邪悪だよ・・・ホントに
今年も9.11がやってきた。
毎年、この日が来て、イラクの状況やテロとの戦いの進捗を振り返りながら、そこに全く変わらない状況を確認することを繰り返す。
引くに引けないって言い続けて、それが続く中で死傷者の数だけが増えていく。
イラクの民間人の犠牲者はイラクボディーカウントによるとすでに7万人を超えると言う。
これには民間人以外の犠牲者は含まれないのだろう。
それらを含めると一体どれだけの犠牲者を出したのだろう。
今年はアフガニスタンの状況も確認しなければいけないことだけが去年と違う。
出口が見えないのに「引くに引けない」
これもまた「観念」なんだよな。
「支配したい」「支配されたくない」「秩序を維持したい」「秩序を破壊したい」「守りたい」「排除したい」・・・・・・・・
このうち、どれ一つとして成就しないのに、していないのに、する見込みも無いのに延々とそれを求め続ける。
誰もが「する」事を断念したら「される」立場に追いやられることを確信している。
あるべき元の姿があったならどんなに良いかとも思うが、立場によってそれは違ってしまう。
誰かがどこかで我慢をして、その我慢を我慢して信じる事ができない。
さまざまな欲望やそれを補強する観念や理屈や信心が人を殺していく。
「観念」によって人が殺されていく。
邪悪だよ・・ホントに。
イラクから米軍が撤退したら、治安を回復しようとして米軍に(国際社会といっても良いけど)協力的だった人々は裏切り者扱いされるのだろうなぁ。
とか
テロリストは「勝った」といって「自信」を持ち勢いづくのだろうなぁ。
とか
彼らが勢いづいて中東の石油供給システム・市場が崩壊すれば「経済」は崩壊するだろうなぁ
とか
その崩壊を防ぐ勢力に力を貸さないとシステムが崩壊しなくても、「経済」の恩恵は受けられないだろうな
とか
まだここにはありもしない色々な「悲劇」や「私の不利」が次から次へと、あたかも現実にそれがすぐそこに有るかのように想起され、想像力逞しくイメージされたリスクをヘッジしようと総動員される。
「降りたら負けよ」のチキンゲームを繰り広げて、そのゲームが続く間、皆が負け続ける。
負けているつもりは無くとも、「負け犬」と人々を蔑みながら、人は不安に駆られ、監視され、動員され、奪われ、運が悪ければ命を失うのだから負け続けているんだよ。
一体何を守りたいのだろう・・・私たちは
勝ちを望んで、負けてはいけないと必死に何かにしがみつきながら・・・負け続けているんだよ、誰もが・・・
「いや、誰かがきっと得をしている。」って言うかもしれないけど、その時点で、もう負けているんだよ「本当に大事なものを守ること」に・・・きっと
皆がいっせいに言えれば良いのにね「い~ち抜けた」って
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コメント
数々の戦争をはじめとして、人を殺しあう事象(歴史)の背景には、必ず「(人間の)観念」があるのではないでしょうか。そしてその観念には少なからず”自身が被害者となることへの怖れ”その裏返しとして”自身が勝ち続けたい/勝ち続けられる存在でありたい”という感情・願望が含まれているのではないでしょうか。
それは昨今の殺人事件にも通じているかと思います。
人々ひとりひとりが観念を制御することは易しくないかと思います。
また「一抜けた」とすることは、自身がそのコミュニティから身を引くことにもつながることであり、そもそもその意思決定が出来るぐらいなのならば、”自分が被害者となる恐れ”“勝ち続けたい”といった感情・願望からも自由になれる意志の強さを十分秘めているのではないか、とも思われます。
その一方で、人々の観念の強さや、感情・願望の強さが、数々の発明やコミュニティのシステム化といった形で、人間をここまで成長・進歩させてきた原動力であるとも言えるかと思います。
