以前、私の住む県のとある学校の近くの水路(川?)で児童の水難事故があり残念ながらその児童が亡くなった。
そして、先月、学校と隣接する川との境界に危険があった事を知りながら、何の対応もしなかった学校側の管理の不備を認める判決が下った。
私は、ニュースに出てくる映像しか見ておらず、事故以前にどれだけその場所の危険性が指摘されていたかも判らない。
しかし、私の頭の中で危険な遊びが楽しかった子供の頃の思い出が頭を掠めた事を告白しなければいけない。
そのとき同時に、公園などにある遊具が起因となる事故が発生し、危険と見られる遊具が全国の公園から消えていった事を思い出していた。
私自身も海の近くに住んでいるので、危ないところに秘密基地を作り海に落ちたり、遊具に挟まれたり、本来の遊び方とは違う遊び方をして怪我をしたことがあるので、今考えるとぞっとするようなこのような危険性をイメージする事はできる。
私の場合は幸運にも命には別状が無かった。
しかし、私は私自身がどこからが危険であり、どこからが危険でないかの判断基準を養うのにこのような経験が少なからず寄与している事を無視はできない。
一方で、こんな経験をしなくともそれを教育(学校だけではなく)などを通じ疑似体験もしくは、別の手段を以って身に付けることが「できるならば」それはそれでもいいのかなとも思っている。(そのためには想像力を育成しなければ無理だろうが)
今の私達の社会はどちらかと言うと経験、選択の機会を奪ってでもこのような事故を規制して防ごうとする傾向が強い社会だと思う。
事故は「異常」であり、あってはいけないと考え、もし、そのような事態が発生したならばその原因、責任が必ずどこかにあると考え、その所在をどこかに見つけ出し、何らかの強制的な権威(法)に位置付けていく傾向が強い。(品質管理でいえばPDCAをまわして標準化すると言うような事をしたがる)
一方の結果として、いたるところにルールや責任が溢れ、そこから来る閉塞感と不自由さに苛まれ、消極的になってしまったり、何もしない者が何かをする者を批判する風潮を作ったり、無関心が居心地がよくなったり、ルールや責任そのものの信頼性自体が低下してしまったりすると言う代償を払う事にもなる。
私自身にも、私の身近にいた友達にも同じような危険があったことを考えると、当時今回と同じような事故で不運にも命を落した子供達はいたのではないかと思う。
「人の命」の大切さは言うまでも無い事であって、我が子、近しい人が事故で亡くなれば、今も昔も変わりなく悲しく、辛かったに違いない。
でも、今ほどマスコミが騒ぐ事も、訴訟になる事も少なかったような気がする。
かといって最近良く耳にする「自己責任」だと言って突き放された記憶も無い。
本来日本人は「人の命」の大切さは、周りの人がそれに注意を払いながら守りつつ、不幸にして事故がおきたならば、周りの人が命の大切さを思いながら彼らをいたわるという共助により果たされていたのではないだろうか?
(今ではおせっかいでしかないのだろうが)
ほとんどの人がその方法に異論が無かったのでそれが機能していたのかもしれない。
根っこの部分に責任を明確にすると言う対処ではなく、責任をある程度曖昧にしながら、事を荒立てずに穏やかに物事を処理していこうとする傾向が強かったのではないだろうか?
今はなかなかそうも言っていられない。
戦後、共産主義的な思想が力を持った時、労働運動などを通じて、対決を前提としたシビアな「責任」を明確にして追求する傾向は強くなっただろうし、日本の経済が他国の脅威となってからはそれまで資本主義の中にあっても社会も経済も黙認されていた共助的なシステムも非関税障壁として解体が求められるようになり、今もそれは続いている。
私には、どちらも曖昧さが受け入れられない点では共通しているような気がする。
共産主義も共助的なところはあっても曖昧さを許さない「制度」であるし、自由主義経済も自由であってもその責任を自己に置く事で整合性を付け曖昧である事とは全く違う。
いずれも日本的な「問題の解決法」とは異なる。
これは日本以外の特に欧米を中心とする「論理」を重視する先進国の手法なのだと思うが、論理性はこれらの先進国と付き合う上での共通言語として無視はできない。
我々は深層に本来の「曖昧さ」を持ちながら、その共助的な親近感を左派的なものに感じ、現実性から資本主義を採用しそれに付随する自由を何とかだましだまし操っていると言う状況なのだと思う。
多かれ少なかれ、そんな複雑な状態を抱え芽生えた疑問を抱きながら、夫々が皆どれかに重点をおき、それが各々の主張として表明されているように思えるのだが、私自身などは何か出来事が起こるたびにこの矛盾に直面し右往左往して論理的に矛盾した事を疑うことなく平気で口にしてしまったりすることがある。
会社や社会の中にあって社会的責任を曖昧にし、生活や身近なものを守りたいと思いながら、一方で自由経済の名を借りて官僚の曖昧さを守ろうとする抵抗勢力をためらいも無く批判してしまう事は無いだろうか?
