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2007/09/23

高齢者虐待

「高齢者虐待1万2600件 在宅者が大半」
こんなニュースを目にした。

そこに

「虐待被害者の8割が女性で、半数が80歳以上。家庭での加害者は、息子や夫が多かった。」

などと言う記述があったので、「在宅で母親を介護をしている息子」としてはなかなかスルーできるニュースではない。

一般化した話は専門家や他の人に任せるとして、私の場合のことについて少し書いてみたい。


私が母を介護するきっかけになったのは脳梗塞であるが、その影響で認知症も宣告され、そのような症状も現れた。

介護の当初、私にも「苛立ち」がムクムクと湧き上がった時期がある。

何に苛立っていたのだろうと今考えてみると
「できるはずのことができない」
「するはずの無いことをする」
「こちらの話を理解しない」
等だったと思う。

これらは皆、「以前の母」と「今の母」との間にあるギャップだ。
以前の母こそが母であり、今の母は本当の母の姿では無いという思いだったのだろう。
それは喪失感であり、悲しみを伴った「苛立ち」だ。
(でもそんな簡単な理屈で言えるものでも無いのだが・・・)

「なんでオムツに手を突っ込んで、そこいらじゅう汚物だらけにしちゃうんだ」
とか
「なんでオムツに手を突っ込んじゃいけないって事を理解してくれないんだ」
とか

そんなときにオムツに手を伸ばそうとする母の手を反射的に止める私の手に無意識のうちに必要以上の力が入る。
その手を反射的に叩いたりする。
そして、思うのだ。
ひょっとしてこれは虐待なんじゃないか・・・と
そう気づいて、自分を責める。
それがまた、苛立ちの元になる。

きっと、そんな苛立ちを母も感じ取っていただろう。
そうすると母もすねる。(瞬間的な感情に認知症はあまり関係ないのだろう)
その結果現れる母の反応もまた苛立ちの元になる。

苛立ちのスパイラルのようなものだ。


社会生活や仕事をしているものには「時間」や「手間」にはどうしても制約がある。
そして、様々な振る舞いも、理性により制御している。
でも、母にとってはそんなことは関係ない。
そんな「時間」や「手間」に囚われた私にとってはそれを阻害する母の行為は(私にとっては)反社会的ですらあったわけである。(笑)
これは、社会と介護者を抱える家族とのギャップでもある。

私の場合、そんな色々なギャップが苛立ちにつながっていた。

だから、ニュースにあるような「虐待」を生む状況を痛いほど想像できてしまう。
そして、社会のあり方はそのようなギャップを狭める方向には向かっていないだろうなと言うことも・・・


今は、殆ど苛立ちを覚えることは無い。
以前と同じようなことを母がしても、「しょうがねぇーな、おふくろさんは」と笑っていられる。
むしろ、無邪気な母の顔を見ると不機嫌が癒されることすらある。

おそらく、「以前の母」と「今の母」を結びつけなくなったのだろう。
どちらかを切り捨てたのではなく「以前の母は以前の母」であり「今の母は今の母」であると割り切りはじめた。
そのように「仕向け」続けていたら、そうなった。
そうしているうちに、心持ち母も穏やかになったように見えるのがまた不思議である。

私も人間なので「完全に」と言う訳にはいかないが、母に関して「合理性」を諦めた。
時間をとられること、手間がかかることは「損」であるという合理性を諦めたら穏やかになった。

これを「損得」で見れば、きっと損だ。
聖人ではないので今でも、時々「損」を意識することはある。
でも、そんな風に思っていたときは心は苛立ち、そうでない時は穏やかになるのだからきっと良かったんだろうな。
これから先も、同じように穏やかで居られるか?・・・それは分からない。(私自身歳を取るし、仕事のこともあるし)
外から見て「損な生き方だ」と見られるのも、正直言って「痛い」が、周りの反応を私がどうこうできる訳でもないので、それは仕方が無い。
でも、それで苛立つ訳でもないし、それを考えても答えが出る訳でもないからね。

ニュースに出てくる「虐待」の事例は、きっとそれぞれ皆環境が違うだろうし、症状も違うだろうが、今のところ私の場合はこんな感じでなんとかしのぐことができているようです。

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コメント

おはようございます。
ううう==ん。
何と言っていいのかわかりません。
以前FAIRNESSさんが、お母様の笑った無邪気なお顔を見ると癒される、、と言う記事を拝見したことも思いだしながら読ませていただきました。
お母様もいお優しい方とは思いますが、FAIRNESSさんのお優しさ、自然さが伝わってきました。

投稿: せとともこ | 2007/09/23 09:46

瀬戸さん こんにちは
本当は、このあたりのことは文字にしても伝わらないところもあるので書くことに躊躇はあったのですが、ニュースを見てつい書いてしまったので思い切って「保存」ボタンを押してしまいました。
お恥ずかしい・・

ただ、このニュースを読みながら、ここで使われる「虐待」という言葉を、日ごろ使う「虐待」を当てはめて抽象化してしまうと救い上げられずに澱のように溜まっていってしまうものがあるんじゃないかって気がしたのです。

多分、子育てにも、先日愚樵さんのところで問題になった医療問題にも関係してくるのでしょうね。

健康で日常生活を十分送れる人にとって良かれと思って作り上げてきたシステム(常識もそのうちの一つだと思いますが)はその人たちにとっては良くても、子供や高齢者にとっては厳しい世界なのでしょうね。
システムが高度になって複雑になればなるほど、そのシステムとその前提をまだ持っていない子供やそれを失いつつある高齢者との間にギャップを広げていってしまうような・・・

子供が自由に遊ぶと危険だったり迷惑だったりするシステム
高齢者が徘徊すると危険だったり迷惑だったりするシステム

彼らを一定の型にはめて「管理」しようとする衝動や、管理しようとしてもそのように都合よくはいかない事への苛立ちが、そうせざるを得ない今のシステムには生じやすいのだろうなんて思っています。

そうかといって、危険や迷惑をシステムに頼って回避すればしようとするほど、結果的にさらにシステムを複雑にしてしまって、その複雑なシステムを管理維持するコスト自体のほうが大きくなってしまったりして・・・

瀬戸さんにはしかられそうですが、だから、内田さんの書かれるようなことにも惹かれるんでしょうね(笑)

投稿: FAIRNESS | 2007/09/23 22:34

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