« 2006年12月 | トップページ | 2007年4月 »

2007/03/21

気がついたら変っている

イラク戦争が始まってから4年が経つ。
つい最近のような気もするが、もう4年だ。
イラク情勢に対して撤退・駐留を含めて「今」何が本当にいいのかについて議論は在っても、4年前に起きた「戦端」に対する評価は概ね定まったのではなかろうか?
4年と言う節目に、しかも番組の切り替え時期であるにも拘わらずメディアもNHKを除けば特集があるわけでもない。

日本はイラク戦争を検証しない。

ここぞとばかりにflagをshow themしたけれども、何時の間にやらflagは隠れてしまった。
今は、できるだけ国民に気付かれないように「そっと」輸送機にその日の丸が描かれている。

明らかになった「前提」の「誤り」を正す事も無く、目的達成度を測るわけでもなく、期待した効果を検証するでもなく、米国への貢献に対する見返り効果を算出するわけでもなく、ただただ無かった事のように黙殺する。

でも、検証など出来るはずが無いのだ。

国民の多くは派兵の本来の目的に共有認識が有ったわけでもない。
派兵の暁に何が期待されるかのビジョンが有ったわけでもない。
仮にあったとしてもそれを口にするには卑屈すぎ、曖昧に言葉を濁すしかない。
そもそも、曖昧に煙に巻きながら「決定」されたことに検証すべき「前提」も「目的」も「ベクトル」もありはしないのだから検証する材料自体が無い。
かろうじて立てた建前(復興支援)も、その「効果」を検証するなんて恥ずかしくて数字に出来ない。

おそらく、それを問えば「見えない効果があるのだ」と言い出すに違いない。
合理的な姿勢とはかけ離れた、まるで今はやりの「スピリチュアル」のようだ。

イラク戦争を期に、日本の安全保障の潮目は変わった。
日本人の意識も変った。
それは、「テロとの戦いとしてのイラク戦争」が妥当だと言う「環境下」で変った。
その環境下で直面した「武力行使」による「問題解決」を身近に感じて変った。

イラク戦争を通じて、テロとの戦いを通じて、それを前提として米国との連携は強化された。
その連携を後ろ盾に、対中,対北朝鮮強硬姿勢に動き出した。


しかし、その全体を包んでいた環境も,前提自体もまた大きく変わってしまった。
アメリカでは、反戦気運が高まり、イラクの失敗に目を向け、かつてテロ国家と呼んだ国々と交渉を始め、潮目を変えた。

でも「環境」が変っても,「前提」が変っても「過去に変った日本の潮目」は変らない。
「再評価」も「前提の置き換え」も起こらないから変わる転機が訪れない。
責任を問われない仕組みが生み出す制御不能。
「お上はちゃんと計算してくれているに違いない」なんて思っている。
夕張市で起こったような事が「今」日本の外交にも起こっているのではないのか。

アメリカも世界も「イラク以降」に向け大きく舵を切っていると言うのに・・・
また、取り残されるのか?
「だってそもそもお前らが~だったじゃないか」と誰も相手にしない子供のような言い訳をまた将来言わなきゃいけないのか?

日本を愛する安部さん、「美しい日本」はこれでいいのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/20

合理性と前提

「合理性」を採るなら、最低でも前提は明らかにされるべきだろう。
そして可能な限り、その前提に何らかの手続き上の合意や正当性、認識の共有が必要だと思う。
また、その合理性が何を目指しているのか、何が期待されるのかが示されるべきだとも思う。

前提の無い「合理性」は意味をなさず、「ベクトル」(目標,強度)や「指標」(尺度)が示されない「合理性」に有用性は無い。
それが「合理性」を用いるための最低条件なのではなかろうか。

そんな風に思う。


確かに何かを切り取らなければ何事も成されない。
何事かを成さなければならないと言う理由は必ずしも自明ではないが、今はそれが前提となっている(進歩とか発展とかが肯定される)からこそ「合理性」と言う概念が浮上してくるのであって(その前提の上で起きてくる事を扱う以上)これを無視はできない。

