判断を委ねる事(1)

私達は様々な場面で知らず知らずに他に判断を委ねながら生きている。
経済活動に使われる紙幣などもそうで、本来は絵が印刷された紙切れでしかない。
その紙切れを「他」が価値のあるものとして判断して、それに相当する物やサービスに提供してくれる事を高い確率で期待できるから「私」もそれを価値のある大事なものとして扱う。
今のところ(最近は怪しいが)、紙幣一枚一枚を本物であるかどうかを虫眼鏡や機械を使って判別しなくても使えるのも、「他」(皆)が本物を「私」に差し出す判断をしてくれる事を高い確率で期待できるからできる事だ。
最近、偽札事件が多発している。
犯人が実際にした事は「紙にある図柄に良く似た絵を印刷した」だけの話であるが、その期待の確率を低下させ「他に判断を委ねる」事をできなくしてしまうから重大な問題となる。

電車に安心して乗る事ができるのも、設計者、製造者、管理者の判断に安全を委ねられるからであり、安心して他人の横を歩けるのも、その他人が突然私を傷つけないという判断に委ねられるからである。
一般的にモラルといわれるものも同じだと思う。
皆が同じように考える事を高い確率で期待でき、「他」の「判断に委ねる事」ができる状態は、高度化された文明社会では必要な要素の1つになる。
もしこれが無ければ科学の発展により専門家し、複合化することにより成り立つ便利さや安全は、むしろ不便さと危険に豹変してしまいかねない。
原発などはこの信頼がなければとても認められる物ではない。
秩序崩壊後のロシアの核物質管理の甘さを見ても、その危うさを想像できる。
(これはモラルなき富と力の原理[あからさまな秩序]の持つ危うさも同時に示唆しているように思えるが、わき道にそれるので省略)

だから今の社会は不安や不信に対して脆く、それを突いてくる無秩序なテロに対しても脆いのだろう。
オレオレ詐欺のような、以前には想定できない信頼を逆手に取った無秩序な「悪意」に対して脆いのもそうだと思う。

「自己責任」という言葉が経済のグローバル化とともに注目度が増しているが、今も昔も本質的には変わらず「自己責任」自体は存在していたと思う。
社会の変化で、その概念をこれまで以上に「認識」せざるを得なくなったにすぎないのだと思う。
皆が同じように思う事に「判断を委ねる事」はその確率さえ高ければ効率的で過ごしやすい。(シンプルだ)
ただし、それでも確率は高いとはいえ裏切られる事はあるわけで、その確率に判断を委ねる事において「自己責任」が生ずる事には変わりはない。
これまでは裏切られる事が少なかった(と皆が思っていた)から意識せずにいることができたにすぎない。

グローバル化(もちろん経済だけの話ではない)は共通の認識に沿わない異質(違った価値観)を受け入れる事でも有る。
異質の流入は「他に判断を委ねる」為の条件となる「暗黙の期待に応える確率の高さ」を保証してはくれない。
そこでは「他に判断を委ねる」便利な手段は通用しないケースが頻出する事を覚悟する必要がある。
結果として意識しなくても済んだ「自己責任」という認識を意識せざろう得なくなったということ。
それまでの安定した秩序が不安定になったと言い代えてもいいと思う。
このような秩序の不安定化はいろいろな場面で見られる。

地域社会のコミュニティーもこれまでは暗黙の決まりがあり、近所の付き合い、助け合いなどもそれらの必要性という認識を共有していたからその決まりに「判断を委ねて」いられたのだが、その決まりが自由や個人主義、資本主義という異質の流入により支えきれなくなり「判断を委ねる事」ができなくなった。

会社も就職すれば定年まで働く事ができ、それが為に個人よりも組織のために一生懸命働くといった暗黙の決まりがあり、そのために組織独自の認識に「判断を委ねる事」もできたのだが、経済のグローバル化がその不文律(秩序)を不安定にしてしまっている。

国(内政、外交)や国際社会にもそれは言える。
これまでは冷戦構造という安定した秩序の中で平和、モラル、発展、自由、民主主義、親米といったものは多くの人にとって、それを問いただす必要もなく、これらに肯定的である全体の漠然とした判断に「身を委ねて」いても、それを始点として物事を考えようと、それほど期待を裏切られる事がなかったのだが、上記のような国内の秩序の低下により、冷戦の崩壊により、その後の世界の枠組みの変化により、これらにそのまま「身を委ねる事」ができなくなってしまった。
根拠のないレッテル貼りに使われるので好きな言葉ではないが「平和ボケ」とか「思考停止」もこのあたりと関係が有りそうだ。

その意味ではイラク人質事件に見られた「政府の方針に反する行為」を理由としたバッシングは、むしろ共同体である国(政府)の判断に身を委ねた旧来の構造に近いような気がするので、その立場で「自己責任」が語られると違和感を感じてしまう。
この立場で言うなら「自己責任」という言葉など使わず従来どおり「日本社会の価値観の維持の為にそこからはみ出す事は許されない」と主張したほうが論点も、違いも明確になるのではないか?
もちろん個人的には、この「自己責任」という言葉を使ったこのような論法は「自己責任」の意味を取り違えているのではないかと思っている。
グローバル化や世界の枠組みの変化に直面する中で、疑いもなく「共同体の判断に身を委ねる」姿を見せ付けられたようで、むしろ「自己責任」の認識欠如による危うさを感じてしまうのだ。

地域社会も会社も国家も過去の共同体の価値観に判断を委ねる事ができなくなり、新しい信頼できる秩序ができるまでは自らの判断としての自己責任をこれまで以上に認識せざろう得ないのは事実であろう。

最初の方で書いたように共同体の価値観に判断を身を委ねようと委ねまいと「自己責任」の存在そのものは違わない。
同様に、判断を委ねることが共同体が責任を引き受けてくれる事を意味するわけでもない。
共同体自体の判断が間違えば結局はその結果を自らが負うことになり、そのときに責任までも免除されると勘違いして共同体を罵倒しようともどうにかなる物でもない。

もちろん、共同体の秩序が低下しても尚、共同体の認識に身を委ねることは可能であるが、それが自らが納得できる結果をもたらすことを期待はできないということ。

果たして、このように低下した秩序の中で、全ての事柄を「ある秩序」に判断を委ねることなく「自己責任」の認識のみで人は生を処理できるだろうか?
それは、科学で言うならば電車に乗るときに技術的な事から、製造に関する事から、管理的なことまで全てにおいて自らが把握するか、把握できない低下していく確率の不確かさを承知しながら安全を運に任せるようなものだ。
文明と社会は切り離す事はできないし、すでに有る文明を人が放棄することも人の記憶がそれを許さない。
やはり、複合化に対応した何らかの信頼できる新しい認識(価値観)を創出していこうとするのではないだろうか。
それが、これまで慣れ親しんできた日本的な認識(価値観)を踏み込んで未来に向け再考しなくてはいけない理由であり、今、変革期に生きる私達が直面している現実のような気がする。

これに対してアメリカもヨーロッパもその他の勢力もそれぞれが違ったアプローチをしている。
「認識」のグローバルスタンダードの構築を現実の中で「意思」を持って推し進めている。
日本もその渦中(意思と意思の凌ぎ合いの中)にいることを忘れてはいけないと思う。

長くなってしまったので続きはいつかまた...

December 08, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

暗黙の共有

「殺される前に殺したかった」

最近の、誰でも知っているある事件で犯人が口にした言葉だ。
この事件をこの一言で正当化することなどできないのは当然である。
しかし、この「言い訳」を非難する言葉を我々は持っているのだろうか。
我々は堂々と言いたいのだ。
「それでも人の命を奪う事は間違っている」と
しかし、我々自身が一方で犯人の口にする「言葉」と同じ考えを正当化している。
先制攻撃を正当化するブッシュ政権を「殺そうとしている」理由がなかったことがわかった今でも支持している。
人の命を国際社会の現実という言葉を使って亡き者とする行為を積極的に支援している。
アメリカ人の半数には国内の社会正義と国際社会での行動に矛盾はない。
それが世界にとって良いのだと信じている。
果たしていつまで「人道的に正しい軍事行動」という認識を維持できるかどうかはわからないが今のところ矛盾はない。
我々はこれらアメリカ人の半数とは違い、アメリカ政府の行為を「人道的に正しい」とは多くの人は見ていない。
自らが享受するものを守る為に、現実的に仕方のない選択だと捉えて、それを支持している。
それを、あらゆる現実論を駆使してシニカルに構え「現実はそうなのだ」と納得させようとしている。
殺人犯が口にする「言葉」と同じ理屈を共通認識として自らに植え付けようと必死なのだ。
「たかが一つの事件といっしょにするな」と言うかもしれない。
しかし、目をそむけなければ似たような理屈を日本社会で唱えるものが増えていることに気づくだろう。
いま、その認識が日本社会のモラルを崩壊に導こうとしている。
同様に
「自衛隊が派遣される場所が非戦闘地域である。」
等が公然と口にされ、それを見過ごす社会が人々に「道理」を求めている。
その同じ口が日本人の誇りを語り、モラルの低下を憂い、愛国心を求めているのである。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら官僚に姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら企業姿勢を正すおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながらイラク人質や家族の姿勢を糾弾するおかしさ。
「道理」や「人道」に目をつぶりながら他国の道理や人道を非難するおかしさ。
そろそろそのおかしさが我々一人一人のおかしさであるであることに目を向ける時だと思う。
政府の横暴を支えるのも、官僚の悪癖を支えるのも、企業のモラルハザードを支えるのも我々一人一人、今現れている社会の姿は我々のその選択に伴なう自己責任の結果なのではないだろうか。
殺人犯の真の動機はどうあれ、彼の口にした「言葉」は異常ではなく我々が共有しようとする認識に他ならないのではないか?
それこそが我々が次代に残そうとする新しい秩序の世界なのではないか?(皆がそう思えばやがて動かしがたい「力」の秩序になる)
国際問題は国内問題。
国家の施策は社会の鏡。
その社会の認識は我々一人一人の選択が作り出す。
遠い国の出来事などでもなければ、他人の事などでもない。
ついでに、
一つの間違えが露見する事を恐れ犯罪を重ねてしまう犯罪者のごとく
小さな負けを取り返そうとしてドツボにはまるギャンブラーのごとく
麻薬に手を出して、止める事ができなくなってしまう中毒患者のごとく
身近な現実へのつじつま合わせで自分を見失うような「なし崩し」で継続される自衛隊派遣も考え直した方がいいのではないか?

「人を殺すのはいけない事だ」と堂々といえる社会の為に「新聞に広告を掲げよう」という試みも行われている。
詳細はこちらの「イラク意見広告の会」で確認できます。

November 27, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

忘れたくないもう一つの現実

StopWar1.jpg

世界には冷酷な現実があふれているって本当か?
皆が冷酷なわけはない。
周りを見れば良かる。
世界には暖かさもあふれている。
だから、冷酷になる言い訳にはならないだろう?

世界は不信に満ちているって本当か?
皆が不信に生きているわけない。
不信だらけなら外など歩けるものか。
世界は信頼にも満ちている。
だから、相手に不信を募らせる言い訳にはならないだろう?

世界に住む多くの人は家族を大切にし、隣人を大切にし、良く生きようとしている。
それは豊かな国だからでも、貧しい国だからでもない。
豊かな国にも冷酷な人間も暖かい人間もいる、貧しい国にも冷酷な人間も暖かい人間もいる。
家族の生活のために物を盗んだって、豊かさのために虐殺の資金を提供するよりは品が良い。
家族を守るために自らの手で相手を殴り倒す方が、安全な所から富のために虐殺を指示するよりも人間らしい。

世界が冷酷だと警戒していればそれで安心なのか?

暖かさを失ってしまう事を想像しているか?
人間性に見捨てられる事を想像しているか?
世界は人で動いている。
暖かい人たちがいるという「現実」を甘く見ない方が良い。
そこには我々が忘れた「意思」がある。

Iraqis will never forgive this- never. It's outrageous- it's genocide and America, with the help and support of Allawi, is responsible. May whoever contributes to this see the sorrow, terror and misery of the people suffering in Falloojeh.(Nov.13 2004 Murderより)

苦境の中でも前向きに生きようとする温かいBaghdad Burningのriverbendの言葉は以前にもまして強い憤りに満ちている。
この言葉は誰でもない米国に莫大な資金援助をして虐殺を支える我々日本人に「まっすぐ」向けられている事を我々は本当に判っているのか?

November 18, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

打ち消したい妄想

「資本主義」の上に「人権」を置くのか、「人権」の上に「資本主義」を置くのか。
私はイラク戦争を通じ、ファルージャの掃討作戦を目にし、これから構築される世界の秩序がどちらに向かうかの現実的な分かれ目に来ているのかもしれないと思い始めている。

今のところ世界の人々(政府ではない)の認識は前者の『「資本主義」の上に「人権」』を置く方が、その数ではまだまだ優位を保っていると思う。
アメリカ国内でも「宗教」や「愛国心」そして「マスコミ」の助けを借り歪めなければ、まだまだ、この認識への支持は根強い物があると思う。歪められるのも支持のうちと考えるならば半々という事になる。
日本では...
(ちなみに、私がここでいっている認識とは「人がそれを当然と思う」というようなことを意味しています。)

しかし、今、圧倒的資本とそれを根拠とする「力」を持つ「主体」(便宜的にそう呼ぶだけです)がアメリカ合衆国(≠主体)という1つの国家を使い、「力」の絶対性を見せつけることにより後者の『「人権」の上に「資本主義」を置く』世界に「本気」で変えようとし始めたのではないかと感じている。
つまり、「世の中は富と力で動く」といった認識を既成事実を繰り返す事により、「人権は守られねばならぬ」の優位性を打ち砕きその地位にとって代わろうとしているのではないかという事。
この「主体」は、できれば「それこそが正義である」という認識にまで高めたいと願い、それが多様化した世界に秩序をもたらす唯一の方法であると実際に固く信じているのではないかという事。
そういう世界は想像可能であり、そこに秩序は確かに存在し得るのかもしれない。(ただ私がそれを望まないだけで)

ファルージャ掃討作戦はアメリカが本気でイラクの安定を求めるならば私にはとても賢明な策とは思えない。
しかし、本当はファルージャを圧倒的な力で制圧する行為にこそ意味があり、その結果生ずるであろう新たな戦いですらも結果的に「人権尊重」に対する「力」の優位性を相対的に高める事になるならばそこにも意味はあるといった類の物なのではないだろうか?
「人権など力の前では意味を持たない」と多くの人が追認し、それを普通に感じてしまうようにさえなればいいと考えている、とする事は乱暴すぎるだろうか。
しかし、そう考えると、我々には非合理に見えても「主体」にとっての合理性をそこに見出す事ができる。

これは、一方の真実かもしれない。これはより原理的といえるかもしれない。
しかし、他方で
「力は人権の前には跪かなければならない」
も真実として存在しうる。これはより意思的といえるかもしれない。
共に公平にその可能性を示している
これを決めるのは「秩序」をもたらすための共通認識(多くの人がそれを当然に思うこと)という錦の旗をどちらが手に入れるかに掛かっているといっていいのではないだろうか。

主体の実体は今の所、軍産複合体であったり、一般企業体、資本家、トップエリートであったりするのだろうが決め付けると本質がぼやけそうだ。
同時にこの主体は今のところその所在をアメリカという国家に置いてはいるが、その必然性はなさそうだ。
秩序の最上階に位置するが故に、想像上の存在である現在の「国家」に限定される必要はなくそれを越えて存在しうる。
また、主体が富であり力であり、その意思であるが故に実体である具体的な集団や企業体に盛衰があってもそれも関係なさそうだ。
しかし、その性質故に、常にごく少数である事は間違いないと思う。
そんな存在だ。

ここまでは、「力」に対しもう一方を「人権」として固定し話をしているが、これは「環境問題」でも「民主主義」でも構わず、多くの人の意思による示唆的なものであるならばそれでよい。
肝心な事は「資本主義」の上にそれ以外のものが置かれる事を許すか許さないかという事。


京都議定書に関して最近話題になった「排出権」などは資本主義的要素が色濃くても、資本主義の上に「環境問題」という認識を置かなければ許されない発想だ。
それを許したくない米国政府がそれを認めないのは不自然な話ではない。
京都議定書そのものに異を唱えるのも同様に不自然ではない。
一方資本主義を修正しようとするヨーロッパがそれを推し進めるのもまた当然といえる。
日本は...これはもともとその政策にグローバルなポリシーがないので理窟から傾向を見出そうとする方が間違っている。

アフリカのAIDsに関する薬品の特許問題も資本主義の上に「人道」という認識を置かなければ許されない発想だ。
それを許したくない米国政府が人道よりも資本(医薬企業体)の保護に寄った姿勢をとるのも自然である。

イラク戦争も大儀は最初からありはしなかった。
無いにも拘わらず行われたのは「平和」もまた、「資本主義」の上に置かれるべき認識ではないからと考えればそこに矛盾は見出せない。

遺伝子工学部門で若干の妥協を示すのは、過渡期ならではの支持層であるキリスト教右派に対する現実的な配慮で本質的な物ではないと思う。

こんな中で日本はどうなのか?
政府の選択を追って行けば予想はつきそうだ。
日本人はどうなのか?
それは私達一人一人が自分自身に問えばいい。
簡単である。
「世界は富と力で動いている」と信じているかどうかを問えばいい。
むしろ冷戦崩壊以降の日本人のほうが本家以上にどっぷりその認識に浸っているのかもしれない。
(その意味ではよい実験場であり、アメリカやヨーロッパでは失敗して日本では成功してまたもや孤立などという事にならなければ良いが。これは余談)
この前提(認識)がいつ頃から自らのものとなったのかを辿ればその起源ももしかすると明らかになるかもしれない。
その上で、この価値観に浸された世界では本来の精神的な「右」にも「左」にも「国家」に対してさえも、たいした意味を与えられる事はなく、それより大きな物に同様にからみとられている可能性を見るかもしれない。

この主体の意思が本当に存在し賛同を得たなら「ファルージャ」はイラクに限った特別な事ではなく、身近な場所(普段の生活で、仕事の場で、司法の場でetc)で同じような理由で同じような事がいつでも起こりうることを示唆する事になるのではないだろうか。

もしかしたら偶然かもしれない、偶然なら妄想として片付けられ、むしろ私にとっては喜ばしいことなのだが。

November 15, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

国籍不明の潜水艦

日本近海に国籍不明の艦船が出没する出来事は一体年に何回発生しているのだろう。
公表されなくともそれを確認し、追尾したり、レーダー等で捕捉しつづけるようなことは1度や2度であると考えるのはいかにも不自然のような気がするのだが。

そんな中で政府はその情報を公表した。
各局のニュースではこれを目立つように扱っている。
断定はしないのだが中国船であることを示唆している。
「海上警備行動の発令が遅れた」と報道している。
政府のコメントは発動の遅れを淡々と発表している。

このニュースを最初に見たときに私が持つ印象は
領海侵犯に不安を持つ。
北朝鮮の不信船事件を連想する。
尖閣諸島、海洋石油採掘を連想する。
中国の意図を推測したくなる。
日中関係の悪化を意識する。
非常時の対応の不備に不安を覚える。
etc
といったところだ。

マスコミは
中国の政治的メッセージだといったり
海上警備行動を発動する事による日本の中国側へのメッセージといったり
発動の遅れに対し防衛の不備を危惧したり
以前の中国の台湾への軍事演習の画像を使ってその意図を推測したり
そのとき米軍がそれに対抗した事をあわせて紹介したり
北朝鮮の不信船事件の画像を持ち出して「海上警備行動」を説明したりして報道している。

それを見る私は与えられた情報で無意識に考える。
中国は危険な存在なのかもしれない。
日本の固有の資源確保は大丈夫なのだろうか
そういえば北朝鮮の事件もあったけど今はどうなんだろう。
今の防衛体制は改善・強化しなければいけないのではないか。
やはり身を守る為には自ら身を守るか在日米軍の後ろ盾が必要なのかもしれない。

投げられた石は「普段は公表しない1つの領海侵犯事件」にすぎない。
それはこの地域での既存の問題に関連する事として必然性を主張する。
その小さな石が、私の中にそれ以前とは違う意識をもたらし、その意識が新しい前提を植え付け、以前と違う私が出来上がる。
米軍によりファルージャが攻撃され、自衛隊の撤退問題が論議されるさなかにこのような発表がニュースのトップを飾る。

November 11, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

我々が支持しているもの

とうとう、アメリカ軍のファルージャ攻撃が何のためらいもなく、かくも露骨に開始されてしまった。
ブッシュ大統領再選後のブッシュ政権に国際協調を期待することができないことを、全く躊躇のないファルージャ攻撃で世界に宣言した。
彼らの望む物は世界との協調ではなく、世界に力による既成事実への追認を求めることを意味しそうだ。

これでアメリカは力によるテロとの戦いをどうしても勝たなくてはいけない理由を増やしてしまった。
これまでもそうであったが、勝って闇に葬らなくてはいけない事実をさらに増やしてしまった。
どんなに非論理的で、非合理的、非人道的、非合法的と気づこうとも、軌道修正を困難にする要因をまた1つ積み上げてしまった。
戦争は負ければ歴史には悪と記される。
その中で行なわれた事は悪行として露見する。
これまで行なわれてきた事を闇に葬り「正義」とする為にはどんなに反対されても、どんな手を使っても勝たなくてはならない立場にさらに自らを追い込んでしまった。
戦争が人類にとっていかに「不合理」(日本もかつて通ってきた)であるかの典型的なサンプルではないか。

これまで「愛国心」があるがゆえにイラク攻撃に批判的であった半数のアメリカ人にも、既成事実をよりどころに更なる「愛国心」を突きつけ、「愛国心を持つものがこの期に及んでまだ批判を口にするのか?」と「踏絵」を暗黙のうちに迫る事になりそうだ。
これも歴史で何度も行なわれた「愛国心」の流用の典型的なサンプルだ。
これは同盟国と呼ばれる諸国に対しても「忠誠心」と言葉は変わるが同じことである。

民主主義や人権・自由を理由にした秩序作りという当初の受けのよい看板を捨て、(本来の?)前時代的な力の正義という価値観による秩序造りに架け替えられたように思える。
これは意図的であったかどうかに関わらず、どちらにしてもそうなってしまったという事だ。
このような「過去の遺物」と思っていたことを私たちは目にしている。

初期のイラク戦争で米軍が圧倒的な軍事力で制圧したように、ファルージャも軍事的に制圧する事が可能かもしれない。
報道管制により「人道」を表に出す事がなければそれはさらにたやすい事かもしれない。
しかし、それでファルージャが葬り去られて終るわけではない。
人に植え付けられた「力の正当化」は、その作戦名のごとく「亡霊」のように社会に巣食う事になるだろう。
「やはりこの世は力だ」という輩がためらいもなく跋扈することになろう。
経済に於けるグローバリゼーションと軍事力による「弱肉強食」時代の到来。
「理不尽」に対し「従属」か「絶望」の選択しかもたらさない時代。

これはブッシュ政権に限らず大国である中国にも、ロシアにも、そしてテロリストにも、その口実を等しく与える事を忘れてはいけない。

ブッシュ政権のこの意思は我々の持つ意思と同じなのだろうか?
秩序を望んでも、このような秩序が我々の望む秩序なのだろうか?

