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2007/06/20

コムスンと介護

コムスンの不正請求問題も少し落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
落ち着いたというよりも、関心のピークが過ぎたという感じのほうが妥当かもしれない。

私も母の介護をしている身なので介護問題というのは身近なものなのだけれど、これは、毎日繰り返される日常の出来事で、コムスンの問題が浮上しても、それが一段落してもコムスンを利用していない事もあってそれが劇的に変わるわけでもない。
折口会長が「悪者」として糾弾されても、コムスンが他に譲渡されても、それらを引き起こす介護制度の根本的な問題に政府が何か手を打つような事が無ければあまり変わらない。(その気配も感じられないし・・・)

かといって関心が無いなんて事でもない。
ただ、マスメディアから流れてくる情報の「関心」との間にズレは感じる。
それらを見ているときは、自分達のことというよりも社会問題として、公的な問題として見ているようなところがある。
このような問題を引き起こす要因というのはあるはずだし、そこに手が加えられない以上、これからも似たような、あるいは起源を同じくする別の問題が違った現象として浮上してくるだろう。
そして、そのときは我が家も影響を受けるはずだ。

そんなこともあるので思ったことを覚書としていちおう書いておこうと思う。

コムスンが問題として浮上するのはルールを破った(不正請求)ことによる。
ルールを破らなければ問題としては顕在化しなかった。

「ビジネスチャンス」を口にする(日本の)新自由主義族にとってはおそらくそれだけの問題でしかない。
「公」の問題として「倫理」で非難しても、彼らの「倫理」は市場であり、ルールであり、ビジネス上の公正であって、市場に需要があり、ルールを守り、システムが公正で開かれていれば「倫理上」も問題ない。(下支えする宗教(プロテスタント)的な倫理観は当然ありそうにない)
グローバル市場経済(経済至上主義)の中ではそれ以外の多様であいまいで明文化できない「価値観」は障壁でしかないだろう。

政府が介護制度を民間に開放したのも、やはりグローバル市場経済の流れの中で「小さな政府」の一環として行われたもので、「ビジネスチャンス」として動機付けし、開放したのだからそのような「倫理観」が支配することに不自然さは無い。
小泉政権以降の「民営化」は、どれもそのような「倫理観」のもとで行われている。

ただ、介護制度の場合、郵政の民営化等とは違うところがあると思う。

郵政が民営化されても「利益の追求」に上限があるわけでもなく「拡大」の可能性は広がっている。(ただし、その一方で効率のために切り捨てられるものが問題になってくるのだが・・・)
しかし、介護では彼らの利益の大部分は国民から徴収した保険料から賄われる。
当然彼らが「営利」を追求すれば効率だけでなく、その絶対量も継続的に増やしていかなければならない。
効率を上げるためにも絶対量(売上高)の確保は必要になる。
効率だけを上げて利益率だけを確保すればいいという「場」ではない。

ところが、徴収される保険料を際限なく上げるわけにもいかないのだから自ずから上限は決まってくる。
現に、増え続ける支出にあわてた政府は介護報酬の抑制を行った。

「拡大」し続けることはグローバル市場経済では避けられない特徴の一つであって、それが競争力の別名であり、効率化の源泉なのではないかと思うのだがそこに制限があるのだからそこにはもともと無理があるのではないかと思う。
新自由主義的に考えるならば介護保険自体が民間によって運営されなければならなかったのだろう。
この流れに沿えばやがて介護保険が民営化され、健康保険も民間にゆだねられる日も近いだろう。
リトルアメリカの完成だ。

なんか、これまで公的なものを食い物にしてきた国の「責任」を言葉巧みに放り投げ・そこから逃れられればいいとでも思っているかのような気さえしてくる。
なんとも解せないのは、今の政府が教育問題でも、憲法問題でも「公」を強調・強制する一方で、社会から「公」を解体し「私」(個ではない)で埋めつくそうとしているように見えることだ。


