« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »

2007/04/25

人を助ける事(2)

特急車内でも女性暴行、容疑で再逮捕というニュースに関連して。

私がカナダに住んでいた頃、秋、真夜中に人気(ひとけ)の無い道を車を運転していて、凍結した道路でスリップして崖から車ごと2回転ほどしてクリークに転げ落ちた事がある。
川に落ちた瞬間ヘッドライトだけがクリークを照らし出し、水に浸かったエンジンから水蒸気がシューという音を立てていた。
天井は頭の高さまでつぶれ、窓は全て割れ、ドアが開かないので窓から這い出た。
着地が100点満点だった(タイヤで着地した)ので命にかかわることにはならなかったが、それでもやはりガラスで怪我をして2~3箇所出血した。(翌日打ち身で動け無かったが)
崖をよじ登りボ-っとしていると、夫婦連れの車がすぐに止まってくれて車のシートに泥や血が付くのも厭わず、しかも綺麗なハンカチーフを取り出して傷口の止血をしてくれ、自分達(彼ら)が向うのとは別の方向にある救急病院に連れて行ってくれた。(カナダの田舎でチョット違う方向となれば数十キロは違う)
それだけではなく、レンジャーに連絡してレッカーの手配までしてくれた。
真夜中に得体の知れぬ東洋人が泥だらけで血を流している構図は普通に考えれば逃げたくなるような無気味さではなかろうか?
当時のカナダだってヒッチハイカーによる犯罪が無かったわけではない。
でも、あたりまえのように助けてくれた。
嬉しかった。

冬などは、車が雪にはまったりして動けないと直ぐに助けの車が止まってくれる。

だから、私もそれが当然と思うようになり、自然に困っている人には人助けをしたと思う。
ヒッチハイカーが居れば乗せてあげたりもした。
あるとき、日本からスキーに来た友達を乗せスキー場に向う途中、雪にはまった車が止まっていたので止まろうとすると、友達が「おい、ここで止まると俺達もはまるぜ」と言われた。
結局そのときは雪にはまった車も自力で脱出する事が出来たし、友達が言ったように私の車もスリップしてなかなか動き出せなかったので彼の言う事は正しかったのだけれども、私にとっては既にそれは(普通に)たいした事ではなかった。
たんに、そのように行動する事があたりまえだという「環境」に馴染んでしまっていたのだと思う。

オーストラリアのメルボルンでもお婆さんが路面電車の線路上で倒れて動けないところを「普通に」周りの人と一緒に助けたりもした。
そのようにすることに違和感が無かったからできた。

カナダやオーストラリアの何処に行ってもそうかといえばそうであるはずは無いけれども、それがどこであれ(日本でも)あたりまえである環境にいると私自身が感じていれば、そうする事はそれほど難しい事ではない。
結構私は幸運にもそのような場面によく出会い、そう感じる事が出来た。
そのときの「心地よさ」から、日本に居る今でもできるだけそうしようとしているのだけれども、結構得体の知れない抵抗感(浮いてしまう感覚)を感じる事は多い。

人を助ける事があたりまえであるところでちょっとした人助けは簡単な事。
ごみを捨てない事があたりまえであるところでごみを捨てない事も簡単な事。
ついでに言えば不完全な英語をしゃべる事も「伝える事」があたりまえであれば簡単な事。(私は評論家の多い日本で英語をしゃべろうなんて恥ずかしくてできやしない。)

そこには偽善を気にする必要も,目立つ事を気にする必要も,それが支持されない事を心配する必要も無い。
そして,それが「望むもの」と一致している事はやはり気持ちのいいものである。

しかし、そのような環境が無いとそれは一気に「重圧」に変わる。
切実さを伴なった重圧に変わってしまう。


人を助ける事を理屈で考えると、「助けない理由」は幾らでも考え付く。
「本当にその人は助けを求めているのだろうか」
「お節介なのではなかろうか」
「果たして自分にどれほどのことができるだろうか」
「俺の行為は偽善行為なのではなかろうか」
その発展系として
「偽善者を見るような目で周囲から見られるのではないだろうか」