今、日本はそんな価値観を支持する側にいる。
この価値観で報われそうもない私を含めた国民がそれを支持している。

November 10, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

善良な人々

ブッシュ大統領が再選されてしばらく経つ。
選挙前に「大統領選とアメリカ」でその支持層の事について書いた。
大統領選を通じ、その支持層の素顔が一層クローズアップされ、分析する情報を目にするようになった。
けしてネオコンの持つイメージのような人々ばかりではない。
素朴で、人懐こく、信心深い人々が多いように思われる。
道徳を重んじ、善くありたいと思っている人々。
一度好かれたらトコトン面倒を見てくれそうな。
理窟を好まぬがゆえにシンプルで裏を感じさせず判りやすく安心できる人々。
細かい事を気にしないおおらかさ。
竹を割ったような明確さ。
コミュニティーを大事にして仲間になにかあればすぐにでも駆けつけてくれそうな。
私が若い頃バイクで雪に閉ざされ、困っているところを助けてもらい、次の町まで連れて行ってもらった上置き去りにされたバイクを取りにいく為にピックアップバンをわざわざ知人から借りてきて、一緒に吹雪で凍りついたバイクを回収してくれたのも今回ブッシュ大統領が勝った中西部の田舎町のおじさんだった。
(もちろん、あのおじさんが共和党支持かどうかは判らないが)
ちなみにバイクを壊され、カメラを盗まれたのは大都市だ。

私は所ジョージの「笑ってこらえて」という番組が好きでよく見るのだが、そこに出てくる人のよいおじいちゃんおばあちゃんに通じるところがある。
最初よそ者が現れた時は怪訝そうな顔をするのだがすぐに人のよい素顔を見せてくれる。
「難しい事はわからないけど...」と謙遜をこめて口にする人たち。
私は、そんな素朴な人たちの笑った顔を見るのが大好きだ。

アメリカではこれらの人々がブッシュ大統領を力強いよきリーダーとして尊敬し、日本ではこれらの人々が地元の政治家を先生として尊敬する。
そんな政治家たちは恐らく一人の人間として捉えたならば、話題の鈴木宗雄氏も含めて皆、人並み以上に魅力のある人に違いない。
また、1つの同質的なコミュニティーであるならば誰もが優れた能力を発揮するのかもしれない。

しかし、アメリカのブッシュ大統領は支持してくれる同質的なコミュニティーの価値観をそのまま持ち込み、世界を混乱に向かわせてしまっている。
日本の先生方も地域の支持してくれる人々のために同質的なコミュニティーの価値観で利益誘導を図り、国家財政を食い物にしてしまった。

私も古きよきことには非常に魅力を感じる。
素朴さにも、人のよさにも、安心感にも魅力を感じる。
その同質性にさえ溶け込む事ができれば、余計な事を考える必要はない。
色々な事に皆が共有できる価値観があるという事は言葉を必要としない。
善悪も明快で悪ければ怒りよければ誉めれば言い。
このようなコミュニティーはそのまま残っていて欲しいとさえ思う。
人の背丈に合った適度に小さいコミュニティーに不都合があるとも思えないのだ。

しかし、人の社会はその背丈を越え複合化している。
便利で豊かである為には手段として流動化が必要となる。
コミュニティーとコミュニティーはつながり、人が出入りし、価値観が行き交う。
地方と国、国と国際社会
これは同質性が通用しない異質性の出会いである。
互いに同一性を維持しようとすれば争いを引起し、淘汰が起こる。
それは歴史の中で実際に起き、同一性がある大きさまで拡大されるまで続けられてきた。
しかし、人は気づいたはずなのだ。
もはや同一性を争いで解決していくにはあまりに大きな悲劇を必要としてしまう事を。
そして思ったはずなのだ。
他を尊重する事で共存する必要性を。

個と個、コミュニティとコミュニティーが共存するには同質的なコミュニティーの仕組みや、やり方とは違って然るべきだ。
そこにはコミュニケーションが必要であり、新たな共有できる認識の構築が必要である。
その試みはしばらくは続いていた。

しかし、あるきっかけで「豊かさの為の流動化」が再び強い力を得て、そのあるきっかけの別の要素が過去の淘汰により無理やり同一化された小さな古い同一性達が元の同一性を回復し始めた。
「豊かさの為の流動化」は再びその同一性を強引に拡大させようと淘汰をはじめようとしている。
同一性を取戻そうとするものたちはその淘汰に抵抗すべく、起こるべくして争いに回帰してしまった。

小さなコミュニティーの長になるべき人が、複合化された高度な仕組みを作り出すべき宿命を負った長についてしまったようだ。
優れた人間性を持っていても、その能力を必要とする時と場所を間違ってしまったのではないか?

大統領を選んだ閉じたコミュニティーに住む善良な人々を見ながら、そんな事をとりとめもなく思う。

November 08, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

過去の制約

人質事件に関しての対応に関する国民の意識調査のようなニュースが出ていた。
政府の対応が適切だったとする意見が多いそうだ。
このようなトピックは設問がはっきりしないのはいつもの事だが
私はむしろ本当の意味で適切と考えていると言うよりも
政府にはそれ以外の対応の選択肢がなかった。
と国民は受け止めているのではないかと思う。
「現時点に至っては」この選択が妥当だったと。
過去は変えられないから現時点で与えられた「選択肢」で考えて、という事なのではないか?。

(そうでないと思う場合は以下は意味を成しませんので貴重な時間を無駄にせずに読み飛ばしてください。私はそう思うのでその前提で以下の文章を書きます)

この選択肢は今の現実だけでなく、実際には別の制約を大きく受けている。
変えられない過去を振り返らず将来を見る前向きな意見に見えるのだが、「これまでの経緯」と言う「過去」に大きく引きずられており、実際にあるあるがままの現実と日本人の価値観を率直に見ているとは言い切れない。
国として強く方針を出した過去があるから、米国に対する強い支持の手前、いまテロリストと交渉する弱気な態度は示せないと判断していわけで、米国政府のイラク政策に強く賛同する立場でなくそれをきりはなすことができれば交渉、譲歩と言う選択肢がないとはいえない。
同じ過去を持っていてもスペイン、フィリピンなど、実際にそのような判断をする国があるのが本来の現実世界である。(期限を決めて撤退を決めている国もある)

また、強く方針を出した状態から譲歩と言う大きな格差を「脅迫の結果として」見せたなら、つけいれられ、さらに犠牲を生むと危険性を予想する事もあるだろうが、これも「過去の経緯」の必然として出てきた物である。

世論調査で「適切」と答えた人の中でどれだけの人が
「米国主導によるテロとの戦い」に希望を持つ人がいるのだろう。
または、犠牲を払っても正しいと思って賛同するのであろう。
この戦いに付随する、日本の軍事的な意味合いの強化を歓迎するのだろう。
そして冷戦時代ほどの求心力を失いつつある米国の絶対性を、以前のように日本の発展の前提として信奉する根拠を確信できるのだろう。


過去によって歪められずに、純粋な判断が本当になされているのだろうか。
日本にとって国民の多くが正しいと思える価値や意思を、過去や他から押し寄せる現実に歪められてはいないだろうか?
どちらにしても「テロには屈しない」で「力によるテロ撲滅の支持」と言う事は徹底抗戦である。
勝算がなければ米国頼りで期待している恩恵などは受け入れられないだけでなく、失う物も大きくなる。
また、米国の思惑を正しく予想できなければ、方針転換による(表面上はともかく)事実上の日本の切捨てもしくは軽視のリスクも考えられる。
時間的な予測を誤れば長期化による米国の戦費負担も形を変え品を変え負担を強いられる事も覚悟しなくてはならない。
中東の一層の不安定化を懸念して米国を支持していても、為し遂げる見込みがないければ「力によるテロとの戦い」は逆に作用する諸刃の剣である。

過去の影響で現在を決める事がたとえ必然と思われても、今後の「展望が開ける」事を担保する事にはならない。
もともと理念と利害の両面に整合性を付けて動いている米国とは違い、日本の方針は広義の国益ではなく、狭義の利益だけで決められた政策である(理念は現実ではないと見る傾向は強い)、そこに見通しが見出せなければ方向を修正することがこのような決定には相応しい。

今も自衛隊派遣延長が過去にとらわれて決めようとなされている。
その条件として「状況を詳しく検討して・・・・」などというが、政府内では結論は決められている。
状況のデータがあろうとなかろうと結論を決めている。
何があったら「危険(戦闘地域)」かは現実的に定義などしていないし、できないだろう。
どんなに危険でも大事が起きない限り危険ではないと言い張ることは易い。
国民の感覚も特措法が論議されていた頃と比べどれほど危険への許容度がシフトしたかを自問自答すればそれもまた容易に想像できる。
このような状況で政府も国民も(言いたくはないが)自衛隊が実際に攻撃され、相当数の犠牲者を目にするまでは「危険認識」を共有する事はないのかもしれない。
しかし、そのような事態になればなったで、「攻撃されたから撤退する」状況を想像すれば「テロに屈する」事を今以上に露呈する事になる訳で、それを受け入れる事が政府にできるかといえば、期限を理由に撤退する以上に大きく国益を損ねるという苦痛に耐えるような困難な決断をできるとも思えない。
「テロとの戦い」を強調してきた首相がそれを受け入れる姿をどれだけの人が想像できるだろう。
ありそうに見えても先送りに期待した判断などは存在せず、困難を増すだけだ。
唯一、延長が正しいことがあるとしたらイラクが米国の思惑通りに平和に収束する事だが、私はその可能性は米国の姿勢が変わらぬ限り非常に困難に思える。
ブッシュ政権は国際社会を気にせぬ保守層、恐怖心に怯える人々、軍産複合体の支持で再選したように思える。
彼らの価値観を無視する事はできないわけで、国際世論の圧力で簡単に方針を変更する事もできず、協調ではなく、米国の正しさに理解を求め国際社会をいかに米国の方針に巻き込むかを課題とするだろう。
ヨーロッパにしても米国との関係を改善したくともこの姿勢が続く限り、表面的な賛同を示す事しかできそうもない。
かりに協調できたとしても、実を結ぶのはかなり先の話となる。(パレスチナを見れば良い)
自衛隊撤退を云々している間に事態が好転する事は期待できない。

事態は何が良いかではなく、何ができないかで進行している。
政治家を始めとして過去に起因する誰もができない(と思える)事に責任を取らないですむように何も起こらない事を期待して「運」に任せて継続しているのが実情であり、果たして本当の現実がそれを許してくれるのだろうか?
状況は違っても、勝てそうもない米国に宣戦布告した戦前の人々の心理も恐らく似たようなもので、それを間違った事をしたと言い放つ事は今の我々にはできない。
論理的でも現実的でも合理的でもない理由で過去との係わり合いで引きずられて決められることに我々国民は「しょうがない」を「現実的」と偽り納得しようとしているのではないか?

November 07, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

死んだ子の齢(よわい)を数える

大量破壊兵器の存在はイラク戦争の根拠である。

「虐げられたイラクを開放した」とか
「民主主義、自由をイラクにもたらした」とか

いくらもっともらしく言おうと、他の「方策」を拒否し「戦争」に踏み切った根拠が「大量破壊兵器」である事が覆るわけではない。

戦争の正当性を国際社会が認めたとする国連決議1441は「大量破壊兵器」に関した決議であって、けして「虐げられたイラク国民」でも「民主主義・自由」でもない。

国連決議1441を持ち出して、新たな決議無しに戦争に踏み切った事ですら認められないと言う解釈があるのだが、これはそういう問題でもない。
百歩譲って国連決議1441を戦争の根拠として認めたとしても、「大量破壊兵器」や「計画」が存在しなかったと言う事は、それすらも成り立たないと言うことだ。

イラクが査察を受け入れ、査察団が大量破壊兵器の存在に否定的な見解を示し、他の常任理事国(3国)が反対を表明する中で、それでも「大量破壊兵器が存在する根拠がある」から「イラクは隠している」と結論づけ、イラクの国連決議1441違反を強調し、その中にある「警告」に従って戦争を推し進めた。

このことは「大量破壊兵器が存在する根拠がある」と言うことが嘘であったことが判明した事で、イラク戦争は国際法上誤った戦争であったと結論づける事に他ならない。
この間違いで失ったものは大きい。(この予定通りの間違いで一部の人種は多くのものを得たはずだが)


感情的には死んだ子の齢を数えたくなるが、この言葉の意味するごとく、失った物はけして取戻す事はできない。
アメリカが失った求心力も信頼も、世界に広がったテロも、国連の失った威信も、「今」以前に戻す事はできない。
日本が間違いを拠り所に利を得ようとした事がついに事実として歴史に、人々の記憶に残る事になった事も、そのために積み上げられてきた「戦争準備」も消し去る事はできない。

何かをできるのは「今」に対してだけである。
過去にも未来にも手出しはできない。
未来を良き物にするには「今」を良き方向に向かせる事でしか、それは実現されない。
だからと言って高い峰を前に絶望する事はない。
できる事の大小ではなく、それぞれの立場で、力量で、自分を誤魔化さずに「素直に」良いと思う事にしたがって、着実にその方向に向かっていくことができればそこには希望がある。
しかし、たとえ小さい事であっても勇気の必要な事には違いない。
その方向には、自分が今持っている「大事に見えるもの」を失う覚悟も含んでいる。
ついでだからその「代償」が本当に価値があるのかどうかも吟味してみたら良い。
いずれにしても、「今」すべきことがなされずに時がたてば、「今」を思い返してみても、それは「死んだ子の齢を数える」事に他ならない。

今回の「大量破壊兵器」のような間違った情報に惑わされず、現状を正しく評価して「今」なすべきことができるのか、これまでのなし崩し的経過に引きずられ現在なすべき事を歪めてしまうのか、どちらにしても国民が日本を「あって欲しい姿」に近付けるには「今」何をすべきかを真剣に考える時に来ている。
本当に何が良いかの答えを決められなくとも、どのみち選択は強いられる。
「先送り」も「無視」も立派な選択であり、その結果にはそれに従った独自の結果が用意されているのであって、現状維持という結果がそこに有る訳ではない。


人々を経済と言う価値観で2種類に分けていこうというのが今の日本が属する経済圏の流れだ。
日本でも「勝ち組」「負け組」が市民権を得てきている事、「自己責任」がこれまで以上に強調されてきている事などを見ればその価値観がじわじわと浸透してきている事を容易に感知できる。
これは2種類に分ける事が別に悪いことではなく、むしろよい事であるという価値観の世界だ。
この「差」が経済に活性化をもたらすと言う価値観の世界だ。
魅力的ではあるが「地球環境」も「戦争」も「飢餓」も、「経済の拡大」に優先される事はない世界だ。
そう、この世界観は現代から将来にわたって抱える深刻な問題と密接に関わっている。

ここでいう2種類とは、現在の姿を歪める事で利益を得ながら何も失う事のない立場と、そのために多くの大事な物を失うその他の立場とも言える。
この流れの先にある世界では、残念ながら、そのシステムの性格上、好むと好まざるに拘わらず、殆どの人々は後者に属することになる。

もし、「今」を侮っていれば今度は何年後かに(利益を得て、何も失う事のない前者の国民の為に)「死んだ『我が子』の齢を数える」ことになる確率は高いのだ。
死んだ「我が子」の齢を数えても戻ってくる事はないのは・・・いうまでもない。

日本という国が衰退することによってのみ、このような状況になると言うのではない。
仮に国としては栄えようと、その内部でこのような状況に置かれる事があるということだ。

前者を「夢」と呼び、それを目指すのも選択の一つだろうが、アメリカとは違い日本ではその門は排他的で狭い物となりそうだ。
本来このシステムは「徹底した自由」の発想が根本であるはずなのだが、日本のそれはこの「徹底した自由」という根本を認め様とはしていない。
たとえ、望み叶ったとしても、思っているほど「負け組」が「お人よし」ではいられない事は、中東で見られる「テロ」と呼ばれている現象を見れば想像がつく。
「勝ち組」とて、そうそう安心するわけにも行かないだろう。


ところで、人の「夢」や「望む物」そして「価値観」そのものが、「経済」だけで決まる物ではなさそうだということも「うすうす」は感じているのではないだろうか。(ヨーロッパでは苦戦はしているが、なんとか、これを形にしようという試みもある。)
目に見える現実の手前、それを言い出せないだけではないだろうか?
「大量破壊兵器の存在」が嘘っぱちで「戦争」が行なわれたことが判明した今、うすうす感じている事をちょっとばかり素直になって考えてみるにはいい機会だと思う。
私は、もう「のんき」でいられるほど状況は楽観的ではないと思うのだが・・・。

October 11, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

大統領選とアメリカ

アメリカでは大統領選も終盤戦に入っている。
先日もブッシュ大統領とケリー上院議員の討論があった。
今では様々なルールがあり、あまり白熱した意見のぶつけ合いはないようだ。
直接の対決は殆ど見られず、どちらかと言うとそれぞれ主張をしあうところにとどまっている印象が強かった。
私にはケリー氏の話はすんなり入って来るがそれは私がアメリカ人ではないからで、アメリカ人の半数はやはりブッシュ大統領が良いようだ。

ブッシュ大統領の話には善悪がはっきりしている。
善は善であり悪は悪である。
信念を持って善を行なう事にたとえその道が険しくとも妥協はできない。
リベラルは善を曖昧にし、悪を許し、モラルと意欲を低下せしめる。
建国以来の「アメリカの民主主義と自由」は疑うべきもない善であり、そのための戦いもまた善である。

全くもって明快だ。

討論でブッシュ大統領が同じ事を繰り返すだけで私には説得力がないように見えても、そもそもこのような立場には他の言葉で説明する必要性すらないのかもしれない。
支持者にはこの繰り返しだけで充分なのだろう。

このような感覚は宗教(一神教)的な基盤を持たない私のような者には想像はできても実感する事はできない。
また、アメリカ人(保守)の持つ「自由」に対する徹底した考えも我々日本人にはなかなかわからない。
この点は同じ保守でも日本の「保守」とは違い、私の持つ日本語の「保守」という言葉のイメージともかけ離れているような気がする。(私だけか?)
また、多くの日本の国民が世界を気にしてそれを知ろうと思うほど、多くのアメリカ国民(保守層)がそれを知ろうとは思わないだろうし、その必要性も感じない人も少なからずいるように思える。

しかし、私はこの善は成就しないと思う。
イスラム過激派の善も同様に成就しないと思う。
少なくとも互いに同じ発想で争い続けるならば、どちらかが消滅するしかないがそれは実際は不可能だろう。
おそらく互いに傷つけ合いながら成就しないままか、周りを巻き込みつつ疲れ果て厭世感が満ちるのを待つしかないのではないか?
いずれかの善を最後まで信じる者だけはどのような結果になっても救われるのかもしれないが、それは人類の平和とは関係のない別次元の信念の話だ。
トコトン最後までこの善に疑いを持たず救われる人がどれだけいるのだろう。

アメリカに関して言えば、現状が続くようであれば、むしろその国際的求心力は低下するのではないだろうか。
アメリカの同盟国でその関係を政府が重視しても、果たしてその国民がその政府の方針にいつまでもついていく事ができるかどうかは判らない。
民主主義が浸透している国であればあるほどその姿勢が変わる可能性は大きい。
もっとも、今のアメリカの保守層がそのことを気にするかどうかも疑問なのだが、アメリカ人ではない私にはアメリカの求心力が低下する事は大きな問題であり、私の生活に大きく関係してくる。
それは、現在、日本政府がアメリカと一蓮托生の道を取っているからにほかならない。
アメリカ人ではない私がアメリカの大統領を選ぶ事はできない。
私が、できる事は日本の有権者として日本政府がアメリカと日本の違いをどのように捉えて、どのようにマネージメントしようとするのかを見極め、その選択に私自身の価値観に基づいて参加する事だけだ。

日本政府はどのような見通しを持っているのだろう。
米国追従を良しと考えているのはわかるが、先をどう見通して良しとするのかさっぱり判らないから困るのだ。

October 06, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

常任理事国

国連総会では小泉首相が常任理事国入りを訴えている。
国際的発言力を持つとはどういうことなのか?
国際化とはどういうことなのか?
国際貢献とは?

最近の潮流を見ると力で紛争を抑える事ができなければ何もできないかのようだ。
国連を分断し、国際社会の共通理念作りの妨げになっているのは力を持つ大国(現常任理事国)のエゴに他ならない。
新しい枠組み作りのための争い、軍事産業の市場獲得合戦、既得権の奪い合い、自国の利益優先の環境破壊、非核保有国への不公平で一方的な核拡散防止。
常任理事国が軍事力を背景に秩序をもたらす役割を果たすどころか、この軍事力を誇示し、エゴを押し付け合い、拒否権をちらつかせ国連を無力化し、その他の国の反発を買い秩序を乱しているだけである。
このような中での国連改革であり、その国連改革の一環として持ち上がっているのが常任理事国の拡大のはずだ。
ドイツの歩みはEUをフランスとともに纏め上げてきた実績、東西ドイツを様々な困難に遭いながらも形にしてきた実績、さらに経済的な発展の実績等この拡大に大きく貢献できる可能性を感じさせる。
日本も効率的だったかどうかは別にして後進国の発展を後押ししてきた実績、世界各国と友好関係を持つことに努力し、大国となりながらも核には手を出さず平和を貫いてきた実績は各国に可能性を感じさせたはずである。
以前の日本は、今の国連のあり方を変える可能性を秘めていたと思うのだが、湾岸戦争以降の日本はエゴイスト集団の仲間入りをして利を得るという考えに支配されつつあるようだ。

これでは何のための日本の常任理事国入りかわからない。
軍事力を誇示したい常任理事国は他にいくらでもあるのだからそれはもう充分であろう。
常任理事国入りしようとも国連自体が常任理事国のエゴによりさらに分裂してしまえば「常任理事国」などという「名」は何の意味も持たなくなる。
肩書きだけもらって喜ぶ姿は想像しただけで哀れである。
日本が日本の実績をいかに国連の場で生かして信頼を得るかが発言力を持つという事なのではないか?

国際貢献を意識したきっかけは湾岸戦争での「日本への非難」が一番大きいのだと思う。
その時ショックだったのが「日本は金を出しても血を流さない」という言葉なのだろう。
PKO法案、イラクへの自衛隊派遣いずれもその影響が無いとはとても思えない。
しかし、本質的な「日本は金をだしても・・・・」の体質をこれらで変えることができたか?
形の上で軍隊を出そうとも、何も変わりはしない。

イラク戦争に自衛隊を派遣したのは経済的な米国依存がその理由の一つ。
我が身を守る為の安全保障上の理由が二つ目である。

我々国民は自衛隊に全てを押し付け、同朋がボランティアで危険を冒したことを国益に傷をつけた偽善者だと中傷し、国内の経済活動の虜であることを理由に、それを守る事に必死で道義的なことなどは理想論という言葉で一蹴する。
「日本は金を出しても血を流さない」姿勢に何ら変わりはない。
それは、利己的な行為のすぐにそれとわかる「理由付け」に過ぎず、むしろそれが、その姿勢に拍車を掛けている我々日本人の姿を浮き彫りにしているように思える。


国連は紛れもなく第二次大戦の戦勝国のコミュニティーである。
戦後の国際社会そのものも同じだ。
第二次大戦は枢軸国が「悪」と結論は定まっている社会なのだ。
中韓朝にかぎらず、その「悪」を「善」に名誉挽回しようとする行為がその国際社会に受け入れられるとでも思っているのだろうか?
「悪にされるのは理不尽である」とかそういう問題ではないのだ。
もちろん、戦争だから夫々に戦争に至る「必然」も「背景」もなかったわけがないが、それが「理不尽な戦争」に突入してしまった日本が受け入れなければならない「理不尽な結果」なのだ。
戦争によりもっと理不尽な結果を負わされた国はいくらでもある。
もし、それでも(戦争に関して)名誉挽回を図りたいなら、戦後の経済発展を否定し、民主主義と自由を否定し、常任理事国など夢見ずに、国際社会から一歩はなれたところを歩くことになろう。
戦勝国の社会の価値観で手に入れた金満にしがみつきながら、「戦争の理不尽」も受け入れる事ができず、それに対して重箱の隅をつつくように弁解を繰り返し、勇ましく振舞おうとする姿はあまりに滑稽である。

「戦争の理不尽さ」に対する感情は、それを知る我々が戦争の必然に追い込まれる国の身になって考える事がができるという事においてのみ生かされるのだと思う。
特定の相手にではなく「戦争の持つ理不尽」そのものに向ける事に意味があるのではないのか?
小国が陥りやすい戦争への道から抜け出す手助けをする為にそれを生かし、追い込まれる者の「必然」を大国に理解させ、その「必然を取り除く」ことで最悪の結果に陥らないようにしむける役割があるのではないだろうか?
これは今の常任理事国には難しい事だ。
そんな国際貢献が日本には科せられているような気がしてならない。

September 23, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

恐怖心の囚われ人

先日、アメリカでは銃規制が延長されることなく失効した。
今回規制が失効した襲撃銃のカテゴリーに入っていたウージ(イスラエル製?)をアメリカの射撃場で撃たせてらった事がある。
私は銃の知識は殆どなかったのではっきり言ってシンプルな軽機関銃にしか見えなかった。
室内の射撃場だったので連続発射は許してくれなかったが・・・
あんな銃が規制されなくなるのかと思うとぞっとする。

同じ射撃場では他に38口径 45口径 44マグナムも一緒に撃たせて貰った。
私は素人なので45口径の方が44マグナムよりも口径が大きいのに44マグナムの方が衝撃が大きいのはなぜかと不思議だったのだが、口径はさほど違わなくても弾の長さも重さも全く違っていた。(他にも違いがあるのだろうが)

その程度の知識しかない私が初めて銃を手にしたときのなんともいえない不気味さは忘れる事ができない。
今、手にしている銃を人に向け引き金を引くだけで人一人の生命を奪ってしまうのだと考えただけで、自分の手が勝手にそのような事をしてしまうような気がして、銃そのものよりも自分の気持の不確かさに恐怖心を持ってしまったのだ。

それとは別にもう1つ印象に残ったのはその射撃場にいた人たちがあまりにも普通の人たちだったことだ。
ちょうど買い物帰りのようなおばさんが22口径の銃を真剣な顔をして撃ちつづけている。
そのとなりではそこいら辺の町を普通に歩いているようなジーンズをはいた若い女性が完璧な射撃スタイルで(本当に完璧かどうかはわからないが)38口径を撃っている。
そのとなりにはネクタイをしたビジネスマンが、そのとなりには日曜大工をしていてもおかしくないおじさんが...
といった感じで特別な雰囲気を持つ人ではなく全く普通の人なのだ。
話には聞いていたが銃が身近にあるということはこういう事なんだなとそのとき初めて認識した。

実際,その時泊まっていた安宿に住んでいた(そこに住み着いていた)住人が銃を自分の部屋に持っていてそれを見せてくれたが、普段から暗い人だったのでなおさら不気味だったのを覚えている。
当時のLAは今より治安が悪く、大体安宿というのは治安の悪いところにあり、入り口は格子扉になっており、夜は警察のヘリコプターがサーチライトを付けて飛び回り、パトカーがサイレンを鳴らして走り回るようなところだった。
そのような場所で銃が身近にあるというのは、日本人の私には到底理解不能だったのだが、そこではそれが現実なのであり、それを前提とした話のみが現実的なのだ。

アメリカの歴史の上で銃は欠かせなかった。
その歴史の中で銃が市民権を得て、絶対的な資本主義の中では当然それを作る企業も力を持つ。
銃がない社会のほうが住み易いと思う人が多くとも、政治に影響力を及ぼすのは力をもった企業であり、現実を無視できず恐怖心から身を守る必然を植え付けられた一般市民である。
そう簡単には銃のない安全な社会の実現を許してはくれない。
銃に市民権を与えた事実が銃は欠かせないという「現実」を築き挙げてしまっている。

日本ではまだ銃は規制されている。
しかし、どうだろう、アメリカを無条件に世界とみなす日本だけあって最近はもっぱら「凶悪な強盗が押し入ったら戦わないのか」「自分の身を自分で守らなくてはいけない」といった論議が盛んになっている。
その議論は防衛問題に限らず、国内の治安に関してもその傾向があるのではないか?
その上マスコミでもセンセーショナルに「凶悪犯罪増加」を書きたて盛んに不安を煽っている。

上記のような発想は銃やそれに準ずる武器の「必然性」を生み出す事に他ならない。
しかし、その「必然性」によりそれらに「市民権」を与える事で期待した「現実」をもたらす事はないだろう。
そこに生まれる「現実」とは「武器を持つ権利を有する犯罪者から、武器を持つ権利を有する自分を守る社会」であり、その社会ではどう間違ってもそれ以前の社会に比べ犠牲者は増加する。
さらに、それが「現実」となってしまえば「現実」に従順な日本のような社会では、たとえそれが間違いと気づこうとも既に出来上がった構造を元に戻す力などない。
恐らくそこに至ってもまだ「現実的には...」などと言いつづけ「不安」をごまかす為に「虚勢」を貼りつづける事になるのだろう。
この「見通し」に対して「根拠」を与えてくれるのが今回の銃規制失効から見える「アメリカの現状」だと言ったら、どこか不都合があるだろうか?