以前の穏やかな社会、安全な社会を取り戻したいと思いながら、無批判にグローバル自由主義経済を受け入れていないだろうか?
自由を標榜しながら、自由意志に拠る選択に「曖昧性で保たれている和」に背くものを感じ「迷惑」だと強い拒絶反応を持つことは無いだろうか?
私が人様に対し謙虚であると言う本来の「迷惑」を、自由に伴なう行動への対抗策として、相手に求めるものに変質してはいないだろうか?
個人主義を根幹とする「自由」を標榜しながら、一方で日本の持つ和や礼儀や風習を社会に取り戻したいと主張したくなる事は無いだろうか?
そして、今回の最初に上げた事件で私が持った感覚のように、様々な問題を「責任」を追及し社会制度により制約を強化しながら、昔の穏やかな社会を懐古したり、または一方で自己責任を伴なうはずの自由を熱望する事は無いだろうか?
私の心の中を覗くとそんな矛盾した多面性を見つける事があるのだが、どうだろうか。
いずれももっともらしく思え、語る内容によってぶれてしまうことは無いだろうか?
時々日本人の得意な「いいとこ取り」が相乗効果を生むどころか、相反する価値観が交錯することで元のどちらよりも悪い結果を選択しようとさえしてしまう。
もし多くの人がこのように何の気なしに常識と思える相反する2面性に直面するケースが多いなら、我々が持つ社会の常識や規範は信用するにはかなり混乱しているのだと思う。
結局これらは常識からさらに一歩踏み込んでいくしかない。
(多様性による意見の違いと、矛盾による多様に見える意見とは違う。多様性はその個々の中で整合性は必要とされ、それが無ければ尊重はされないだろう。)
どこの国の人でも同じような矛盾を抱えてはいるのは同じだろうが、政府そのものまでが曖昧さで秩序を維持しようとする国は特に先進国には少ないと思う。それなりに論理武装している物だ。
政治なので当然妥協や齟齬があるのは当然としてもそれは基本線を維持するための物であろう。
だから対米追従で経済至上主義を謳い、一方で日本の伝統を強要しようと言う政府与党(最近の民主党も同じような物だが)のような基本の部分の節操の無さを目のあたりにすると、たとい現憲法に矛盾を見出しても、そんな立ち位置で「器を作って魂入れず」の改憲改正案などを基準に改憲などして欲しくは無いと強く思ってしまうのだ。要するに全く信用できないのだ。
日本人の中には世界に挑戦してきた経済や技術を通じ培った論理的な一面と従来からの曖昧な一面が同居している。
日本の道徳の根幹をなす「和」や「精神」はそのままでは既に論理的な共通言語を身につけてしまった個々の日本人の共通認識として定着させる事は難しい。
そればかりでなく、その本来の有用性さえも忘れ誤用・悪用されたり、必要以上に敬遠されたりしているのが実情なのではないだろうか?
西欧諸国が宗教と論理性と整合性をつけるためのフィクションを作る努力をしたように、我々日本人も「和」や「精神」のような物を論理に訳していく(多くの人が妥当な認識として受け入れられるように整合性をつける)と言う非常に困難ではあるが、そのような努力が必要なのではないだろうか?
宗教や言語と同じく「本質そのもの」を論理的にイコールであらわす事はできないだろうが,曖昧さならば曖昧さの、和なら和の論理的な有益性を、あるいは存在の意味からのアプローチのような中間言語的にあらわし整合性を付けていく試みならば可能なのではないだろうか?
憲法前文にあるような国際社会(特に先進国での)での名誉ある地位を得るには他を模倣することなどではなく「論理性に基づいた基本理念」を共通言語で示しながら「それに沿った振る舞い」を示していく事の方が、「違い」を恐れて「同じ」であろうとすることなどよりもよほど重要な事なのではないだろうか?
私は国際社会で「政策や見解の違い」が常に協調を疎外するとは思っていない。
共通言語で対話できない「理解不能」のほうがより協調を疎外するのではないかと思っているのだがどうであろう?
その「訳」(つまり多くの日本人が受け入れる事ができ、外に向け伝える事ができ評価に耐えうる「新たなフィクション」)こそが「論理的な認識」と「日本の既存の規範」の間で右往左往する日本人の新たな規範となりうるもので、それが世界に向けて主張できるならば、そこにこそ本当の誇りが在るのではないだろうか?
私は、このような「内と外」に整合性をつける作業こそが伝統やアイデンティティーの継承を担った保守に今必要とされる役割なのではないかと思ってしまうのだ。
大きな矛盾をそのままにし、それによりいつも期待を裏切る結果に直面しなければならないようであれば、誰がそのような規範を信用するものか。
「日本人の同一性」と「現実と言う外圧」に頼った刷り込みや強要で認識を植え付ける試みは、国民の精神的な2重性を助長するのみならず、外に向けては「理解不能」でありつづける事に他ならず,気が付けば中身の無い器だけの国家になり下がりはしないだろうか?