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2006/10/17

経緯の受け取り方

日本人である私は若い頃捕鯨問題で
「鯨の生態系を狂わしたとしたというならば、かつて日本人やイヌイットが自然と共に必要充分な量の鯨を捕獲してつつましく生活している中で、その脂だけが欲しくて鯨を乱獲して鯨の生態系に危機をもたらしたのはロシアやアメリカじゃないか。」
とか
「鯨は哺乳類で,しかも優れた知能を有しているから保護しなければいけないと言いながら様々な哺乳類を大量に捕獲し肉食を続けているじゃないか。」
「日本人は開国を迫られるまで基本的に肉食自体さえ控えていたんだ。」
とか思い、アメリカやカナダにいた時などによくそんな論争を彼らに仕掛けたりした。

私は別に鯨を食べなくても生存を脅かされるわけでもなんでもないのだけれども,個体数の激減の経緯を省みることも無く、鯨を食すという習慣・伝統をそのような習慣・伝統を持たないがゆえに「いかなる鯨の食用捕獲」も「間違っている」と平気で決め付けてくる,そんな彼らに腹立たしさを感じていた。
中には「鯨の捕食」というだけで「野蛮」と決め付ける人もいたから尚更だったんだけど。

でも、上のような論法はあまり彼らには受け入れられない。
「俺たちが捕獲したから生息数が激減したのであって俺たちにそれを非難する資格は無い」なんて発想はあまりしない。
確かに経緯としては乱獲していたのは彼らかもしれないが、だからといって生態系が崩れようとしている今、それを保護しようとする事を妥当だと思えばそれをするのに躊躇をしないのが彼らの思考の仕方だ。

もちろん全ての人がそうであるわけではないがそのような傾向がある。
それが、日本人である私には正直言って「傲慢」に映る。

あちらで生活すれば、このような思考傾向にあらゆるところで出くわす事になるだろう。
ただ、確かに傲慢には見えるのだが、この思考方法は何か良いと思う方向に変えるにはやはり合理的だろうと思う。

このような思考傾向の違いはきっと歴史観にも大きく影響していると思う。
日本は西欧列強の植民地主義によるアジアの惨状を目にし、西洋化しなければ主権を維持できないと言う切実な現実に直面しその道を選んだ。
そして、そのフォームにのっとって、彼らがしたようにそれに倣った。
しかし、彼らが第一次大戦を経てその惨劇を目にしその帝国主義・植民地主義的手法を転換しようとしても尚、日本は後進ゆえ彼らの既得権をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
そして、アジアに対する帝国主義や植民地主義に対する理不尽を跳ね返そうとしたにも拘わらず,その意に反しいつの間にやら自らがアジアに対する侵略者の立場に置き換えられてしまったのである。
ここでも「俺たちのかつての植民地主義による侵略で世界に理不尽を齎したのだから俺たちに日本を非難する資格は無い」なんて発想はしない。
彼らにとって経緯はどうあれ間違っている(と観念した)事を改める事に躊躇は無い。
もちろん戦略的(既得権を守るといった)な意図が無いともいえないが、基本的な部分では恐らくそれは悪意があるわけでもなく、しごく当然な物(彼らの思考傾向で思考した妥当な結果)として捉えているのだと思う。

でも、日本人からすれば、その経緯により既得権を得ているのにその経緯を顧みることも自責の念を持つことも無く日本を断罪(極東裁判もそう)する姿に傲慢さを感じ不当感を感じてしまうのだろう。
歴史修正主義はそこへの反発だと思う。

この違いは思考傾向の違いによるところが大きいのだと思う。

これは過去に彼らの都合で(国境の)線引きを行った中東で起きている様々な問題に対しても、彼ら以外がその経緯を問題に思うほど彼ら自身は問題には思っていないのもそうだと思う。

イラクでフセイン政権が台頭した影にアメリカ自身のてこ入れがあったと言う経緯にそれほど関心を持たないのもそうだろうし、パレスチナでイスラエルが彼らの思惑で建国されたことによってパレスチナ人が理不尽を受けてきた経緯に関心を向けないのもそうかもしれない。
経緯はともかくフセインが今していること(開戦直前にしていたこと)が間違っているのであり,パレスチナ人が今テロのような抵抗をしているのが間違っているのだから「成敗しよう」と思考する傾向は強いはず。

日本の難しいところは(欧)米化された部分とオリジナルの部分が同居しているところだと思う。

極東裁判を「不当」だと思おうとするのはオリジナルの部分を根拠にしていて,中韓に対して「正当性」を主張しようとするのは(欧)米化された部分を根拠にしているように思える。
つまり前者は(自らが観念している)「経緯」を斟酌してもらいたいという情感で、後者は(先方が観念している)「経緯」を廃してもらいたいという合理性。
そこにどちらか一方への整合性は無く、かなりご都合主義で使い分けている。
構図としては日本に向けられる合理性に対する反発から前者(情感)が、日本に向けられる情感に対する反発から後者(合理性)がそれぞれ誘起されているようなのだけれども、日本に向けられる合理性([欧]米)に対して誘起されているはずの情感を、そこに向けるわけにも行かない事情により屈折した形で一方の情感(中韓)にぶつけてしまっているようなところが有る。


私は思想的に非(欧)米である日本の立場として情感の部分と合理性の部分が共存しバランスをとりながらそれを維持しようとするのは難しいけれどもけして悪いことばかりだとは思っていない。
それは情感の欠いた合理性が既得権を持たない後進国で不満や不合理を生みそれがテロや内戦の原因にもなっていると思うし、合理性を欠いた情感が無用な対立を先鋭化させているところもあると思っているので,その両方に対しその立場を理解できると言う意味でユニークでありえるからだ。
つまり、合理性を押し付けられる側の立場を代弁することも、情感に苛立つ側の立場も代弁することができるという事。

でも、両方が共存しているだけでも一般的に見れば不可解なのに、それを向ける相手により自国のご都合主義でそれ使い分けていたら両方の側からただ単に中途半端で信用できない国として見られてしまうだけなのではなかとも思う。
もしそうならばむしろ割り切ってどちらかに整合性をつけていくほうがよほどマシだとは思うのだけれど、やはりそれもなんか惜しい。(その場合は合理性に整合性を付ける事になり「美しい国」などとは言っていられなくなるとは思うが。)

安倍総理の方針にも情感と合理性が同居しているが、それが「どのように」内在しているかで見るのもおもしろいと思う。

北朝鮮問題も核問題やそれへの制裁、拉致被害者問題等々、情感と合理性がどのように織り成されているか、各国の政策と比較してもおもしろい。

日本と韓国はその錯綜振りが良く似ているなと私などは思うのだけれど。

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