September 17, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

戦争へ導く主役

私は今、過去に起きた馬鹿げた戦争がいかに起こるのかを直に体験している気分だ。
義務教育の歴史の教科書は私の時代も、第一次大戦、第二次大戦についての記述は単純だった。
このような壮大な殺戮はどのような「間違い」で起こったのかシンプルに結論ずける。
ドイツならヒトラーの思想が狂気であり、日本なら軍部が無謀だった、つまりそこが間違っていたのだからそうならないようにすればいいのだと。
戦争中に行なわれた虐殺は非人道的な大きな過ちだった。
だから人道の重要性を学べばそのような間違えは起こさないと。
今も義務教育では同じなのだろうか?

最近の世界情勢や我々日本人の風潮の変化をじっと見ていると「これが大きな戦争への過程なのか」と実感する。
「必然」が今のところ私にもっともしっくり来る言葉だ。
戦争に特別な主人公などいない。
恐らく「ブッシュ大統領」も「オサマビンラディン」も「シャロン首相」も「プーチン大統領」も「フセイン元大統領」も「ネオコン」も脇役に過ぎない。
いずれもきっかけを創る代弁者に過ぎない。
主役は別にいるのではないだろうか。


今回のロシアの事件を頭においてちょっと私自身に問いかけてみる。

自分の国が繁栄して欲しいと思う気持は間違いだなどと思っているだろうか?
国というシステムが領土を保全しようとする事はあってはならない事だと思っているだろうか?
国民の平穏な暮らしを維持する為に安定を保とうとする事を悪い事だと思っているだろうか?
自分の住む町や文化を維持したいという気持は持ってはいけない事だと思っているだろうか?
家族や大事な人を守る為に戦うことを悪い事だと思っているだろうか?
やられっぱなしで何もしなければさらにつけ込まれると思うのは不思議な事だろうか?
攻めてくるかもしれないと思った相手に対し備える事が悪い事だと思うだろうか?
最愛の者を奪われた人々が恨みを持つ事はあってはならない事だと思っているだろうか?
人が自らのアイデンティティーに誇りを持つことはいけない事だと思っているだろうか?
「正当防衛」という考えを間違えだと思っているだろうか?
動かしがたい理不尽に対して絶望する事はそんなに不自然な事だろうか?
絶望と恨みが人間性を失わせる事は仕方ない部分があるとは思っていないだろうか?
困っている人の為に自分は犠牲になろうとも何か役に立ちたいと思うことを間違ったことだと思っているだろうか?
まだまだあるがキリがないのでここでやめる。

特に戦争を想定しなければ、上に書いたような事をそれほどおかしな事だと思って生活などしていない。
他の人は知らないが、少なくとも私はそうだ。
しかし、これらは全て今回起きたロシアの事件へ至るまでの双方の立場の人々行動の動機となりえたであろう物ばかりだ。
彼らは,何らかのきっかけで「おかしいとは思われないこと」を「必然」にしたがって繰り返して来たに過ぎない。
翻って私自身に関して言えば,「争いの連鎖」の「種」を普段の価値判断の中に常に抱えているという事になる。

もちろん物事には度合いというものがある。
繁栄を願っても他を犠牲にしてまで望むべきではない。
といった「制約」はある程度想定している。
そこに作用して判断を狂わせるのが「集団心理」や「社会風潮」そして「人の弱さ」なのだろう。

今回のロシアの事件も9・11やイラク戦争でのテロの効果や前例(テロ風潮)がなければ、その「制約」は作用したかもしれない。
イラク開戦前にムバラク大統領が「100人のビンラディンを生む」といった言葉や「パンドラの箱を開けることになる」といわれていた事が頭を掠める。
まさにビンラディン以上に風潮を変えるきっかけを作ってしまった。

普段、おかしくはない思っていることを「声の大きい人」がこれら制約(度合い)を超えて「原則的」に「断定的」に使い始めたら細心の注意を払わなくてはいけない。

戦争は何も「異常」で起こるのではなく、様々な「必然」の積み重ねで後戻りできなくなって起こりうるという一面を肝に銘じたほうが良い。
「間違い」と判るのは後世の事、今を生きる我々には決まった判別法は用意されていない。
「必然」が本当に「必然」なのか,その先に何が待つのか、時には無謀に思えてもそれに反抗しなければならないのではないか。

現実的であるということは「必然」に沿う事ではなく、不幸に繋がるもっともらしい「必然」には抵抗する「今できる小さな一歩」を踏み出すことではないだろうか?
流れや風潮を考える時、重要なのは(ベクトルで言うなら)大きさではなく方向だと思う。

いずれにしても、それができなければ自らが、そして大切な人が不幸になるのを待つことになるだけの話であろう。

私は戦争へ導く主役は我々自身の中にいるような気がする。


September 07, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

ロシアも危険

ロシア北オセチヤで起きた事件は憎むべきテロ行為だ。
何の罪もない子供を盾にし,虐待し、死に至らしめたこのような行為にいかなる正当性も与えてはならない。
このようなテロは本当に無くしていかなくてはいけないのは言うまでもない。

しかし、今のロシア、アメリカやその他の大国の力による手法ではできないだろう。
行為に正当性を与える事はできないが、人は何も理由がなくこのような卑劣な行為に走る事はないという事実から目をそらす事はできない。
イラク戦争前にも掲示板で書いてそう思っていたし,今もまだその考えは変わらない。
むしろいっそう強く思うようになった。
間違いなくアメリカは以前より危険になった。
世界も同じく危険になった。
安全になったというブッシュ政権はあまりにも白々しい。
安全になったといわざるを得ないだけであろう。

危険になったのはアメリカだけではなかった。
今回のロシアでの事件、相次ぐテロでロシアもアメリカ同様危険になった事が明らかとなった。
つながりがないわけではない。
冷戦でふたをされ大国による理不尽を受けてきた「根」を共有している。
さらに圧倒的な軍事力で制圧しようとするところも共通する。
文明が発達し世界がつながり便利になった事で持てない者が持てる者に対抗する術を与えてしまった。
武器もそうだろう。
一昔前は個人が国家に「これほどまで」の打撃を与える事はできなかったし、その動機も共感も影響も小さかったが今は違う。
普通の人の中に紛れた敵意をどう見分けるというのか?
何処に敵がいるか、相手が何者かわからぬまま相手から身を守らねばならないのだ。
よく「テロ対策の不備」と言って反省する姿勢を示すが「テロ対策の完備」など本当に在るのか甚だ疑問だ。
今後の安全保障は国を相手に想定している「軍事力」などで保てるのか?
世界に比類なき軍事国家が日々おびえ、それを偽り、彼らにとっても不合理な戦闘を繰り返しているのである。
その国民を不自由を強制せざろう得ない状況に陥れ、その国民の半数は作り話に身を任せ自らを納得させている。
戦わざるを得ない状況に自らを追い込みながら国民の財産と生命をそれにつぎ込んでいる。
さらに,肝心の国内の自由と民主主義も後退を余儀なくされるという矛盾にも直面している。

しかし、できもしない間違ったテロ撲滅と気づいていようが今さら辞められない。
ひるむ姿を見せればば付けいれられるという恐怖心と虚栄心がそれを許さない。
ブッシュ大統領も本音をチラッと吐いた。
しかし、大きな流れの中ですぐにかき消された。
軍需産業は笑いが止まらないだろう。
需要は果てしない。
一体いつまでこの不毛な戦いは続くのか。
できれば小型核が出回る前に非現実的な「夢物語」からさめて欲しい。

日本は関係ない?
太平洋戦争のエゴのツケはいまだに払い続けている。
本質はさして変わらない。
戦争の正当性をいくら見つけ出そうが、その正当性を論理的に説明しようが人は忘れてくれはしない。
謝罪しようが補償しようが許しても忘れてはくれはしない。
「いまだにそのような事を言っている」などと逆切れしようがこれっぽっちも役に立たないばかりか「思い出す」事を手助けするに等しい。
それはもはや理窟ではない。

日本は米国から受けた殺戮を忘れたではないか?
などとは思わないほうがいい。
今は良い関係が維持する努力をしているから表に出にくいだけで、一度関係が悪化すれば過去の惨劇を調べ上げ、並び立て、正当化に走り非難の材料にするだろう。
忘れているわけではない。
忘れていても誰かが思い出させてくれる。
(ブッシュ大統領がイラク戦争に際し十字軍を持ち出したのは示唆的だ。)
しかも、事実以上に膨らませるというおまけつきで。
そしてこのような状況で人はそれに飛びつく。
そのときは事実などもはや知る術もなく、「都合の良い」解釈と思い入れだけが事実にとって変わる。

新たな大国のエゴを行使する事もそれに荷担する事も辞めた方がいい。
将来にわたって払わされる代償も敵意も普通の人々が幸せに暮らす為の糧になどはならない。
人の報復心、恨みをどんなに無視しようと、合理的ではないと非難しようと、力で押さえ込もうと因果応報。
人はそれを割り切れるほど合理的ではない。
このような不確かな要素を想像し計算に入れる事が、いまのところもっとも現実的で合理的なアプローチなのかも知れない。

それにしても人と人,物と物などの物理的干渉が拡大した世界でアイデンティティーを国家、民族,宗教等の共同体単位に求めていこうとする矛盾がこれほど大きい物なのかと痛感する。

September 05, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

日本的である事

戦後の価値観を覆す動きが活発化してきた。
憲法を筆頭に敗戦を機に取り入れられた価値観が否定され始めている。

軍隊を持たないこと
戦争に反対すること
基本的人権
自由
戦後教育
対外姿勢
歴史観
ジェンダーフリー
等々

冷戦構造が崩壊し、世界が変わったことで価値観も一変したのは事実だろう。
アメリカブッシュ政権がイラク戦争に突入したことにより、世界はきな臭くなり、不安と不信感であふれているのも事実だろう。
円高,バブル、バブル崩壊を経る中で行政の老朽化が表面化し、それを変革できない閉塞感があるのも事実だろう。
モラルが低下し、凶悪犯罪が目に付き、犯罪の低年齢化が社会問題化し安心して社会生活をお送りにくくなってきているのも事実だろう。
家庭の崩壊が謳われ、出生率が低下し、DVが横行しそれが将来に対する不安に繋がっているのも事実であろう。

このような現状に対して政府や国民は言い始めた。

軍隊を持たなければ平和は築けない。
戦争に反対するのは空想であって危険だ。
基本的人権が過保護の原因だ。
自由が利己主義を生みモラルを低下させる元凶だ。
戦後教育は左翼思想であり洗脳されている。
対外姿勢は軟弱だ強硬手段が必要だ。
戦後の歴史観は自虐史観であり、日本人が自信を持てない原因だ。
ジェンダーフリーは行き過ぎであり家庭崩壊の元である。

今の価値観に疑問を呈し、その矛盾を突きその対極を唱えることが今の潮流である。
不平,不満,閉塞感を作り出した犯人を何とかして既成のものから見つけ出し,既成の物をぶち壊すのは爽快な気分だ。
しかし、出てくる対案はどれも懐古主義にしか思えない。
本当にそんなところに原因があるのだろうか?

現在にウンザリするあまり、過去に失敗した物を懐かしがり、美化し、本来の日本人の姿と言いながらわずかな歴史しか持たない明治以降に作り上げられた日本の姿にしか目を向けていないような気がする。
江戸の市民の自由も奔放も、自然と共生する自然観も、世の流れに対する無常観も、謙虚さも、弱きを守り強きをくじく美徳も、全て置き去りにしてほんの短い特定の時代の日本の姿,しかも国家始まって以来の存亡の危機をもたらした時期の国家観に回帰している。

政府(与党)は「日本を愛する」「日本の文化伝統を大事にする」ことで「日本人が誇りを持つ」という。

もし、そこまで日本的な考えを重要視するならば「質素」「倹約」欲に惑わされない姿が基本となってもおかしくなかろう。
それなのにそういう立場を取る者が、なぜ欲を原動力とするアメリカ式資本主義には疑問の目を向けないのか。
日本的であるならば利己主義やモラルの問題は民主主義的要素(自由、基本的人権、国民主権)にあると言うよりもアメリカ式資本主義にその本質があると真っ先に疑問を持ち、まずこれに批判を加えても良さそうなものだ。
見方を変えれば、昔から日本で行なわれていた相互扶助社会、相互監視社会は、限りなく社民的(左翼的)ではないか?
グローバリゼーションが自然との共生と相容れない事に疑問を投げかけてもよさそうなものである。
日本らしさと言うのなら、なぜ「現実」で世の中を固定して絶対視し、それが「無常」であることを忘れるのか。
なぜその政策は強きを守り弱きをくじくのか?
なぜ謙虚さを忘れ近隣諸国に対し西欧的な傲慢な力の誇示により優位を築こうとするのか?
なぜ農耕民族である日本人が狩猟民族を目指すのか?
金とか益とかではない小さな宇宙観に幸福を見出すのがその文化ではないのか?
イラク戦争での日本政府の政策のように大儀も正しさもない「勝ち組み,負け組み」のような発想を根拠に勝ち馬に乗る行動を日本人は潔しとしてきたとでもいうのか?
アメリカ政府のイラクへの侵攻を見て仏教を文化に持つ日本人は「因果応報」を重ねあわすことはしないのか?
神道ではない仏教的な思想が本来的でないと言うならば多くの日本の文化遺産は意味を持たず消滅してしまう。

もちろん日本の文化・思想と言っても各時代によって様々であるから必ずしもそうあるべきだ等というつもりは無いが、このような物もまた日本の文化・思想である事に間違いは無い。

政府(与党)が持ち出す「日本の文化」や「日本を愛する」をその政策と比べたとき、いかにご都合主義であるかを問うのは実に自然であろう。
私には今の「日本を愛する」路線で出てくる政策は「日本を愛する」事とは全く関係がなく、ただ実利主義者が国民を誘導したいがためにこれを利用しているとしか映らない。
実利主義の国際社会で優位を保つために、それと相容れない日本文化をもって国内の求心力を高め正当化しようなどは実に矛盾に満ちた発想だと思うのだ。

(「国内の求心力を強く望むあまり国際社会がもっとも重要視する「自由」「基本的人権」を制限しようというところがまた別の意味で矛盾に満ちたご都合主義。
今の政府はこれらをイラクにもたらそうとするアメリカが正しいから支援していると言うのが建前でしょ。)

そもそも,もっとも日本人らしくない性癖を持つ与党の面々が推し進めているところが信用できない。
実利主義を前提とした現実主義者ならば現実主義者らしく、このようなものを持ち出して詭弁を弄したりせず論理的に利をもって説いていればいい。

国民が、問題を抱える「今」に不満を持ち、疑問を持ち、再考することは重要だと思う。
だからと言ってそれがすなわち「過去の短い期間にあった対極の物」を是とするのはあまりに短絡的ではないか?
それは目の前の「現実」に右往左往して「大事なもの」を失う事になりはしないか?
日本的な私は

「無常」の世の中では「目前の現実」などは仮の姿、すぐに変わってしまう。
大儀のないイラク戦争およびその統治手法は「因果応報」,必ず報いを受ける。

などと考えるが、それが「日本を愛する」人たちから「日本を愛していない」者にされてしまうのは悲しいことだ。

私は私自身の事を現実主義者だと思っているが、今の世界で起きている事を見ていると「無常」や「因果応報」がやけに現実的説得力をもって迫ってくる。
実際に目をあければそこ(9.11、パレスチナ、イラク、旧ユーゴ等)に見える「無常」「因果応報」を、現実主義者に「妄想」として簡単にかたずけられるのもまた悲しい事だ。

August 14, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

違ってあたりまえ

アジアカップ決勝戦は、私も日本人なのでテレビの前でハラハラしながら見ていた。
相手に倒されてもファールをとらず、相手を倒すとあっさりファールをとられイライラする。
完全にアウェイなのだから、何処でやるときも同じだということは判っていても理性と感情は別物である。
これまでのブーイングを巡る経緯があるから尚更なのかもしれない。
1-1に追いつかれた後の2点目は正直言ってもっとすっきり取って欲しかった。
3点目の玉田のゴールはその思いを少しは取り去ってくれたが,できれば勝ち越し点が玉田のゴールだったら良かったのにと思う。
いずれにしても日本選手は皆素晴らしかった。
特に決勝までの戦いの中で、私自身が諦めた場面でも彼らはけっして諦めずに勝ちを自らの手で引き寄せた姿には頭が下がる思いであったのと同時に勇気をもらった。
サッカーに詳しい人は監督の采配などに不満もあるようですが、あまり詳しくない私にはよくわからない。
でも日本がアジア杯を手にした事は本当に嬉しい。
これが私がこの試合を見ていたときの素直な感想。


2日たって落ち着いたところで中国サポーターの反応などを見ながら振り返り少し横道にそれようと思う。

おそらく私が気になってイライラした審判の判定に中国人サポーターが気がついたとしても強い興味を持つ事はないだろう。
私が2点目のゴールをすっきりしないが審判の判定がゴールなのだからやはりゴールだと思って見ていた場面は中国人サポーターには無視できない誤審にしか見えなかったことだろう。
私のもやもやした気持和らげた玉田の3点目のゴールは中国人サポーターには何の意味もなく、2点目のゴールがなければあのような点の取られ方はしなかったと思うかもしれない。

でも、私は想像はできても感情までも同じ立場に立つことができる程人間はできていない。
競い合うスポーツを思い入れを捨て完全にフェアに見ようなどと思ったらこれほどつまらない物はない。
スポーツで思い入れのあるチームに肩入れして観戦するのに不都合があるとも思わない。

ただそこにあたりまえの事実がある事に注目したい。
同じゲーム,プレーを見ていても( つまりそこで一緒に同じ事実を見ていようと )立場によって見る視点も下す評価もあたりまえのように違ってくるということ。
日中戦特有の反日感情という要素を差し引いても(差し引かなくてもいいが)違いは容易に想像できるはず。

スポーツには「おおむねフェア」であるべき審判がいて,その権限が絶対であり,しかもホームアンドアウェイの有利不利に対するコンセンサスがあるから愉しむ事ができるのだが、そのようなスポーツでさえもこのような要素がある。

このようなことは日本と中国、日本と韓国の歴史問題や領土問題を考える上でも同じことが言えるような気がする。(もちろんこれがスポーツに政治を持ち込むという話とは全く関係ないことはいうまでもないと思うが)

肩入れするものがあり、その立場で物事を見る場合、たとえ同じ空間、時間軸で同じ出来事を見ていようとも見る視点も下す評価も違ってくるのがあたりまえで、絶対的な審判も共有するコンセンサスも無ければなおさら、という話である。
(もっと身近では事故処理等は良い例で互いの知人は大抵知人に有利だと判断しがちだ。)

誤解を解いて理解できるものもあれば、どんなに事実を付き合わせてみても、立場から来る「違い」を埋められないものもあると考えた方が良いのではないか。

仮に同じ事実を見る事ができても事実の見方自体に違いがあるのだから事実を見て話し合うだけでは解決は難しい。
まして、相手の認識を「こちらが思っている事実認識が正当だ」と言って論破しようとしても埒があかないのは当然で空虚な努力にしか思えない。

ちなみに 中国の戦後の戦時賠償放棄に関しては、日本人は「放棄したのにいまさら」と考え、中国人は「寛大な措置をとったのに謝罪が無いのは礼に欠く」と考えるかもしれない。 ODAに関しては、日本人は「これほど援助しているのになぜ謝罪を口にするのか」と言い、中国人は「日本は戦時賠償とは別だと自ら言ったではないか」と言うかもしれない。 実際にどう言うかは判らないが同じ出来事に自分に都合の良く異なった解釈をしている事は間違いないだろう。

しかし、だから「違いを埋める事は所詮できないのだ」などと切り捨ててはマイナスはあっても何のプラスも無いのも事実。
自分が正しいと思う言い分を引っ込める必要は無いと思うが、「お互い違う見方,評価があって当然」という認識を(互いに)共有することを目指すのがまず第一ではないかと思う。
その上で、恐れずにその違いを両者の目に見えるところにさらけ出し、両者が解決できる誤解は誤解として解決し、それでも納得できない物(必ずある)があっても、互いに合意できない違いが何であるかを明確にし共有する事で初めて妥協の可能性が見えてくるものなのではないだろうか。
場合によって違いを明確にした上で棚上げにするのも1つの手であろう。
そして、最後の妥協を実際に可能にするのは「妥協の中間点は常に相手にとって有利である」と言う認識であるような気がする。
「相手が有利であると感じる度合い」は「不信感の度合い」に比例すると言う事も付け加えたい。

政治的にはごく自然な流れだとおもうのだが、日本政府の主張すべきをしない(違いをさらけ出さない)姿勢や過去のODAのような曖昧な解決法を取りたがる姿勢は相手との間に「お互い違う見方,評価があって当然」という共通認識を確立または共有ができないからではないかと思ってしまう。
また、「お互い違う見方,評価があって当然」が無い中で、一方的に日本(あるいは中国)の主張を貫き通す姿勢も長い目で見て、けして両国にとってよい結果は得られないだろう。
ヨーロッパ諸国がアジアの国にくらべて政治的な対立をうまく妥協点を見つけ実質的な部分で解決(妥協)を可能にしている背景には個人主義に根ざした「違いを認め尊重する」発想を身につけているというのもその理由の一つとしてあるのではないだろうか。

政治に限らず、世間一般でも中国や韓国に関する議論では「違いを認めて他を尊重する」姿勢が軽視される事が多いように感じる。
政府間でこのような解決を可能にするためにも、我々国民が様々な対立に対して「違いを認めて他を尊重する」雰囲気を盛り上げていく事が肝心ではないだろうか。
私はこのような姿勢が無い限り不安定な極東情勢はいつまでたっても進展しないような気がして仕方が無い。
どの道、感情的対立を深めて溜飲を下げたところで得るものはお互いの不利益だけであろう。
それならば、難しい事だがうまくいっていない日中関係が良い方向に向う事で 日本の対米従属、経済圏の縮小、安全保障の確保 といった日本に漂う閉塞感や現実的な制約に対して次代の「好ましい現実」を手に入れる可能性があるなら、そちらを向く事には十分意義があるのではないだろうか。

もっとも、ほとんどの人には利益は無くとも、中には解決しないことが利益であるという立場もあるのでそのような人にとっては、全く意味の無い話だが、私や貴方はどういう立場なのだろう。
少なくとも私は対立が深まっても利益を得るような立場にはいないからそう思う。

ウッ長すぎる過ぎる。
サッカーの話からいつものように大きくそれたが頭をよぎった事を書き留めていったらこんなになってしまいました。

August 09, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

8月6日 原爆忌

今日という日は「原爆」という非人道的な兵器を憎む日なのだと思う。
その「原爆」を落とす事になった「戦争」を憎む日なのだと思う。
その「戦争」がもたらす「痛み」を想像する日だと思う。
その「痛み」を忘れてしまう「人の性」を見つめる日だと思う。

原爆でなくなった人は人を殺した事など一度も無い人がほとんどだろう。
原爆を落とすためにエノラゲイを操縦していた人も投下のボタンを押した人も家族や仲間を大事にし、守るべきものがあった責任感の強い愛すべき個人であったろう。
核兵器の原理を発見した科学者は純粋に自然の真理を追求する優れた個人であったろう。
戦争で人を殺した人もそのほとんどは家族の元に帰れば善良な父であり息子であり兄弟であるに違いない。

しかし、こうした普通の人々が営んでいた世界で「戦争」や「原爆の悲劇」が現実として起こってしまうことを忘れてはいけない。

戦争が起こるのに「特別」なものなどは何も無かったのではないか?
目の前に見える「必然」の積み重ねが普通に起こっただけなのではないか?