もし助けたい人といっしょに加害者がそこにいれば
「むしろ事態を悪化させる(周囲に迷惑をかける)のではないか」
「危害を加えられるのではないか」
「周囲に無視されるのではないか」
「周囲からはむしろ『余計な事をするなよ』なんて目で見られるのではなかろうか」
「実は加害者に見える彼(女)が、被害者で、被害者に見える彼(女)が加害者だったら」(痴漢冤罪等)

その助けたいという「思い」ではなく、行為の結果(事実)に「責任」が問われるとしたら、これらが「リスク」として強く意識付けられる。
そのリスクを「責任」と訳し、非難の対象(是非の非)であることがあたりまえであればなおさらである。
ルールや法は基本的には「事実」に基づいて判断されるが、善悪ももまたそこで判断されれば善意が評価されるとは限らない。

何もしなければ「リスク」は顕在化しない。
「合理的」に「その場」での「リスク」を勘定し「間違えない」ことを望むなら「何もしない事」が最適解になり得る。

狭い世界ならば、助けたい彼(女)や加害者の彼(女)も知っているかもしれない。
より正確な情報を持ちえるかもしれない。
が、流動性の高い場で、知らぬ人々に囲まれ、その知らぬ人々が私とは同じ価値(この場合なら助けるのが正しい)を持っているかどうか信頼できない「環境」ではリスクを査定する事も出来ない。

「見ざる、言わざる、聞かざる」なんて言葉が災いを避ける知恵のように世間でも言われる。


「助けない」理由をあげる事は難しい事ではない。


そしてこれは何も特別な事ではない。
企業犯罪や隠蔽、腐敗などにも同じ構図が抽象できる。
権力とか力とかに支配された場を見れば何処にでも抽象できる。

私を含めた多くの人もまた、何らかの形でそれらに荷担しているだろう。


でも今回のようなニュースを聞けば何ともいえぬ嫌な感情に包み込まれる。
こんなことはあって欲しくない,「助けてやってくれよ」と懇願したくなる。
恐らく、ごく一部の例外を除けば多くの人もそうなのではないかと思う。
また、そのように言えない人のなかにも、そうは思いつつも自らの中に潜む「それを許容している自分」を無視できないという事もあるだろう。
が、多くの人はそのような事態を望んでいるというわけではない。(と思う)

個々には「小さい許容」だけれども、その個々の「意識」が集まると、それが全体を覆う「雰囲気」をかもし出し、環境が,つまり現実が生まれる。
そして、そこに生まれる「現実」こそが「秩序」という事なのでは無かろうか。
日々私たちの身に迫る「切実さ」の積み重ねが、環境を作り、現実を生み、その現実がまた「切実さ」を私自身にもたらす。
その循環が「秩序」なのではなかろうか?

その個人の「切実さに抗する苦痛」を免責するために「権力」や「強制力」にそれを委ね、その存在を正当化し巨大化させる。
そして、そこに生まれる合理的な「行為の拘束」と「責任の帰属」がますます個人に人を助ける「合理的理由」を問う事を要求し、個人が「人を助けない」理由を増やしてしまうという悪循環。

でも、「事実」と「合理性」だけでは解決できない個々の「切実さ」との葛藤の「過程」(結果ではなくベクトル)が環境を変え、現実を変え、初めて「切実さ」を伴なわない「望ましさ」がチョットばかり顔を出すような気がする。
それは難しいと思えば「秩序」が低下し,それは可能だと思えば「秩序」が保たれるという「関係」が無表情に(人の事情には関係なく)横たわっているだけなのかもしれない。

この切実さを引き受けた当事者たる事は、教育にも、政治にも似たようなところがある(同じような事が抽象できる)のではないかという気がしている。


社会のことを考えようとするとどうしても、このような頭でっかちな分析的な物になる。
しかし、個人としての行動は保守派のように望む物(感性)に対してシンプルでありたい。
分析的な結果としてリスクを抱えつつシンプルでありたい。
社会性と個人は関連しつつ別のものだと思うから。

