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2006/11/16

愚痴(口語調)

教育基本法、単独採決で可決だって。
結局、郵政民営化について民意を問い、それによって得たはずの「多数」は、こんな使われ方をするんだよな。(参考エントリー「争点」
わかりきった事だけど、こうまで露骨だとため息も出ない。
先日、前首相の小泉チルドレンに対する「使い捨て」発言があったけど、国民の民意とか票の扱いも同じ様なものなのだろうなぁ。
「郵政民営化の是非を問う選挙」であったなどと思った国民の自己責任と...
おっと、郵政民営化を支持した人は皆「教育」も「憲法」も政府の方針に賛成である可能性も無いとはいえないよね。

今の内閣は「教育」や「憲法」やら「国防」やらにやたらとご執心のようだけど、国の根幹に関わる重要案件なのに、一体いつ国民の信任を得たんだぃ?
前回の選挙?
それならやはり前回の争点は「詐欺的」としか思えないよな。(詐欺とは言わないよ,いつ共謀罪が復活して罪人にされるか分からないからね)
解散して「したいこと」を示して民意を問うぐらいの真剣さを見せたらどうだい、姑息過ぎて恥ずかしいよ。

そういえば内閣府のタウンミーティング
あれも、同じか。
一つのミーティングに1000万以上掛けていたと言うことだけど、大手広告代理店(この言い回しがなんともいえないが)に運営を丸投げしていたらしいね。(長野で田中知事前知事が公聴会のようなものを催した時の予算は随分安かったようだけど)
謝礼金についても政府の見解として塩崎官房長官が「問題ではない」とか言っていたけど、本音だろうね。
彼らにとっては「やらせ」も、「金銭の授受」も金額も少ないということで問題ない...と
こんな感覚を持つ人たちが率先して「教育」とか「倫理観」とかを議論するんだから嫌になっちゃうよ。
ちったぁこれが健全な青少年諸君に与える悪影響といったものに気を配うくらいの思慮があってもよかろうに。

内閣府というところは様々な世論調査をしてたよなぁ。(以前書いた関連エントリー「内閣府世論調査」)
タウンミーティングで起きたようなことが問題無いというのだから世論調査でも同じようなことがあっても問題ないと思っているんだろうなぁ。
疑いたくは無いけど、これじゃ何やってるかわからないね。
世論誘導府とでも名称変更したほうが予見性が保てていいんじゃない?

あ、忘れていたけどNHKにも実質的には要請でも何でもいいようなことを「命令」なんて大袈裟な言葉をあえて使うことで「先例」という既成事実を積み上げてたなぁ。

マスメディアも少しは突っ込めばいいのに出来ないんだろうなぁ。
何しろ報道の自由ランキングが51位だもんね。(別館の参考エントリー「メディアの衰退」)

海外にいて聴く「君が代」も「日の丸」もなんかホッとして感慨深かったよなぁ。
「日の丸」も「君が代」も好きだったし、本当は今でも好きだけど以前とは違うよね,もう。
俺は「日の丸」や「君が代」に過去のシミがついていたって上塗りしたり漂白したりして綺麗にしなくてもいいんだよ。
いろんな「シミ」のついている「日の丸」や「君が代」が好きなんだ。
日本人であることに誇りも持っていたほうだと思うけど最近は恥ずかしくなってきたよ。

缶を捨てるのが愛国心が無いからだなんてジョークのような思い込みの強い人が首相だなんて。
日本で起こる不都合はすべて愛国心が無いからってことににされそうだよ。
読んでみなよ「美しい国へ」を。
「フムフム,ん~?、ドヒャ~」の連続で、まるでキーファー・サザーランドの「24」を見ているようだよ。


