハイソサイエティーの人種(ご子息はいたが)とはあまり縁がなかったが・・・

これらの経験は、私の価値観の中にも、ニュースを見るときのイメージにも大きく影響を与えている。
権力とは関係ない普通のアメリカ人のどういう部分がブッシュ大統領を支持するのか、どういう部分が反対すのか、なぜ国際世論を気にせずにいられるのか、アメリカをカナダやヨーロッパの人がどう見ているのか、アメリカはなぜ嫌われるのか、日本でのバッシングがどう映るのか、なぜアメリカ人は自分の事を棚に上げるのか,日本の民主主義や自由と欧米のそれと何が違うのかといった事を考えるときは記憶の中の「場面」がイメージされ、その会話が思い出され、相手の表情が浮かんでくる。
そして、国際問題が論じられるときに感じる違和感にはなかなか無頓着ではいられない。
実際これらをエントリーに書くとなると専門的に勉強した人のように的確な言葉を使い、論理的に説明できないので、感覚的な回りくどい表現が多くなってしまうのが辛いといえば辛い。
恐らく見る人が見れば突込みどころ満載なのだろうがこればかりは勉強するしかない。


私が会った色々な国の人が不安な世界の中で今も彼らの自国の政府の元で生きているはずだ。
そのいろいろな国は色々な立場で今の世界に対している。
どの国に所属していても、戦争は嫌いだし、人が死ねば悲しむし、幸せを望んでいる。
その事を思うとなかなか世界の出来事を国益という無機質な言葉で簡単にかたずける事ができない。
彼らは今の世界をどのように感じながら生きているのだろう。
最近良くそんな事を考える。

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非現実的な現実論の蔓延

理想論、現実論この二つはいつも社会現象を考えるときにぶつかり合う。
もともと「現実に直面」するのは何らかの「理想」があるからであり、また、「理想」が生まれるのも「現実」があるから といった関係だと思う。
しかし、最近は「理想」と聞いただけで拒否反応が出るほど一方的に分が悪い。
会社でも、社会でも、政治でも、普段の生活でも「それは理想だ」と指摘されるとなんとなく尻込みしてしまう。
なぜこれほどまでに「理想」が衰退したのかを考えるのも面白そうだ。

会社で考えると「長引く不況」や「グローバル化」などが関係あるのだろうか。
「利潤の追求」はもちろんだが、本来は「社会に貢献する」も大事な「会社」の使命であり理想である。が、これだけ不況が長引くと「生き残り」を考えなければ「倒産」し従業員を路頭に迷わす事になってしまう。そんな中で理想は隅に追いやられる。
残業時間が長くなろうとも、賃金が未払いでも会社が生き残らなければ元の木阿弥、生き残るという現実なしに理想など語れるか と。
そんな中で起こるのが雪印であり三菱だ。これは起こるべくして起こり、今後も同じような社会倫理に反する企業行為は後に続くだろう。これは氷山の一角だと思う。サラリーマンならたいてい知っていることだと思う。こんな状況で絶えながら生きているものにはイラクで人質となった3人の理想論は鼻につくのは尤もなのかもしれない。
このように理想を夢見る事など許されない状況がそこにはある。

社会ではどうだろう。
規制ではなく「モラル」「道徳観」による自浄作用が本来は理想である。
しかし、犯罪が多発し、犯罪形態も多様化する中ではまずは身を守る事が優先である。身の回りで起こる犯罪にも、下手に口を出そうものなら逆に自らが被害にあってしまいかねない。ごみを捨てるものに注意などしようものならわけのわからぬ雑言を浴びいい事は何もない。回りもフォローしてくれるわけでもなく、警察も不祥事を繰り返し、些細な事では動いてもくれない。
こんな中では「理想」である「モラル」「道徳観」などに頼ることはできない。
「マナー」「モラル」「道徳感」と言う言葉は見るだけで「無力感」を連想させ、逆に其処からは目を背け、悪態をつきたくなるのが現状である。
こんな中では弊害があることはわかっていても規制や法律で律していく「現実論」が主流になるのも無理はない。

