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2009/03/06

定額給付金(2)

定額給付金の是非が議論されていた時点では少なからずの国民が非を唱えていた。
しかし、給付が決まった時点では多くの人がそれを受け取ると答えた。

これは、おかしなことだろうか?
私はまったくおかしくはないと思う。
その2つに整合性を求めること、つまり、「非を唱えていたのだから受け取るべきではない」とする論法はいかにも形式的な気がする。
いや、そこに自ら整合性を求める人がいてもいいし、そして、そのような人をみて個人的に(一般化せずに)「良いなこの人」と思うのはいいが、受け取る人がいてもそれは普通のことで別にそこに何の不都合も感じないということだ。
あえて個人的に言うならば、そこに自ら整合性を求める人がいたならば、その人には是非何らかの人をまとめるようなリーダーなりになってほしいなとは思うかもしれない。

逆に、同じ整合性でもその人の公的マインドでは定額給付金を「非」と思いつつも、(もらえないよりはもらったほうがいいという当たり前な)私的なマインドと整合性をつけるためには「是」とするしかないなんて整合性のとり方があったらこれはやばいなと思う。(もちろん、もともと公的マインドから定額給付金を是と思っている人が給付金を受け取ることに異を唱える人はいまい)
これでは人の中に「公的マインド」の居場所は無くなる。


定額給付金の是非はマクロな問題であり、給付金を受け取るというのはミクロな問題だ。
マクロ(より公的)なだれもが一様に拘束を受ける「一般化(法制化)」を議論することと、それが決定しミクロ(より私的)な其々に事情(切実さ)を抱えた個人が給付金を受け取ることは別の問題だ。

ミクロな個人というものは常に生きるための切実な環境にさらされているのである。
その環境も事情も人によって千差万別で切実さの度合いもまるで違う。
だから、どのような最適な(マクロ的な)一般化(法制化)がされても、その「一般化されたもの」と「個人の事情」の間には必ず何らかの不合理が生じるのであり、その生じ方も度合いも様々。
マクロな一般化が全てのミクロな要素に適合的であることはありえない。
マクロな一般化は全体の最大幸福を求めるものであり、ミクロな事情は個の最適化の問題だからその間に完全なる整合性は無い。
ただ、人はミクロの最適化だけを求めても、様々なミクロが其々に勝手にそれを求めれば、最適化どころの話ではなくなることを知っているからマクロなマインドも同時に持っている。
というよりも、その両方のマインドを持っていることを前提に成り立っているのが民主主義であり、現在のシステムなのかも知れない。
互いの関係性を考慮に入れれば矛盾があるわけではないのだけど、形式的には多くの場合は対立的で非整合的なものを内に抱えている。

おそらく、そこからミクロなマインドを排除(ミクロをマクロに整合付けしてしまう)してしまえばきっと全体主義になるだろうし、マクロなマインドを排除(マクロをミクロに整合付けしてしまう)してしまえばきっとそこには秩序は無いだろう。

そのような関係性を考慮に入れず、当たり前のように内在する「形式的な非整合性」に「形式的な整合性」を強いることには私はむしろ大きな危うさを感じる。

とはいってもよりマクロな公的立場にあれば、その役割にある限りにおいて、ミクロなマインドに抑制的であることは当然求められるとは思うけど・・・。

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定額給付金(1)


定額給付金が国会を通過して各自治体が対応に本格的に動き出した。
ある意味、国の財政が苦しい事を考えると将来の税収を先取りしただけのように私には思える。

しかし、今回の給付金が起爆剤になり、景気回復の「きっかけ」になれば「先取り」は「先取り」でも悪いことではない。
景気回復に効果的かどうかの予測が是非の分かれ道になるのだと思う。

私自身は「他の使い道」に比べて「効果的ではないだろう」と予測するから未だに賛成とはいえない。

いずれにしても、通過した以上は「このタイミング」での「他の使い道」は永久に実現しないので、結果がどう出ようが、その結果によってそれを評価することは難しい。
もし、何かしらの評価を可能にするのなら、この政策で「如何程の効果」が期待されるのかを前もって試算し、公表でもするしかなかろう。
そのようなことが無い限り、どんなに効果が無くても、「この政策を採らなければさらに景気は悪化していた」ともいえるし、逆にどんなに効果が出ても「他の使い道を採用していればより効果があったはず」ともいえる。
試算があれば、その試算の根拠を分析することができ、党派的な事情も浮き彫りになる。

あの政策とこの政策のどちらがより妥当であったかということは検証のしようも無いが、政策が当初期待した効果を上げたのかを知ることはそれだけで十分有益なデータになるだろう。
将来的な予測精度を上げることにもなると思う。

予測はどんなに精密に予測しようと「不測の事態」は発生するものだ。
まして今回のような世界的不況は予測を立てるのに参考にすべき信頼の置けるデータがそろっているわけではないのでなおさらだろう。
だからといって、「確定しない未来のことを予測するのは無益である」とするのは飛躍のしすぎだ。
それが無いと政策には何の根拠も必要なくなり何でもありになってしまう。

賛否両論は世の常であり、そのような賛否両論も、いずれどちらかを選択せざろう得ない。
だから、私がどんなに納得のいかない政策であろうと、その政策が採用されることも当たり前のように起こって良いことだと私は思うし、私が「こちらが良かった」という政策との比較評価も「水掛け論」や「後出しじゃんけん」にしかならないだろうとも思う。
しかし、「ある現状認識をして、それを根拠に予測を立て、妥当なアクションをとり、結果が出る」という一連の流れ自体は「政策を立案した者たち」の間に閉じた共有された価値観のレイヤー内で捉えることができる事態なのだから評価は可能なはずなのだ。
それを明らかにすることは政策を立案し実行するものの最低限の「誠意」であり「義務」なのではなかろうか?

そのような「不測の事態」をあらかじめ織り込みながらも、今できる最善の予測を立てる努力は必要で(人事を尽くして天命を待つ)、それを評価できる指標を残す仕組みも必要なのではなかろうか?


まだ、起こっていないことを試算して公表することは当然それが達成されなければ非難される材料を残すことになるのでリスクを伴う。
具体的に日本の政党政治で言うならば、敵対する政党に非難の口実を与えることになる。
でもこれは、相互的でありさえすればよいことであり、マニュフェストが次第に当たり前のようになってきたのと同じように、それが普通のこととして常態化すればいいだけのこと。
そして、今の日本を見れば、「不測の事態」をまったく考慮に入れないヒステリックなマスメディアの格好の餌食にもなるかもしれない。
これは、根拠や試算の好評が常態化すれば「不測の事態」も考慮に入れざろう得なくなるだろう。

試算や予測を予め公表して評価の指標を残すためにはクリアしなければいけない環境の成熟も同時に必要になるのだとは思うけれども、今のままでは政治に合理性は望めない。
国政は日本国内ではもっともマクロな領域(システム)である以上、国内のミクロなどんな問題よりも合理的であることが求められる。
マクロなものは、それがマクロであるというだけでミクロには様々な不合理を押し付けるのである。
それだけになおさらのこと「最大幸福」がなされるように「合理的」に「一般化」されなければならない。
政治家に自分の個人レベルや党派レベルのミクロな事情でマクロな仕事をされてはミクロな国民は不幸になるばかり。

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