普段と同じように「不信」の蓄積がなされ
抗し難い「現実」を目の前にして、それを阻むものを当然のごとく「普通」に一蹴し
諦めの状況の中で普通に「閉塞感」が蔓延し
その「閉塞感」のなかで光を放つ「まがい物」に「普通」にすがり
世界情勢の中で「普通」にその「必然性」という名で軍事力が増強され
その対立の中で普通に相互の「憎悪」が一人歩きし
もっともな「理由」で先端が開かれ
相手に被害を与え、勝つことが「普通」である戦争で「原爆」が落とされる。

個々の出来事において「これは異常だ」と当時の人が疑うべき特別な「必然」があるであろうか?

先人達は記録を残し、言葉に残し、宗教を確立し、子孫に同じ事を繰り返さぬように伝えようと知恵を絞ったにもかかわらず、予定通り、型どおり「人の性」に従って普通に繰り返しただけに思える。

今を生きる我々にとって忘れてはいけないことは、どんな「必然」で戦争が起きたかに関わらず戦争に関わり生き残った多くの人が、戦争が終わった時点で「戦争は繰り返してはいけない」と心底思ったという事実ではないだろうか。(生き残れなかった人はそれを言う事もできない)

今、この瞬間の状況も何ら当時の「普通」と変わらない。
ありとあらゆる「現実」の前に「もっともらしい必然」があふれている。
「もっともらしい必然」を「現実」を駆使して詳細に説明する情報には事欠かない、不況、不安の中でその「戦争に繋がるもっともらしい必然」は強い光を放ち、人をひきつける。
そこに繋がる道だと判っているくせに、あたかも途中で止まる事ができるかのような、それこそ「現実的ではない言い訳」を片手に「必然」を人に押し付ける。
これはけして我々の目には「特別」なものなどには見えず、ごく「普通」に映る。
そして、あたりまえのように「現実的」なのだ。
何しろ一番「現実的」なものは「人は忘れ、過ちを繰り返す」事なのだから。

「原爆」がこれまでの繰り返しと違うのは「人類」「生物」の生態系をも狂わせその存在自体を悲惨な形で消滅させる力を持ってしまった事。
次の繰り返しの後には「戦争は繰り返してはいけない」と思う事すら誰もできなくなるかもしれない状況になってしまっている事。

今日と言う日が、最後のチャンスに「人の知恵」が「人が過ちを繰り返す」事を乗り越えるための決意をする日であって欲しい。

August 06, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

そこにいる「人々」

久々にBaghdadBurningの記事(英語版)が更新された。

内容はイラクの暑さから始まり、冷蔵庫の有りがたさと活用法(?)、それに関連して電気事情、身内の葬儀での葬儀事情、埋葬に際して直面した埋葬場所の不足、それが意味するもの、そして人質事件に対する彼女の視点、海外の悪意の無い人々が拉致される状況の裏側(混乱やイラク人自身に起こっている事)、暫定政権の進む方向に対する不安定要素(政権に参加できないものの反発)
そんな中で情報が検閲される事への不安を示し、アメリカの「Patriot Act」への皮肉で結んでいる。

日常の生活に起きる出来事からイラクの状況をリアルに伝えてくれる。
イラクにも様々な人々がいてその立場によっても見方は違うだろうが「出来事」の裏には「人」がそこにいて、その人々の様々な思いが「出来事」に大きな影響を及ぼしている事を教えてくれる。


大国の軍事力、経済力、政治的影響力を物理的に吟味しようとも、そこにいる「人」を無視していれば期待した結果など得る事はできないだろう。
実際イラク、ベトナム、パレスチナを筆頭に軍事介入により期待した通りにならないケースは少なくない。(軍事品を消費する意味では全て成功だが・・・)

日本政府の米国政策支持の姿勢は「経済」「安全保障」を基準に決定され、それを納得させるために「人道支援」の名称を用いていると言う事は、余程「呑気」な人でなければ既に判っているだろう。
しかし、その中に「人」の要素がどれだけ加味されているのだろうか。
「憎悪」「不安」「自暴自棄」「閉塞感」「自尊心」といった社会や世界の動きに大きく影響を与える「人」の要素をしっかり加味しているのだろうか。
我々日本人は、これほど「国内のモラル」にも「国際的な国の将来」にも影響を及ぼしかねない「人」の要素を「現実」に組み入れて議論しているのであろうか?
甚だ疑問である。

我々が「しかたがない」として選択した根拠はそこにいる「人」にとっては全く「しかたがない」では済ます事などできない問題である。
我々が「しかたがない」で済ませていられるのは、イラクが隣に無いからであり、影響を受けても時間差で間接的に形を変えて到達するするため、「直接」感じる事ができないだけでは無いか?
(そもそも、日本人ほど「しかたがない」と言って諦める人々は世界でもそれほど多くはないような気がする。
本来の日本的な伝統では物事(欲)にとらわれないという理想像があったからだと思うが、それを捨て去って物理的な繁栄を捨てきれない現状に甘んじている以上矛盾でしかなく、元来の高尚なスタンスとは別物ではないかと思う。)

これまで日本はアメリカに付いていけば、おおむね間違いの無い選択ができた。
だから、議論のスタートは常に「対米重視(追随)」から始まり、なぜそうなのかは「経済」と「安全保障」と言う単語で済んでしまっていた。
アメリカの政策を支持するのも「対米関係」を最重点に考えているからなのだが、果たして今、これまで私たちが持っていた「アメリカ像」を再考する必要は無いのであろうか?
「人」の軽視を露にしはじめ変質するアメリカが、極東、その他のアジア・中東、EU、ロシアなどとどのような関係を描いていくのか、その中で「アメリカではない日本」がそのアメリカとほぼ同じ選択をする事により、これらの関係の中でどのような位置に置かれる事になるのか。
そして、その位置の「あり方」が我々「人」としての日本人各々にとって望ましいものなのか。
「現実」ばかりに目を向け「理想」を過小評価する事により後戻りのできない窮地に置かれる可能性をもう少し考慮したほうが良い。


今日のニュースで、時事英語を英字新聞で勉強するため"suicide bomb"というメモを持っていた日本人がアメリカ当局により一時拘束されたという。
アメリカではテロ情報により様々なターゲットとなり得る場所でテロ防止のために"厳重な警戒"が行われている。
インタビューに答えたアメリカ人女性が「これは9.11以降続いている事で、もう慣れた」と語っていた。
私が尊敬した「自由」と「民主主義」を謳ったアメリカの姿はそこにない。
(失いつつあるものの筆頭は「公正さ」かもしれないと個人的には感じるが...)
「イラク戦争以前より平和になった」はずのアメリカ市民「人」の生活にはこのような影が忍び寄っている。
アメリカにとって「人」そのものを捉えてみたとき、それがアメリカ人の価値観に照らし合わせて「良い方向」に向っているのだろうか?
超大国アメリカの今後はどうなるのだろう。
そして、アメリカ一辺倒の政策を「現実論」で肯定する日本の政策は「妥当」なのだろうか?
これまでとは違い、国際社会とアメリカを混同せず、しっかり分けて議論する必要性があるのではないか?

話はそれるが、先日NHKの「道路公団}の番組を見た。 選挙民の要望という「現実」で政治家がそれを受け入れ、圧力という「現実」を官僚にかけ、その官僚が組織維持という「現実」で行った道路政策がどんな結末を迎えたのか? 既にできてしまった莫大な借金を「現実」を目の前に「根本改革」できない姿を目にしながら、まだ「現実」を「仕方が無い」などと言ってそのまま受け入れていて良いのだろうか? 当事者は皆「現実的に止めることは不可能であった」と言うだろう。 同様に「現実的」である国民も「非難」はしても、少数ではない人が「現実的には変えることはできない」と決め付けるところは投票率を見れば判る。 システムである政府やそれに付随する官庁、そして国民自身も身近な「現実」は見ていても、本来見るべき「人」を見ていないような気がしてくる。

外交も内政も、もう少し「人」を評価し、同じ妥協があったとしても「理想の方向に沿った」「現実的過程」を模索する必要がありはしないか?
「理想」を「現実」で排除しようとする憲法9条問題も、排除する前に国民自身が「どのような将来を望むのか」、今は成し得なくとも「理想に沿った現実的な過程」をとる事すら不可能な物なのか等、国民自身が熟慮した上で結論を出すほうがいいと思う。
これまでの色々な政策が「現実」の前に「なし崩し」で進められてきた事を考えると、無関心でいたら「声の大きい者(物)」「経済的影響力のある者(物)」の思惑で事は進み、その他は「何が良いか」では無く「しかたがない」で追随し決定しかねない。
果たして、そこに私や貴方といった「人」が考慮されているかどうかは判らない。

BaghdadBurningの記事で「そこにいる人」の視点の大切を思い、つい、こんな方向に思いをめぐらせてしまいました。

August 03, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

国民の高揚

中国で反日感情を背景にした事件・出来事が以前に比べ多くなった。
今、行われているアジア杯でも同様に、これを利用して反日感情を煽ろうとする動きもあるようだ。
http://sports.nifty.com/headline/soccer/soccer_jiji_24F526KIJ.htm
実際に、中継での観衆の声援を聞くだけでもその雰囲気を感じとる事ができた。
背景にある反日感情が渦巻く中国の情勢を実感できない我々にとっては、歩いていて突然殴られたような気分になるかもしれない。
どうも、その動きは学生が主体となっているようで、インターネットはその感情の媒体として一役買っているようである。

西安市にある西北大学のわいせつ寸劇事件の例を見ると、内容が思慮に欠けた部分があったとはいえ、背景が無ければあそこまでの感情的な運動が起こる事は無かったと思う。
(私には)この事件では中国政府がこれら民衆(大学生)を、むしろ抑える側に回っていた印象がある。
実際に反日学生自身が中国政府の姿勢(報道規制等)に対し批判を加えたりする場面も見られた。

今回のアジア杯での中継中止にも同じような印象を受ける。
中国政府自身の手に余る状況だと見たほうがいいのかもしれない。
(今度は、この民衆の高揚を抑えるために中国政府が情報(中継)に規制を加える事で操作しようとする事で、またもや日本人には「生」の彼らの状況を知る事はなくなったとも言える。中国政府にとってはスポーツの場でこのような政治的に利用しようとする姿は世界に対し誤解を招きかねないし、後に控えるオリンピックにも影響が出かねないとでも思ったのであろうか?)
中国政府は市場経済参入に伴う情報流入が他の共産国に見られたように体制崩壊に繋がらぬように「反体制的な情報の規制」と「愛国心政策」をとり、求心力をそこに求めた。
この反体制的な物の蔓延を防ぐために布いた政策が、中国政府の思惑を超えて成長してきてしまっているように思える。
私は中国語を読めないので実際に中国のWebを見る事は無いので確かな事ではないが、中国の掲示板等では事実無根のデマももっともらしく流れているという事を日本のweb上で見かける事がある。
日本の掲示板でも同様の事が起こっている事を考えれば十分ありえる話だ。
国を代表する中国政府が「反日」的な発言をする事は「外交上の駆け引き」の要素もあり、即それが極端に走るという心配はしないのだが、その政府の思惑を超え根拠の無い情報により民衆が高揚する姿には不気味さを感じる。

権力者が意図的な思惑を統制できると思い違いをするのは日本も中国も同じ。

我々日本でも盛んに「愛国心」を盛り上げようと必死である。
好意をもって受け止めれば、「今の閉塞感、自信喪失感を払拭し、新しい日本を創ろう」という部分はあるのかもしれないが、民衆の思いは勝手に政治家などの思惑などはいとも簡単に超え、あらぬ方向に動いてしまうものだという事をしっかり肝に銘じる必要がある。

ところでこのような中国の民衆の「反日」に直面したときに、我々はどのような反応を示すのだろう。
やはり「なめられてたまるか」「誇りが許さない」「そっちがそうなら我々も」と中国民衆に対抗するような世論を創るべきだと思うのか。
それとも冷静に、しかしおもねることなく認めるべきは認め、主張すべき事は主張し、常に話し合いの用意がこちらにはあるというオープンな態度で臨むのか。
それは我々日本人自身の選択である。
私は前者の「対抗」は常々思うところの「恨みの連鎖」の入り口に過ぎないと思うのでそうなって欲しくない。

July 25, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

分離フェンス撤去

もう少し前になってしまったが、20日国連総会にてイスラエルによる「分離フェンス」撤去に関する国連決議が
賛成150 反対6 棄権10
の圧倒的多数で採択された。

この分離フェンスはイスラエルの入植地を囲い込むような形で西岸内部に大きく食い込むような形で建設されている。
イスラエルが一方的に建設するフェンスにもかかわらずイスラエル側ではなく自治区側(グリーンラインの内側)に建設しているのだ。(地図参考リンクhttp://plaza17.mbn.or.jp/%7ECCP/wall/map/map.html
イスラエルが主張する分離フェンスの建設理由はハマス要人を国家が堂々と暗殺したのと同様「テロ対策」。
しかし、そのような理由は口実でしかないだろう。
イスラエルは以前から西岸に無法に「入植地」という既成事実を作り上げてきた、そのあげく入植地の保護を名目にこのようなフェンスをパレスチナ側を取り込む形で建設し、この既成事実をより確かな事実に仕上げようとしている。
実情はこれにとどまらない。
入植地を取り囲むように建設された事により、分離フェンスは西岸地区に住むパレスチナ住民の生活をも分断している。
これまでまっすぐ行けた病院,商店、職場などに行く為に、はるか遠くにある検問まで迂回しなければたどり着く事もできないと言う代物なのだ。
さらに、パレスチナ人の農地を勝手に分断し、取り上げ、まともな農業をする権利さえ奪っている。
「入植地」により歪になった地区に住むパレスチナ人はその生活を脅かされ続ける事になる。
予定の分離フェンスが完成した暁にはパレスチナ自治区は一部を残し完全にフェンスに囲まれる事となる。
そこから、次のステップを予想するのは簡単な事だ。
「パレスチナ人をそこから追い出す。」
仮にそうでなくとも,パレスチナ人がそう受け止める事に何の不自然さも感じない。
日本の暴力団によるバブル期の「地上げ」の手口を想像させるが、さらにその上を行く。

今回の国連決議は、このような非人道的な「地上げ」行為に対し、その行為を止めるように求めた物。
結果は圧倒的多数で可決したわけだが、そんな中でイスラエルのほかにも反対する国がある。
その反対の先頭に立つのがイラク戦争当時、イスラエル一辺倒の政策に対する批判をかわすためにパレスチナ新和平案(ロードマップ)を掲げ仲介を行なったアメリカ(ブッシュ政権)だ。

パレスチナ新和平案(ロードマップ)を提案しておきながら、イスラエルの入植地をアメリカ大統領としてはじめて容認し、一方の当事者の要人殺害を「テロ対策の一環」としてこれも容認、さらにイスラエルの一方的なガザ地区からの撤退(これはロードマップの趣旨に反する)を支持、と仲介者である事を放棄しイスラエルに肩入れした一連の経緯を見れば「やはり、批判をかわすだけのただのポーズだった」と見られても仕方が無いだろう。

すでに、アメリカは「正義」を装う事すらかなぐり捨ててしまったのだろうか。
イラク統治の行き詰まりで国際社会に配慮を示しはじめたかに思われたが、この件を見る限り国際社会を無視した単独主義は何も変わっていない。
この姿勢は米国政府の「決議案の内容は一方的」というコメントを見れば明らかなように、圧倒的多数に対し尊重する意思が全く見えないところに良く現れている。
イラクでの反米感情はもちろん、イスラム諸国の反米感情にもパレスチナ問題は大きな影響力を持っている。
ユダヤ資本、マスメディア支配、キリスト教原理主義との共通性・・・様々な理由があるにせよ、このような誰が見ても分かる事をアメリカ政府がわからないはずは無い。
「平和を好む大統領」をアメリカ国内に向け振りまいているようだが、中東に於ける力による支配への欲望は減退することなく増大しつづけているようだ。
「テロとの戦い」は中東支配の為の口実、中東支配に必要な「中東への楔」としてのイスラエル擁護、と見ても何ら差し支えないように思われる。
今,アメリカはイラクにおこなったことと同じように、根拠の曖昧な難題をイランに向けぶつけている。
アメリカ政府はイラクでの失敗程度で止まるつもりは無いのである。

国際貢献のためにイラクに自衛隊を送っているなどと言う『幻想』からいい加減目を覚まさないと、今後起こりうる後戻りのできない「連鎖」に引きずり込まれる可能性は否定できない。
鼻先に「常任理事国入り」をぶら下げられ、食いつくようなカモにならぬ事だ。

パレスチナ問題は「武力を持たない事は理想である」と語る以上に「武力による平和構築などは妄想である」ということを目に見える現実として我々に提供している。(イラク統治にも云えるが)

我々にとってパレスチナ問題は地球の裏側で起こっていることとしか受け止められないようであるが日本および極東地域の将来を考えるうえで、「何が本当の現実か」を学ぶ教材が凝縮されているのではないか。

July 23, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

曽我さん家族来日で思う事

曽我ひとみさんのご家族が来日しました。

拉致され忘れ去られた期間に元米国軍人のジェンキンス氏と結婚され、そのことが平穏な生活の回復の障害になろうとは改めて過ぎ去った「時間」の意味を考えさせられます。

北朝鮮にはまだ多くの拉致された日本人がいる。
今、北朝鮮に残された人たちはこの「時間」をどのように生き抜き、この「時間」によりどのような事情を抱えることになったのだろう。
中には北朝鮮の政権の維持に協力する立場や、対日本政策に寄与する立場に身を置かざるを得なかった人がいるかもしれない。
それができず、今もつらい目に遭っている人もいるかもしれない。
拉致され、独裁政権下、祖国に忘れ去られた中で日本人が生きていく為にさまざまな選択をせざるを得ない状況に置かれていたのかもしれない事を充分想定しなければいけない。

我々は拉致された国の国民として、全ての拉致された日本人の帰国を望んでいる。
これは同時に、これら失われた「時間」に彼らに起こった全ての事を引き受ける事になる。
もちろん上記のことが無ければそれに越した事は無いが、我々はどんな事が出てこようともこれらを引き受ける(受け入れる)だけの覚悟をしておく必要があるのではないか。

我々日本人の多くが必ずしも米国のイラク戦争を正しいなどとは思わなくとも今もっている「豊かさ」を失いたくない、「安全」を確保したいばかりに大儀の無い政策を支持しているのと同じように、拉致された人々が独裁政権下で目の前にある現実に従わざるを得なくともそれをどうこう言えるほどのものでもない。
まして、彼らが直面したであろう現実は我々が直面する柔な現実とは比べ物にならないほど過酷な物であり、その一切が彼らの責任により生じた物ではないのだ。

曽我さんの報道を見ているとマスコミが被害者である彼らを食い物にしているように見えて心配になる。
日朝の間に入った善意の他国で、傍若無人なあのような過熱報道は異常である。
北朝鮮の随行員であろうと、それだけの理由であれだけ執拗で失礼な接触をし、間の抜けた質問をぶつけるに至っては日本の品性に関わる。
(このような報道をしているから、本来大事な「報道の自由」を失いかねないない事態を引き起こすような気がする。移譲後のイラクの検証、イスラエルの壁、スーダンの情勢等々世界が注視し,報道しなければいけない事は山ほどあるはず。)
これらを目のあたりにすると、さらに複雑な事情を持つかもしれない残された拉致被害者が明らかになったときのマスコミの興味本位の馬鹿騒ぎは想像に難くない。
イラク人質事件、被害者家族会へのバッシングに走る社会がどのような反応を示すかにも懸念を持つ。

被害者を取戻す事はもちろん重要だが、それを受け入れる日本も受入側として様々な問題に責任を持つ立場になる事を忘れてはいけないだろう。


最後に、曽我さんのご家族に1日でも早く静かで平穏な生活が戻るように願っています。

July 20, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

党の存在意義

今回の参院選で矛盾を持たずに投票できた人はどれくらいいたのだろう。
つまり、自らの思いと投票行動を一致させる事ができた人という意味である。

私には,立候補者個人を選ぶにしても所属する政党の方針でその人の主張がしっかり生きて来ると信じる事ができない。
また、政党を選ぶにしてもその政党には今やありとあらゆる立場の人が混在し、政治的理念が見えてこない。

以前首相が「わが党にはさまざまな人材が揃っている。」といって自慢していたが、これは評価すべきことなのだろうか?
人材が揃っている事自体はいいのだが、理念の違う人たちが雑然と存在しているような現状では困ってしまう。
善意に受け取れば、さまざまな立場の自民党議員が民主的な話し合いで最善の策を検討していると主張したいのだろうが,それは国会でのあるべき姿なのであって、実際に党内で民主的に決めるなどはありえないのではないか?

国会でこれを行うことと政党内でこれを行うことと何が違うか。
それは党内で行われることは必ずしも国民の目に触れるものばかりではないということ、さらに国民が評価し、選択することすらできないということ。
つまりそこには本来の民主的な手続きなどは存在しない。
いわゆる談合以外の何物でもないということ。
議論の正当性を誰も評価できず,議論の正当性で結論が出たかどうかさえ確認できないのだ。

議員クラス(党幹部以外)が出演するテレビの討論番組などを見ればそれは顕著に表れる。
党を代表して番組に出演しながら「私は(党の決定に)賛成ではないが...」とか「私は党内でこのように発言をしている」などと言った言葉が出てくることが少なくない。
ここでは個人の理屈が出せるので多少は議論になっても実際に党が出演者の意見の立場で方針を決めるわけではないので議論しても国政に反映されることは少ない。

国会でも個々の議員の意思が党内で議論した時の立場を維持できればまだ救いはあるのだが、「党議拘束」がこれを阻むのである。
これが首相の言葉を借りれば「自民党は色々な意見があっても最終的には一つにまとまる」というもっともらしい言葉に置き換えられる物の実態。
これは自民党に限ったことではなく民主党にもいえる。
つまり今向かっている二大政党制のそれぞれの当事者が同じ問題を抱えているということ。

現行憲法下での自衛隊の派遣に反対の議員は自民党内でもかなりいたはず,逆に民主党の中には自衛隊の派遣に賛成の議員もいたはず。
公明党に至っては殆どの議員は反対を主張していた議員ばかりではなかったか。
このような国家の将来に関わる重大事が国民の代表である議員個々の良識で決められずに、「党議拘束」というもので「与党」と言う「政権」維持の為に歪められてしまう実態は憂うべき事態ではないのか。

理念の元に終結していたはずの政党は、今や単なる議員生産組織となり、政策は議員生産組織の内部で「国民の目の届かぬ」ところで「何が良いか」ではない理由で決められる。
立候補者はどの議員生産組織に所属することが議員になる早道かで党を決めていくような時代がきてしまうのではないか?

特に冷戦後はある価値観(イデオロギー)が圧倒的支持を得ることがなくなった、そして直面する政治課題も多岐にわたる。
理念の元に結集すること事態が難しくなってきている。
政治の上で現在の「党」と言うものの存在意義自体がもはや失われてきているのではないだろうか?

良識ある議員であればあるほど議員自体もそのことにフラストレーションを感じているはず。
むしろ、それぞれの政治課題毎に議員が自らの信条で党を組み議論していく方が議員にとっても国民にとっても良いのではないかと思えてしまうのだ。
少なくとも国会において「党議拘束」を撤廃し「超党派」を推進する手立ては無い物か?
個人主義が成熟しない「村社会」日本で今のような政治形態を採っていてはこのような激変の世界情勢のなかでは危険極まりない。
状況の変化とともに政治形態もそれに対応する必要があるのではないだろうか?