政治ではどうか。
アメリカのイラク戦争に「正しさ」などを感じなくとも、「北朝鮮の脅威」が目の前にある、「経済的にもアメリカの制裁」がちらつく。
湾岸戦争では欧米から日本の姿勢を非難され「平和主義」のような理想に疑問をもたざろうを得ない。
国内でも「国民の意思」などは政治の場には反映されず、唯一反映できるはずの選挙でもその受け皿が存在しない。マスコミも話題になる事を報道するだけで本質的な議論には見向きもしない。自然と投票率が下がり更に無力感だけが増すばかり。
こんな中で「日本はどうあるべきか」などという「理想論」は雲の上の存在で見るのもまぶしく、手近にある現実的な選択肢しか見ることが許されない状態。


単純に過ぎるが、それほど外れてはいないと思う。
いずれにしても「理想論」はこのような状況の中で分が悪い。

どれをとっても「無理からぬ事」なのですが、それではすまない事情がある。
これらがこれからも続いていけば行くほど、人の幸せからは確実に遠ざかっていき、ますます後戻りが困難になる、というもう一つの「現実」が控えているという事です。

企業倫理の低下は露見すれば結局は社員を路頭に迷わす事になるのはもちろんだが、露見せずとも、社会に損害をもたらし、個人の生活を圧迫していく。

「モラル」「道徳観」の低下は規制を呼び人々の自由な生活を束縛するだけでなく、更に犯罪の巧妙化、多様化を呼び入れ、更なる規制が加えられる。自由と権利はますます「公共の利益」の名のもとに抹殺されるという悪循環。そして、この規制は一部の者に利用される事も十分ありうる。

理想を失った政治は、無関心を助長し、それに危機感をもつ人が苛立ちからありもしない「特効薬」を求める風潮も生まれかねない。世界が共感する理想も大儀も持ち合わせない国家が国際社会で役割を果たせるはずもなくアメリカ以外には目が行かない日本は孤立すらしかねない。

目を背けたい「現実」ではあるがそれを避けて行った結果が世界恐慌以降の昭和の歴史にある。私たちはあまりにも、その時代を歴史から切り離し、異常な時期として「特別視」し、今の日本そうはならないと過信しすぎているような気がする。
こんな時期だからこそ、私たちは「私たちがどんな世界を望むのか」をしっかり判断の基準として持ち続ける必要があるのではないでしょうか。
それに向かって立ちはだかってくるのが本来の「現実」であり「妥協」なのではないかと思う。

理想のない現実に将来などはない。

ついでに
現首相の政策が正しいかどうか判らない、が「将来のビジョン」を国民に示そうともしない姿勢を見る限りいくら改革を訴えようと、到底信用などできない。

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GW傾向「高遠長」

さて、初めてココログに参加する事になりました。
まだ見てくださる方はいないと思いますが、間違ってみてしまったという方がいましたら、若葉マークの試用期間中ということでお手柔らかに・・・
いよいよゴールデンウィークに入りましたね、ちょっと外に出るとどこも車と人でいっぱいになっています。
何でも今年のゴールデンウィークは高遠長が特徴といっていました。
私の場合、もともと人が休むときが忙しい(本当はいつも忙しい)仕事についていてので長期休暇というのはあまり関係ありませんでした(今はもっと関係なくなっています)のであまり実感がないのですが。
しかし、この「高遠長」いったい誰が調べて、発表したのでしょう。
結構早い段階から出ていたような気がします。
予約状況から調べたのでしょうか?
政府機関が国民の余暇のすごし方を調査したのでしょうか?
それともこれまでテロ関係で冷や飯を食っていた旅行業界が再起を賭けたキャンペーンなのか
はたまた、政府が景気回復をさらに軌道に乗せるためにとった秘策か。
同じような事はファッションで「今年は~が流行する」という話題を見たときにも感じます。
皆さんはこのような情報をどの程度、気にして生活しているのだろう?
ファッショに関しては結構、これらの情報を参考にしているのではないでしょうか。
このような情報を目にすると「何か意図があるのかな」と思ってしまうのは、やはり私の固定観念?

それでは皆さん、特に海外の遠くへ行く方は「自己責任」を忘れずにお気をつけて。

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