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2007/09/27

なんか変な夜(朝)だ

昨夜は早めに寝たのに夜中に目が覚めてしまい、TVをつけたらちょうど「ジョニーは戦場にいった」と言う映画が始まったところだった。

この映画を見たのは小学校か中学校か、いずれにしてもかなり昔のことだ。
そして、頭の中に強烈なイメージとして残っている。(殆どトラウマ)
戦争や平和のことを考えているときも、尊厳死のことを考えるときも、意思を伝えられない今介護している母を看る時も、人の認識について考えるときも、この映画の中のジョニーの姿を思い出すことが度々ある。

かといって、もう一度見たいとはなかなか思えない映画で、何度も再放送されているのに、正直言って最初から最後まで見たのは、この最初に見たときだけだった。
それなのに今でも意識の底にこびり付いて離れないでいる。

この映画の中には喜びもあれば、悲しみも在る。
優しさもあれば非情も在る。
幸せもあれば悲劇もある。
そして、希望もあれば絶望もある。
ただ、終わり方がつらい。
せっかくコミュニケーションの手段を見つけたのに、せっかく人や自然や神との感触を得たのに・・・その全てが閉ざされてしまう。

そんなこの映画の進行はあっけないほど淡々と進む。

様々な対立、対比を提示され、それがそれぞれを際立たせ、際立たせておきながら最後に断絶させられ、預けられる。
どこにも投げようもないボールを淡々と何でもないことのように預けられる。

本当に理不尽な映画だよ。
でも、忘れることができない。

そんな理不尽な映画「ジョニーは戦場にいった」を今日は最後まで見てしまったよ。


そんな映画の後に「名画の秘密」という短い番組でフェルメールの絵が画面に現れた。
少しだけホッとする。
ちょうど昨日の平川さんのblogでフェルメールの絵のことが書かれていてWEBで検索してBLUE HEAVENさんのサイトフェルメールの絵を眺めたりしたところだったので、その偶然に少し驚かされた。

その短い番組のあとに、クラッシック・プロムナードで「アランフェス」が流れる。


なんか変な夜(朝)だ。

少し寝るけど、午前中はつらいだろうなぁ。

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2007/09/23

高齢者虐待

「高齢者虐待1万2600件 在宅者が大半」
こんなニュースを目にした。

そこに

「虐待被害者の8割が女性で、半数が80歳以上。家庭での加害者は、息子や夫が多かった。」

などと言う記述があったので、「在宅で母親を介護をしている息子」としてはなかなかスルーできるニュースではない。

一般化した話は専門家や他の人に任せるとして、私の場合のことについて少し書いてみたい。


私が母を介護するきっかけになったのは脳梗塞であるが、その影響で認知症も宣告され、そのような症状も現れた。

介護の当初、私にも「苛立ち」がムクムクと湧き上がった時期がある。

何に苛立っていたのだろうと今考えてみると
「できるはずのことができない」
「するはずの無いことをする」
「こちらの話を理解しない」
等だったと思う。

これらは皆、「以前の母」と「今の母」との間にあるギャップだ。
以前の母こそが母であり、今の母は本当の母の姿では無いという思いだったのだろう。
それは喪失感であり、悲しみを伴った「苛立ち」だ。
(でもそんな簡単な理屈で言えるものでも無いのだが・・・)

「なんでオムツに手を突っ込んで、そこいらじゅう汚物だらけにしちゃうんだ」
とか
「なんでオムツに手を突っ込んじゃいけないって事を理解してくれないんだ」
とか

そんなときにオムツに手を伸ばそうとする母の手を反射的に止める私の手に無意識のうちに必要以上の力が入る。
その手を反射的に叩いたりする。
そして、思うのだ。
ひょっとしてこれは虐待なんじゃないか・・・と
そう気づいて、自分を責める。
それがまた、苛立ちの元になる。

きっと、そんな苛立ちを母も感じ取っていただろう。
そうすると母もすねる。(瞬間的な感情に認知症はあまり関係ないのだろう)
その結果現れる母の反応もまた苛立ちの元になる。