July 18, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

大切な物の再考

先のエントリーでも触れたけど、先般の参院選の投票率に見られるように我々の「民主主義」への認識には甚だ頼りなさを感じざるを得ない。
同じように、実は我々は「自由」や「基本的人権」と言ったものも我々自身が思っているほど理解していないものなのかもしれない。
私自身がそれほど深くは考えなかっただけだと思っていたが、最近の風潮や自民党の憲法草案などを見ると、そうでもないような気がしてきた。

我々は自分の「自由」を侵されることには敏感に反応するが他人の「自由」侵すことには鈍感、自分を尊重して欲しいとは思うものの他人を尊重することには無頓着。

保障されるべきは「全ての国民の権利」であることを忘れがちなのではないか。
(世界人権宣言を尊重するならば「国民」に限定する必要はなく単に「人」でもいいと思うが)

自らの「自由」を行使することで他人の「自由」を侵すことは必ずしも保障されてはいない。
同じように「自由」を行使することで他人の「基本的人権」を侵すことは必ずしも保障されてはいない。
「自由」「基本的人権」「個人の尊厳」と云った物は「全ての人」に摘要される時点ですでに「公」がそこに必然的に存在してくるわけであり利己主義とは全くかけ離れたものである。
「権利」と「義務」で「公」が成り立つと言うよりも「権利」そのものに「公」が既に含まれている。
国家が全ての国民にこの権利を保障する立場を「厳粛に」守ることで「公」が成り立つのではないだろうか。

なぜこんな事を今回書いているかと言うと
あたかも「基本的人権」が公共性を破壊しているような風潮が出始めているような気がしてならないからだ。
さらに、個人主義を利己主義と勘違いして振舞う社会になりつつある原因を「基本的人権」に押し付け、憲法に「基本的人権」への制約を義務として明記しようとする動きもある。(自民党の憲法草案)

実は憲法の12条,13条あたりには、このように必然的に発生する「公」とは別に念には念を入れて「公共の福祉」という制約まですでにつけられている。
私には、これほどまでに「公」を意識した「最高法規」に、新たに「義務」として付け加えようとする必要性が何処にあるのかが全く理解できないのだ。
最高法規に従う「法律」や「運用」で十分対応できるはず。
この「基本的人権への制約」は不必要であるばかりでなく人類が築き上げ、世界が共有しようと努力している理念
(ある意味ではアメリカの暴走も大儀の上ではこれを早急に普及しようとした物)
への逆行ではないだろうか。
さらに、国家に対する義務がシステム(政府)に対する義務に変質する懸念も充分にある。

このように国際社会に逆行する発想が臆面も無く表に現れる背景には、これらの理念に対する国民や政治家の認識不足があるような気がしてならない。

「自由」も「基本的人権」も私が生まれたときから存在し、普通にそこにあった。
戦後生まれの殆どの人にとってもそうだろう。
憲法論議が盛んな昨今、「民主主義」に対する認識同様、これらに対する認識についても専門家に任せるだけではなく私たち国民自身が自ら検証したほうがいいのではないだろうか。

July 17, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

参院選を終えて

参院選が終った。
投票率は前回並みの56%そこそこ。
民主党の躍進ということだが、前回なみの投票数で与党と野党の獲得議員数にそれほど差がないということは野党内でのパイの争いが主流だったということになるのだろうか?
公明党自身、そして自民党への公明党の選挙協力を考えると与党を支える公明党の組織票はまだまだ簡単には崩れそうもない。
投票率という母数が高くならない限りなかなか変わらないということか。
このような状況を見ると今後も公明党が二大政党化(あまりうれしくはないが)の流れの中で常にキャスティングボードを握っていくことになりそうだ。
いつもそうだが公明党の統制の取れた選挙態勢、投票行動は目を見張るものがある。
候補者に対する当選候補の歩留まりにしても他を圧倒する。
私の親族にも熱心な学会員がいて,しかも皆仕事にも人生にも非常にまじめで他人が困っていると見ていられないと言う愛すべき人たちなのだが、私の住んでいる周りにいる学会員は人の弱みに付け込む人もいてどうしてもこの組織は好きになれない。
しかし、信教の自由が保証された日本で、国民に与えられた選挙権を有効に活用していることに対して文句を言う筋合いのものではない。
国民平等に与えられた選挙権を行使しているかしていないかの違いだけで、気に入らなければ気に入らない人たちが選挙権を行使すればいいだけのことである。
(話はそれるが、公明党の掲げる理想と自民党の掲げる理想とはどう考えても乖離しているような気がしてならないのだが...
自民党の暴走を食い止める役目を果たしてくれることを多少期待したこともあったが与党となってしまうと旧社会党同様守りに入ってしまうようだ。)

公明党はさておき、投票率56%
どうしても投票できない人がいるとしても選挙に興味を持っていない人が4割近くはいるということになるのだろうか。
争点がないわけではない,多少興味があれば与党支持者にとっても野党支持にとっても、これまで以上に国の行方を決める大事な意思表明の選挙であったと言えるのではないか。
4割近くの人は殆どが反民主主義者なのだろうか?
民主主義とて万能ではないのだからそういう人がいても不思議ではない。
しかし、目にする事ができる「選挙に行かない人の意見」を見る限りではそうも思えない。
我々日本人の民主主義に対する「認識」がこの程度であると考えた方がよさそうだ。
確かに興味のない人に無理やり選挙に行けと言っても、投票の元になる問題意識自体に興味がなければ下手に風潮に左右されて投票されるのもナチスの例にたとえるまでもなく恐い話だ。

主権者が問題意識に無関心(変な言い回しだが)であったり、政治家に責任を転化したりするようでは「国民主権」は宝の持ち腐れ、「自由」や「基本的人権」など守れはしないだろうという思いは残る。
憲法において、なぜわざわざ第12条で
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」
と謳っているかをもう一度噛み締めたほうがいい。
自由や権利はただそこにあるのではなく,絶え間ない努力で保持しようとしなければ失う性質のものだということを自由と権利を獲得した者が良く知っていたからではないだろうか?

いずれにしても選挙は終った、今回56%の国民が選んだ与野党議員の良識にすがるとしよう。

July 12, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (12) | トラックバック

明日は参院選

私一人の一票が即、国政に反映するわけではない。
一人の意見で国の行方が決まってしまうのは独裁国家,専制国家
日本は民主主義国家だから一人の意見では動かない。
あたりまえのことである。

一人・一人の票が無ければ物事は変わりはしない。
我々は民主主義国家に住んでいるのだ。
あたりまえのことである。

政治家が最も恐れるのは一票の行方に他ならない。
政治家にとっては一票が自分に入る事はもちろんだが、他に入ることも無視できない最大の関心事である。
自分にも入らず,他に入る事もなければ関心など示さない。
既得権者はなおさらのことで、むしろ現状のままどちらにも入らなければそれに越したことはなく悠々と現状を維持できるのだ。
政治家を批判するのは簡単である。
実務を行なえば全てに100点をとることなど不可能なのだから批判をするところを探すのに苦労はいらない。
その中で60点と50点の選択をすることもあれば20点と30点の選択をする事もあるだろう。
しかし20点であることを批判するだけでは何も変わらない。
20点と30点の選択意思を示すことで変わっていく。
一見すると20点と30点の選択には無意味さを感じてしまう。
しかし、この選択をしっかりしなければ次は10点と5点の選択を強いられることにもなりかねない。
関心を示すことは政治家に緊張感を与え政治のクオリティーをあげることになる。
現代の政治は多岐にわたるうえ、政党の掲げる政策すべてに賛同することができるなどと言うことは不可能に近い。
どれも似たような物かもしれないし,どれも自分の意見には合わないかもしれない。
しかし、政治家に「私は影響力を行使する」という事を投票で表明するだけで、政治家は緊張せざろう得ないのである。

せっかくの選挙権である。
今の10点と20点の選択を次には30点と40点の選択にするために、少しは政治家に緊張を与えてみようではないか。

July 10, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

首相の演説

構造改革(道路公団の民営化や郵政民営化)についての演説を聞いて。

「民営化をする事に対しさまざまな反対意見がある中,それに屈する事なく民営化を実現した。 いろいろなことを言われたが結局は民営化により建設コストを半減する事ができた。」
といっていた。その象徴的な例として
「高速道路に設置する電話機の設置コストの大幅削減(250万→40万)」
を挙げていた。

道路族と言われる利権と関わる議員がいる自民党の中で民営化をしたのだから首相はそれはさぞかし大変な事だったろう。
しかし、よく考えて見れば自民党だから苦労しただけのことで、「国民の利益」に自民党自らが負の政策を続けてあけた大きな穴を少しばかり埋めただけのはなではないのか?
さらに、不要な道路建設を無くすと言う議論がいつのまにかその成果を語るときには建設コストの話に置き換わっている。
殆どの高速道路については結局建設続行ということになる。
根となる特殊法人も中途半端ならば、天下りの問題も抜け道だらけでは本来の目的とは程遠いのが現実。
高速道路ができれば無いよりあったほうが便利なのはあたりまえである。
ただ、今やろうとしている道路建設と、国家の赤字やその財源を使ってなし得る他の政策と比較して説明して戴かなくては困るのである。
借家に住む「莫大な借金を抱える者」が生活費も省みず、返済の見通しもつかぬのに、多少建築費を値切る事ができたからといって「生活にはマイホームのほうが何かと便利だから」と購入する者を見れば普通の人は呆れるだろう。
自民党で構造改革をしようとするから「妥協の産物」になったしまったのである。
「自民党は反対があっても協力する時はする素晴らしい党なんです。」といった言葉が何処から出てくるのか不思議でならない。
ここで出てくる「協力」は単なる「安易な妥協」であり、「実」の部分は道路族議員が取ったのではないのかな?
最近の反対勢力といわれた人々の顔色がよさそうに思えるのは私だけだろうか?
「協力がなければぶっ壊すといったが協力があったから壊す必要はない。」
という首相の言葉を聞いて、「屈しない」「党内の協力」「大人の党」とはこの程度の事だったのかと思うだけである。

参議院選挙の演説では「自民党」のよさをアピールする場だと思うのだが、「首相が抵抗のある自民党の中でいかにがんばったか」などというのはどうにもピントがずれ過ぎている。

ついでにイラク問題についても語ってました。

「多国籍軍に参加することはこれまでの活動と何ら変わりが無い。」
とのこと
多国籍軍に参加することは、日本がどう思おうと周りに対してメッセージを持っている。
日本という国はこういう国だと(イラク国民へはもちろん)世界に対してアピールすることになり、参加前と後では確実に変わるものがある。
それを、「良し」としない国民も少なからずいるから問題視している。
さらに、
「反対国の立場をとった国も含め安保理が全会一致で国連決議がなされた時に、国に自衛隊を返して意見を調整してなどといった事はできないでしょ」
「イラクの人々も日本の支援を期待しているのだから、それを無視する事はできないでしょ」
との論法
本人は嫌がっているようだが、これを「追認」といわずになんと言うのか?
難しかろうと、持ち帰らなければいけない。
このような難しい問題に直面する事が見えているから、自衛隊派遣を安直に決めるなということなのだ。
先を見据える事ができなかったのならば、はっきり言えば失政。
日本が戻るに戻れない状況になりつつある事を表わしているだけだ。
首相の言う「イラクの人々の意向」はアメリカ政府によって打ち立てられた「暫定政府の意向」であり、まだ選挙も何も行なわれていない政府高官の言動はイラクの人々を代表する言葉でも何でもない。
しいて言うならば「アメリカ政府の意向」である。
それを「イラクの人々の意向」に置き換えてしまうところは首相らしい。
確かにイラクは日本の援助は必要としているだろうが、アメリカ政府の元での自衛隊という形を望んでいるわけでもない事は再三言われている。
「イラク人の意向」に挿げ替えるのは辞めた方がいい。
彼らが自衛隊の滞在をある程度認めるのは、それ自体ではなく経済大国としての平和的な援助をこの日本に求めているからではないのか?

そのまま、多国籍軍に移行するほうが滞在根拠を必要とする手続きとしてシンプルなのは判るが、一国の理念に関わる事なのだから、煩雑であろうとも多国籍軍とは別に「暫定政府」と「日本政府」の政府間合意を取り付けるくらいの慎重さがあっていいだろう。
あまりに国家の将来に対して乱暴で,無責任すぎる。

もう1つ
「日本はあくまで日本の指揮下」
と盛んに訴えていた。
指揮下に入ろうが入るまいが首相自身がブッシュ大統領の指揮下に入っているようなものなのだから同じ事。
言葉は悪いが、このように認識している日本人は少なくは無いだろう。
何の保障にも担保にもならない。
首相にはこんな事は簡単に拡大解釈で無視するという「実績」があるのだから。


何かを為し遂げる為に「屈しない」のは結構なことだが、よい政策に対して「屈しない」事が重要な事なのであって、「良い政策」の抜けた「屈しない」だけには何の意味も無い。

とにもかくにも首相の演説はすり替えが多すぎる。
これだけのことを考えるのもさぞかし大変な事でしょう。
「グレーを白にするその努力、ごくろうさま」と言いたい。

最後に,楽しみにしていた年金について聞き逃してしまったのは残念です。

July 06, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

蓄積する思い

しばらく、仕事に追われ「心を亡くす」状態で投稿をサボってしまいました。
少しの間でも目を離すと色々な事が既に過ぎ去っている事に気付き、現代のせわしなさを実感します。
今日は思いついたまま書こうと思います。(いつもそうなんですが...)
一応イラク戦争に関連した事ですが、話があちこちに飛びそうな予感...


我々は同時にさまざまな共同体に属している。
(人が人であり、同じ時間軸の限られた空間で生きている以上、他者を無視する事が可能と考えるのは現実的ではない。必然的に何らかの共同体に属する事になる。)
家族、出身校、町内会,地方自治体、会社組織、趣味仲間、遊び仲間、国、民族etc
一口に社会といってもそれぞれに社会が存在しているといっても言い。
地域の運動会があれば自分の所属している「町」を意識して競い合いを楽しみ、仕事をしていれば自分が所属している会社の利益の為に他社と競い合う。
世界の問題を考える時は日本に属していることを強く意識し、文化を守ろうというときには強く民族を意識する。
同じように普段の生活をしていながらも、何に対して意識しているかによって、またそのとき何を重要視しているかによって「社会」の中身は変わってくる。
さらに「どの社会」に最も影響を受けていると認知しているかによっても「社会」の中身は変わってくる。
「社会」は人に少なからずの影響を与える物で、人の価値観などはこれらさまざまな社会の基盤となる価値観によって影響を受け、突然変異的にその個人が全く固有の価値観を持つなどという事はほぼありえない事だろう。
(この共同体は「社会」であったり「アイデンティティー」であったりして厳密には違うのだろうがここではあまり区別はしないで話を進めます。)

恨みを持つ場合もこれらと何らかの関係がありそうな気がする。

(個人に関してはここではとりあえず横においておくとして)
自分が属する「ある共同体」が屈辱を受ければ、その共同体に影響されている人ほど恨みは強く、共同体の存在が自分にとって大きければ大きいほど恨みは大きくなるだろう。
もともと、それほどその共同体に意識のなかった人も何かのきっかけで共同体を意識しだすと打って変わって同じような感情を持ち始めたりする。
感謝や恩といったものもそういう性質があるような気がする。

例えば会社という共同体に属し、この会社が他社に不当な屈辱を受けた場合、会社の一員であるという認識の強い人ほど屈辱を与えた他社に恨みを強く持つだろう、一方あまり会社という共同体に重点を置いていない人にとってはそれほど大きな影響は受けないと思う。
もともと、共同体に重点を置いていない人もそのために会社が倒産に危機に追い込まれ、自分の生活に大きな影響を与える事を認識し、この共同体に関心を持ち始めたら同じような感情を抱くようになる事もあるが別段不自然ではなく重点を置く位置が変わっただけで同じ事である。

旧ユーゴスラビアのように多民族を束ねていた共同体が大きな力を以って影響を与えていたならば、その中にある民族意識よりユーゴスラビア人としての意識が優先されていただろう。
そのときにはユーゴスラビアという共同体が屈辱を与えられればそれに対して怒りや恨みを持ち、違う民族という共同体の対立を超え連帯したりする。反対にユーゴスラビアという共同体が崩壊し民族を意識しだした途端、これまでの連帯は忘れ去られ、それまで陰に隠れていた対立(民族に起因した恨み)が亡霊のように頭をもたげてくる。

おそらく、日本でも愛国主義が進み国家を強く意識するようになれば、これまで棚上げになっている領土問題や一方的な歴史観なども今まで以上に無視できない物になるのだろう、さらに愛国心が強くなれば、これまでそれほど表面には出てこなかった第二次大戦で受けた米国からの屈辱(開戦に至るいきさつ、原爆投下、戦後の占領政策、さまざまな押し付け)やそれ以前、明治初期の列強から受けた屈辱ですら亡霊のように無視できないものとして大きな力を持ってクローズアップされてくるのではないかと思う。
特に日本人はこの共同体への帰属意識は非常に強い国民性(会社人間もそのひとつだし、イラクの人質事件への反応もその現れだと思う)を有しているように思われるのでいったんそのような傾向になったら非常に極端に走りそうな気配がある。
(若年層はさすがにそうでもないだろうと思っていたのだが、最近の出来事に関する意見などを見る限りあまり変わらないようで、そう簡単に国民性などは変わらないのだなと思い始めている。)

いずれにしても、一度にさまざまな共同体に属している事で、同じ「人」でも、その人の意識により現れる感情は極端に変化しそうである。

今、イラクでは米国の占領政策に一応見かけの上では終止符が打たれ暫定政権のもと、復興を目指している。
今のイラクの人たちにとって一番意識している共同体(アイデンティティー)は何だろう?
イスラム教徒である事だろうか
イラクという国家であろうか
シーア派、スンニ派やクルドといった宗派や民族だろうか

イラク戦争で受けた屈辱をどの共同体(アイデンティティー)で受け止めたのだろう。

イラク国民だけではなく中東諸国の人々の中には中東という共同体(アイデンティティー)に対する「屈辱」と受け取る人も少なくないだろう。
また、世界中に散らばるイスラム教徒にとってはパレスチナ問題と絡めイスラム教という共同体(アイデンティティー)に対する「屈辱」と受けとる人もいるだろう。

その恨みは今後いつ、どのような場面で顔を出すのだろうか。

ブッシュ大統領は、そんな事はお構いなしに自らの政策を自画自賛しイラン・シリアに目を向けているようである。
この自画自賛が彼らにとってどういう感情をもたらし、蓄積されていくかには全く興味がないようだ。
力で押さえ込むことができれば、その後には何も残らないと思っているように思われる。
おそらくこのような鈍感さが「9.11」を引き起こす要因ではないかと思ったりするのです。
(日本にも自画自賛し、利権や保身と国益を混同した鈍感な人が一名いるような気もするが...)
どのような社会も結局は人の集まり、このような部分にも、もう少し目を向けてもいいのではないか。

案の定、取り留めのない短絡的なものになってしまいました。
今日は徹夜でここまでが限界...少し寝ます。

July 04, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

主権移譲の前倒し

CPAからイラクへの主権移譲が前倒しで行なわれた。
この前倒しという措置は、主権移譲を注目の中で行うことを避けた点で賢明な策だったかもしれない。
さしあたっての大きな懸念は主権移譲と言う象徴的な日に「テロ」が政治的意味を持って行なわれることだった。
主権移譲の日に「同時多発テロ」が発生したならば、新しい暫定政権のイメージは発足と同時に貶められる事になってしまうところであった。
もし、この主権移譲がイラク国民の出口のない閉塞感に少しでも光を与え、不信感のなかに小さくとも「信頼」の種を植えることができれば幸いである。
恨みがその連鎖で広がるのと同じように、小さくとも「良い兆し」が次の新しい「希望」を生みその「希望」がさらに「大きな希望」を生んでいくのも事実てあろう。
連鎖は「恨み」だけのものではなく,「希望」にもあるはずだ。

世論調査で半数以上のイラク人が「これまでよりも良くなる。」と考えているという。
これまでの世論調査が必ずしも実情を現わしていなかったことを見ると鵜呑みにはできないが、それに近い数字である事を願うばかりだ。

とはいっても、実情が深刻である事には変わりはないだろう。
実際のところ、米国支配、悪い治安がこの日を境にコロっと変わるわけではない。
主権移譲後も「米軍」が前面出てこれまで同様、武力行使を続けることになれば、すぐに元に戻り、「希望」もすぐに萎んでしまうだろう。
米国人にはイラク統治の失敗は認める気運は高まりつつも,攻撃自体に対しては正しかったという者は今でも少なくない。
米国が「奢り」「欲」を捨て復興の「希望」を育てる事が唯一、アメリカが置かれている自らの窮地を救う事になるのではないか。

いずれにしても、ここ数週間の内にイラク国民が主権移譲をどう受け止めたか明らかになるだろう。
「恨みの連鎖」が「希望の連鎖」に変わっていく事を祈りながら、これからの推移を見守りたい。

ところで、日本政府はこの事を知らされていたのであろうか,もし知らされていたならば自衛隊の駐留の根拠の空白状況を作ったのは全く恥ずかしい限りで、知らされていなかったなら随分軽く扱われたものだ。

June 29, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

もう一度イラク

もうじき参院選が始まる。
イラクは政権移譲を前にして最悪の状態になっている。
選挙前に影が薄くなりがちなイラク問題にしばらく拘りたい。

サミット前に国連ではイラク復興に対して新決議を取りまとめた。
しかし、ドイツ,フランス,ロシアなどはアメリカのイラク政策に必ずしも手放しの後押しを約束したわけではない事は誰でも知っている。
言うなれば、アメリカとの関係を修復させる為に表面上の同意を示しながらも「火中のくりを拾う」ことは避けたというところだろう。
これは、アメリカのイラク政策ではいずれにしろ行き詰まるという予測がその理由の一つにあるのではないだろうか。

アメリカが「イラク政策の方針を変更する」、「イラク復興の主導権の独占を諦める」、などの変化が見られない限りはおいそれとは手を出せないと思う。
上記の国々は自国の利益,生命,財産を考慮したうえで、主権移行後のイラク、アメリカ大統領戦後のアメリカの戦略の方向性を見極めてからでも遅くないと思っているのではないだろうか?

(話はそれるが、優秀な土木技術士が職を失って困っている中で、彼らに仕事を任せれば数十分の一でできる仕事を独占しようというのだから呆れる。その資金は何処から出るの?日本などが出す復興資金?、それでまかなう事ができない時は債務をイラクが負い、その債務でイラクを抑え、石油で払わせつづけるの? 復興支援が聞いて呆れる。しかもこの思惑がイラク人にはバレバレ)

これらヨーロッパの国々に比較して日本政府がイラクの収束をどのように予測しているのか良く分からない。
日本国民の利益、生命、財産を預かる日本政府がどのような根拠と予測の上で今の米国一辺倒の政策を
続けようとしているのかが良く分からないのだ。
「イラクの安定化」だけでなく「テロとの戦い」の今後がどうなるかの予測は日本の将来に大きく関わってくる。
日本の経済、資源確保、自由貿易を左右する中東・テロ問題は下手をすると対中国、北朝鮮を想定した安全保障問題よりも差し迫った切実な問題に発展しかねない。
六ヶ国協議の枠組みができ対話の場が持たれている現在の状況では、極東での有事による国民の犠牲の発生確率とイラク問題から派生するテロによる国民の犠牲の確立とどちらが高いかといえばテロによる犠牲の発生確率のほうが高いのではないだろうか。

イラク戦争前に「パンドラの箱を開ける」事の危険性を指摘され国連での反対意見を押し切って進められた米政府のイラク攻撃が指摘通りのテロ拡散を招いている状況になっても、日本がアメリカの政策を支持するにはそれなりに現実的な現状打破の見通し、予測を持っていてしかるべきだろう。

しかし、政府からの説明は「テロに屈しない」の一言で終ってしまう。
無差別殺戮としてのテロを許す事はできないのは当然のことで誰も異論など持っていないだろう。
敢えて「テロはいけない」などといった説明の繰り返しは要らないのだ。
ブッシュ大統領の勝利宣言から今までと,これからは違う という根拠が何処にあるのか説明しないのはなぜなのか?