人の殺し合いを生み出す要素は、必ずしも常に悪とはいえないのかもしれません。むしろそれらが表裏一体となっている「人間」という存在をどうとらえるべきか、そして更なる未来のために、どう接していくべきか。そこに思索を深め、かつ自らの属するコミュニティで深めた思索に基づいて何かを実行していく、その繰り返ししかないのではないか、と私個人は感じる次第です。。。
投稿: Chuck | 2007/12/02 10:15
Chuckさん コメントありがとうございます。
しばらく自分のblogから距離を置いていたのでコメントが遅れてしまいました。
「いち抜けた」は「皆いっせいに」が無いと確かにコミュニティーからの逸脱になるでしょうね。
ついでに言えば「皆いっせいに」を戦略的に企てれば、そこには全体主義や独裁がぽっくり口をあけていたりしますよね。
そしてそれが難しいから耐震偽装、食品偽装、企業隠蔽、いじめ、身内をかばう偽証など最近話題のシステム疲労も後を絶たないのでしょうね。
これらを内部告発したり、正直に証言したりすることはまさにコミュニティーからの逸脱であって、裏切りなんですよね。
水俣問題なんかにしても当初は被害者達のコミュニティーからするとチッソを告発することはコミュニティーからの逸脱だったわけで。
結果的には、多くの場合コミュニティーやそのコミュニティーが属する外郭のコミュニティーのシステム疲労を防ぐ役割を担うことになるのだけれどもその当事者は冷遇されたり、冷遇のうちに忘れ去られたりするのも現実ですよね。
それが難しいこと、不合理であることは現実であるけれども、一方で、これらリスクを背負ってくれるごく一部の人によってシステムは支えられている事もまた現実なのだと思います。
その意味で、全体がそうであることを強いるのは危険だと思いますが、個人的には「いち抜けた」には(自分にも他人にも)ある程度寛容でありたいなと思っています。
今起きていること(現実)は全て整合的(整合性は現実によって検証されるから当然なんですが)なことだから、基本的にはそこには何の齟齬も無いんですよね。
どんなに悲惨なことでも、起こるべきことは起こり、人以外の何者も悲惨であるか平穏であるか(苦しいとか楽だとかetc)などに気を止めることは無いんですよね。
ただ、「人が」その整合的に起こっている現実を好ましく思っているか思っていないかなのだろうと思います。
どんなに思い・情緒を排除して冷徹に考察しようとしても、どんなに無表情に合理的に行動しようとしてもその基点には人の思いが観念に包含されていて、この時点から既に観念的なのだから、人が(情緒を含んだ)観念的であることは避けられないと思います。
Chuckさんが言われた
「むしろそれらが表裏一体となっている「人間」という存在をどうとらえるべきか、そして更なる未来のために、どう接していくべきか。」
私もそうなんだろうなと思います。
「諸刃の剣」ですよね。
それ以前の歴史には無いほどの急激な進展を見せた特異的な近代の「発展」「成長」「進歩」の概念を踏襲して、未来の「発展」「成長」「進歩」をそのまま規定・肯定することが妥当なのかどうかは分かりませんが、違った方向性を持った「発展」「成長」「進歩」(もしかするとこれまでの概念からすると一見すると「後退」に見えてしまうもの)が生まれるにしても、その基点にもまた観念があるのだと思います。
ただ、私はこのような問題に対して「囚人のジレンマ」のように誰も望まない状態がある観念によって引き起こされてしまうことは率直に憎んでおきたいし、そのことがバランスや修正に必要な微小ベクトルになるんじゃないかと思っています。
根本的な思考転換によって信頼ベースの時代でも来れば「囚人のジレンマ」などはあたりまえのように「なにそのばかげた現象は」って事になるかもしれませんが、私が生きている間は「囚人のジレンマ」にとらわれる不信(懐疑)ベースは変わることも無いでしょうから。
投稿: FAIRNESS | 2007/12/05 11:14