苛立ちのスパイラルのようなものだ。


社会生活や仕事をしているものには「時間」や「手間」にはどうしても制約がある。
そして、様々な振る舞いも、理性により制御している。
でも、母にとってはそんなことは関係ない。
そんな「時間」や「手間」に囚われた私にとってはそれを阻害する母の行為は(私にとっては)反社会的ですらあったわけである。(笑)
これは、社会と介護者を抱える家族とのギャップでもある。

私の場合、そんな色々なギャップが苛立ちにつながっていた。

だから、ニュースにあるような「虐待」を生む状況を痛いほど想像できてしまう。
そして、社会のあり方はそのようなギャップを狭める方向には向かっていないだろうなと言うことも・・・


今は、殆ど苛立ちを覚えることは無い。
以前と同じようなことを母がしても、「しょうがねぇーな、おふくろさんは」と笑っていられる。
むしろ、無邪気な母の顔を見ると不機嫌が癒されることすらある。

おそらく、「以前の母」と「今の母」を結びつけなくなったのだろう。
どちらかを切り捨てたのではなく「以前の母は以前の母」であり「今の母は今の母」であると割り切りはじめた。
そのように「仕向け」続けていたら、そうなった。
そうしているうちに、心持ち母も穏やかになったように見えるのがまた不思議である。

私も人間なので「完全に」と言う訳にはいかないが、母に関して「合理性」を諦めた。
時間をとられること、手間がかかることは「損」であるという合理性を諦めたら穏やかになった。

これを「損得」で見れば、きっと損だ。
聖人ではないので今でも、時々「損」を意識することはある。
でも、そんな風に思っていたときは心は苛立ち、そうでない時は穏やかになるのだからきっと良かったんだろうな。
これから先も、同じように穏やかで居られるか?・・・それは分からない。(私自身歳を取るし、仕事のこともあるし)
外から見て「損な生き方だ」と見られるのも、正直言って「痛い」が、周りの反応を私がどうこうできる訳でもないので、それは仕方が無い。
でも、それで苛立つ訳でもないし、それを考えても答えが出る訳でもないからね。

ニュースに出てくる「虐待」の事例は、きっとそれぞれ皆環境が違うだろうし、症状も違うだろうが、今のところ私の場合はこんな感じでなんとかしのぐことができているようです。

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2007/09/20

ミクロを忘れたマクロ

バグダットバーニングのリバーベントは何とかイラクからシリアに脱出したんですね。
Leaving Home...(原文)
我が家を離れて・・・(和訳)

イラクを離れると書き残したのが4月の終わり。

しばらくの間は定期的にチェックしていたのだけれど、なかなか更新されず、ひょっとしてブログが更新される日はもう無いのかなと・・・

でも、9月6日の日付で更新されていました。
くだらないどこぞの国の茶番劇に気を取られていて不覚にも気がつかなかった。

記事に切々とつずられた離別の描写、思いは、私に彼女が無事であったことを単純に喜ぶ気にはさせなかった。

私は毎日のようにイラクのニュースを目にする。
「どこどこで自爆テロがあり何人が命を落とした」とか「マリキ首相がどうした」とか「政府の高官が暗殺された」とか・・・
あるいは「アメリカ軍の撤退がどうだ」とか「テロとの戦いがどうだ」とか・・・
そういったマクロな情報には事欠かないが、これら何の人の気配を感じさせないマクロな情報の中には、それこそ私達と同じように一人一人のミクロな現実があるんだと言うことを痛感させられる。

アフガンとイラクがどうだとか、国連決議1386がどうだとか、そんなことにばかり気を取られてそれらの原点を忘れていたような気がする。

今回のリバーベントの日記にあるのは悲しみ、恐怖、安堵・・・そして、そんな中でも忘れないユーモア。
そこに、恨み言は見られなかった。
それを綴ろうとすれば、いくらでも書き続けることができるだろうに・・・
それが、見られなかったことでなおさらそこからにじみ出る悲しみが痛いのだ。
悔しかったろうな・・・

私にはシリアと言う国に脱出して安堵感を感じる彼女の感覚が想像できなかった。
ヨルダンに脱出するイラク人がいることはNHKか何かのドキュメンタリーで見たことはあるが、シリアはテロリストを支援している国だと言うアメリカの報道のせいか何かしら緊迫したようなイメージを持っていたため、リバーベントの

The Syrian border was almost equally packed, but the environment was more relaxed. People were getting out of their cars and stretching. Some of them recognized each other and waved or shared woeful stories or comments through the windows of the cars.

