人を助ける事(2)
特急車内でも女性暴行、容疑で再逮捕というニュースに関連して。
私がカナダに住んでいた頃、秋、真夜中に人気(ひとけ)の無い道を車を運転していて、凍結した道路でスリップして崖から車ごと2回転ほどしてクリークに転げ落ちた事がある。
川に落ちた瞬間ヘッドライトだけがクリークを照らし出し、水に浸かったエンジンから水蒸気がシューという音を立てていた。
天井は頭の高さまでつぶれ、窓は全て割れ、ドアが開かないので窓から這い出た。
着地が100点満点だった(タイヤで着地した)ので命にかかわることにはならなかったが、それでもやはりガラスで怪我をして2~3箇所出血した。(翌日打ち身で動け無かったが)
崖をよじ登りボ-っとしていると、夫婦連れの車がすぐに止まってくれて車のシートに泥や血が付くのも厭わず、しかも綺麗なハンカチーフを取り出して傷口の止血をしてくれ、自分達(彼ら)が向うのとは別の方向にある救急病院に連れて行ってくれた。(カナダの田舎でチョット違う方向となれば数十キロは違う)
それだけではなく、レンジャーに連絡してレッカーの手配までしてくれた。
真夜中に得体の知れぬ東洋人が泥だらけで血を流している構図は普通に考えれば逃げたくなるような無気味さではなかろうか?
当時のカナダだってヒッチハイカーによる犯罪が無かったわけではない。
でも、あたりまえのように助けてくれた。
嬉しかった。
冬などは、車が雪にはまったりして動けないと直ぐに助けの車が止まってくれる。
だから、私もそれが当然と思うようになり、自然に困っている人には人助けをしたと思う。
ヒッチハイカーが居れば乗せてあげたりもした。
あるとき、日本からスキーに来た友達を乗せスキー場に向う途中、雪にはまった車が止まっていたので止まろうとすると、友達が「おい、ここで止まると俺達もはまるぜ」と言われた。
結局そのときは雪にはまった車も自力で脱出する事が出来たし、友達が言ったように私の車もスリップしてなかなか動き出せなかったので彼の言う事は正しかったのだけれども、私にとっては既にそれは(普通に)たいした事ではなかった。
たんに、そのように行動する事があたりまえだという「環境」に馴染んでしまっていたのだと思う。
オーストラリアのメルボルンでもお婆さんが路面電車の線路上で倒れて動けないところを「普通に」周りの人と一緒に助けたりもした。
そのようにすることに違和感が無かったからできた。
カナダやオーストラリアの何処に行ってもそうかといえばそうであるはずは無いけれども、それがどこであれ(日本でも)あたりまえである環境にいると私自身が感じていれば、そうする事はそれほど難しい事ではない。
結構私は幸運にもそのような場面によく出会い、そう感じる事が出来た。
そのときの「心地よさ」から、日本に居る今でもできるだけそうしようとしているのだけれども、結構得体の知れない抵抗感(浮いてしまう感覚)を感じる事は多い。
人を助ける事があたりまえであるところでちょっとした人助けは簡単な事。
ごみを捨てない事があたりまえであるところでごみを捨てない事も簡単な事。
ついでに言えば不完全な英語をしゃべる事も「伝える事」があたりまえであれば簡単な事。(私は評論家の多い日本で英語をしゃべろうなんて恥ずかしくてできやしない。)
そこには偽善を気にする必要も,目立つ事を気にする必要も,それが支持されない事を心配する必要も無い。
そして,それが「望むもの」と一致している事はやはり気持ちのいいものである。
しかし、そのような環境が無いとそれは一気に「重圧」に変わる。
切実さを伴なった重圧に変わってしまう。
人を助ける事を理屈で考えると、「助けない理由」は幾らでも考え付く。
「本当にその人は助けを求めているのだろうか」
「お節介なのではなかろうか」
「果たして自分にどれほどのことができるだろうか」
「俺の行為は偽善行為なのではなかろうか」
その発展系として
「偽善者を見るような目で周囲から見られるのではないだろうか」
もし助けたい人といっしょに加害者がそこにいれば
