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2006/10/10

北朝鮮の地下核実験

北朝鮮による地下核実験が現実の物となったようだ。

計算づくの実験なのか、それとも切羽詰っての実験なのか。
情報の限られる私のような一般人には到底分からない。
色々な人がもっともらしく色々な事を言う。
でも実際のところは分からない。

よく分からないから、余計不気味さを感じる。


世の事件は大部分の当事者にとっては合理的に起こらない。
多くの人にとって合理的に考えれば起こりそうもないと思うことが起きるから事件になる。
発生した事件に理由がつくのは大抵その事件が起きた後だ。

日本がハルノートを受けて追い詰められた時点の戦力、戦略,物量等を合理的に綿密に検証したとしたら日本が対米戦争に踏み切ることを予期できただろうか?
人の持つ「切実さ」(不合理)を理解、もしくは感知しないところにこの予期の可能性は無いのではないかと思う。
日本は「切実さ」とそれが生み出すかもしれない「可能性」に魅せられた。
死をも厭わないという非合理な「切実さ」に魅せられた。

「合理性」が「切実さ」の持つ「意味」「意義」に負ける。
「事実」が「概念」に負ける。
こんな時に予期せぬ事件・事故が起きる。

北朝鮮が個人主義の国ならば人々の「切実さ」は分散し内部分裂を起こすかもしれない。
でも、北朝鮮が名目だけでなく実質的にも集団主義ならばかつての日本のように「切実さ」は国家の物である。
そして、メディアも政府も「個人の自由のないそのような独裁国家」だから危険だという。

「国の為に身をささげる事を美しい」と言う「切実さ」をもっとも理解しているはずの人たちが、同じ概念を共有しているように思える北朝鮮にその「美しさ」を証明する機会を齎す「切実さ」を圧力で演出しようとする。

その「切実さ」が何を引起す事を期待しているのだろうか?
そしてその予見ははたして正しいのだろうか?

今回の北朝鮮の核実験が追い詰められ切羽詰って行われたものである事を期待し、心地よく思う人もいるかもしれないが,私には計算づくで「核実験」をしてくれていたほうがいくらかはマシだと思えてくる。

もちろん,限定された情報しかもたない私には分からない事ばかりで本当のところは知りようがないのだが....

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