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2006/10/13

もし銃を突きつけられたら

北朝鮮の核実験に直面するという事態を「切実さ」の中から見れば目の前の事が全てに見える。

その時、「銃を突きつけられ、まさに撃たれようとしている自分」を切実にイメージしているかもしれない。
事態をこのようにイメージすればその時は戦うしかないではないかという意見(論法)もよく目にする。
私自身も「脅威」に対する自身の不安を見つめればそのようなイメージを抱えていないといえばウソになる。

でも、もしそれをイメージするならば、自分の手が何を握っているかも確認する必要がある。
さらに自分の周りにその相手にマシンガンを構えて私を守ってくれている者がいることも思い出していい。
周りにいる誰がその相手を睨み付け、誰が同情の目を向け、誰がそ知らぬ顔をしているかも観察しても良い。
ついでに余裕があれば自分がどんな形相で相手をにらみつけているかもそのイメージに加えるといい。
このような中で,どのような立場が優勢で、それが故にそこに「正当性」を見出す事もあるかもしれない。

ただ,このような優位であるとか正当性であるとかといった価値判断の一方で、このような状況で誰が一番切羽詰った切実な形相をしているかを見定める必要はあるのではないだろうか?


そんな構図(イメージ)の中でも確かに自分は危険な最前列にいる。

でも、これから起こる事態は「私」が思う「なぜ今の事態が現出したか」「誰が正しいか」なんてことで決まるのではなく、「今まさにここにある状態」こそがそれを決めるのではないかと思う。

全体の構図(状態)をイメージすれば、むしろ最初の「喩え」はその相手(北朝鮮)の心情にこそピッタリ合うものではなかろうか?
この構図の中でそれを俯瞰した時、誰がもっとも切実に「銃を突きつけられている」と観念していると見るのが妥当なのであろうか?

「銃を突きつけられ、まさに撃たれようとしている自分」という「固定された前提」により突きつけられる仮定は条件を排除する仮定である。
条件がいかようであっても、ある方向性を持つ答えを(論理とは別の切実さにより)暗黙の内に強いる。
何しろ「切実さ」「評価」が既に論理の前提になっているのだから。
それは、「私の立場」で言おうと「相手の立場」で言おうと変わりようがない。

自分が銃を突きつけられ,まさに撃たれようとしている時にはそれにトコトン抵抗するのがあたりまえと思ってしまうのに,相手が同じ様な状況に追い込まれたときにはその相手が抵抗するよりも妥協するだろうと思ってしまうのはあまりに都合の良すぎる論理展開ではなかろうか?
この都合の良い解釈を互いに持ってしまう状態が,チキンレースの構図だと思う。

その「比喩」が現実的であると思えば思うほど、そのような解釈はジレンマに陥る。


これがジレンマとならない状況があるとすればどんな状況だろう?

日本人である私は相手(北朝鮮)は周囲から「銃など突きつけられていない」のに「銃を突きつけくる」から「銃を突きつけねばならぬのだ」と思っている。
一方、そうであるにも拘わらず,相手はむしろコチラ「側」が先に「銃を突きつけている」と確信している。
どちらかが間違っているのであればジレンマはない。
つまりどちらかの「銃を突きつけられている」という「前提」に妥当性が無ければジレンマはない。
「銃を突きつけられている」と思わせる「主権を脅かすとして抽出された諸々の事実」と、その事実が「まさに撃たんとしている」という切実さを伴う「評価」に妥当性が無ければジレンマにはならない。
「私」としては、相手が持つその「事実」や「評価」こそが事実無根であり不当であるとしたいわけである。
が、「私」がどう思おうとその通りには相手は評価したりしない。
「私」には無害な「私の側」は別に真理でも何でもなく、ただ私の立場で「無害」で「無自覚」でいられるに過ぎない。
どのような事実に目が向くか、その事実をどのように評価するかは環境・経緯により生み出される「切実さ」の問題で、論理的に白黒つけられる代物ではなさそうである。

このような「切実さ」を根拠に「脅威」を語っている限りジレンマが消えることは無いように思う。
だから、上記のような比喩で物事をシンプル化して固定し、「切実さ」を先鋭化する試みは個人的には好ましくないと思っている。

圧力を「実」のあるものにしたければ尚更の事,このような「切実」と「切実」が先鋭化しないように相手も自分も冷静に思考できる環境・逃げ道を注意深く創出・維持しながら我慢強く進めていかなければならないと思う。

これは今の事態を紛争や戦争に発展させない事を前提にした話で、別に紛争や戦争になっても致しかたないという前提であれば、それはもちろんその限りではないけど。


とはいっても、それ以前にこの「たとえ話」で言うならば、銃を突きつけている相手やそれを取り囲む夫々を一人称として扱い、それが実際は多人称であると言うことを考慮に入れていない(国を擬人化してしまった)時点で破綻しているのではないかなぁとも思うのだけれど...どうなんでしょうね。

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