復党問題と美しさ
自民党がラべリングした「造反議員」の復党問題と言うのは美的感覚からすればとても「美しい」とはいえない。
自民党が彼らの復党を「いかなる理由があろうとも認めない」となっても「情」的には「美しく」は無い。
それでは無条件に復党を認めればそれはそれで,その節操の無さによって「美しく」は無い。
だからと言って条件をつけて復党を認めても、議員の側が「信念を曲げて」復党するとしたなら、その行為が「美しく」は無い。
実際問題どのような選択をしようと「美しくなさ」からは逃れられない中で選択だけはせざるを得ない。
これはやはり、超党派を許さないとした前回の総選挙が行われた時点で、政党政治が直面せざるを得ない避け難い矛盾なのだと思う。(参考エントリー 党の存在意義(2))
でも、これも言い換えは可能である。
自民党が彼らの復党を「いかなる理由があろうとも認めない」としたなら、一貫していることに「美しさ」はある。
仮に、無条件に復党を認めてもそれはそれで,寛容によって「美しさ」はある。
条件をつけて復党を認めても、議員の側が「小意を捨てて大意をとった小異を捨てて大同につく」と見たなら、その行為にさえ「美しさ」を見出すことも可能である。
仮に多くの人に反感を持たれ、フラストレーションを与える事になったとしても「言い換え」は可能である。
「美しさ」などと言うものはいかようにも言い換えることは可能であり,それは「論駁」する対象などではなく「影響」を与える対象でしかない。
「美しさ」はあからさまな「主観」であり、どんなに他人が「それは違う」といっても、その「影響」を拒絶し、当人があくまでそれを言い張れば彼がそのように思うことをとめることなどは出来ない。
確かに、世論を考慮にいれれば、この復党問題を目にしたときに多くの人はそこに「美しさ」を見ることは無いであろう。
「現実問題として仕方がない」と言う人は少なからずいるとは思うが、「美しい」と言う人は少ないだろう。
それは、ある程度このような現象を「美しくない」と感じる感性を日本人が共有しているからだろうと思う。
そこに判断の拠り所を置けば、この復党問題は「美しく」は無い。
日本人が共有する「一般的」感性としての「美しさ」を拠り所にすれば、復党問題に対してどのような選択をしようと「美しく無さ」を避けることが出来ない。
このような状況で、一般的感性がそうならば、そこに線引きをして「美しさ」をハッキリさせ、「美しくない」ものを法的に規定しようというようなことが(憲法にしても教育基本法にしても)今の政府のしようとしていることである。
私は彼ら(いわゆる造反議員や自民党)の行為を美しくないと思う。
それを美しいと言い張る人がいたならば、フラストレーションや怒りを覚える。
しかし、世間一般も概ねそう思っているにも拘わらず政治家が一向に美しくならないと言って、それを(理念としてではなく)強制力を伴う法に明確に規定しその美しくない行為を排除しようとは思わない。
そのようなにっちもさっちもいかない状況の中で、美しくないものを選び取らざるを得ない状況が人の世界にはある。
もちろん、私自身の価値観に従って,あるいは日本人一般が共有する「理念」を拠り所にそれを糾弾することになんら抵抗は無いが,実効力や強制力を有する法に位置付けると言うこととそれは根本的に異なり、そのことには強い抵抗感を覚える。
現在の教育基本法(あるいは憲法)の理念は現在でも通用する立派な理念である。
でも、確かに「理念」であるが故に漠然とし,現実性、実効性、強制力を伴っていないと言う不満はあるかもしれない。
しかし、その不満ゆえに具体化し、実行力や強制力をそこに求める事を良しとするならば、同様の理路で、どのような選択をしても「美しくない」復党劇に関して、行為者である「自民党」や「造反議員」に法的制裁を加えることにも正当性はあろう。
政府は自らのことに対してはともかく他に対してはそのような手法を望んでいるようだが、私はいずれに対してもそんなことは望まない。
あくまで「理念」は理念、その理念を「実現性の無さ」から来る「フラストレーション」や「怒り」故に「実行力」や「強制力」に委ねるべきではないと思う。
もし、そうしたいならば「公人」として「教師」に劣らない立場にある「政治家」自らに対し、率先してそれを課してみてはいかがか?
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