でもね、それでも日本人なんだよ,俺は。


関連過去エントリー「日本的である事」

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2006/11/13

「いじめ」の規定

「イジメ」を規定するのは本当に難しいと思う。
「ドメスティックバイオレンス」や「セクシャル・ハラスメント」や「ストーカー行為」や「偏見・差別」を規定するのが難しいように。
しかしシステムとして、ルールとして、法としてこれらを位置付ける為には、それをしなくては区別できない。
罰則を与えるからには、予見性は明証性と共に確保され無ければなるまい。
「イジメ」とは~である。
とか
「ドメスティックバイオレンス」とは~である。
といった「~」を明確に規定せざろう得ない。
ルールの抑止効果は「予見性」が確保されるから発揮され、抑止効果が見られるからそのルールが信頼されるのだと思う。


しかし、例えば「見る」という「動作(事実)」一つとっても、そこに「侮蔑」を感じ取れば「イジメ」、「威嚇」を感じ取れば「DV」、「性的」な物を感じ取れば「セクシャルハラスメント」、「執拗」を感じ取れば「ストーカー行為」となりえる。
でも「見る」という動作に「常に」そのような「意味」がある訳でもない。
むしろ例外のほうが多いだろう。

それではといって「動作」を詳細に描写して
斜め下方に目を細めて見たら「侮蔑」、眉間にしわを寄せ目を大きく開いて目じりを挙げていたら「威嚇」、・・・・・・
などと動作を詳細に規定しても、多少その「意味」に近づくことはできても、常にそのような「意味」があるわけでもない。
また,それとは逆に「侮蔑」「威嚇」「性的」「執拗」はこれらとは別の「見る」方法でも表現する事もまた可能である。

ある「意味」を感じさせる「動作」が、別の環境,別の対象、別の経緯においては全くそのような意味を帯びない事もある。
あるいは逆にそれとは全く逆の「意味」として感じ取られる可能性も大いにある。

かといって一度その「動作」を規定してルールを定めたならば、そのような「意味」を意図してなくとも容易にそれを例外として認めるわけにも行かない。
「そんなつもりは無い」という例外を簡単には容認はできなくなる。

つまり、そこで何とか特定の「動作」を切り取って規定しても、規定した時点で「そのような意図は無い」という事態、「意図はあるけれどもそのような動作では行われなかった」という事態のいずれをも捨てざるを得なくなってしまう。
そして、そのようなことが充分ありうるということは、そのような手段では問題が解決することは無いということを意味してしまうようにも思う。

さらに、イジメのような場合にはその手段(動作)はバラエティーに富んでいて、規定すればするほど、「例外」もそれに比例してバラエティーに富んでしまう。

「イジメ」の概念は誰しも何らかの形で持っていると思う。
夫々が持つ「イジメの概念」には内面的な情緒(主観)も含めて多くの共通点があるだろうとも思う。
でも、いざ「イジメの概念」を客観的に事実として特定の「動作」や「振る舞い」として切り取ったり言葉にしたりしてみると,その時点でそれが夫々が持つ「イジメの概念」を充分満たしていないと言う現実に直面してしまう。

「いじめ」の問題が深刻なのは、それが客観的事実ではなく、「主観的な価値評価」により引起され,当事者にとってそれが全てになってしまうと言うところにあるように思う。
「いじめ」として切り取られた客観的事実に適合的で、誰が見ても明らかな「いじめ」だけならばそれ程難しい問題でもないのだけれど、多くの場合(自殺で命が失われたなどの)結果を知っているから誰が見ても明らかにみえるだけで、その「結果以前」にそれが「いじめ」であることが明らかでないケースも多く、そしてそれがイジメ問題の本質だから深刻なのだと思う。
これは,「いじめる側」に限らず「いじめられる側」にもいえることだと思う。

客観性、一般化、その結果としてのシステム化、ルール化、法制化には個別の「主観的な価値評価」はもっとも馴染まないものでありながら,その「主観的な価値」こそがイジメ問題の本質であるというジレンマがそこにある。

概ね誰にも明らかな「いじめ」に対してはシステム化,ルール化,法制化により外堀を埋めることはできると思うし、しない理由は無いのだから大いに検討すれば良いのだが、内堀や本丸に関してはそれらは無力であり,「主観的な価値評価」と真っ向から向かい合わざるをえないのだと思う。
恐らくそれは言葉によってではなく、だから客観的でも論理的でもない。
人と人が直接・真剣に向き合ったときにのみに現れる「感性」「感覚」のようなものなのではないかと思う。