関連エントリ:在庫処分2「人を助ける」

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007/04/12

なんともやりきれない

「国民投票法案」が12日に委員会を開催して採決,それに続き13日の衆議院本会議で可決させるスケジュールらしい。(国民投票法案12日採決 与党、衆院特別委で

議会制民主主義も地に落ちたなと思う。

確かに、9.11に始まったアメリカを中心とした世界の右傾化傾向が一段落しつつあるなかでは「郵政民営化」で獲得した多数を行使できる今しかこの法案を通す機会は今後そうそう無いだろうが、どうにも手段が目的化しているとしか思えない。

反対や修正を望む国民を含めて日本国民なのであって、その国民にとってどんな「国民投票法案」がよいのか、憲法改正が妥当なのかどうなのか、改正が必要ならどんな「憲法改正」が妥当なのかではなく、法案が通る事、憲法を改正する事だけが目的化している。

国民投票法案はその法案そのもの自体にも少なからず反対の立場があるばかりでなく、それを是認する立場にもその公正性を疑う声も少なくない。
それを裏付ける世論調査も見られる。(参照:国民投票法案 与野党で審議は慎重に
逆にいえば、だからこそ政府は「今」のうちに法案を通したいのかもしれないが、もしそうならあまりにも姑息過ぎる。

それはかつてあれほど熱狂の内に迎えられた「郵政民営化」や「構造改革」がいまでは国民の多くが期待していた「改革が必要な強固な官の利権構造」はそのままに、抵抗力の弱い弱者の為の社会保障・教育の切捨てにすり返られた中で行われている。
「改革」が目的化し「何を改革するか」が顧みられず格差をはじめとする副作用が顕在化しているさなかに同じ様な手法で・・・

安倍内閣は小泉首相の「郵政民営化」「構造改革」を継承する事のみにおいて「正当性」を保っているに過ぎないではないか。
「郵政民営化(構造改革)を選ぶ選挙である」と公言し、それを殊更に強調した選挙で多数を獲得したに過ぎないのに、厚顔無恥にも選挙が終れば「我々のもの」とばかりに多数という既成事実を押し付ける。

国の根幹に関わるような関連法案は、それを一度も争点として選挙で戦わせる事も無く決定されるほど軽くは無いはずである。

議会制民主主義は多様な意見の中から「正当性」を担保する制度であろう。
それが制度たらしめるのはその「正当性」が保たれるという前提・期待に負っているのではないのか?
それとも議会制民主主義の信頼を貶め、日本の秩序を崩壊させるのが目的なのか?

最近よくマスコミや左派の「見下す態度」があちこちで批判され、それも頷けるところもあるが、日本の根幹に関わる法案をこのような手法で押し切ろうとする政権に「見下す態度」を見いだせないことにバランスの欠如を感じ無いとは日本人は一体どうしてしまったのか。

だまし討ちのような「ごり押し」で日本人を分断するつもりなのか?
多数があるからしてしまう、やったもの勝ち、目的は手段を正当化する。
それが首相の言う「美しい日本」の日本人の姿なのか?
さぞかし日本社会は、そして日本人は制度の網をくぐり自らの欲望を為し遂げようとする輩が蠢き合う「美しき日本」になる事であろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/04/04

埼玉県知事の発言

埼玉県知事の「自衛官は人殺しの練習をしている」発言が問題になっているようだ。
この発言が問題になった後に、その解釈は誤解で有るという事を示そうとした「『殺傷』なら良かった」との発言もまた同様に問題になっているという。


自衛隊の位置付けについては様々な見方があり、自衛隊の存在に否定的な立場からこのような表現がされることはあるかもしれないが、文脈から見る限り必ずしもそのような立場からの発言でもなさそうだ。
どうも何かを「わかりやすく」説明しようとした結果だとの事らしい。
抽象の仕方、その表現のしかた、TPOの問題なのだと思う。