「合理性」は偶然を期待しない。
偶然から生ずる揺れや誤差を「相対的に軽微である」とする事が妥当であるとして捨象する。

ただし、偶然は「未知」から生じる概念である以上,それが「既知」となればそれはもはやかつての偶然(誤差)ではなくなり、そこに捨象の妥当性が覆される「余地」(リスク)が常に潜んでいる。

一方,多くの事象では「完全な」前提の合意や認識の共有は期待できない。
それだけではなく、様々な概念が既知の物として解明(されたと認識)されればされるほど、複合的になればなるほど益々それを期待する事は難しくなる。
それでも,「合理性」は抽象とそれに伴う捨象を要求する。
だからこそ完全な合意や認識の共有「そのもの」の代わりに,価値に左右されにくく合意可能な「それらを仮に決定する手続き」に正当性を委ねている。
故に、そこには非可避的に何らかの「恣意性」や「留保」を抱え込む事になり、抱え込む事をも前提とせざろう得ない。(同意せざろう得ない)
そこにもまた捨象の妥当性が覆される「余地」(リスク)が潜む事になる。

おそらく、合理性の上では、前提が確保されているからこそ、リスクが顕在化/現実化したときに、それを「間違い」と呼ぶ事ができるのだと思う。

「合理性」は「間違い」を期待はしないが、その「間違い」の可能性を構造的には前提としている。
「指標」や「ベクトル」は「成果」を明らかにすると同時に「間違い」も明らかにする。
むしろ、「成果」を明らかにするのと同様に、その「間違い」を明らかにすることにその
有効性/有用性を見出しているともいえそうだ。
その間違いを検証し、「新たな前提に置き換える事」が人の進歩の歴史なのだと思う。
その際「責任」やその「帰属処理」はそのリスクが現実化してしまった際の損失感・理不尽感への「必要な手当て」として機能しているのだろう。

「合理性」は「合理性」のうちに完結すべきなのだと思う。
(多様で曖昧な)価値感の出番はそれを集約し正当性を確保しつつその前提を設定する際とその前提,指標,ベクトルのもとに明らかになった結果を「前提をも含めて」再評価する際にある。

様々な怪しげな合理主義者は、意図的に前提を曖昧にし、その前提の妥当性/正当性を顧みず、その目指すところを明らかにしないまま、ただ自らの立場(価値観)の為だけに「捨象」を合理性の名のもとに正当化する。
その結果の「明らかさ」をも都合が悪ければ曖昧にする。

そうかと思えば合理性で始めた議論に途中からご都合主義的に曖昧さを持ち込み、当初の合理性の前提であるべき「指標」や「ベクトル」を改変し、「問題」や「間違い」を責任回避のために「隠蔽」してしまう。
それを容易にすべく、最初から「前提」や「指標」や「ベクトル」に不透明さを担保しようとするからますます途中で曖昧さが紛れ込む。

そのようなモノに有用性/有効性があるとは思えないし、それは「合理性」と呼ぶには相応しくない。

そんな「合理性」の前提を無視した「合理性」モドキが「合理性」の信頼と有用性の信頼を貶め、しいては「それらを仮に決定する手続き」(制度)の信頼性を貶めてしまうように見える。
さらにそこに生まれる不信が、本来人にとって大事な価値観に「暴走」を許したり、その反動として大事な人の価値観の「抑圧」を招いたりしてしまうのではないか?