といっても、なんでもリスクをシステムに任せ、頭でっかちになり、本来人が持つそれら「感性」が失われ,信用できなくなっているからこそ、現前に「解決困難」な問題としてたち現れているのではないかとも思うのだけど。

一般化,客観化して検討すべきルールや法を考える時にマスメディアの報道等を通して持った主観(情緒)をぶつけて実際の現場から感情的ルールで自由度を奪ってしまい、逆に身近で,直接的な関わりにおいて主観をぶつけ合うべきところでその係わり合いから逃げシステムや制度にそれを丸投げしてしまっているような...

確かにいじめに完全な解決は無いのかもしれないが,もし本気でイジメが「引起す深刻さ」を少しでも解消しようと思うなら、これは逆でなければならないように思うのだけれど...

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2006/11/05

「核武装の妥当性」の議論の妥当性

日本の核武装に関する議論がある。
そこには「核武装の妥当性」についての議論と「『核武装の妥当性』の議論の妥当性」についての議論とが有るように思う。
中川さんは前者を公言したことによって、後者で非難されているように思う。

私は理窟の上では「核武装の妥当性」を議論することに不都合があるとして非難してしまうと(国内的に)「公正性」を欠く可能性があることを無視はできない。

ただ一方で「核武装の妥当性」を議論することが「単なる議論」で済むとは思っていない。
その議論の結論がどうであれ、「議論がある」ことによる「影響」が無いと観念していたり、その「影響」を不当だと主張することを当然だと感じていたりしてしまうことがあるとしたら、それは妥当ではないと思う。

それは「切実さ」(主観)を抜きにした「核武装の妥当性議論」が可能だとは思わないからだ。
「切実さ」つまり「脅威」を共有する日本人にとって概ね客観的な議論は可能かもしれないが、その前提を共有できないその外に対しては客観的ではありえない。

当然、その外に在る諸外国はそれぞれの立場(彼らの主観・切実さ)でその事態を受け止めるのであって、その受け止め方によって様々な反応を示すだろうし,それが「影響」として日本に返ってくる来る事も在るだろう。
そこに「日本人にとっての議論の公正性」を持ち出し、それを不当だとして排除することはできない。

もちろん日本が自国のあり方を議論することは日本の問題であって諸外国がその議論に口を挟む事があればそれは筋違いであろうし、それに干渉してくるとしたら内政干渉と言うことになるだろうが,同様に彼らが彼らの主観・切実さでそれを受け止めることも、その主観・切実さを拠り所にして対応を採ることも当然のことで、それに口をはさむこともまた筋違いであり内政干渉ということになろう。

だから、「核武装の妥当性」を議論することにより、諸外国に「影響」を及ぼすこと、「反応」があること、そしてそこには日本にとって好ましくない物も含まれることを「あたりまえの事」として受け止めなければならない。

つまり、この議論をすることで日本を取り巻く「環境」は変り、「現実」も変る。
好むと好まざるとに関わらず、議論するだけで、新たな現実を積み上げる事になり、現実的であろうとすればするほどその積み上げた現実に未来は拘束されるのだと言うことは忘れてはいけないと思う。

このことを忘れずに考慮しなければいけないという現実的な思慮から
「核武装の妥当性の議論の妥当性」についての議論
にも充分「妥当性」はあると私は思う。

これまでのところ専門家も政治家も、その実情を知るものは「核武装」を現実的なものとは捉えていないようだから、そのような議論があっても「非核」に関する既定路線は変ることは無いだろうと思っているようであるが、今の「世論もマスメディア」も「専門家や政治家」が思う以上に「切実さ」「シンプルさ」に敏感であり、そこに醸し出される雰囲気が新たな「現実」を生み、外からもたらされる影響が生み出す「現実」と相まって、その「新たな現実」が専門家や政治家が予想だにしなかった事態を引起すこともあるのだということも「過去」にそのようなことがあったことを知っている我々は警戒しなければいけないのではなかろうか?

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