さて、それはさておきマスメディア
折口会長の資産や豪勢な生活がどうにも気になるようだ。
「富の分配」がうまく行われていないってこと?
「富の配分」は問題の発端となった「ルールを破ったこと」とはあまり関係ないでしょう。

ルールを破った事で非難できるからといって、富の分配を問題にするなら他にもいっぱい同じ例が社会にあふれているでしょう。
そんなこと気にもせずに小泉政権もそれを継承した安部政権も、グローバル化も民営化も持ち上げてる(た)じゃない。
社会保障制度のアメリカ化も容認してるじゃない。
方向転換したの?
ちがうよね。
「捌け口」を求める庶民によって生み出される需要があって、そこで消費される「癒し」を商品化し、供給し、利潤を得る「サービス」だよね。
ジャーナリスティックに切り込むなんて事とは・・・・・ちがうよね?
民放よりもNHK(公営放送)のほうがよほど冷静に継続的に伝えている。
いろいろ問題もあるけど、存続しててよかったと思うよ。

民放には民放のよさが当然あるけど、でもそれは今のように各局が横並びでは意味が無いよね。
多少偏っていても非難するものがあって、擁護するものがあって、多様な価値観を提供できるから全体として公正が保てるのだと思うのだけど・・・違うのかなぁ。
日本ではやはりそれを支えるような多様な価値観を保てる環境は育たないのかなぁ。
アメリカで格差があっても精神的な閉塞感が蔓延しなかった(今はそうともいえないようだが)のは、そんな環境があったからなのだと思うけど。
そしてとりもなおさず、それがアメリカ的なものを取り入れるための前提条件であるようにも思うのだけれど。
少なくともアメリカでは困窮していても(生活実感として)個人に精神的な開放感があった(過去形)ように思うが・・・

・・・と書いてはみたけど、実際の私自身の「介護」への実感は本当のところそんなところには無い。

私自身にとっての「介護」は

着替え・オムツの交換・お尻の洗浄であり、
毎度の食事・投薬(胃瘻から注入する栄養剤・薬の管理)であり
栄養剤を注入する胃瘻周りの肉の盛り上がりの消毒・ケアであり
よだれ拭きの交換であり
目薬を差すことであり
顔や体を水拭きすることであり
尿の計測と廃棄であり
体勢を時々変えてやることあり
お尻にできる辱痕のケアであり
車椅子を車に乗せ、母を病院に連れて行くこと

そして、
外部との接触の機会をできるだけ保とうとすることであり、
それがなかなか思うようにできないことからくる疎外感と戦うことであり、
自宅での仕事との区切りに苦心することであり、
損などしていないのに、そのように感じなければいけないかのような余計な圧力を感じることであり、
前職に比べ、納める税金が極端に少なくなったことに若干の後ろめたさを確定申告のときに感じることであり、
(でも、年金は海外に居たときも含めて全納しているよ)
離れて暮らす兄弟との「悪意の無い意識のズレ」に戸惑うことであり、
訪問看護さんが簡単に口にする「すべきケア」がそう簡単ではない事に困ることであり、

そんな中でも、
母が見せるユーモラスな仕草にいやされることであり、
毎朝の散歩で公園の草木の移り変わりや、その先の海の波の音にリフレッッシュされることであり、
友達とe-mailすることであり、
同じように母親を介護している旧友とばかっ話をすることであり、
・・・・・

このようなことが毎日続いていく生活を淡々と過ごすことだ。
でもね、部下よりも早く朝の8:00頃出社して、部下が皆帰る夜の12:00頃まで胃をキリキリさせながら働いて頃に比べると、精神的にはとても静かで、30代半ばにして突然このような境遇に見舞われたとは言え、そんなに悪くは無いのだけれど・・・こんな境遇はなかなか理解されないんだよね。
しいて言えば、この理解されなさや、一般論で語られたりすることが苦痛といえば苦痛だな。
もっとも、以前の自分だったら絶対理解できないもんね。

これが今の自分にとっての「介護」であって、いくら関係あるとは言え、実感としてはコムスンや介護に関するマスメディアの情報は何か別のものなんだよね。

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