「間違い」をどう捉えるか、「責任」をどう捕らえるか、「仮定」をどうとらえるか、「手続き」としての法やルールをどう捉えるか(是非との兼ね合い)、そこにある「自己責任」という概念をどう捉えるか
合理性を有用なものとするための「暗黙の前提」がこのあたりに「あたりまえの事」として潜んでいる。

もしかすると、様々な日本の文化的背景とこれら合理性の「前提」との「相性」は最悪なのかもしれない。
最近の与党の政治家の行為・発言(彼らの自己責任論もそうだが)やメディアの論調を耳にするとそうは思いたくは無いがそう思えてきてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/08

実現する力

地球温暖化問題などに関連して、カリフォルニア州の取り組みと言うものがNews23で紹介されていた。
内容的にはガソリンの代わりに植物油を使ったり,発泡スチロールを使わないようにしたりする取り組みが紹介されていたのだけれど、それ自体、概念としては別に目新しいものではない。
目新しくは無いのだけれど、試験的であったそれらの取り組みが着々と実現され,概念が現実に変わっていく「勢い」は新鮮だ。

それがたとえ州単位ではあっても行政が条例を施行してそれをフォローしたり、市民の中からもそれに賛同して広げていこうとする動きが出てくるところにアメリカと言う国の底力を見るような気がする。

今回紹介されたようなものに限らず、アカデミックな部分でも政治的な思惑とは違う部分で様々な環境に関する研究も進んでいるようだ。

以前からアメリカでは地球温暖化問題には消極的というイメージが付きまとっていた。
国家を運営するブッシュ政権は確かに目立ったイニシアチブを取るでもなかった。
そんな状況にあっても、実際には様々な取り組みが進行していて何時の間にやら色々なところで実用化されていく。
ブッシュ大統領は支持率の低下に伴って、これら水面下で進行していた取り組みをあたかも自らの地球温暖化への取り組みの成果のようにアピールする事もあるが、政権の成果とはお世辞にもいえないと思う。
しかし、対外的にアメリカ合衆国としての成果であるとする事には十分な説得力があるように思う。
政権の成果ではないがアメリカ人の成果である。

このような、画一的でない多様な方向性が同時に存在しうるところがアメリカと言う国の魅力だ。
私はアメリカと言う国がひどく傲慢で嫌いな部分も多いのだけれど、かといって憎めないのはこんなところにあるのだろうなと思う。


私は環境問題に対しての「感性」では、日本人も世界の中でけして劣るものではないと思うし先見的でさえある(あった)と思う。
しかし、その「感性」を信じる事ができないところが残念でならない。
「アメリカ」にその気が無いとか「中国」や「インド」などの新勢力が積極的でないという「その時点」の「環境」を「現実」という名であたかも不変の「不可能性」のように自己規定してしまう。
他から何らかのベクトルが示され,その「現実」はもはや「不可能な現実ではないですよ」とお墨付きをもらえば、そこに力を終結して集中力を発揮するのだけれどもなかなか自ら価値(ベクトル)に影響力をもたせ主導する事ができない。

アメリカ式グローバル市場経済は「不変の前提」(現実)であって、経済至上主義もその「不変の前提」(現実)から導き出される「不変の帰結」であると規定していまい、その文脈から「環境問題」に対しても企業/評論家を始め「大勢」がその不可能性を追認・同調してしまってはいなかっただろうか?
そこに対する「疑義」を感知していても、それを封印してしまう。
異論として存在する事さえも「現実論」を持ち出して押しつぶそうとし、異論を持つ側も「仕方がない」と言って諦めてしまう。

結果として「価値」を見出す感性がありながら、その自らが見出した「価値」を誰かが確かなものにしてくれなければ自信が持てずに、その「価値」からいつも置いてきぼりを食う。
良い製品を作っていながら自社の製品に自信をもてない売れない営業マンのようだ。

一方で、その置いてきぼりに痺れを切らすと、今度は発見した「価値」を周知する努力をすっ飛ばして極端に「独我的」となり反発を買ったりする。(安倍さんのように)
これはこれで製品の良さを伝えられずに客のせいにする売れない営業マンのようなもの。

きっと、今も、「価値」のあるものを「現実」に惑わされて信じられずに捨てようとしているに違いない。
捨ててしまった後に誰かがその「価値」を発見して、声高にその「価値」を自らのものとして掲げるまで何を捨てたかに気がつかないのではなかろうか?

今の「憲法」もその一つなんじゃないか・・・なんて私は思うのだけど。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

« 2006年12月 | トップページ | 2007年4月 »