政府は今の不安定な状況は将来の安定の為に避けて通れない予測された過程であり何も心配など要らないとでも言うのだろうか?
アメリカ式の「テロに屈しない」政策が今のところテロを拡大しているという認識がそもそも無いのであろうか?
説明が無いから全く判らない。

アメリカでは既にこれまでの「見通しの甘さ」や「捕虜扱いの不正」は議会でもマスコミでも調査、認識し、その現実に基づいてどう対処していくかの議論も出始めている。
大統領選挙でもこの点は争点になるであろう。
ある意味で多少正常化し,権力に対する監視機能が動き始めている。
日本ではこのような現状認識や監視機能が政治の場において確認された形跡は無い。
むしろそこから目を背け、争点をぼかす事に躍起になっている。

政府与党の皆さん、国の大事をごまかして煙に巻くのはもうよそう。
前提が間違っていた事や予測が外れた事を誤魔化すのと、国が現実を無視した前提で間違いを犯さない事とどちらが大事なの?
「自らを守る」事のほうが「愛する日本を守る」事よりも大事なの?
皆さんも日本人でしょう。

日本は日本として現実を認識し、米国の「同盟国」ならば「同盟国」らしく米国にとっても日本にとっても不利益になる事には「強く換言」する選択肢があってもいいではないか?
そんな事で同盟関係が崩れるならさらに深刻な有事には役に立たないでしょう。
なぜアメリカが孤立する状況を黙視して何もしないの?
自衛隊の多国籍軍参加はブッシュ大統領を喜ばせてアメリカ国民を欺く手助けにはなっても国際社会との協調を遅らせるだけではないの?
アメリカに同調する立場をとるのなら日本はアメリカが孤立すればするほど困るんだよ。
アメリカが「非道」を繰り返せば繰り返すほど困るんだよ。
アメリカは多少孤立しても生きていけるが日本は違うんだよ。

June 25, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

連鎖の恐さ

イラクで人質となっていた韓国人 金鮮一氏が殺害されたという。
イラク戦争で日本と非常に似た立場にある韓国に起きた悲劇は人事ではない。

「イラクへの派兵はイラクの復興の為」
と言う韓国政府の声明は
「嘘をつくな、イラクのためでなくアメリカの為のものだ。」
との声明とともにあっけなく無視されてしまった。
おそらく日本がそうであるように派兵の本質は「米国の為になる事が韓国の国益になる」との判断であることに間違いはないだろう。
政治や外交の世界で通用する「言い訳」も国家に身を置かない「生身の抵抗者」には通用するはずもないことを見せ付けられる。
韓国政府も「米国の力によるテロとの戦い」を支持し「イラクのため」という「大儀」を掲げている以上、彼らがテロをエスカレートすればするほど、なおさら引くわけには行かない。
「抵抗者」はそれを見てさらに韓国に対する「敵視」を露にするだろう。
韓国政府は「抵抗者」の「敵意」が強くなればなるほど、身を守る為の必然としてこれまで以上に「抵抗者」に対して「強行」な対応をとらざるを得なくなる。
また、それが自衛の為やむなしと正当化されていく。
その力の行使が米軍同様それまでテロリストとは関係ないもの達の被害を呼び反感を助長し新たなテロリストを製造しつづける可能性は大きい。
一方で正当化が韓国人自身のテロリスト化した「抵抗者」に対する「恨み」を助長していく。
現実が要求する「必然性」を考えれば、政権担当者にとってもっとも困難な「断ち切る」勇断がない限りこのような流れを予想するのは必ずしも極論にはならないだろう。

既に連鎖は始まっている。

日本が「韓国と日本は違う」と言っても、「抵抗者」らにとっては区別する意味も必要性もない。
まず、同一視される事は間違いない。
実際に違いもしない。
我々がどう思おうと,受け取る側の意思を変えることなどできない。
そうなった時は日本がたどる道もおそらく似たような物だろう。

連鎖は深まれば深まるほど後戻りする為に必要なエネルギーは大きくなる。
小さいエネルギーで戻れる時に戻れなかったものが、より大きなエネルギーを必要とするような状況で戻る事ができるはずもない。
すでに、そうなってはコントロールの枠外となり、我々は次から次へと現れる「より過酷な現実」になす術なく翻弄されていく事だけは覚悟しておいたほうがいい。
そこには理性が入りこむ余地はない。

「連鎖」の恐さはここにある。

好むと好まざるとに関わらず今の時代と将来に我々は責任を負っている。
「無関心」も「勇ましい」も「欲深い」も選ぶのは我々次第だが、もし不幸にもそうなった時は少なくとも後世の人々に「世界の流れに逆らう事ができなかった」などと見苦しい言い訳をするような醜態だけは見せたくないものだ。
我々は自らの意思で「流れを止めようとはしていない」のだから。

アメリカ政府が「大儀」で交渉可能である国家を破壊し、大儀の通用しない「生身の抵抗者」を世界中にばら撒いたツケは反応するエネルギーを使い果たすまで続くことになるのであろうか?

June 23, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (7) | トラックバック

サラエボの冬を見て

昨夜、NHKスペシャルでイラク戦争前夜のバチカン外交、BSのアーカイブス サラエボの冬 を続けて見た。
ローマ教皇が開戦前にフセイン元大統領、ブッシュ大統領にメッセージを送っていた事はリアルタイムのニュースで知ってはいたが、実際にどのようなやり取りが行なわれていたかについては初めて知った。恥ずかしながら、教皇が過去の十字軍の間違えをあのような形で認めたことは知らなかった。

しかし、教皇の送った使者に対してブッシュ大統領が「この戦争が簡単に片がつく」と言うような事を側近に言わせたというところは忘れられない。
世界でもっとも力を持つ国家のリーダーがこれほどまで甘い見通しで戦争という挙に出てしまうことの恐ろしさを感じてしまう。
むしろ、深謀があったほうがどれほど気が楽か。
これについてはまたいつか書いてみたい。

「サラエボの冬」は冷戦崩壊後の民族戦争の難しさ,複雑さ、そして愚かさを考えさせられる。
それまで隣人として平和に暮らしていた人々が民族というアイデンティティーを「権力を握りたい政治家」達に利用され対立を深めていく構図、マスコミにより昂揚された民族意識が忘れていた歴史の怨念をよみがえらせ、隣人を殺し、家族を分断し,次から次に襲い掛かってくる「目の前の現実」の波に無抵抗に突き動かされていく姿を映し出している。
そこでは、権力を握ろうとした政治家ではなく踊らされた弱者から死んでいく。
誰しも戦いを辞めたい、でも辞めるわけにはいかない。
こちらが辞めても,相手が辞めるとは「互いに」思わないから辞められない。
何をしているか分からぬ中で「人の心」を失い、想像できない残虐行為が行なわれる。
すでに当初幻想していた民族の理想の姿などなく、大事な国土は荒廃し、多くの大事な物を失い,全てを消耗していくだけの世界。
以前「連鎖は続くよどこまでも」で同様の事をパレスチナについて書いたことがある。
一度、宗教,民族の憎しみの連鎖に足を突っ込めば、互いにぼろぼろになるまで止まらない。
おそらく、テロとの戦いもそうなのであろう。

我々日本人も同様の事が今起こりかねない崖淵にたっているのではないだろうか。
我々はそんな事は起こりえないなどと考えている。
サラエボに住むこの番組の主人公達もちょっと前までこんな事になるとは夢にも思っていなかった。
一体どんな根拠で「日本には」起こりえないと安心できるのだろう。
いつのまにか「平和」という言葉が陳腐に聞こえ始めていないか?
「平和」のような理想主義が戦争を引き起こすという意見に惹かれながら、軍隊を持つ国が軍隊を持つがゆえに戦争に突入するケースのことをすっかり忘れていないか?
今、醸成しつつある政府の「押し付けの愛国心」政策は、つい最近、彼の地で行なわれた「アイデンティティーの昂揚」とは違うとなぜ言える?
すでに、この「似非愛国心」が対北朝鮮、対韓国、対中国に利用され始め、私たちや周りの人たちの中に何かを芽生えさせ始めていないか?
両者が冷静に協力して共有できる歴史観を持とうと努力をする前に、近隣諸国の歴史観に対する反発感情が先行して来てはいないか?
特に発展目覚しい中国に対して「不安」や「不信」を募らせ始めていないか?
同様に経済的に力をつけ始め自信を持ち始めた中国でも同じように「反日」感情の昂揚傾向が見られないか?
それを見て日本人は「相手がそう出るなら我々も」などと思い始めていないか。
「中国や韓国や北朝鮮などになめられてたまるか」などと思い始めていないか?
相手も「相手がそう来るなら我々も」と思う事を想像できなくなっていないか?
勇ましくなければいけないと思い始めてはいないか?
我々の心の中にこのような感情が芽生え始めてきていたら、我々は「憎しみの連鎖」に既に足を踏み入れているのかもしれない。
現政府は法律を捻じ曲げる事にいささかも躊躇がなく,既に「目先の現実」で国の行方を決められるという前例を作ってしまっているのです。
政治家が安直に政権維持や国威昂揚の為に行った事でも、それが引き金となって渦に巻き込まれれば彼らでさえ止める事はできず、何もしなくとも勝手に「我々自身」がそれに拍車をかけて行くだろう。

「憎しみの連鎖」は「どちらが本当に正しいか」などとは全く関係ないところで、両者がそれぞれ「違う事を妥協ができぬほど強く思い込」んでいさえすれば,それだけでそこに陥る為の必要十分条件になる。

「互いに冷静に理解しようとする努力」を忘れた「こちらが正しく」「相手が間違っている」という認識の先には両者の莫大な損失が待つだけではないだろうか?
仮に紛争まで発展しなくとも、「両者にとって」不利益が待ち構えているだけだと考えたほうが良い。
目を開いて歴史や今の世界を見渡せばそんな例を見つけるのに苦労する事はない。

「サラエボの冬」は私にそんな事を訴えているように思えてならない。

June 21, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (5) | トラックバック

「誇り」を失わせるのは「政府」?

自衛隊の多国籍軍派遣が閣議決定した。
憲法上のこれまでの見解を超えての決定ということになる。

どのような法律も「事象」を事細かに全て網羅する事は到底できない。
この隙間を、最も関連のある法律、社会通念、過去の判例などといったもので埋めていく。
どうしても埋めきれない場合は新しい法律を手続きに従って決めていく。

法律の理念に問いかけ、どの法律に関連付け、解釈し、社会通念にどのように照らし合わせ、その隙間をどのように埋めるかが法治国家としての信頼性が決まるといってもいいと思う。
どの法律に関連付けるかは法の解釈によって違う事もあるであろうし、社会通念も人間社会である以上、それが何か決まっているわけでもない。
この隙間の埋め方に多くの人が疑問を持つようであれば「法治国家」の信頼性は下がり、多くの人が納得すれば信頼性はあがるといった類のものではないだろうか?
社会は法律を遵守するのはもちろんだが、人が全ての法律を遵守したからといって「安全」や「安心」が保たれるわけではなく、法律と法律の隙間を社会がどう扱うかで「安心」や「安全」が大きく左右されるのではないだろうか?(私は法律家ではないので一応?を付けておきます。)

政府の自衛隊派遣に関する一連の手続きはどんなものであったろうか?
憲法の理念に沿っているのか、憲法9条に抵触していないのか、国民の一般認識に沿う物なのか、過去の解釈に合ったものなのか、そして、もし現状に合わないのならば手続きに沿って見直しが行なわれたのであろうか。
殆どこれらを立法府で議論される事はなかった。

現行の日本国憲法が「現実」に合致しないと考え、その矛盾に折り合いをつけるために政府の解釈を致し方ないと思う国民もいる、同様に「現実」に充分則していると考え政府の解釈に反対する国民もいる。
しかし、少なくとも殆どの国民は自衛隊派遣も多国籍軍参加も「現行憲法の理念、文言」に合致していない事は知っている。
現政府のもっとも大きな罪は
現実に直面し手続きを省略して「憲法の社会通念」に反する「政府の憲法解釈」によってイラク政策を押し通した事。
ではないだろうか?

社会通念を無視すれば技術的にはどこまででも解釈を捻じ曲げる事はできる。たとえ捻じ曲げた物であろうと国会で過半数を持つ与党が「法律に沿っている」と言い張ればそれを即座に阻止できる物はない。
しかし、国民が「法治国家」としての日本を信頼する事はできないだろう。
既成事実で物事を変えていこうなどは法治国家として愚の愚である。
意識的、無意識的に「法治」を軽視し、そのような風潮に麻痺していくに違いない。

どんなに私たち自身がこの矛盾を納得させようと、法治国家として国際社会に向かって堂々と主張できるような法解釈でもなければ、法手続きでもない。
はっきり言って私は恥ずかしい。
法治国家に住む日本人として、この政府の政策決定過程に「誇り」など持てない。
国民に「日本人の誇り」を失わせるようにしているのは政府自身なのではないか?
国際社会に「誇り」を持てるまともな政治をやって欲しい。

June 19, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

悪意のない愚者

昨日と今日の違いはわかる。
あの時からずっと「昨日と今日の違い」は分かっていた。
違和感などは感じない。
それなのになぜあの時と今はこんなに違うのか。
考えるのは辞めておこう。
あの時を思い返すには遠すぎる。
明日を想像するにはつらすぎる。
とりあえず今は忘れよう。
そしてまた「昨日と今日の違い」だけを気にしながら「本当は知っていたはず」の「来るべきその時」をじっと待つ。

有事関連法案成立
「昨日と今日の違い」がまた1つ積み重ねられた。

June 16, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

「教育基本法の改○」

戦後日本は「人権」「自由」「民主主義」を教えてきた。
その結果、奔放になりすぎ社会の中で「公」を省みる事がなくなった(?)と考える人がいる。
この事態に対する危機感から「愛国心」を養おうと言う気運が以前より高まってきている。

ところで本当に「人権」「自由」「民主主義」がこの事態を招いたのか?

これは、たぶん違う。
個と公がこのシステムの中で対立するものではないことは先進国では常識的な認識ではないだろうか。

偏った教育が「人権」「自由」「民主主義」を、単語、システムといった「知識」としてしか教えず、集積された「知恵」としてこれを理解する教育が行なわれてこなかっただけではないのか?
これらを守るのがどんなに大事で、難しいかを教えていないだけではないのか?
何がこの大事な思想を機能不全に陥れるかに気づく知恵を授けていないだけではないか?

どれだけの子供たちが本当に「人権」「自由」「民主主義」を理解しているのだろう。
これらの教育を受けて育ったはずなのに
「民主主義は多数決だ」と言う認識しかない大人や
「選挙で選んだ以上は国の政策に批判などするな」と言い出す大人や
「私一人が選挙に行っても何も変らない」などとあたりまえの理由で選挙にも行かない大人がこれだけいることを見ても、とてもこれらの教育が正しく行なわれてきたとは思えない。
さらに、実務者である政治家ですらこれよりもひどい発言をしている現状を見ればなおさらだ。

「人権」「自由」「民主主義」の中に「個」と「公」の最適化を実現する知恵があることを理解しようとする前に、「公を省みなくなった」事態を「公を省みろ」と即効性のある法の力で強制しようとして持ち出したのが与党の「教育基本法の改正」なのではないだろうか?

しかし、これは副作用の大きい薬のような物だと思う。
現れた症状を一時的には抑えても、あちこちに副作用を引き起こし、生命にも危険を及ぼす麻薬のような物なのではないか?


「東京裁判」は裁判としてはこれほど公正に欠いた裁判は無いとは思うけれど,その中で明らかにされた事実には考えさせる物がある。

「愛国心」を徹底的に叩き込まれた多くのエリート軍人(将校)が,迫り来る本当の現実を知りながらそれから目をそらし、優秀な頭脳を生かせず,発言もできず、システムを維持するために「勇ましい誤った判断」を繰り返したことで、どれだけ多くの兵士や国民そして日本に損害を与えたかの記録だと思う。
いざとなった時にシステム(国家)に対する「愛国心」は役に立たなかったばかりか「強制」の弊害が前面に出てしまった感がある。
上層部とは違い多くの一般兵士は愛国心ゆえに各地で最後まで頑強だったと聞く,果たして彼らは教えられたシステムを対象とした「愛国心」を胸に亡くなっていったのか? 
「両親」「恋人」の住む「故国」の「風情」「大切な思い出な思い出」などといった自然発生的な「愛国心」を胸に死に向かって突撃したのではないかと思うのは戦後教育を受けた私だからだろうか。
東京大空襲の中を逃げ惑った両親から聞いた戦中の話、特攻隊員の手紙などを見ると、こう考えてもおかしくないと思うのだが。

すぐ極端な「戦争の話」に結びつけるとお叱りを受けそうだが、人工的な愛国心は後戻りができない分、冷静な判断を誤らせ、それこそ国益に反する結果を呼び寄せてしまいそうな気がしてならない。
9.11以降、イラク戦争前のアメリカ国民の「愛国心」は燃え上がり使命感に震え「愛政府心」と一体化してアフガニスタンを経てイラク戦争に突入した。
実際にさまざまな「目に見える思わしくない結果」が出始めた今,我々はアメリカ人がその時(今も)冷静な判断をしたと評価しているだろうか?
私はアメリカは冷静さを欠き、できもしない、やらなくてもいい手段を選んでしまったと思っている。
しかし、これは人事ではない。
この極東においても「日本から見ると」挑発的な周辺諸国の動きがいくつもある,この中でこの手の「愛国心」に火がついた時に冷静な判断ができるだろうか、抑える自信があるのだろうか?
こんな中でたとえ中国国内で反日感情を煽る動きがあろうとも動ぜず、冷静に石油採掘問題に苦情を申し入れ、理性的な話し合いで両国の利益を見出す自信があるだろうか?
より優位にたって問題にあたりたいという「政治的な駆け引き」が「昂揚した感情」で予期せぬ方向にいかぬ自信があるのだろうか?
多勢になびく国民性を考えればまず自制はできず無益な感情の対立を深めていくだけのような気がする。

「愛国心」を意図的に植え付けることにはやはり反対だ。

そんなことよりも、本当の「人権」「自由」「民主主義」をしっかりと「理解」させる教育をして欲しい。
宗教的善悪感の薄い我国にあっては、先人の知恵である「モラル」(道徳)を理を尽くして教えて欲しい。
その中から学校という小さな模擬社会で「公」の必要性を自ら気づく知恵を与えて欲しい。
「愛国心」など前面に出さずに、今ある科目の中で外国人も一目置く「日本の文化」のよさを伝えて欲しい。

「愛国心」を押し付ける事でよい社会を目指すよりも、この方が余程リアリティーがあると思うのだが。

最後に、国民の風潮がどうこう言う前に 政治家が自らその規範を示す事が先決であると戒めて欲しい。

June 12, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

我々はイチコロ

まだ野茂が近鉄にいた頃、ロサンゼルスで後半戦の地区優勝をかけて戦うドジャースを見て以来大リーグをTV観戦するようになった。(カナダに住むようになってからは当然ブルージェーズ)
あの自由な雰囲気、まばゆいばかりの芝、デイゲームの明るさ、ホットドック そして7回の"Take me out to the ball game"  アメリカンだなと思いながら観戦したことが目に浮かぶ。

時は流れて今もTVで大リーグを見ている。
しかし、以前好きだった7回が今ではすっかり重くなってしまった。
国歌斉唱は以前からゲーム前にあったけれども,それに加え”ゴット ブレス アメリカ”が歌われるようになり、これでもかこれでもかと愛国心を煽るアメリカ政府の姿がつい重なってしまう。
アメリカ国民の大好きなアメリカのベースボールで、毎回毎回歌われる効果は大きいだろうなと思いながら眺めている。

今日、私は日本ーインド戦をTVで一所懸命応援していた。
試合の前に歌われる国歌、ゴールが決まるたびに振られる日の丸、実は私はこれらに全く違和感を持っていない。
特にシンプルでデザイン性に優れた日の丸は昔から好きだった。
純粋に私が住む日本のチームが活躍し、日本チームが勝つことを願い、そのために応援する。
そんな中でTVコマーシャルが流れる。
スポーツメーカーのコマーシャルと一緒に、フレーズは忘れたけど小泉首相が出てくる自民党の「日本を考える」とか何とかいう画像が流れた。
その瞬間 自民党→憲法草案→義務化 国歌・日の丸強制 といったものが頭をよぎる。
サッカーを通じて持つ私の中の自然な「愛国心」が見る見る沈む。

「とうとう、こんなところにも現れた」

普段「愛国心」など持たぬ国民(特に若者)が唯一「愛国心」をくすぐられるスポーツの国際試合に目をつけ、さりげなく人気のある(?)小泉さんが「愛国心」をやさしく語る。
さすがに自民党は「ツボ」を心得ている。
このようなメディア戦略をこれからも続けられたら,我々はイチコロだ。
サポーターがフーリガンになる日がこなければ良いが。

June 10, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

古い自民党と社会党の集まり?

「古い自民党と社会党の集まり」

街頭での首相の演説にあった民主党を指したフレーズだ。

良く考えれば大して意味のない言葉であるが、単語の持つイメージをついた非常に首相らしい台詞だ。
「古い自民党」と言う言葉には「金権」とか「癒着」「利権構造」などといったイメージがあり、国民には大きな拒否反応を抱かせる。
首相は単語のもつ意味を田中真紀子議員と一緒に散々使い、その効果を熟知している。
「社会党」と言うフレーズは「崩壊した社会主義体制を引きずる理想主義の既に役に立たない古い遺物」の同義語である。

何気なく聞いていれば「うまいことを言う」と、またもや脳みそにイメージを植え付けられそうだ。

実際のところは「古い自民党」は、自民党内に厳然と存在し,改革という言葉の裏で益々「本当の改革」を骨抜きにし続けている。
それだけではなく「古い自民党」の思想をさらに踏み込み、今まで以上にさまざまな方面で「保守化」しているのが実態である。

一方「社会党」であるが、いまさら持ち出す言葉でもない。
党もなければ55年体制のイデオロギーも既にない。
実際は、今ある左派的な要素はヨーロッパの(以前の)自由主義諸国ならばどこの国でも普通に持っている「左派」程度の物だ。
草の根的なもの、平和的なもの、庶民的な受け皿、社会保障、自然保護などといった、あっても何ら不思議のない物ばかり。

日本の庶民の不幸はいまだに55年体制下の「共産主義イメージ」 を 「左派的なもの」と混同し、アメリカ以外のヨーロッパの政治の舞台で大きな存在感を保っている「左派的なもの」が死滅していると勘違いさせられ、的外れの「拒否反応」をもっていることだ。
我々日本人はどうやら多くが自分のいる場所を「庶民」ではない思っているらしい。
年金問題では「庶民」であることを嫌と言うほど味わっているにもかかわらず。
まったくもって、一部の利権に預かる者の思う壺である。

このような首相の「イメージ」フレーズにこれからも惑わされていくのであろうか?

ついでに思い出すといい。
なぜ総理が日本の首相になりえたか?
利権にまみれた自民党のままでは国を変えることはできない、かといって民主党では頼りない。
そんなときに「古い自民党をぶっ壊しても改革する」という言葉を多くの国民が信じたからである。
そのときに言っていた「改革」とは「社会党と古い自民党の集まり」である民主党の改革案の焼き直しにすぎなかった。

たまには原点に戻って、今回の首相のフレーズを味いながら、あの頃と今の姿をじっくり比べてみるのも悪くない。

June 07, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

できてもしない事

誰しも人を憎む事がある、人を傷つけたり殺めたいと思う事もある。
しかし
爆弾を持っていればできるが、しない。
銃を持っていればできるが、しない。
刃物を持っていればできるが、しない。
金槌を持っていればできるが、しない。
少し大きめの石があればできるが、しない。

人が見ていなければ、誰もとがめる事はできない。
しかし
欲しいものがあれば盗む事はできるが、しない。
家に火をつけることもできるが、しない。
ごみを捨てる事はできるが、しない。
信号無視もできるが、しない。
レイプもできるが、しない。
囚人を虐待できるが、しない。

相手が自分よりも弱ければ、相手をどうにでもできる。
しかし
子供を殴る事もできるが、しない
いじめる事もできるが、しない。
絞る取る事はできても、しない。
無理強いする事はできるが、しない。


人は できる側、される側のいずれの立場にも立っているからしない。
できる事はたくさんあっても、しないから安心して暮らせる。
自由とか自己責任とは別の、その基盤になる「モラル」の問題である。
しかし「直面するものは違っても、人は必ずいずれの側にも立つことになる」
という非常にシンプルな物理にも似た法則すら認識する事ができなくなった。
「しないことができなくなった」社会で不安の中に暮らしている。


国会で過半数を占めればどんなに国民が反対しようと法案を通す事ができるが、しない。
これも同じく政治家の「モラル」ではないか?
「できる事だがしてはいけないこと」 をされる気持ちはたまらない。
される側に立ついい機会ではあるが、国の最高機関でのモラルの低さはいかんともしがたい。
この社会的な影響は計り知れない。

June 05, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

なめられる国民

最近の与党の政治家の姿勢には本当に驚かされる。
国民に選挙での選択肢が無いことをいいことに...