「むしろ事態を悪化させる(周囲に迷惑をかける)のではないか」
「危害を加えられるのではないか」
「周囲に無視されるのではないか」
「周囲からはむしろ『余計な事をするなよ』なんて目で見られるのではなかろうか」
「実は加害者に見える彼(女)が、被害者で、被害者に見える彼(女)が加害者だったら」(痴漢冤罪等)
その助けたいという「思い」ではなく、行為の結果(事実)に「責任」が問われるとしたら、これらが「リスク」として強く意識付けられる。
そのリスクを「責任」と訳し、非難の対象(是非の非)であることがあたりまえであればなおさらである。
ルールや法は基本的には「事実」に基づいて判断されるが、善悪ももまたそこで判断されれば善意が評価されるとは限らない。
何もしなければ「リスク」は顕在化しない。
「合理的」に「その場」での「リスク」を勘定し「間違えない」ことを望むなら「何もしない事」が最適解になり得る。
狭い世界ならば、助けたい彼(女)や加害者の彼(女)も知っているかもしれない。
より正確な情報を持ちえるかもしれない。
が、流動性の高い場で、知らぬ人々に囲まれ、その知らぬ人々が私とは同じ価値(この場合なら助けるのが正しい)を持っているかどうか信頼できない「環境」ではリスクを査定する事も出来ない。
「見ざる、言わざる、聞かざる」なんて言葉が災いを避ける知恵のように世間でも言われる。
「助けない」理由をあげる事は難しい事ではない。
そしてこれは何も特別な事ではない。
企業犯罪や隠蔽、腐敗などにも同じ構図が抽象できる。
権力とか力とかに支配された場を見れば何処にでも抽象できる。
私を含めた多くの人もまた、何らかの形でそれらに荷担しているだろう。
でも今回のようなニュースを聞けば何ともいえぬ嫌な感情に包み込まれる。
こんなことはあって欲しくない,「助けてやってくれよ」と懇願したくなる。
恐らく、ごく一部の例外を除けば多くの人もそうなのではないかと思う。
また、そのように言えない人のなかにも、そうは思いつつも自らの中に潜む「それを許容している自分」を無視できないという事もあるだろう。
が、多くの人はそのような事態を望んでいるというわけではない。(と思う)
個々には「小さい許容」だけれども、その個々の「意識」が集まると、それが全体を覆う「雰囲気」をかもし出し、環境が,つまり現実が生まれる。
そして、そこに生まれる「現実」こそが「秩序」という事なのでは無かろうか。
日々私たちの身に迫る「切実さ」の積み重ねが、環境を作り、現実を生み、その現実がまた「切実さ」を私自身にもたらす。
その循環が「秩序」なのではなかろうか?
その個人の「切実さに抗する苦痛」を免責するために「権力」や「強制力」にそれを委ね、その存在を正当化し巨大化させる。
そして、そこに生まれる合理的な「行為の拘束」と「責任の帰属」がますます個人に人を助ける「合理的理由」を問う事を要求し、個人が「人を助けない」理由を増やしてしまうという悪循環。
でも、「事実」と「合理性」だけでは解決できない個々の「切実さ」との葛藤の「過程」(結果ではなくベクトル)が環境を変え、現実を変え、初めて「切実さ」を伴なわない「望ましさ」がチョットばかり顔を出すような気がする。
それは難しいと思えば「秩序」が低下し,それは可能だと思えば「秩序」が保たれるという「関係」が無表情に(人の事情には関係なく)横たわっているだけなのかもしれない。
この切実さを引き受けた当事者たる事は、教育にも、政治にも似たようなところがある(同じような事が抽象できる)のではないかという気がしている。
社会のことを考えようとするとどうしても、このような頭でっかちな分析的な物になる。
しかし、個人としての行動は保守派のように望む物(感性)に対してシンプルでありたい。
分析的な結果としてリスクを抱えつつシンプルでありたい。
社会性と個人は関連しつつ別のものだと思うから。
関連エントリ:在庫処分2「人を助ける」
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