自衛隊の任務は多様であり、災害救助をはじめ、平時には様々な活動をしている。
もちろん、有事の際にそれを使用する使用しないはともかく、それを想定した今回問題になった「殺傷」能力を維持する事もそこに含まれるだろう。
おそらく然るべき場で、専門的な自衛隊の装備の話にでもなれば「殺傷能力」という単語は当然のように使用される言葉であろうし、その中に含まれる「殺傷」という単語は「人を殺す」「人を傷つける」ことを意味するだろうし、前者を名詞にすれば「人殺し」ということにはなるだろう。
知事は別の伝えたい何かを「分りやすく」説明するために、自衛隊の平時の様々な任務を捨象して有事の際に備えた「殺傷能力を維持する」任務を抽象し、さらに、そこに付属する価値観を捨象して「人殺しの練習」と抽象し、それを入庁式において「ある文脈」で使用した。
「人を殺す」という「fact」に(特殊条件さえなければ概ね共有されているであろう)付属しがちな負(人殺しは悪い事)の「価値感」が付属していないものとして扱った。


合理主義者が「好んでしがち」な事だなと思う。


ここからは私の想像だが
敢えて「人殺し」という「価値」を帯びる言葉を使用したのは、何かを「強調」したかったからなのではなかろうか。
「何か」とは例えば「仕事に命をかけている」とか「任務のために人の嫌がる仕事を引き受ける」とかそのような何かである。
あるいはもしかするとそれに加え、「人殺し」と「殺傷」を区別する事に「合理性を疎外阻害する価値の混入」を無意識のうちに感じとり、その「区別」を反射的に避けようとしたのかもしれない。
上記の「任務」「使命」ようなものに対する(意識的な)強調に加え、(無意識的に)「強調」したかったのは「殺傷」を「人殺し」という負の価値観を帯びた言葉に置き換えても「fact」に違いがあるわけではないのだから合理的に考える者はこれらに「違い」を見い出してはいけないという観念がそこにはあったのかもしれない。
つまり、極論すれば(分りやすく抽象すれば・・・笑)、自衛隊に「人殺し」という言葉の持つイメージを与えようというのではなく、むしろ「人殺し」という言葉に付属するイメージには「偏見」が含まれているということを(話を印象付ける為に)無意識に強調してしまったのではないかと・・・
これは深読みに過ぎるのかもしれないが・・・
(これは、最近の「数学屋のメガネ」の秀さんのエントリーを読むときにも感じる事なんだけど・・・)


ちなみに、これが合理主義者からの発言でなく、自衛隊の存在そのものに批判的な立場からなされたものならば、批判のために「価値感」を意識的に織り込むこともあろうが、それは文脈を見ればその違いは判断できると思う。


このニュースを聞いて直ぐに思い出したのが以前はてなのエントリー「政治家の発言」で書いた厚生労働大臣の「機械」発言だ。


いずれも合理主義的立場から見れば「どこが問題なの」ということになるのかもしれない。


でも、人は「事実」だけでは表現できない「価値」を言葉に込めるものであって、その微妙な違いを前提としながらより豊かなコミュニケーションを可能にしているのも事実なのではなかろうか。


生活や人そのものは、ある意味「価値」そのものではないだろうか?
そうであるからこそ、そこで起こる様々な「価値の相克」を整理すべく、その手段として「合理的」な思考が有用性を帯びるのであろう。
合理的であろうとする前に、その合理性を適用する事が妥当なのかどうかには充分な配慮がなされるべきではなかろうか?
その配慮がすなわちTPOということにはなりはしないだろうか?
「価値」がその前提に無ければ「合理性」を必要とする理由すら見出せないような気がするのだ。


と書きつつも、この私の書くエントリーの中にも私自身の価値観を前提にした「捨象」と「抽象」が潜んでいる事を忘れてはいけないのだけれど・・・

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年3月 | トップページ | 2007年5月 »