という雰囲気が意外であった。
ドキュメンタリーで見たヨルダン国境のイメージともずいぶん違う。

そして、次の一節が頭にこびり付いた。

Most importantly, we were all equal. Sunnis and Shia, Arabs and Kurds… we were all equal in front of the Syrian border personnel.

イラクに共に住んでいた民族が、故郷を離れた故国の「淵」で、難民と言う立場でしか互いに憎しみ・不信を抱かずに存在できないことの不合理を感じずにいられなかった。

世界の様々なところに同様な、あるいはそれ以上の不合理はあるだろう・・・が今はリバーベントの身に起きた不合理に心動かされてしまうことを許してほしい。

彼女に、そして不合理に見舞われている全ての人に、いつの日か平穏が訪れますように。

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2007/09/19

また・・だ

国連安保理が「謝意」決議へ

参考エントリー「尻軽すぎ

どうしてこう・・事の因果を混同して、「操作」でつじつま合わせをしようとするのかな。
今、この「謝意」を切実に必要とする国家は国連加盟国中で武力行使に強し縛りを持つ日本(の政府)だけじゃないの?
もちろん、他国にも国内世論に好影響を与えると思う国もあるだろうし、日本の世論が変わることで助かる国もあるだろうから、それに乗る国もあるのだろうけど・・・
一国家の、一政権の、一政策のために国連の意向を操作するのはよくないじゃないの?


自分への「謝意」って、働きかけるものなのか?

つまりこういうことでしょう。

日本の政府が 国連にお願いした「謝意」 を日本の国民にありがたく押し頂かせて 「ほら 国際世論でしょ」 といって その政策の正当化を図る。

これって・・・独立した民主主義国家なの?

「政府は国民を代表していません」「自国の政策を自国では決められません」ということを大々的に宣伝しているようなものじゃない?
実際にそうなんだけど、そんなもの世界に向けて発信することでも無いだろう。

小沢氏の国連主義だって、国連の枠で、最終的に自国で決定するのだからこの手法ほどひどくは無い。
この国連の枠を、一政権が操作して、自国の決定を方向付けてしまおうというのだからね。
枠にはめて制限することと、枠を利用して制限を取り払うことはまるで違うからね。

まさかそんなことは無いと思うが、小沢氏の国連主義の矛盾を国民に知らしめるために「国連なんてこんなもんだよ」という状況を意図的に作ろうとしたのならば国連への侮辱もはなはだしいということになる。

そんなことは無いと思いたいが、意図的に既成事実を積み上げて、その既成事実で人の心を誘導しようとするのがこれまでの政府が散々使ってきた手法だから・・・ついつい「穿った見方」をしてしまうんだよ。

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2007/09/14

野に下るまでの間

立花隆氏のNikkeiBPの記事「週刊現代が暴いた“安倍スキャンダル”の全容」 を読んだ。
うわさには聞いていたけど、週刊現代が暴いたと言う安倍さんのスキャンダルはけして小さなスキャンダルではなさそうだ。

もしこれが事実ならば、私の前回のエントリーはかなりの「お人よし」だったということになりそうだ。
もし本当のお人よしになれるのなら本望なんだけど、お人よしになりきるのも難しいものだ。
なんでこんな人が首相に選ばれてしまうんだろうね・・・自民党の皆さん



ところで、次は福田康夫さんですか。
覚えてますよ、年金未納問題発覚時の鮮やかな幹事長辞任劇。
結果的に、その辞任が民主党の追及の手を鈍らせ、他の未納疑惑の閣僚達を救ったと私は思ってます。
小泉さんと政策が違うにもかかわらず、小泉政権の幹事長を長きに渡り淡々と隙を見せずに勤められたことも。

今の自民党の中ではまっとうな路線じゃないですか。
これまでのANAの右傾グループのイデオロギーも少しは修正されそうですから。
アジア外交もさらに安定するでしょう。
でもANAに期待してきた自民党支持者は落胆するでしょうね。
私は良いけど

でも、小泉・安倍内閣によって積み上げられた既成事実は放置されたままです。

今回の総裁選を見ても勝ち馬に乗り雪崩を打つ自民党の先生方の節操の無さは変わりません。

安倍さんを生んだのも、安倍さんの右傾を後押ししたのも、強行採決に加担したのも、今の国会麻痺状態が予想されたのに誰も国のために安倍さんの続投を体を張って止められなかったのも皆自民党の先生方です。

