« アフガンとイラク | トップページ | 邪悪だよ・・・ホントに »

2007/09/11

日本の原則

日本の国内の世論を変えたいと思うときに「国際社会の常識」などと言う言葉が使われる。
そしてこれが意外に効果がある。
どこかに一様な「規範」があると仮定し、それに従うことにそれほど抵抗感を感じない。

日本の規範意識が常に外(世間とか)に置かれがちであることを考えると、いかにも日本的だなと思う。(関連エントリー:「内なる公共心」)
さしずめ、「国際社会の常識」は日本版「世間」の世界版のようなものだ。

国際的であろうとする手段が、日本的になるところが面白い。

とはいっても、間違えない事においてはそんなに悪くもないだろうし、日本が今の位置にいることができるのも、このような外への気配りにあるともいえるので、生存戦略として見ればそれは日本の強みなのかもしれない。

しかし、先進国としての「貢献」とか「責任」とか言うものを考えたときにはやはり、日本は日本なりの原則を意識しておく必要があると思う。
自ら決めたと言う意識が無ければ「責任」なども意識はしない。
(ついでに言えば、多数があるからといって強引に押し通した法案が国際的な約束のようになってしまっても、自ら決めたと言う意識を共有していなければ「責任感」などうまれない。だから手続きが重要なのであり、手続きへの信頼も重要になる。)

私はこの「国際社会の常識」と言うのは「結果」だと思っている。
国際社会をリードする国々がそれぞれの国の国情の最適化を計った結果の集まりのようなものだと思う。
それぞれの国にそれぞれの特徴や事情、制約があり、それら原則と協調のための妥協の結果現れるものだと思う。
結果として現れた「形」は常に「仮説」のようなもの。

だから、形(表層)は常にその前提の変化に伴って変化していく。
大元に共通の何かを持っていても、その手段は変化するし、国情によっても、現状認識によっても変化していく。
その変化は追っていくものではなく、それぞれの国で「生まれる」結果が集まって変化として現れる。

イラク戦争にコミットしていても、状況が変われば、たとえ大元に共通するものを共有していようとも自らの判断で撤退もするし、アフガニスタンへのEUのコミットメントもそれぞれの国情が変化すれば撤退することもありえるだろう。

政府や財界がいう「国際社会からの評価」も、そのときにはまた違ったものになるだろう。


地理的な違い、歴史の違い、さまざまな違いがある中で、それぞれがそれぞれに「良い」と思うものを原則としながら、協調のために「最適」を求めて妥協していく。
でも、原則が無ければ「妥協」という概念すらも成立しない。


ただ一番気にかかるのが日本の「原則」がいつのまにやら、その結果である「国際社会の常識」とか「米国との同盟関係」になってしまっていることだ。
特に、「米国との同盟関係」が「原則」のようにしてさまざまなことが決まっていくのは日本と言う国の存在価値すら奪われかねない。

日本にとって米国の同盟国であることが国民の望む原則なのか?

米国の同盟国であることは「妥協」でしかないのではないのか?

それでは、それを「妥協」にしている「原則」と「現実」とは何なのか?

「現在の平和憲法」を変えていくことが意味するのは、「原則」をかなぐり捨て「現実」との「妥協」の煩わしさから開放されたい「妥協」を担う政治家の力量不足による責任回避・放棄に過ぎないのではないのか?

そりゃ矛盾はある。
だから妥協がある。
妥協が必要だから外交が必要で、政治が必要で、政治家が必要なはずだ。
矛盾を飲み込めない政治家なんてその存在意義すらない。

矛盾が嫌だからといってその原則を現実で置き換えたときに、そこに残るものは国民が望むものとしての「原則」の条件を満たしているのか?
「しかたがない」は「望み」ではない。

「妥協」であるはずの「米国の同盟」がいつの間にか「原則」になってしまっているこの国の政治家は、それこそ「国際社会の常識」からハズレまくっているのではないのか?

|

« アフガンとイラク | トップページ | 邪悪だよ・・・ホントに »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本の原則:

« アフガンとイラク | トップページ | 邪悪だよ・・・ホントに »