なぜ彼らは自らの「理想」や「現実」や「妥協」を口にして国民を納得させる努力を怠るのか?
なぜ問題をすり替え口先の言葉で国民をごまかそうとするのか?
なぜ7割もの国民が反対しているような法案を無理やり通そうとするのか?
なぜ自らが正しいと思うのなら言葉を尽くして7割の国民を説得しようとしないのか?
なぜ目に見えない姑息な手段で世論を操作しようとするのか?
マスコミが正しく伝えないというなら、権力で押さえ込むようなマネなどせず、積極的にマスコミと自らの論を持って自らの言葉で対決すればいいのだ。
マスコミがそのような場を提供するのを拒んでいるとでも言うのか?
マスコミの批判に耐えることができない政策だと自ら認めているのか?
マスコミがおかしいと思ったら我々国民がマスコミを非難するからマスコミに圧力をかけるような余計なことはしないでもらいたい。
信念の無い政治家など要らないが、説明もできず、納得も得られないような信念は信念ではなくただの思い込みではないのか。
反対意見があるのはあたりまえ。
抑える必要など無い。
国全体が同じ意見なら民主主義など必要ない。
より多くの賛成を得る努力を放棄することが問題なのだ。
未成熟な世論が政策の邪魔をするのではない、納得できる政策、説明、説得が無いから世論が成熟しないのだ。
世論やマスコミとの対決や批判を恐れ国民を説得できぬような政治家は日本の為にならない。
今の風潮の先端にいる政治家に「愛国心」云々言われるのは片腹痛い。
政治家にあきれ、あきらめ、直視に耐えない態だと思っていることを理解したほうが良い。
強制されずとも我々にも国を大切に思う気持ぐらいはある。
政治家だけが国を大事に思っていると思われてはかなわない。

彼らは「国民を導くのは我々だ」と考えている。
彼らにとっては我々国民は「自由」と「身勝手」の区別もつかぬ未熟者でしかない。
国民などは信用していない。
つまり、民主主義を信用していない。
民主主義の自己責任を理解していない。
日本の将来を決めるのは政治家ではない。
どのような将来になろうとも日本の将来を決めるのは国民だ。
民主主義は国民の自己責任の産物である。
政治家の思い込みで決めた国の将来に政治家が責任など取れるわけが無い。
国の将来に責任をとる事ができるのは国民自身以外には無い。

結果的に、どんなに間違った将来になろうともである。
政治家が尊敬に値するのは、より良い方向に向かう為のビジョンを持ち、それを国民に訴え納得を得る能力があるからではないのか?
政治家は国民の指導や規制ではなく、理解を得るのが仕事のはず。
そうすることで国民も政治に関心を持つのであって指導も規制も必要ない。
さもなくばこの国の「民主主義」などという看板はさっさと下ろすことだ。

それにしても、我々国民も随分なめられたものである。

June 03, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (6) | トラックバック

一般人の妄想

荒っぽい考えだけれども、イラク戦争はアメリカの国益を宗教的な正義の価値観にうまいこと載せて行使された戦争なんだろうなという印象で見ている。
アメリカ人はイラクに自由と民主主義をもたらす事が正義だから支持している。
「国益」だけで、「正義」という裏づけが無ければおそらく戦争に踏み切ることなどできなかったと思う。
(その正義が虐待事件、大量破壊兵器の嘘で揺らいでいることはアメリカにとって深刻なこと)

一方でアルカイーダもイラクの反米勢力も「ごう慢な物質主義の異教徒の暴力」という悪に立ち向かう事を「正義」だと信じてテロという手段であろうと正当化している。

フランス、ドイツ(ロシアは良く分からない)などもイラク利権という国益をうまいこと米国とは別の見地から宗教的な「正義」と整合性をつけてこの戦争に反対の立場をとっている。

どの立場を見ても宗教的な「正義」を無視して「国益」や「利」だけで動いているところは無い。
直接の当事者たちは一神教的「正義」を基盤に人々の支持を得ているというところを無視してはいけないと思う。
アメリカ,ドイツ,フランスといった国を日本の感覚で国益だけで論じることは全くナンセンスだと思う。

わが日本は恐らく国民も政府もアメリカのイラク戦争を「正義」などと思って見てはいない。
日本的なわずかに残った道徳心(もちろん仏教、神道の影響はある)からすれば、イラク戦争を正しいことだと思うはずがない、だからといって民主主義の恩恵にあずかっている以上間違いだとも言わない。
「こちらの言うことももっともだが、あちらの言うことも分かる。」と言うような独特の感覚があるから。
「正義」だなどと言い切る感覚にはどうしても違和感がある。
たとえ,言ったとしてもそこには無理がある。

しかし、白黒はっきりさせる一神教が世界の主流であり、それに同化しようとすることが国際化だと考える日本だから国益(利)だけを判断の材料にしようとするのかもしれない。
「金は出しても血は流さない」という批判の根はこんなところにあるのかとも思う。

もしかすると、明治以降の政府はこのような国際社会に対抗する為に天皇陛下を中心とする一神教に順ずる価値観(求心力)を確立しようと試みたのだろうか。(今の自民党も)

いずれにしても、このような中で珍しく日本はアメリカ政府の政策を全面支持し「正義」を掲げようとした。
曖昧さにウンザリしている国民はこの言葉に爽快さを感じる一方で一所懸命、納得できない「正義」をいろいろな言葉を使って納得させようとする。
その姿には実に涙ぐましいものがある。

しかし、所詮付け焼刃であり、国民の感覚と「アメリカの正義」とに整合性を付けることはできない。
将来、国内的に矛盾を生み社会にも教育にも大きな問題をもたらすだろう。
このような無理をしても出てくるのはイラクの人質事件に見られるようなバッシングなどといった世界からは奇異に映る現象だけだ。
自衛隊の派遣、撤退の判断も一致した整合性が無いから曖昧になり効果も出せない。

冷戦後の世界はこの「正しさ」のバックボーンにある宗教、民族の対立が原因となる紛争が増え深刻化している。
妥協の無い宗教の「正義」と「正義」のぶつかり合いは一方的な勝利か泥沼に陥り、怨嗟を広げるだけでその解決策は見えない。

国際貢献という立場にたった場合、ただ他の先進国に同化するだけが国際化では無いと思う。
日本が無理をせずとも日本としての特徴を生かして果たせる役割があるのではないか?
日本人が言う「世界の常識」、「普通の国家」など今や紛争の原因にはなっても解決策は見出していない、そればかりか自国民さえ犠牲にしている。
(そもそも日本以外に「世界の常識」「普通の国家」などを国造りの基準にする国など無いと思うが)
先進国でありながら「平和憲法を持ち」「核兵器を持たず」「こちらの言うことももっともだが、あちらの言うことも分かる。」「国際連合を積極的に支援している」という一見のんきに見える発想を持つ日本には、今、他の先進国にはできない、国際社会が必要としている「何か」を持っているような気がしてならない。
「敢えて捨てるなんてもったいない」と思うのはただの一般人の私が考える妄想であろうか?
専門家の現実論も所詮、ろくな結果を出せないのだから大差ないだろう。

June 02, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

イラク戦争を直視せよ

実は、このblogを始める前、イラク開戦前からLycos(途中からInfoseek)の掲示板でイラク戦争への反対、自衛隊派遣の反対の立場で投稿してきた。
閉鎖されるまで投稿は続けたが掲示板の限界を感じずにはいられなかった。
そんな関係でこのblogでは敢えてイラク戦争や自衛隊派遣そのものについてはあまり直接的には書かなかった。

しかし、橋田信介さん,小川功太郎が襲撃されるというニュースが流れ、しかもほぼ絶望的な状況となった今、もう一度イラク戦争を振り返えらずにはいられない。

私は、今のイラク戦争に対する日本外交の流れは9.11後、アフガン攻撃前に小泉首相が得意のパフォーマンスから「アメリカのテロとの戦いを全面支持する」とこれまでに無く「鮮明に立場を表明した」時点ですべてが決まってしまったと思っている。
それ以降は小泉首相が自らの頑固さの為、この言葉に引きずられ続け,それに自民党のタカ派の思惑が乗っかって、引くこともできず惰性で現在に至っただけのことだと考えている。
そこには未来への予測も、思惑も無く常に現実への対応に右往左往する姿しか見えてこない。
思惑があったとしても国民をコントロールするシステム作りにいかに利用するかだけであろう。
1つの間違った決断が次の困難な現実を生み、その現実を前提に次の決断が行なわれまた新たな困難な現実に直面するという繰り返しで気がついたら岸には戻れない沖に流されてしまったにすぎない。

「過去のことをとやかく言っても仕方が無い、直面する現実に対応するしかない。」
というもっともらしい修正不能の論法はもううんざりである。

現実的な国益重視の政策をとったはずであるがどんな国益があったというのだ。
石油の確保? 北朝鮮政策の米国のバックアップ? 国際貢献? テロの一掃? 国民の安全?
何ひとつ得たものなど無い。
一体どこが現実論だというのか?
中東が不安定に陥り、イスラエルにパレスチナ難民迫害の口実を与え、テロが世界に拡散し、石油は高騰、国連の権威を貶め、国際貢献はイラク人の目に見えず、友好的なイラク国民の感情を逆なでし,北朝鮮ではアメリカが拉致家族の帰国の障害となっている、自衛隊は引くに引けずイラク人を殺すか自衛隊員に被害が出るのをただ恐れそうならぬように無策にじっと祈るだけ、一体砂の中で汗を流し命を削っている自衛隊員を何だと思っているのか?
もう1つある アメリカの世論ですら方向を変えようとしている。
いまや日本はピエロになろうとしているのだ。

これが本当の現実だ。

それだけではない、日本が全面支持するイラク戦争は その過程で多くのイラク人を死に追いやり、アメリカ兵を犠牲にし,アメリカ兵を狂わせイラク人を虐待させ、その挙句に日本人を標的にした襲撃で大事な同朋の命を犠牲にした。

イラク人の心を捉えたのは政府が厄介だと思っている高遠さんの一言と今回の橋田さん小川さんのイラク少年を助けようとした姿だけでは無いのか?。
なぜ、あれほど苦労している自衛隊員がイラク国民から期待はずれの目で見られなければいけないのだ。

まさか、アメリカの政策の失敗など予想できなかったなどというわけではあるまい。
今の事態は各国の要人も、素人の掲示板ですら多くの人が指摘していたことだ。
目の前の「一見現実のように見える偽物(国益)」に目がくらんだのだ。
現実に見えた物が実はありもしない理想で、理想に見えた物こそ目指すことが可能な現実だったのではないのか?
もういい加減にごまかすのは辞め、本当の現実を直視しても良いのではないか?
日本がしなければいけないのは世界が血を流さない為に自衛隊の撤退覚悟で他国と一致協力し、本気で米国を正気に戻す役割を果たすことだ。

May 29, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

ムーア監督

イラク開戦当時「ブッシュ恥を知れ」と行って以来何かと話題のムーア監督がカンヌ映画祭で最高賞を受賞した。
その場で
 「今では多くの米国人がフランスはよき友人で、米国に(イラク戦争は)誤った道だと言おうとしたのだ、と分かるようになった」
と述べていた。
一般の米国人が監督と同じように思っているとも思わないし、仏独露が反対したから混迷したと考える者もいるかもしれない。
しかし、1つの見方として考える意味は十分ある。
今、米国ではブッシュ大統領の支持率が最低を更新し続けている。もし、アルカイーダが言っているアメリカ国内での大規模テロが無ければさらに順調に支持率は下がっていくだろう。
(アルカイーダのテロはもはやブッシュ大統領の支持率を上げるほうに作用するというのは何とも皮肉だ。テロという物にはいつもこのような皮肉が付きまとう)
イラク戦争が間違えであったという意見もかなり世論に巾を利かせてきている。
アメリカは悪く言えば身代わりも早い、よく言えば自浄作用が機能している。
簡単に過去のことは棚に上げにして新しい世論に移行する部分がある。
あながち監督の言うことはこれから先多くのアメリカ人が感じることなのかもしれない。
一方翻ってそうなった時の日本の立場はどうなるか?
アメリカも日本を直接非難することは無いとは思うが、信頼関係が進展したかどうかは全く疑問である。
ただ,日本はアメリカに「たてつくことは無い国」というありがたい(?)称号を頂いて終わりだろう。
そして私たちはアメリカ人に
「私たちはアメリカの為に、憲法を曲げてまで自衛隊を派遣をしたのにどうして反対したフランスを信頼するのか?」
と思うのである。
実はこれこそ自己責任。
自らの信念からではなく、安直な現実に左右される者に「信頼」「友情」などという物は与えられない。
国連に多額の寄与をしている日本がなぜいまだに常任理事国入りできないかにそろそろ気がついてもいい頃なのではないか。

May 27, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

日本の政治の目指すところ

今の日本の政治の動きを見ていると、「国民」を今まで以上に規制することにより国を一定の規律の上でコントロールできるように変え、国としてのまとまりを強化していく方向に向かっているようだ。
古い言葉でいえば「挙国一致」そのものとなるが、イメージの悪い言葉なのでこのような言葉は使わない。
しかし、色々な法案を見ればその下地造りが着々と進んでいる事が良くわかる。

住基ネットの導入
教育現場での国旗,国家の教養
有事関連法案の通過
憲法改正

さらに、これを具現化するために
「国際協調」を掲げ自衛隊を派遣することにより憲法改正気運の演出
「北朝鮮問題」を取り上げ危機意識を盛り上る
「テロには屈しない」を合言葉に国内の強制権力を強化
年金問題ですら,それを利用し「住基ネット」の必然性を訴える
自民党憲法調査会が自民党憲法改正草案を発表する。
等々。
一つ一つは必然性を伴っているように見えるが並べて見ると実に一貫した流れを持っている。

特に憲法調査会の草案は憲法に義務を盛り込むところまではっきりとその姿勢を示すところまで踏みこんでいる。
このプロジェクトチームの会長は憲法改正の手続きに関して
(1)総議員の「3分の2」を「2分の1」に引き下げる
(2)総議員の3分の2以上の賛成があれば国民投票を省略
(共同通信)
[4月1日20時15分更新]
とまで記者会見で言っているそうだ。

「今の日本人は「自由」「権利」をいいことに何でもありの世相になってしまっている、このままでは混沌とした世界の中で、国家として存続していくのは難しい。」
と考えていることはほぼ間違いない。

確かに、
我々は情緒に流され本質を見失いがち。
マスコミもそれを助長。
国内でも犯罪が多発し、モラルも低下。
我々国民の政治への関心も低く投票率も最悪。
個人主義の変わりに利己主義がはびこる。
このような風潮では混乱した世界情勢で要求されるすばやい意思決定ができないと思うのも無理からぬ事なのかも知れない。

つまり個人を尊重した「民主主義」も「自由」も「国民主権」も我々日本人が十分我が物とせず、憲法にあるように「不断の努力」で守るべきものということすら忘れていることが背景にある様に思う。

皮肉なことに、このことはイラクの人質被害者、拉致被害者家族に対する国民の批判を見ても良くわかる。
個人を尊重した「民主主義」「自由」「国民主権」を基調とすれば、このような現象はよほどのことが無い限り起こり得ないと思う。
国民の中から「国の出した方針に従うのは国民として当然、政府を批判するのは間違っている。」として国内の反対意見を押さえつける意見が出るところなどは、どう考えても民主主義の持つ自浄効果を否定するものにしか見えない。
反対意見が存在しない民主主義など無いだろう。
守るべきは集約された最終結果である法律であり、この法律の範囲で反対を唱えるのは民主主義を守るためにはむしろそれは義務であるはずだ。
個々のさまざまな意見を集約することに意味があるのに、その意見を画一化してしまったり、放棄してしまってはまともな民主的な政府などできるはずが無い。
国民自身も「民主主義」「自由」「国民主権」にはウンザリしているのだろうか。
意識しているかどうかは別にして我々日本人は「社会が個人に規制をかけてもらうことで安心感をえる」のかもしれない。

円高の頃、他の先進国から「日本は世界で唯一成功した社会主義国家」という意見が出たことを思い出す。言い当て妙である。
「民主主義」「自由」「国民主権」という言葉は当然のように使っているが、我々が意識してはいないだけで実態はこのようなものなのかもしれない。

いずれにしても、このような国を目指すなら、自民党はまず最初に、「自由民主党」と言う名前を変えることからはじめたらいい。
そして堂々と
「日本人にあった政治は民主主義でも自由でも国民主権でもない、現実を良く知っている我々に全権を与えてくれ,けして悪いようにはしない」
と主張して行けば言い。
この世相からして、国民から少なからず賛同を得られるのではないか?
但し,個人主義を基盤にする先進国からはますます離れ、国際感覚とやらは今以上に鈍っていくとは思うけれど。


May 26, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (3) | トラックバック

連鎖は続くよどこまでも

フランスでユダヤ人の墓地が荒らされる事件があった。フランスには以前から反ユダヤ的な傾向があったと言うがアメリカのイラク戦争、パレスチナでのイスラエルの殺戮の影響かと思われる。この傾向はイラク、パレスチナでの混迷が深まれば深まるほど強くなりそうな気配がある。ドイツにもいまだにネオナチが存在し今後これらに触発されないとも限らない。どこまで恨みの連鎖が続いていくのか?

軍隊の復活を願う人々の意見に「平和主義者が戦争を招く」というものがある。
緊張感があれば互いに牽制し合いバランスが保たれているので戦争は起きないが緊張感の欠如が隙を生み、其れがこのバランスを崩すというものだ。
実際に戦争の発端になった事も確かにある。

しかし、それだけが戦争の引き金ではないであろう。
そのようなきっかけで先端が開きそれが拡大したことが少なからずあったというだけではないのか? 
それ以前に互いの不信感があり、緊張感を維持しよううとする事により薪が積み上げられ、最後に薪の見張りを怠って火を付けられただけの話ではないのだろうか?

冷戦が強大国ソ連と米国の軍事バランスのうえに成り立ち平和が維持されてきたことも間違いない。
しかし、キューバ危機に見られるように一歩間違えば簡単に崩れてしまう性質のものだった。
キューバ危機を回避できたのは結局のとこと「お互いが破滅を望んでいない」という真に単純な事をぎりぎりのところでやっと理解できたからである。
それまでは「相手は滅亡しても攻撃しかねない」と本気で互いに思っていたのである。
(今、我々が北朝鮮に持っている感覚も同じかもしれない。)
回避できたのは、ただの幸運だったのではないのか。

ベトナム戦争でも同じだ。何年か前に当時の米軍の指導者とベトナムの指導者がそれぞれ相手をどのように見て戦っていたかを検証したNHKの番組があった。
実にばかげた誤解があれだけの死者を出したのである。
(ベトナム戦争当時はベトコンは自由主義諸国民から見れば危険極まりない存在、つまり今風に言えば悪の枢軸だったはずだが、彼らがアメリカに負けず存続した事で世界は危機に陥ったであろうか。)

ところで、イスラエルは建国以来、常に周辺国と緊張を持ちつづけている。
自らの民族の存続をかけ軍備を整え、其れを行使する事をためらわず妥協も許さない。
自らのアイデンティティーを保とうとする闘争だ。
緊張を和らげる事無く、周辺諸国、パレスチナ難民との闘争を続け多くの自国民、周辺諸国民に犠牲を出し、今もその闘争は続いている。
軍隊を持ち、最高の諜報機関を持ち、緊張を持ちつづけていても紛争は続き、平凡に見える生活のすぐ後ろに死を抱えている。
パレスチナ難民にもアイデンティティーがある以上次から次へと戦士が出てくるだろう。
戦う事により民族の誇りと、尊厳を保っている彼らは幸せなのだろうか。
そう思い込む事で自らの死に意味付けをするしかないからそうしているだけではないのか?
彼らはそこから抜け出したくても、恨みの連鎖は断ち切れないなかで生きているのではないのか。

アイデンティティーや宗教が対立軸になりつつある今の世界では、相互不信の連鎖に陥ったら、そこから抜け出すのは至難の業である。理性の入り込む余地のあるイデオロギーの対立より更に性質が悪く、長く未来にしこりを残す。
チェチェン、アフリカ中部、旧ユーゴスラビア、そして今の中東情勢はそれを私たちに教えてくれる。

私には、隣国を仮想敵国にしたままの安易な再軍備はそこへの「入口」にしか見えない。
それとも、民族の誇り、尊厳を保つために敢えてそこに足を踏み入れるのだろうか。
「無間地獄へようこそ」


May 23, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

日朝首脳会談

日朝首脳会談が終りました。
家族会の方々には大変な失望だったでしょう。
長い間、政府にも世論にも黙殺され続け、前回の首脳会談で初めてその真実が表に出た。
それ以来、その生死も判らず日朝交渉も進まず何を思いながら生活していたのでしょう。
やっと今回首相が再訪する事になり、今度こそ新しい真実が判るに違いないと大きな期待も持っていたはずです。
しかし、それが叶わなかったのです。
「最悪の結果だ」「裏切られた」というのは彼らの心からの叫びだと思います。
彼らにとってはまさに「最悪」なのです。
他の拉致家族の再会という喜ばしい事がある中で「最悪」という言葉は奇異に聞こえるという意見も見られますが,2家族の再会に対して使った言葉でないことは明らかであり、その事は再会を果たした2家族が一番理解している事だと思う。
政治の一部分としてしか拉致問題を考えない我々の立場と生活そのものが「拉致事件」そのものであった彼らの立場とはまったく違います。
社会は彼らが感情的になろうが、政府を非難しようが、彼らの立場を想像し、受止める必要がある。
家族は、気の済むまで徹底的に総理を非難すればいい。
北朝鮮を金正日総書記をとことん非難すればいい。
それだけの権利がある。

国の理想と現実の狭間で泥をかぶるのは政治家のしごと。
理想をかなえるために最善と思える妥協をし、その責任を負っていくのが宿命なのだから。
国民から最善の妥協をしたと思われれば支持され、そうでなければ支持を失うだけのことだ。
今日の首相の言葉を見る限り首相にはその覚悟はもっているように見られる。

私自身はたとえ全員でなくても家族が再会を果たし、たとえ食糧支援、医療支援が弱腰に見えても日朝国交正常化交渉再開のめどが立ったことは評価したいと思っている。

他の政策を考えれば自民党も総理も支持するつもりなどないが、これはこれで評価したい。
交渉の場があればこその拉致被害者救済だと思っている。
交渉の場で筋を通すべきことは筋を通せばいい。
(安倍幹事長の発言を聞く限り自民党にはかなり不満があるようなので思うとおりに事が進むかは疑問ですが)

とことん追い詰めれば、早い時期に北朝鮮の体制がすんなり何の混乱も無く北朝鮮の一般国民にも周辺国にも被害を出さずに崩壊するならば日本の原理・原則を貫き通せばいいが、私はそのようなことが実現するとは思わないからそう思う。
少しずつ六カ国協議の枠組みに組み入れ、他国からの情報、物資、システムが浸透して行けば体制も変わらざるを得ないのではないかと思っている。
ベトナムはアメリカを追い出し、我々の望まない共産主義の国家が続いたが、だからといって世界の脅威にはならず今では国際社会の立派な一員に変貌している。
とても変わらないだろうと思えたソ連東欧圏がどのように崩壊していったのか?力で崩壊させたわけではない。
イラクやパレスチナのように互いの猜疑心による力と力,恨みと恨みのエンドレスのチキンレースを極東に持ち込む必要は無い。たとえ北朝鮮を崩壊させることができたとしても、好むと好まざるとに関わらず、そこに住む人々がこれからも隣人でありつづける事に何ら変わりは無いのだから。

May 23, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

イラクの影で

イラク問題の影に隠れてパレスチナでイスラエルが暴走を続けている。
アメリカのブッシュ政権が言う「テロリスト」という免罪符を掲げ殺害を繰り返し、とうとう抗議のデモに攻撃を加えると言う暴挙に出た。
テロリストの定義は「武器を持たないデモをする一般市民」にまでひろげられたようだ。
家を壊し、レジスタンスを殺害し、一般市民を蹂躙する。 イスラエルは自らが憎むべきナチのレベルに成り下がってしまったのか。
ブッシュ政権の「民主主義のためには一般市民の犠牲が出ようと仕方が無い」という姿勢を逆手にとっているように見えてしょうがない。
ブッシュ政権は今のイラク情勢を肯定する限り、イスラエルを正面から否定などできない。イスラエルは其れを見透かしている。
しかし、世界の人々(一般のアメリカ人を含め)がイスラエルの殺戮を見て単なるテロ対策の一環などとは捉えないだろう。特にイスラム諸国の反発は想像に難くない。
イスラエルの暴挙がエスカレートすればするほど、ブッシュ政権が掲げる「武力によるテロの撲滅」の矛盾を世界に見せ付ける事になる。
イスラエルの行為を敢えて「国家テロ」と呼ぶつもりも無い、流行の言葉を使わなくともそのまま「国家による無差別殺戮」でいいだろう、そして其れはテロに匹敵、またはそれ以上の憎むべき行為であるとそのまま定義すればよい。
大量破壊兵器を持ち、人々を迫害、無差別に殺害する姿はアメリカがイラクを攻撃した大儀と何ら変わるものではない。
ブッシュ政権は一方でこれを攻撃し、一方でこれを擁護する矛盾をさらけ出して、どうしてアメリカの正義を世界が認めることができると思っているのだろうか?
どうして、アメリカを世界の警察だと認識できると言うのか?
もうだいぶ前になるがパレスチナ人の家を壊そうとする重機の前に立ちはだかって亡くなったアメリカ人の女性のことが忘れられない。これこそが本来のアメリカ市民の持つ正義ではないのか。
イスラエルの市民やアメリカの市民に人が持つこの正義を取り戻して欲しい。
最後に、私たちが選んだ日本政府がこのブッシュ政権の方針(イスラエルの口実)を「全面支持」している事を忘れてはいけない。
追記:20:00に文章を少し修正。慌てて書きすぎましたので。

May 20, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

何かおかしい

「年金問題をめぐるごたごたを見ていると民主党の政権担当力はまだまだ。」
思わず納得してしまいそうだ。

「自由民主党のほうが1枚上手だ。」
これも今の小泉政権のしぶとさを見ればフンフンとうなずいてしましそうだ。

何となく「おかしさ」を感じがしたのでチョっと考えてみた。
管代表の辞任劇に始まりその後の党首選出にいたるまでの戦術のまずさ、まとまりの無さは、確かに失望感を与えるに十分。政権を奪取しようとするチャンスに後手に廻るようでは、仮に政権を手に入れたとしても野党(自民党がその位置にいるはず)を抑えて政局を運営できるか。といったところか。
その点、自民党は同じ(もしくはそれ以上)未納者を出しながら、党として未納者を公開せず、公開した議員も主に法案通過後に公表するという形をとり、民主党ほど目立たなかった。
結果として自分たちの法案を衆議院で可決するという目的を達成できた。
実にしぶとい。

