穿った評価
安倍さんの新しい内閣の組閣が終了した。
自民党内のバランスに配慮しながら、嫌いなものは排除したような組閣だった。
概ね選挙後に安倍さんを擁護する立場をとったメディアや人は「期待」に、批判する立場をとったメディアや人は「失望」に焦点を当てているように見える。
組閣前も組閣後もあまりそのあたりには変化は無さそうだ。
世論もおそらく同じで、全体的には選挙で示された批判の「雰囲気」はあまり変わっていないように思える。
それでは、安倍さんが誰をも納得させることができるような、あるいは、大きく評価を変えることができるような組閣ができただろうかと考えると、きっとそれは無理だったと思う。
一つ一つの事柄には多面性があるので、好意的に見れば「良いこと」も、穿った見方をすれば「悪いこと」に見えてくる。
それがいい事かどうかは判らないが、必ずしも「事実」が事の良し悪しを決定してくれるわけではない。
信頼が無ければ、どうしてもその評価には「穿った見方」が幅を利かせる。
求心力を失うとはそういうことなのだと思う。
たとえば、安倍さんは選挙中、選挙後を通じて安倍さんに批判的な立場をとり続けていた舛添要一氏を厚生労働相に指名した。
私自身も違った意見を持つ人を入閣させるということは悪いことではないと思う。
しかし、それが良い結果を齎すかどうかは「違い」を超えて共有できるものを持ちえるか、それを包み込んで一つの力に結びつけることができるかにかかっている。
それが「信頼」とか「人望」とか「器」、人によってはもっとプラグマティックに「力」とか表現されたりする。
一般的には良さそうなテンプレ的な手法もその前提を満たしていなければ良い結果を齎さないばかりか、下手をすれば内閣がバラバラになる要因ともなりかねない。
しかし、残念ながら私はその安倍さんの技量を信頼していない。
「違い」を吸収しようとする傾向よりも、「違い」を「排除」しようとする傾向を何度と無く見せつけられてきた(と観念している)から、そう簡単には信頼することができない。
それは、「違った意見を取り込む」という「手法」「事実」によってその是非を判断しているのではなく、それ以前の「前提」に対する「評価」に拠っている。
先人の言葉をその前提を無視してテンプレ的に適用させてしまう安倍さんが、今度は定石(手法)をその前提を無視して取り入れただけなんじゃないかなぁ・・・なんて思って(穿った見方をして)しまうのである。
もちろん、可能性としてはガラッと変わる可能性はいつでもオープンなのだけれども、それは起こりにくいだろうという帰納的、確率的な判断だ。(その可能性において私の判断が間違っている可能性もオープンだ)
今回の組閣には、舛添さんの起用にかぎらず、ほかにも特徴はある。
事実として閣僚の年齢が高くなったが、それも好意的なものにも批判的なものにも回収できる。
前回よりも「お友達度」が下がってもそれをバランスが良いと見るか特徴が無いと見るか分かれるところだ。
実際のところは(その是非はともかく)年齢が低かろうがお友達度が高かろうが評価を得ることができる人はできる。
現に安倍さんの総理としてのデータが無い段階ではそんなことは(怖いぐらい)問題視されていなかったはずだ。
おそらく、安倍さんは組閣に対する負の評価をもどかしく思い、その穿った「評価」を不当に感じているだろう。
「なぜ私の真意を理解してくれないのか」と
でも、それが求心力を失うということなのだと思う。
安倍さんが大敗を喫してもなお「継続」を選択したということは、すべてが「うがった見方」をされてしまうことを「前提」としてスタートしなければならないという事なのだと思う。
政策の是非はもちろんあるの(あるべき)だけれども、それはこれらの前提をクリアしないとなかなか話題にはしてもらえない。
だから普通は「責任を取って」と理由をつけて辞任することになるのだろうけど・・・
【追記】8/31
新聞各社の世論調査が出てきました。
バラツキはあるにせよ予想以上に新内閣の期待は高かったようです。
ただ、各社ともその中身を見ると安倍さん個人への期待はあまり高くないようですね。
むしろ安倍色が薄れて閣僚の顔ぶれが無難なところが安心感を与えたのかな?
これが、よく言われるご祝儀のようなものなのかどうかはしばらくすれば明らかになるでしょう・・・きっと
ところで予想はされたことだけど、ここまでメディアによって結果の違う「世論調査」って・・・この統計的手法の「信頼性」をどう考えたら良いのでしょうね。
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