一息つけば、また亡霊のように現れるのではないですか・・・彼らが


福田さん、貴方だからお願いするのですが、自民党が野に下るまでの間、

行政機構の改革、別に反対しませんが、市場(民間)に投げ出すだけで済ますのはやめてください。
独立行政法人・特殊法人のような準行政機構の実態を透明化してください。
消費税のまえに、そろそろ十分な利益を上げ始めた法人(大企業)の課税率を見直してください。
以前のようなばら撒き、私も賛成するわけではありません、きめ細かに必要なところを見極め効果的な税金投入をしてください。
無制限な対米追従、少なくとも国家の体を保つぐらいの境界線は守ってください。
感情的な煽りを控えてください。
少なくとも改憲もしていない今、憲法を守ってください。
「テロとの戦い」を建前ではなく事実に基づいて検証をして展望をはっきり示してください。
強引に既成事実を積み上げないでください。
安倍総理が設置した各種お友達諮問機関を解消してください。

自民党に多くは望みませんが、この内容ならば福田さん御自身の基本政策路線から外れると言うことも無いでしょう。
解散総選挙までの自民党のお守りを頼みましたよ。

あ、まだ決まったわけじゃなかった・・・でも、国会が止まっているのだからメディアを独占しようなんてミミッチイ事しないでさっさと決めちゃってください。


【追記】本文中でも「もしこれが事実ならば」と少しかわした書き方をしておりますが、さらに公正を期すため、安倍さんの事務所側の言い分を記した日経スポーツの記事へのリンクを記すと共に、そこで述べられている部分を引用しておきます。[2007/9/15 21:20]


首相の事務所が週刊現代の取材に警告」2007年9月13日4時54分

事務所側は「当時の政治資金規正法は、あらかじめ届け出た指定団体が寄付金を取り扱うよう定めており、晋太郎氏は、個人で受けた寄付金を自分名義で指定団体に寄付していたにすぎない」と説明。「個人資産を寄付したというのはまったくの誤り」としている。

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2007/09/12

なんと言ったら良いのだろう

安倍さんが辞めた。
タイミングは最悪だ。

それだけ精神的に追い詰められていたのだろう。

私は安倍さんのイデオロギーも、手法もとてもついていけないが、有力政治家とか総理大臣とかそのようなタイトルのない一個人にはなんの恨みも無い。

そんな別の心情から、安倍さんの周辺は安倍さんをしっかり見守ってほしいと思う。
このような辞め方をせざろう得ない精神状態はさすがに尋常とは思えない。
政治家として、この挫折は安倍さんにとってはとてつもない(すべてを失ったかのような)ダメージになっているはず。

なぜ、参院選敗退後に体を張って辞任を勧める側近や同志がいなかったのかと悔やまれる。
自己責任なんて標榜する自民党の先生方は自業自得なんていって突き放すんだろうな・・・

それにしても、政治の空白以上の、議論も行われない大穴が開いちゃったな。
困ったことだ。

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邪悪だよ・・・ホントに

今年も9.11がやってきた。

毎年、この日が来て、イラクの状況やテロとの戦いの進捗を振り返りながら、そこに全く変わらない状況を確認することを繰り返す。

引くに引けないって言い続けて、それが続く中で死傷者の数だけが増えていく。
イラクの民間人の犠牲者はイラクボディーカウントによるとすでに7万人を超えると言う
これには民間人以外の犠牲者は含まれないのだろう。
それらを含めると一体どれだけの犠牲者を出したのだろう。

今年はアフガニスタンの状況も確認しなければいけないことだけが去年と違う。


出口が見えないのに「引くに引けない」

これもまた「観念」なんだよな。
「支配したい」「支配されたくない」「秩序を維持したい」「秩序を破壊したい」「守りたい」「排除したい」・・・・・・・・

このうち、どれ一つとして成就しないのに、していないのに、する見込みも無いのに延々とそれを求め続ける。
誰もが「する」事を断念したら「される」立場に追いやられることを確信している。

あるべき元の姿があったならどんなに良いかとも思うが、立場によってそれは違ってしまう。
誰かがどこかで我慢をして、その我慢を我慢して信じる事ができない。

さまざまな欲望やそれを補強する観念や理屈や信心が人を殺していく。

「観念」によって人が殺されていく。

邪悪だよ・・ホントに。

イラクから米軍が撤退したら、治安を回復しようとして米軍に(国際社会といっても良いけど)協力的だった人々は裏切り者扱いされるのだろうなぁ。
とか
テロリストは「勝った」といって「自信」を持ち勢いづくのだろうなぁ。
とか
彼らが勢いづいて中東の石油供給システム・市場が崩壊すれば「経済」は崩壊するだろうなぁ
とか
その崩壊を防ぐ勢力に力を貸さないとシステムが崩壊しなくても、「経済」の恩恵は受けられないだろうな
とか

まだここにはありもしない色々な「悲劇」や「私の不利」が次から次へと、あたかも現実にそれがすぐそこに有るかのように想起され、想像力逞しくイメージされたリスクをヘッジしようと総動員される。

「降りたら負けよ」のチキンゲームを繰り広げて、そのゲームが続く間、皆が負け続ける。

負けているつもりは無くとも、「負け犬」と人々を蔑みながら、人は不安に駆られ、監視され、動員され、奪われ、運が悪ければ命を失うのだから負け続けているんだよ。

一体何を守りたいのだろう・・・私たちは

勝ちを望んで、負けてはいけないと必死に何かにしがみつきながら・・・負け続けているんだよ、誰もが・・・

「いや、誰かがきっと得をしている。」って言うかもしれないけど、その時点で、もう負けているんだよ「本当に大事なものを守ること」に・・・きっと

皆がいっせいに言えれば良いのにね「い~ち抜けた」って

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2007/09/11

日本の原則

日本の国内の世論を変えたいと思うときに「国際社会の常識」などと言う言葉が使われる。
そしてこれが意外に効果がある。
どこかに一様な「規範」があると仮定し、それに従うことにそれほど抵抗感を感じない。

日本の規範意識が常に外(世間とか)に置かれがちであることを考えると、いかにも日本的だなと思う。(関連エントリー:「内なる公共心」)
さしずめ、「国際社会の常識」は日本版「世間」の世界版のようなものだ。

国際的であろうとする手段が、日本的になるところが面白い。

とはいっても、間違えない事においてはそんなに悪くもないだろうし、日本が今の位置にいることができるのも、このような外への気配りにあるともいえるので、生存戦略として見ればそれは日本の強みなのかもしれない。

しかし、先進国としての「貢献」とか「責任」とか言うものを考えたときにはやはり、日本は日本なりの原則を意識しておく必要があると思う。
自ら決めたと言う意識が無ければ「責任」なども意識はしない。
(ついでに言えば、多数があるからといって強引に押し通した法案が国際的な約束のようになってしまっても、自ら決めたと言う意識を共有していなければ「責任感」などうまれない。だから手続きが重要なのであり、手続きへの信頼も重要になる。)

私はこの「国際社会の常識」と言うのは「結果」だと思っている。
国際社会をリードする国々がそれぞれの国の国情の最適化を計った結果の集まりのようなものだと思う。
それぞれの国にそれぞれの特徴や事情、制約があり、それら原則と協調のための妥協の結果現れるものだと思う。
結果として現れた「形」は常に「仮説」のようなもの。

だから、形(表層)は常にその前提の変化に伴って変化していく。
大元に共通の何かを持っていても、その手段は変化するし、国情によっても、現状認識によっても変化していく。
その変化は追っていくものではなく、それぞれの国で「生まれる」結果が集まって変化として現れる。

イラク戦争にコミットしていても、状況が変われば、たとえ大元に共通するものを共有していようとも自らの判断で撤退もするし、アフガニスタンへのEUのコミットメントもそれぞれの国情が変化すれば撤退することもありえるだろう。

政府や財界がいう「国際社会からの評価」も、そのときにはまた違ったものになるだろう。


地理的な違い、歴史の違い、さまざまな違いがある中で、それぞれがそれぞれに「良い」と思うものを原則としながら、協調のために「最適」を求めて妥協していく。
でも、原則が無ければ「妥協」という概念すらも成立しない。


ただ一番気にかかるのが日本の「原則」がいつのまにやら、その結果である「国際社会の常識」とか「米国との同盟関係」になってしまっていることだ。
特に、「米国との同盟関係」が「原則」のようにしてさまざまなことが決まっていくのは日本と言う国の存在価値すら奪われかねない。

日本にとって米国の同盟国であることが国民の望む原則なのか?

米国の同盟国であることは「妥協」でしかないのではないのか?

それでは、それを「妥協」にしている「原則」と「現実」とは何なのか?

「現在の平和憲法」を変えていくことが意味するのは、「原則」をかなぐり捨て「現実」との「妥協」の煩わしさから開放されたい「妥協」を担う政治家の力量不足による責任回避・放棄に過ぎないのではないのか?

そりゃ矛盾はある。
だから妥協がある。
妥協が必要だから外交が必要で、政治が必要で、政治家が必要なはずだ。
矛盾を飲み込めない政治家なんてその存在意義すらない。

矛盾が嫌だからといってその原則を現実で置き換えたときに、そこに残るものは国民が望むものとしての「原則」の条件を満たしているのか?
「しかたがない」は「望み」ではない。

「妥協」であるはずの「米国の同盟」がいつの間にか「原則」になってしまっているこの国の政治家は、それこそ「国際社会の常識」からハズレまくっているのではないのか?

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2007/09/07

アフガンとイラク

アフガンとイラクを区別しろと言うけれど、法律の経緯に区別はあっても、その現状は区別などできまい。

テロ特措法は、9.11直後の認識で立てられた時限立法であり、イラク戦争の「イ」の字も想定されない時点での法案である。

それ以降の過程で前提が変われば当然見直されるべきものであるにもかかわらず、何の検証もせずに、まともな議論もせずにただの「延長」でごまかして、放置しながら現在に至っているのだから法律と現実とに矛盾が出るのは当たり前である。

日本が追随しているアメリカ(政府)は一貫して「テロとの戦い」としてイラクとアフガンを区別などしていない。
区別していないアメリカ政府のもとで展開されている米軍と行動を共にしているのだから、日本の米軍支援にイラクとアフガンを区別することはできないだろう。

国連決議1368(注1)は先進国の多くが賛意を示したとは言え、それぞれの国はそれぞれの国の国情にしたがってその行動を自ら選択したし、そのように解釈できる決議だった。
それなのに、政府は米国に追随するために国情(制約)を無視して「米国のような」国連決議の解釈を選択してしまったのだ。

本来ならアメリカがアフガニスタンへの武力行使の根拠とした「テロとの戦い」に関連付け、その延長線上にイラク戦争を意図した時点で国連決議1368にも立ち返って、日本の国情と政府が選択した国連決議の解釈との更なる乖離を検証していればまだしも、イラク特措法まで作り出して米軍と一体化してしまったのだから救いようが無い。

アメリカのイラク戦争突入で、国情を無視してまで政府が選択したどちらとも取れる国連決議1368の解釈も完全に破綻してしまっているのだ。

アフガンとイラクを区別しているのはEUであり、アメリカにもイラク戦争に否定的な風潮が広がるにしたがって区別する傾向は出始めたが、それを区別し始めたのはアメリカ政府以外のアメリカであり、日本はEUや「政府以外のアメリカ」に協力しているのではなく、アメリカのブッシュ政権に従っているのである。

このような政府の手続上の「手抜き」の結果現れた「矛盾」をその当事者自ら「現実」のせいにするのは本末転倒である。
最近の企業犯罪や社会保険庁の構造と全く同じで、問題を放置して、既成事実を積み上げ、その結果生まれた問題の責任を追及されることが無いように現状を追認することで問題を大きくしてしまう。

もはや既成事実である以上、時間を戻さないかぎり「手抜き」で生まれてしまった矛盾は日本の面目に傷が付くこと無しに回復することはできないが、既成事実にひきづられて道理に合わない状態を追認してしまえばそれ以上の傷が付く。

「手抜き」で積み上げられた「既成事実の矛盾」の責任は政権担当能力に欠けていた現与党が取るべきものであって、参議院で野党がその回復を図ったとしてその結果日本の面目に傷が付いたとしてもそれをもって政権担当能力を問うのまた本末転倒であろう。

米国の下院で「対テロ戦争への貢献など日本の安全保障に関する努力に感謝する決議」なるものも可決されたようだが、リップサービス以外の実質的な感謝を何らかの具体的行動で示されたわけでもない(例えば北朝鮮問題)のだからなんらかのobligationを負ったかのように「情」に動かされないようにしたいものだ。

かといって、少なくともアメリカも悪意があってそうしているわけではなくアメリカは当たり前のことを当たり前のようにしているだけで、アメリカからの実質的な見返りが無いとかリップサービスだとか言うことを責めるのはおかしな話である。
相手の責任などではなく、望みもしないものを他責的に「しかたがない」と言って何を望んでいるのか表明しない日本の姿勢にこそ問題があるのだから。
たとえ妥協するにしても妥協するのはその後だ。

素直に「ありがとう」といいながらそのうえで「でもテロ特措法の延長はできないよ」と言い、それを言いつつ「延長はできないが、テロ撲滅のために日本ができる事は誠心誠意取り組んでいくつもりだから今後もよろしく」と言えば良いのだ。


【注1】
せっかく国連決議1368が話題になっていたのでそれについて少し。

国連決議(1368)はどうなっているかといえば、9.11を「テロリストによる行為」と認定し、その上で「テロ行為」に対して国際社会が一致団結して、取り組むことを求めている。
この決議の契機は9.11ではあるとしながら、具体的な要求の対象が9.11に特化したものであるかどうか、「責任を追及し裁く」対象が9.11に関与に特化したした「その」テロリストであるかどうかはどちらにも解釈できそうな記述に読める。
少なくともイラクを名指し具体的な行動、権限を承認した湾岸戦争時の国連決議(678)のように、アフガニスタンという固有名、タリバンやビンラディンという固有名が出てくるわけではない。
前段(前文、および1,2項)は具体的に9.11に焦点を当て、後段(4,5項)をテロ行為に対する姿勢・決意・協調を一般化した文言で記述されているような構成になっている。(3項はどちらとも取れる)
そしてその構成ゆえに全体としては、前段を全ての後段の前提としているようにも取ることもできるし、前段を「契機」として後段をテロ一般に言及しているようにも取れる。

これらは、事件発生直後の決議なので、その緊急性・重大性にもかかわらず具体性に言及するまでの材料が乏しかったという事情も考えられるが、その事情によって具体的に言及していないという事実を無視できるわけではない。
ただ、具体的な記述が可能であったか可能でなかったかよりも、むしろそれぞれの国がそれぞれの国の事情を抱えていることを考慮して(9.11を契機として強く意識させながらも)解釈の自由度を確保して決議を成立しやすくするために敢えて後段を一般化した文言で慎重に記述されたように受け取れる。

私は法律文書や英語の専門家ではないので、その読み方が正しいのかそうでないのか分からないが、国連の決議そのものがそもそも玉虫色であることを理由に小沢代表に国連主義に疑問を投げかける専門家もいるぐらいなので湾岸戦争の決議(678)よりさらに具体性を欠いたこの決議が解釈の幅を広げたものと見てもそれほどおかしな話ではないだろう。

1368の採決に賛成票を投じながらも後段に記述された要求をアフガニスタンへの軍事行動に参加、協力するという具体的な形で応えなかった国(中国、ロシアなど)もあり、それらの国が国連の意向を無視しているとして非難されるわけではないので「実質的」には各国の具体的行動についてはそれぞれの解釈に委ねた形になっているのだからそのように見るほうが現実的だろう。


そして各国の判断に委ねられたこの国連決議1368を(その是非はともかく)当時の日本政府は自らの判断として前者の「前段を後段全ての前提としている」という「解釈」をとる立場に立って受け取ったということだと思う。

だから、国連決議1368を小沢代表の言うように解釈するするのも『あり』であり、彼の解釈が政府と違う解釈に立っているとして指摘することはできても、『間違い』とするのは無理があると思う。

もし、国連決議1368を根拠に小沢代表の延長中止論に反論するならば、答えを生まない「解釈論議」に終始して議論が矮小化されてしまうことであろう。

その妥当性を議論するならば、これまでの経緯、現況、今後の展望を精査し、日本の理念・国情に即して実質的な議論をしてほしいものである。

【参考】
国連決議(Security Council Resolutions)
外務省の国連決議1368訳文

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