でも、やはりおかしい、自民党(政府)が達成した目的とは何なのか?
議員も国民も納得などしていない欠陥だらけの法案を力任せに押し通しただけの事である。
自民党が1枚上手とみる我々は実際何をしたかよりも押し通した力に魅力を感じているのか。
政党を評価するポイントは内容ではないようだ。

年金問題だけを取り上げるのも不公平だ。
それでは、イラク問題ではどうだろう。
これまで、誰も口にする事さえ憚れた憲法問題をこれだけ国民的話題にまで押し上げ、自衛隊派遣という離れ業を為し遂げた。
ここでも力技が発揮されている。
実際のところは、もっとも現実的に障害の少ない、一番「簡単」なアメリカの後追いを選択したに過ぎない。
さらに、開戦前から、多くの人が指摘していた通りの混乱状態にあるのを見ても分かるように、どんなに取り繕うとも「見通しを誤った」事は間違いない。
イラク戦争のこれから先の見通しも政府からはついぞ聞かされる事は無い。
一方で国内の統制造りを着々と進めているだけである。
しかし、ここでも我々は、憲法改正論議に見るように何となく持っていたフラストレーション「憲法の枠」を打ち破った力に魅力を感じているようだ。
拉致問題ですら結局は2国間協議となりイラク戦争に賛同しても脱走軍曹一人の赦免すら渋られる
国民の「損」になるものは生み出しても「益」になるものなど「今のところ」何ひとつ生み出してなどいない。

これだけでもまだ不公平かもしれない。
国内ではどうか。つまり「改革」だ。
目玉は道路公団。
自民党内(もちろん官僚もそうだが)に反対勢力がある中での民営化が可能になったのはやはり力技。
しかし,考えてみれば党内に道路族などがいる事自体が本来おかしい。
少なくとも他の政党ならばこの点は最初からクリアーされている。
実はこんな事は評価されるべき事でもなんでもないのだ。
それではそれ以外の実質的な中身はといえば高速道路の建設にも見られるようにまったく中途半端なもので当初の目的からは程遠い。

年金改革はご存知のとおり。

郵政民営化もまだ海の物とも山の物とも判らない。

形やイメージでは何かを打ち破ったように見えても、実質的に評価できる事など殆ど無い。

民主党の政権担当能力があるかないかは、本当のところ判らない。
しかし、今の自民党程度の事はできるだろう。
悲しい事だが、変な癒着がない分、何もしなくとも今よりよくなりそうだ。

「政局を操ったり」、「党利党略」などといった物に「政治」そのものが翻弄されるから何も変わらないのに、「政局を操ったり」「党利党略」に長けていないから政権担当能力がないと判断する我々も相当におめでたい。

日本は不況下の閉塞状態にある。
変化を求める。
古い物を力で壊す事には快感を感じる。
壊した後に何が作られたかは検証せず重視もされず忘れ去られる。
実はろくなものは作られていない。
スタイルは問われても中身は問われない。

May 19, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

同朋を守る

小泉首相が北朝鮮を再訪する事になりそうです。
拉致被害者の方のご家族が無事帰国し、まだ残されたその他の不明のままの方の調査が進む事を願います。

彼らは2つの国の面子の狭間で、どんなに苦悩しただろうか。
本音とはどんなものなのだろう。
拉致される前の日本を知っていて、それからの日本を知らず、突然帰国した彼らの目に日本社会はどのように映っているのだろう。
どんな事に喜びを感じ、どんな事に不安を持ち、日本の北朝鮮への感情、北朝鮮の日本への感情をどのように見て、この2国間の関係がどうなって欲しいと思っているのだろう。
イラクの人質被害者に対する日本の反応を見たときにどのような印象を持ったのだろう。
日本のマスコミの扱いをどのように思ったのだろう。
アメリカのイラク戦争に日本が全面協力する姿勢をどのように見ているのだろう。
本当は、いろいろ聞かせて欲しい事がある。

しかし、もし、少しでも北朝鮮寄りな事や、日本(政府や社会)の批判につながる事などを口にしたならば今回イラクの人質の方のような目に遭いかねない。
また、あまりにも日本寄り、北朝鮮の批判のような事を言えば家族がどのように扱われるか判らない。
結局、私たちはこの貴重な視点からの意見を伺う事は当分の間難しいと言う事になりそうだ。
また、彼らの生活を守るためにも知りたくてもこちらから強要するような事があってはいけないと思う。

今回、首相の再訪により、ご家族が帰国されるような事になっても、北朝鮮で生まれ北朝鮮で育った家族の気持ちをどのように受け止め、つなぎとめ、どのように普通の生活に戻るかを考えれば、これからのご苦労は大変なものだと思う。
政府にはどうか、何の罪もない被害者がマスコミ、風潮に傷つけられないように守ってあげて欲しい。
まして、政治や外交に利用するような事は絶対に無いように願いたい。
私たちも興味はあろうとも「そっとしてあげる」ことが同朋を思う日本人としてのありかたではないだろうか? 
これも日本を愛する事の一つだと思う。

ただ、いつの日か語れるときが来たら、その複雑な立場からの視点で何を見たかを私たちに伝えていただきたい。

May 17, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

政治家の特権

今回話題になった議員年金をはじめ、議員にはさまざまな特典が用意されている。
日本の政治を担う我々の代表が国の事に専念できるようにするためには本来必要なのかもしれない。
少し前に問題になった秘書給与にしても、国会議員が政治活動をするためには秘書と言う存在が必要なのは当然だ。まして今の時代のように複雑化した世の中ではまともに政治をしようとすればするほど、勉強すればするほど政治家として知らなければいけない情報は膨大になるのだからなおさらだ。
しかし、今の政治家がそれらの特典を本来の国民のための政治に正しく使っているとはとても思えないので政治家を一般国民の位置まで引きずり下ろしたくなる。
まじめな政治家には全く気の毒な限りです。
これは実は国民にとっても不幸な事で、わが身を粉にしてまじめに政治に取り組もうとする政治家に失望感を与え、ほかの不実な政治家の仲間入りを助長する事にもなってしまうからだ。さらに、政治家を務めることができるのは資金力が有り、後援者があるごく一部の人種に限定されると言うことにもなる。
資金力があり後援者があると言う事はそれらの利益を代表する議員しか生まれない事を意味するわけで、ますます一般国民からは離れていってしまうのも当然なのです。
このようになる事はわかっていても我々国民も、マスコミも彼らを非難して特典を全て取り上げたくなってしまうほど酷いのです。

でも政治の世界だけが特別と思うのは違うのではないかとも思うのです。
私たちの身辺 地域、会社、自分自身に不実に目を瞑る習慣が身についていないか。
私も「現実」という免罪符でどれだ不実に目を瞑り、不実を自らもしてきたことか。
政治にだけ誠実を求めるのは虫が良すぎる。
政治は私たちの姿が反映しているだけで、突然変異でもなんでもない。
不実は新たな矛盾を生み、その矛盾はまたそれ以上の不実を生む。
本当は誰しもが知っている厳然とした「現実」なのに現実論者はこの「現実」からは目をそらそうとする。
そろそろこのあたりを転換しないと、さらに過酷なこの「現実」のしっぺ返しを待つだけではないか。

「不実をすまい」などと言うと今のご時世「偽善者」のレッテルを貼られかねない。
しかし、偽善者と言われるのを恐れて不実に同化し、誠実であろうとする者まで偽善者呼ばわりして貶める姿は誉められた事ではない。
欧米人に接触する機会が多い人は、欧米人が平気で自分の事を棚にあげ正論をぶつけてくるす姿に辟易する事はしばしばだと思うが、過去を引きずりすぎて今正しい事を素直に肯定できない我々には少しは自分の事を棚に上げ偽善者(他人が言うだけの事だが)になる事も必要なのではないか。
人は完全なものではない、間違いを起こす、その間違いを修正しようとする機会を奪わない寛容さが自分に対しても他人に対しても今必要ではないか。(もちろん修正しようとしない政治家に寛容であれなどと言うつもりはない)
私はキリスト教徒ではないが「人はもともと罪深い、許しを請うて、悔い改める」姿勢に「寛容」であると言う知恵(クリスチャンではないので敢えてこう言わせてもらいます)には共感を持ってしまいます。(ブッシュ大統領にも思い出してほしいものだが)

話がかなり脱線しましたが、今の実情を見て、大事な国の仕事をする政治家が優遇されても誰もが納得する政治、社会からどんどん離れていく現状を目にして、ついこのような取り留めのない事を書いてしまいました。

May 10, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

菅代表、閣僚の首どちらも要らぬ

どうも、年金問題はどこに向かっていくのか分からなくなって来た。
そこで、原点に立ち返り、私の年金に対する「怒り」とは何なんだろと考え直してみた。

年金の杜撰な運用で大きな穴をあけたこと。
杜撰な徴収で納付率の低下を引き起こしたこと。
その責任がうやむやなこと。
給付額が納付額よりも低くなるような制度を強制されること。
まさにこの瞬間も無駄を生み出しているかもしれない仕組みに踏み込もうとしないこと。
それを置き去りにして、安直に値上法案で済まそうとする姿勢。
政治家自身が認めているシステム自体の欠陥の見直しを先送りすること
国民の年金の法案を作成しようというのに自らの年金の支払い状況すら気にかけぬ無神経さ
年金自体を他人事として考えているから、核心には踏み込もうとしないのではないかという不信感
年金問題が参院選の駆け引きに利用されていること。
ますます国民は年金離れし、制度そのものが瓦解しかねないことに対する危機感のなさ

書いているうちに「怒り」が増してきそうなのでこの辺にしよう。
ところで、怒りは横において、私がして欲しいと思っている事は何だろう。
たくさんあるけど次の2つに絞ってみた。

過去はともかく現行のシステム(組織的な)の無駄の調査、効率化
  今すぐできなくとも効率化の道筋を明確にし国民が納得できるビジョンを示し公約する。
  さらに、将来責任追及を可能にする為に責任の所在を明確にする。
選挙がらみの問題先送り法案を白紙に戻し、一元化、消費税の導入等に関して再検討する。

いずれにしても「とりあえず今は」 ではなく 
「将来こうする、そのためにこのように変えていく、だから今こうする」 といった安心できる根拠「ビジョン」が欲しいと思っているのです。

あくまで私事で書き連ねただけですが、問題がそのままで、政治家が役職を辞めて「あーこれでよかった」で喜ぶ国民は少ないと思う。
よくよく考えると「怒り」はあるけど、このまま責任追及などにウツツを抜かしていると肝心の年金問題はうやむやになるばかり。
福田官房長官が潔く辞めようが、菅代表が党首の座に固執しようが、閣僚が厚顔無恥にも自己弁護に終始しようが、肝心の年金問題が煙に巻かれてはかなわない。
それこそ、安直な法案でうやむやに済ませたい政治家の思う壺だとおもうのだが。

May 09, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

官房長官辞任、その後は?

官房長官が辞任を表明しました。
まじめな官房長官らしい辞任だったと思います。
この辞任はイメージ的には好感や同情をもって受け止められそうな気がする。
恐らく今後論点は
・民主党の菅代表の進退
・他の閣僚への波及
しかし、これらの意見は他の人に任せて、
私は
「本来の争点である年金問題がどのように変質していくか。」
推移に注意したい。
その前に、勝手に皮肉を込めた予想してみようと思う。馬券を買わなければ競馬もつまらない。(大穴ねらい)

知らず知らずに、怒りの矛先は民主党菅代表(次が鳩山全代表)に、それに乗って若手議員が騒ぎ出し民主党ごたごた党内議論白熱、マスコミもそれに一役かってたきつける、その間政府自民党、閣僚への飛び火を恐れてじっと静観、熱い民主若手議員がほえる中、民主に向いた視点がずれぬよう自民さりげない民主批判で大人を装う、次の争点(イラク、北朝鮮拉致問題)まで耐えしのぎ機を見て視点をすり替える。 そして先送り年金問題そのままに国民の怒りは徐々に沈静。
閣僚の未払い問題はどこ吹く風、かくして民主党のふがいなさだけが印象付けられ、イラク問題すら争点とならず、民主党に失望し投票率が低い中、公明党の組織票で参院選自民党圧勝、またしても争点なき選挙で国民してやられたり。
首相にっこり

書いていていやになったが、予想がおお外れになることを期待しつつ見守る。

May 07, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

イラク戦争と日本人の本音

我々はイラク戦争でアメリカが根拠としている「正しさ」に対してどんな見方をしているのだろう。
日本人の我々からするとどうしても心のどこかに「独善」「偽善」を感じてしまうのではないか。
今の形で自衛隊を派遣することに賛成という人の中で純粋にアメリカの「正しさ」を信じるから賛成だという人はどの位いるのだろう。
私の知りうる限りではそんなに多いようには思わないが,違うだろうか。

一方、支持率は低くなってきたとはいえ,いまだに半数を占めるイラク戦争を支持するアメリカ人は本当に正しいと思って支持しているのだろうか?
中にはアメリカの利権を上げる人もいるでしょうが、私は日本人が思う以上にアメリカ人にはアメリカが正しい事をしているから支持しているという人は多数いると思う。

前置きが長くなりましたが今回は別にアメリカの正しさそのものを議論するつもりはありません。
人質問題により巻き起こった日本での反応から、イラク戦争に対する日本とアメリカの意識の違いが如実に読み取れるなと思い、その事を書こうと思っています。

人質問題に絡みパウエル国務長官の言葉が話題になった。
人質を誇りに思うべきという部分だけが注目されているが、一方で日本が送っている自衛隊についても同様に誇りを持つべきだと発言している。
私は,この発言を聞いたときにまず感じたのは アメリカの立場では「もっとも」であり「一貫」しているなということだ。
アメリカは虐げられていたイラク人を解放しにリスクを犯して正しいことをするためにイラク攻撃に踏み切り、犠牲を出しながらもイラクの治安維持に努めている。という立場に何ら矛盾がない。
さらに、それは国といわず個人といわず「リスクを負っても正しいことをする」事を是としているところは誠に筋が通っているのです。(これは政府高官だから特別なのではなく、支持する一般のアメリカ人も同様だと思う)
まさに形の上では湾岸戦争で話題になった「血を流す」(日本は金を出しても血を流さないといわれたアレです)そのもの。

さて,これに対して日本の反応はどのように分析したらいいのでしょう。
首相はアメリカを全面支持を表明している。
つまり上記のアメリカの正しさに賛同したからこそ国民全体がリスクを負うことになっても国際社会に正しいことをして貢献するために自衛隊を派遣したのである。(そのはずである)
しかし、「またイラクに行きたい」という言葉に対する答えは「あれだけ危険な目にあって,まだそんな事を言うかね」です。(正確じゃないけど歪曲はしてないと思う)
この発言はイラクに対する考え方がアメリカのそれとは根本的に違うことを意味しないでしょうか。
(ちなみに,この点で家族の態度うんぬんという理由は入りこむ余地はないと思う。)
首相だけでなく,非難したマスコミも、国民も意識の底では「リスクを犯しても正しいことをしている、するべきだ」等とはもともと思っていないと分析するのは間違えであろうか?

最初にわざわざアメリカが正しいから支持している人は少ないのではないかと書いたのはこのような理由です。

ここまでは、違いがあるというだけで、それ以上でもそれ以下でもありません。
もともとあった日本の政策決定の矛盾がひょこっと顔を出しただけです。

しかし,日本人の本音がどのようなものであろうと、日本は世界に向かってアメリカの「正しさを」全面支持を表明し,そのように認知されています。
ひょこっと出した顔の意味は結構重いのではないか。
このような問題に直面しリスクテイカーを非難し、飛行機代云々,税金云々と金勘定する姿はまさに「日本人は金を出すが血を流さない」姿勢そのもの、世界に向かって、隠していた本音を露呈してしまったという気がしてならない。

May 06, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (2) | トラックバック

日朝協議と参院選

今北京で日朝協議が開かれています。
しかし、このタイミングは何でしょうね、もっと早くできなかったのだろうか。
参院選前のインパクトとしては十分です。
逆にいうとこの時点で日朝協議が開かれる以上はある程度の勝算があるのではないかと思い少し期待しています。
北朝鮮側もアメリカが拉致問題を正式にテロとして取り上げた事への危機感、中国からの説得 等がありこれまでとは違う姿勢を打ち出す可能性もある。
選挙前に争点をずらすのが首相の常套手段ではあるが、もし家族が帰国することになり正常化交渉が軌道に乗るようならばそれはそれで評価しなければいけないだろう。
しかし、それに目を奪われすぎその他多くの国内外政策に対し正しく評価する事も忘れてはいけない。
何はともあれ、拉致問題が一刻も早く解決され、日朝国交正常化交渉が軌道に乗ることを祈るばかりです。

May 05, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

愛国心と愛政府心

前章で書いた「個」と「公」の公に関連して愛国心について取り上げてみました。
愛国心の「国」とはなんだろうか?
若い頃は「愛国心」と聴いてすぐ連想したのは「軍国主義」
(ちなみに「共産主義」と聴けば「危険思想」)
典型的なステレオタイプだったのを思い出します。
政府の悪口を言うときは決まって「国は~」を使い
「国」=「政府」という考えにそれほど疑問はありませんでした。
疑問をもち始めたのはアメリカやカナダに住んでからでしょうか。
かなり多くのアメリカ人が自分の国を愛していると臆面もなく口にする事に気づいたときです。
自分の国をこれだけ愛せるなんて幸せだな、なぜ日本人には国を愛することに抵抗感があるのだろうと考えたわけです。
そのときは歴史的背景から「愛国心」に抵抗感を持つ自分は不幸だな程度にしか思っていませんでした。
しばらくして気が付いたのは彼らも愛しているはずの国の事を平気で批判していた事です。(戦時下の今はどうかわかりませんが)
ただし、たいてい批判するときは「governmentは~」という言い回しを使っているのです。
(まあ、これは私が接してきた西海岸の人たちの話ですのでアメリカ人全体が同じかどうかは判りませんが、カナダ西部でもそれほど違わなかったのでそう思っています。)
つまり愛するアメリカ(またはカナダ)と批判するgovernmentは違うとの考え方があると感じたのです。(そんな事当然と言う人もいるでしょうが)
愛する自分の国(自由、民主主義と言う理念そのもの)の為にgovermentを批判する。
海外にいながらこの点から「自分は本当に日本を愛していないのか」ということを考えたのです。
考えてみればオリンピックを見ても日本を応援し、海外で日の丸を見るとほっとし、日本の文化が誤解されればムキになって反論したりしてるのです。
アメリカ人が自らの「自由と民主主義」に誇りを持ち、必要なときにその運営を任している政府を批判し、選挙で修正していく姿が私の新しい愛国心像になったと言うわけです。(もちろん新しいステレオタイプでしょう)
だから、私は国連でそしてイラクで民主主義を蔑ろにしているアメリカ政府のブッシュ政権には猛烈に抵抗を感じますが、アメリカ国民の自浄作用はどこかで信じているところがあります。(甘いかな)

少し話がそれましたが、そんなわけで愛国心とは何も政府を愛する必要など無く私が住む国の文化、人々、そして理念を愛す事ができればいいと思うようになった次第です。だから国内では公は日本であって政府ではない。政府が間違ったら国を守るために必要ならばしっかり選挙に参加し憲法にあるように不断の努力をもって自由と民主主義を守っていけばいいと思っています。

愛国心は愛政府心ではない。
公は国であって政府ではない。
政治家が年金を払っていなくても国を愛そう!
政府が自分の理想と違う政策をとっていても国を愛そう!
愛する国を不断の努力で守るために自分の信条(右でも左でも上でも下でも?)を持って選挙に行こう!

が憲法記念日の今回の私の固定概念でした。

最後に自由、民主主義は好きですが日本独自の理念ではない気がします。以前は世界に類を見ない「平和主義」が日本の理念としてはいいなと思っていたのですが、わが国民は現実に鑑みて軍隊を持つ普通の国がいいみたいです...
これからの日本の理念とは何なのでしょう?現実主義?

May 04, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (4) | トラックバック

「個」と「公」

しかし、本当に今回のイラク人質事件はいろんなことを考えさせられます。
「個人」「公」に対する我々日本人の意識もその一つです。
どうも今回の政府、マスコミ、国民の声を見てみると「公」が「個」に優先する傾向があるのだなと。
そんな事はあるのだろうかと実際に法律上はどうなのかと憲法を見てみると

第3章 国民の権利及び義務 
[自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
〔個人の尊重と公共の福祉〕
第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

となっており、この中の
「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
「公共の福祉に反しない限り」
と言う部分がそうさせているのかなと推測します。

ここで、「公共の福祉」が何をさすかと言う事になります。
ちなみに広辞苑 第4版では
「社会構成員全体の利益。基本的人権との調和が問題視される。」
となっています、ご丁寧に問題定義までされていました。
もっとさかのぼってGHQ草案では「一般の福祉(general welfare)」となっており、これは明治憲法下で「法律ノ範囲内」となっていたところをわざわざGHQ草案で修正したもので、それが一般的制約原理としてそのまま同じ意味で「公共の福祉」として採用されたらしい。
そして、広辞苑にもあるように基本的人権との調和は今も議論が続いているところと言うのが一般的らしい。

とすると、今回の人質事件で「国の警告に従わずに迷惑をかけた」「国政に口を出した」と言う事で 人質・および家族を非難した政治家、マスコミ、国民は
「国民が選んだ政府の施策」は「公共の福祉」
「ボランティア活動」は「公共の福祉」ではない

と考えている、もしくは潜在的にそのように認識している。と言う事だろうか?
特に最初の考えは憲法に当てはめるといささか怖いものがある。
12条は
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に政府の施策のためにこれを利用する責任を負ふ。」
13条は
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、政府の施策に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」
と言う事か?。
政府の改憲案とはこのようなことなのかと心配になる。
民主主義の優れたシステムの一つに自浄作用がある。
人が作ったシステムである以上、政治にも間違いはあるはず、状況が変われば方向を修正し国民全体が、間違った方向に行かないためのフェイルセーフが民主主義だと思う。
しかし、上記のような解釈ではフェイルセーフとなるべき反対意見は一般的制約原理の範囲外ということを意味しないか?
つまり動き出したら修正の効かない暴走列車になってしまうということです。

恐らくこのようなことまで意識して非難している人は少ないとは思うが、無意識にこのように思っている人が増えていると言う事は意識している以上に怖い事である。
もちろん「国民が選んだ政府の施策」は「公共の福祉」として非難しているのではない人にとっては関係の無い話ですが。

May 03, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック

掲示板の「ウヨ」「サヨ」論争

5月1日にEUが拡大し、巨大な経済圏ができて世界の勢力図が変わろうというときにイラク関係、人質関係の掲示板では「ウヨ」「サヨ」論争。大丈夫だろうか?
大体いくら市民運動の裏に社民・共産のあったとしても、いまどき誰がそのような政治的思想に傾倒するものがいるというのだろうか。
(そもそも人質を政府・社会が矯正してやろうなどという発想は本来ならば、社会民主的だよね)
いずれにしても冷戦時代の化石で論議してもしょうがないでしょう。
反戦、国防、親米、反米、国際貢献、北朝鮮問題いずれも他国でも議論があるところだと思けど、このような対立軸で議論しているところなどほとんど無いと思うよ。
北朝鮮、中国への警戒というところなのでしょうが2国とももうイデオロギー的には崩壊したり、変質してとてもイデオロギー的な影響力など無いわけだから。
「ウヨ」にしても純粋な憂国の右翼が自衛隊を派遣したからといってもろ手を上げて対米追従路線を歓迎しているとも思えない。
それなのに全ての帰結を「ウヨ」「サヨ」に置き換えようとする一部の投稿は滑稽としか思えません。
戦後、冷戦下長い事、野党は社会(社民)共産が定番だった為政府の反対は社民共産(サヨ)という固定観念ができているようだ。「ウヨ」はまだ化石ではないけれど、「サヨ」発言に触発されまともな国防論議を「ウヨ」として片付けてしまっているのも理性的とは思えない。

イラク戦争そのものを見たときにどこに「サヨ」のようなイデオロギーの入り込む余地があるのだろうか。
最も関係ありそうな北朝鮮の脅威にしても、いまや北朝鮮がイデオロギー的に共産主義だから脅威なのではなく、独裁主義で世界から孤立していてなにをするかわからないから脅威なのではないか?
人質問題にしてもそう、人質問題を共産社民が利用しただけでイデオロギーなど関係ない。
社民共産が支援したからといって市民運動や反戦運動そのものをイデオロギーを背景にした反動的な運動だなどと帰結したら世界の先進国はあきれるでしょう。
人道援助、市民運動、反戦運動、国際貢献、ボランティアなどは皆欧米思想の基本的な部分ででつながっているのです。
「ウヨ」も「サヨ」もイラク問題、人質事件、北朝鮮においては本質ではないのです。
せいぜいイデオロギー抜きの「サハ」「ウハ」程度にしてほしいものだ。
今の世界の対立軸は 民族、宗教、経済。
いつまでも大事に55年体制的発想を持ちつづけても世界から孤立するだけです。
イデオロギーの対立軸などは早めにごみ箱に捨てましょう。 

May 02, 2004 in 経済・政治・国際 | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック