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2007/08/28

穿った評価

安倍さんの新しい内閣の組閣が終了した。

自民党内のバランスに配慮しながら、嫌いなものは排除したような組閣だった。

概ね選挙後に安倍さんを擁護する立場をとったメディアや人は「期待」に、批判する立場をとったメディアや人は「失望」に焦点を当てているように見える。

組閣前も組閣後もあまりそのあたりには変化は無さそうだ。
世論もおそらく同じで、全体的には選挙で示された批判の「雰囲気」はあまり変わっていないように思える。

それでは、安倍さんが誰をも納得させることができるような、あるいは、大きく評価を変えることができるような組閣ができただろうかと考えると、きっとそれは無理だったと思う。

一つ一つの事柄には多面性があるので、好意的に見れば「良いこと」も、穿った見方をすれば「悪いこと」に見えてくる。
それがいい事かどうかは判らないが、必ずしも「事実」が事の良し悪しを決定してくれるわけではない。
信頼が無ければ、どうしてもその評価には「穿った見方」が幅を利かせる。

求心力を失うとはそういうことなのだと思う。


たとえば、安倍さんは選挙中、選挙後を通じて安倍さんに批判的な立場をとり続けていた舛添要一氏を厚生労働相に指名した。
私自身も違った意見を持つ人を入閣させるということは悪いことではないと思う。

しかし、それが良い結果を齎すかどうかは「違い」を超えて共有できるものを持ちえるか、それを包み込んで一つの力に結びつけることができるかにかかっている。
それが「信頼」とか「人望」とか「器」、人によってはもっとプラグマティックに「力」とか表現されたりする。

一般的には良さそうなテンプレ的な手法もその前提を満たしていなければ良い結果を齎さないばかりか、下手をすれば内閣がバラバラになる要因ともなりかねない。

しかし、残念ながら私はその安倍さんの技量を信頼していない。
「違い」を吸収しようとする傾向よりも、「違い」を「排除」しようとする傾向を何度と無く見せつけられてきた(と観念している)から、そう簡単には信頼することができない。

それは、「違った意見を取り込む」という「手法」「事実」によってその是非を判断しているのではなく、それ以前の「前提」に対する「評価」に拠っている。

先人の言葉をその前提を無視してテンプレ的に適用させてしまう安倍さんが、今度は定石(手法)をその前提を無視して取り入れただけなんじゃないかなぁ・・・なんて思って(穿った見方をして)しまうのである。

もちろん、可能性としてはガラッと変わる可能性はいつでもオープンなのだけれども、それは起こりにくいだろうという帰納的、確率的な判断だ。(その可能性において私の判断が間違っている可能性もオープンだ)


今回の組閣には、舛添さんの起用にかぎらず、ほかにも特徴はある。
事実として閣僚の年齢が高くなったが、それも好意的なものにも批判的なものにも回収できる。
前回よりも「お友達度」が下がってもそれをバランスが良いと見るか特徴が無いと見るか分かれるところだ。

実際のところは(その是非はともかく)年齢が低かろうがお友達度が高かろうが評価を得ることができる人はできる。
現に安倍さんの総理としてのデータが無い段階ではそんなことは(怖いぐらい)問題視されていなかったはずだ。

おそらく、安倍さんは組閣に対する負の評価をもどかしく思い、その穿った「評価」を不当に感じているだろう。
「なぜ私の真意を理解してくれないのか」と

でも、それが求心力を失うということなのだと思う。


安倍さんが大敗を喫してもなお「継続」を選択したということは、すべてが「うがった見方」をされてしまうことを「前提」としてスタートしなければならないという事なのだと思う。

政策の是非はもちろんあるの(あるべき)だけれども、それはこれらの前提をクリアしないとなかなか話題にはしてもらえない。
だから普通は「責任を取って」と理由をつけて辞任することになるのだろうけど・・・


【追記】8/31
新聞各社の世論調査が出てきました。
バラツキはあるにせよ予想以上に新内閣の期待は高かったようです。
ただ、各社ともその中身を見ると安倍さん個人への期待はあまり高くないようですね。
むしろ安倍色が薄れて閣僚の顔ぶれが無難なところが安心感を与えたのかな?

これが、よく言われるご祝儀のようなものなのかどうかはしばらくすれば明らかになるでしょう・・・きっと

ところで予想はされたことだけど、ここまでメディアによって結果の違う「世論調査」って・・・この統計的手法の「信頼性」をどう考えたら良いのでしょうね。


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2007/08/15

パール判事

私は、極東裁判におけるパール判事(私は過去のエントリーではパル判事と書いていたけど)に以前から興味を持っており、私自身影響をかなり受けていると思う。

今日、そのパール判事の名を2度目にした。

一つはSankeiWebの『首相「パール判事の話楽しみ」』という記事、そしてもう一つはNHKで放送された「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判・知られざる攻防~」という番組だ。

パール判事はいわずと知れた極東軍事裁判で『全員無罪』を主張したインド代表の判事である。
「全員無罪」という言葉だけならば、安倍首相の耳には心地よく響くだろうが、その真意はどう考えても安倍首相の「美しい国」とは相容れない。

安倍総理の
「憲法改定」にも、
「従軍慰安婦問題」に対する姿勢にも、
「南京事件問題」に対する見解にも、
「核兵器」に対する甘さにも、
「軍事力」に肯定的な立場にも、
いずれにも相容れないはずだ。

安倍首相の望む「全員無罪」とパール判事の「全員無罪」とは全く『似て非なるもの』である。
もし、パール判事が存命なら、その孤高な正義と法の人の言葉は安倍首相にとって「耳の痛い話」でしか無いだろう。

もっとも、パール判事は他国の最高指導者に対して押し付けがましいことなどは言いそうも無いが・・・

彼は日本の戦時中の行為に非道や悪を見なかったのではない。
明確にそれを(誇張もあるだろうことを加味した上で尚)疑いの無い事実として認め、容赦なく非難している。
誇張があるからそのような事実は不確かだとか無かったなどという安倍首相の立場とは明らかに違う。
そして、他でもない日本人自身がそのことに真摯に向き合うことを心底願っていた人である。

ただ違うのは、彼の非道に対する非難は、戦争に関する全ての(戦勝国によるものも含む)非道・理不尽にも同様に向けられている事である。

「平和に対する罪」「人道に対する罪」といった事後法による断罪は法理にも適わないだけでなく、その罪を逃れうる戦争に関わった国(戦勝国も含め)などはないという事であり、それは「戦争」に、そして「力による平和」に一切の正当性を認めない「絶対的な平和主義」の信念に貫かれている。
そんな「平和主義」に対する絶対的な信念と「美しい国」がかみ合うはずが無かろうにと思う。

「全員無罪」という言葉だけをつまみ食いして、のこのこインドまで出かけてパール判事のご長男に会って何を話そうというのだろう。

「信念」とか「孤高」とか「精神性」といった今の安倍首相が切実に望むものを確かにパール判事は備え、体現しているかもしれないが、そのあり方に触れたときに思い知らされるのはそれこそ圧倒的な「格の違い」でしかないのではないか?

しかし、その「格の違い」を感じる感性が首相に有ったとしたら、
「パール判事は日本とゆかりのある方だ。お父さまの話をうかがえることを楽しみにしている」
なんて暢気なコメントを残してインドまで恥をかきにいく選択などはしないだろう。

私はこのあたりの首相の感性がまるで理解できない。

記事では「アジア諸国などの反発」を心配しているようだが、反発よりも嘲笑を心配したほうがいいのではないか?

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「政権担当能力」というテンプレ

どうやら、外交における「政権担当能力」というのは「米国(の特定政府)の意に沿わぬことはしてはならぬ」を意味するらしい。

たいした能力である。

しかし、そのような前提ならば「能力」などは必要ない。
どんなに無能力でも「これまでと同じように言われることに従うこと」位はできるだろう。

「能力」が必要とされるのは
一見対立する「困難」な現状があり、そこから妥当な結果を引き出そうという時だ。

少なくとも、これまでの政権担当者はそのような困難を避けていただけなのだから、「政権担当能力」があったわけではない。
「政権担当能力」を問われる事を避けることで「政権」を担当(維持)していたと描写する方が似合っている。

沖縄の基地問題。
グアムへの移転問題。
MD戦略問題。

莫大な借金を抱えているから社会保障費を削り、消費税を上げたいといいながら、「安全保障」の「錦の御旗」を振りかざせば、なんら費用対効果を省みることも無く、言われるままに貴重な国家予算を大盤振る舞い。
世界でも有数の防衛費を費やしながら、それでも「脅威」という「情」にとらわれ、必要以上の「恐米神話」に支えられた「安全保障」というマジックワードにより際限の無い予算が既得権益に吸い取られていく。

しかも、安全保障に関わる「情報」は、機密事項であるがゆえに、「政治資金規正法」を盾にとり「法律の趣旨に沿わない」などというアホのような言い訳をして情報開示を拒否する必要ない。
「日米軍事情報包括保護協定」のようなモノもいつの間にやら調印・発行されている

脅威という現状(環境)が防衛費を必要としているのなら、その緊張緩和を進めるのかと思いきや、金がかかる環境作り(感情的緊張作り)に余念が無い。

拉致被害者問題にしても「脅威」という「感情」を煽るだけでなんら妥当な「結果」をもたらさないばかりか、現実は、被害者の帰国が困難な状況を積み上げ続けるだけである。

中東からの石油資源の保全が求めるべき「結果」なのだが、現実は、さらに「脅威」は拡大し、中東は混迷・不安定に向けまっしぐら。

「日本国民が願う望ましさ」を「困難な現実」の中で実現していくにはもちろん「能力」は必要になるのだが、「困難な現実」を容認するだけならば「能力」など要らないのである。

「能力」が無いから「困難な現実」をそのまま容認し、こともあろうに「日本国民が願う望ましさ」を(能力が無いから力技で)「困難な現実」に沿わせることに夢中になっている。

彼らに「能力」があるとするならば、有無を言わさぬ既成事実を積み上げ、「現実」に弱い日本人に、「日本国民が願う望ましさ」を断念させる、あるいは転向させる「能力」のことだろう。

このような事態の進み方は、戦前となんら代わりが無い。
軍部の強行、政府の追認、更なる強行、更なる追認。
これこそが方向を失った日本が歩んできた「過ち」への道筋だったはず。

一体どこの国の、誰のための「政権担当能力」なのかわからない。

少なくとも戦争により荒廃を体験した戦後のいくつかの政権は「困難な現実」と「日本国民が願う望ましさ」の間で苦悩し、より妥当な結果を出そうとした形跡はあった。
いまでは、そのような苦悩、困難は元から背負うつもりなどなく、ただただ「困難な現実」に従順であるだけだ。

今話題の「テロ特措法の延長」にしたって、その延長が必要だという意見があっても「しかたがないから」という理由しか見当たらない。
恐らく多くの国民も「テロを無くしていく為にはどうしても必要だから」なんて理由はよほどの楽天家でなければ誰も信じちゃいない。
米国の「テロとの戦い」という「力による制圧」でテロが無くなるなんて、もはや、誰も思っていやしないが、遠い中東のことでもあるし、米国との付きあいもあるから「しかたがない」から「延長が必要だ」と言わざるを得ないと「思っている」に過ぎない。

『「テロ」と名づけられた「殺戮の連鎖」を無くしていくには、アメリカ(現政府)の誤った(あるいは意図的なミスリードによる)事実認識の上に掲げられた「テロとの戦い」で本当に良いのか』
という「簡単な問い」を日本の現政権担当者は、巧妙に避けて本当にテロ(と名づけられた殺戮の連鎖)を解消していく「能力」を試されることが無いように無いように振舞っているだけだ。

今の与党や、そのお仲間が言う「政権担当能力」などは、所詮その程度のものでしかないのだから、野党はそんなテンプレのような語彙を気にする必要はこれっぽっちも無い。
逆に民主党の誰かさんみたいにそんなものを鵜呑みにしていては、「困難な現実」をより強固な「困難な現実」に置き換えるだけである。

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2007/08/01

与党の現実、野党の現実

政治的な「現実」は既成事実積み重ねであり、そしてその既成事実を積み上げることができるのは政権政党だけである。
その意味からすれば、その「現実」に責任を負うべきは与党であり、野党ではない。

しかし、そうはいっても政治は「現実」から始めるしかないのである。
「そんな現実は俺たちが積み上げた現実ではないのだから知らないよ」なんて無視するわけにはいかない。

自らの理念とその政策に沿って進められてきた「現実」を継承すれば良い与党と、そもそもが理念に沿わない既成事実(前提)を出発点としなければいけない野党では「現実」は全く違う様相を帯びる。
野党が現実的であろうとすれば、好ましくも無い既成事実を与党が積み上げる度に、野党は自身の理念からは離れ、流動的にならざるをえない。

かといって、あまりにも現実的であることに固執すれば「違い」を示すことはできず、その存在意義を失う。
良いか悪いかは別にしてヨーロッパで左翼がその存在感を保っているにもかかわらず旧社会党(現社民党)が自社連立によりその存在意義をまったく失ってしまったのもそういう部分があったと思う。(もちろん社会主義国の崩壊も大きな要因だが)

「現実的」であることを至上命題にすれば、よほど与党がボンクラでない限り(与党との理念の違いを維持しようとする)野党が与党よりも現実的であることなどありえないのである。

田原総一郎氏などがよく「現実的であれ」といいながら「違いが分からない」なんて事を口にするけれども、それに答えられる野党なんてものは(与党がボンクラでなければ)あるわけがない。

それを分かっていながらそれを口にする田原氏というのは、つくづく意地の悪い人である。

そもそもが「与党よりも現実的」で「政策の違う政党」などというものは無いものねだりであり、だからこそ今の自民党がどんな問題を引き起こしても政権与党を支配し続けることができたのであろう。

野党は常に「現実的」であることにおいては与党に及ばない。
政策の違いが明確であればあるほどそうである。
その及ばない分のアドバンテージが無ければその壁を乗り越えることはできない。

今回の参院選はその「自民党のボンクラぶり」が突出した選挙だった。(ほとんど自爆)
そのアドバンテージにより、「存在意義を維持」することで「現実的であること」に劣る部分に有権者が猶予を与えてくれるかどうかにかかっているのだと思う。

おそらく、与党は野党の政策が「現実的でない」事を指摘し続ける。
そして、野党の政策が与党の政策に歩み寄るようにしむけるだろう。

もし、そこで野党が「現実的でない」というレッテルを恐れて与党案に引き寄せられればしめたものである。
逆に、もし違いを明確にしたい野党がそれに応じなければ「現実的でない」のレッテルを貼ればいい。

いずれにしても「現実的」と「存在意義」の間にある「野党のジレンマ」を利用しない手は無い。

このような攻防は既に憲法改正案で既出である。
民主党は護憲派を抱えながらも、与党が積み上げてきた(好ましくない)「現実」を認めない限りは「現実的でない」という批判を受けざるを得ない。
「政権担当能力」を示したい民主党の現実派にとっては「現実的ではない」のレッテルはなんとしても避けたい事であったろう。
その結果、与野党で「現実的」な改憲案を調整していったのはいいが、最後の最後になってそれが「違いの無さ」=「存在意義の喪失」であることに気が付き、あれこれ理由を付けそこから離脱しぎりぎりのところでかろうじて「違い」を保ったのである。
私はそう見ている。
おそらくあのまま進んでいたら選挙を前にして民主党の存在意義は霞んでしまっていたことだろう。(同じならば自民党でもいいのである)
当然与党からすれば民主党の逃亡は非難すべき「背信行為」であり、「党利」であり、結果的に民主党の政権担当能力に少しは傷をつけることができた。
これに限れば、与党の勝ちであり、このような攻め方をできるのが与党という立場が持つ強みである。


おそらく、これに似た今後の大きな攻防は「イラクテロ特措法の延長」になるのではなかろうか?
小沢代表がこれに反対すると明言しているからである。(本気ならばぜひ応援したいが、小沢代表のことなので何かの取引材料にする恐れはあるが)

民主党は当初から反対したとは言え、与党(自民党)が延々と積み上げてきた「日米関係」という巨大な「現実」の上に決定されたインド洋、イラクへの自衛隊派遣という経緯を持った既成事実に挑むことになる。
「特措法を延長しない」のは今の日米関係を考えれば「現実的でない」として最もレッテルを貼りやすい事案である。
安倍首相とてこれまでの経緯があるので信頼に関わる妥協できない事案であろう。
「日米関係の現実」を乗り越えるリスクに国民が猶予を与えるだけのアドバンテージを築けるかどうか・・・

民主党にとってはこのあたりが正念場になりそうな気がする。(その前に安倍首相がつぶれてしまう可能性もあるけど)

【追記】
民主・前原氏、「テロ特措法延長必要」と発言
これがまさに
>もし、そこで野党が「現実的でない」というレッテルを恐れて与党案に引き寄せられればしめたものである。

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