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2006/10/18

イジメ自殺

イジメ自殺の問題がマスメディアで色々取り上げられているけれども、自殺が残された唯一の消極的報復手段のように子供たちに観念されてしまうのではないかと少し心配になる。
私も子供の頃親にしかられたりした時に、自分が死んだら親が悲しむに違いないとか、そうなればどんなに自分がショックを受けたか分かってくれるだろうなどと言った親不孝な思いに刈られたことがある。
本当に死のうなんて思ってやしなかったのだけれども、子供だから短絡的にそんなことを想像したりする。
追い詰められた子供が最後の手段として唯一その思いを表明できるのが「自殺」であったならこれほど悲しい事は無い。

イジメは「いじめる側の意識の問題」「いじめられる側の内面の問題」「それを取り巻く環境の問題」が相互に作用しながら深刻化してきているような気がする。
まだ人格の形成途上である子供の世界で起きる問題であることを考慮に入れると「それを取り巻く環境の問題」が先ず始めにあり、それに続いて「いじめる側に意識の問題」そして「いじめられる側の内面の問題」と考えられていくのが順当なのだと思う。
ただ、だからと言って「環境の問題」に固執しすぎると「いじめる側の意識」がそこに責任転嫁して増長することもあるだろうし「いじめられる側の内面」も自分に責任が無いとの意識から一層受動的になってしまう可能性も有る。
また「いじめる側の意識」に固執しすぎると子供を萎縮させたり、イジメが隠蔽されより陰湿化されたりすることもあるだろう。
もし「いじめられる側の内面」だけが強調されることにでもなれば「環境」「いじめる側」の無責任化を助長することにもなり、これはモラルの面から見れば最悪である。
要因が独立ではなく相互的であるというところに問題の複雑さがあるように思う。

このようなイジメ自殺のような事件に対して(直接的・間接的当事者ではない)社会が一般論的に関わる事ができるのは、「それを取り巻く環境」についてぐらいなのではないかと思う。
「いじめる側の意識の問題」や「いじめられる側の内面の問題」は夫々の個別に関わる直接的・間接的当事者が真剣になって取り組んでいく方が良いのではないだろうか。

今はマスメディアを通じて個別の事件に関して被害者家族の「悲しみ」だけでなく「怒り」までも衝撃的に伝播され、それによって「いたわり」よりむしろそれが「憎しみ」として増幅し、その複製された膨大なエネルギーが「制裁」のような形でその現場に集中して向けられてしまう。
そのような増幅された「マス」の力への恐怖・警戒が「隠蔽」へと向かわせ、むしろ現場での問題解決を疎外しているようにも思う。

教師に不適切な面があればそれは非難されるべきだと思う。
学校の対応に不適切な面があればそれは非難されるべきだと思う。
我が子を失った親やその関係者ががかれらに切実な「怒り」「恨み」の念を持つことは当然であり、仮にどんなに取り乱そうともいささかもおかしなことだとは思わない。

しかし、マスメディアで伝えられた日本中の津々浦々から放たれる膨大なエネルギーとしての「怒り」がそこ(特に個人)に「制裁」として与えられることには私は疑問がある。
できることなら、この膨大なエネルギーが遺族に向けられる「いたわり」であったらと思う。

今回の教師に見られる類の「不適切さ」は彼だけの物ではないはず。
それを自らの「切実さ」で免責・見ぬ振りをしていることもあるはず。

様々な問題もひきおこすが、それでもマスメディアが事件や事実を正しく報道することは大事だと思う。
その情報に含まれる構図を適切に抽出して、その抽出した構図で身の回りを見回せたらと思う。
身近なところにある「不適切さ」を夫々が夫々のコミュニティーで見直し、そこに真剣にコミットする方向に向けられたらと思う。
そして、その情報に個別性を越えて一般化できるものがあるのなら、その時は(個に対する糾弾ではなく)「環境」「システム」の問題として大いにその「是非」を議論すれば良いと思う。

「いじめる側の意識の問題」「いじめられる側の内面の問題」「それを取り巻く環境の問題」はいずれが抜けても改善には繋がらない。
その進め方も足並みが揃わなければまた別の問題を生む。
そして、夫々の問題に対して誰がどのように担っていくのが適切なのかも慎重に見極めていかなければいけないのだと思う。

そんなことを最近の一連のイジメ自殺報道を見て感じた。

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2006/10/17

経緯の受け取り方

日本人である私は若い頃捕鯨問題で
「鯨の生態系を狂わしたとしたというならば、かつて日本人やイヌイットが自然と共に必要充分な量の鯨を捕獲してつつましく生活している中で、その脂だけが欲しくて鯨を乱獲して鯨の生態系に危機をもたらしたのはロシアやアメリカじゃないか。」
とか
「鯨は哺乳類で,しかも優れた知能を有しているから保護しなければいけないと言いながら様々な哺乳類を大量に捕獲し肉食を続けているじゃないか。」
「日本人は開国を迫られるまで基本的に肉食自体さえ控えていたんだ。」
とか思い、アメリカやカナダにいた時などによくそんな論争を彼らに仕掛けたりした。

私は別に鯨を食べなくても生存を脅かされるわけでもなんでもないのだけれども,個体数の激減の経緯を省みることも無く、鯨を食すという習慣・伝統をそのような習慣・伝統を持たないがゆえに「いかなる鯨の食用捕獲」も「間違っている」と平気で決め付けてくる,そんな彼らに腹立たしさを感じていた。
中には「鯨の捕食」というだけで「野蛮」と決め付ける人もいたから尚更だったんだけど。

でも、上のような論法はあまり彼らには受け入れられない。
「俺たちが捕獲したから生息数が激減したのであって俺たちにそれを非難する資格は無い」なんて発想はあまりしない。
確かに経緯としては乱獲していたのは彼らかもしれないが、だからといって生態系が崩れようとしている今、それを保護しようとする事を妥当だと思えばそれをするのに躊躇をしないのが彼らの思考の仕方だ。

もちろん全ての人がそうであるわけではないがそのような傾向がある。
それが、日本人である私には正直言って「傲慢」に映る。

あちらで生活すれば、このような思考傾向にあらゆるところで出くわす事になるだろう。
ただ、確かに傲慢には見えるのだが、この思考方法は何か良いと思う方向に変えるにはやはり合理的だろうと思う。

このような思考傾向の違いはきっと歴史観にも大きく影響していると思う。
日本は西欧列強の植民地主義によるアジアの惨状を目にし、西洋化しなければ主権を維持できないと言う切実な現実に直面しその道を選んだ。
そして、そのフォームにのっとって、彼らがしたようにそれに倣った。
しかし、彼らが第一次大戦を経てその惨劇を目にしその帝国主義・植民地主義的手法を転換しようとしても尚、日本は後進ゆえ彼らの既得権をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。
そして、アジアに対する帝国主義や植民地主義に対する理不尽を跳ね返そうとしたにも拘わらず,その意に反しいつの間にやら自らがアジアに対する侵略者の立場に置き換えられてしまったのである。
ここでも「俺たちのかつての植民地主義による侵略で世界に理不尽を齎したのだから俺たちに日本を非難する資格は無い」なんて発想はしない。
彼らにとって経緯はどうあれ間違っている(と観念した)事を改める事に躊躇は無い。
もちろん戦略的(既得権を守るといった)な意図が無いともいえないが、基本的な部分では恐らくそれは悪意があるわけでもなく、しごく当然な物(彼らの思考傾向で思考した妥当な結果)として捉えているのだと思う。

でも、日本人からすれば、その経緯により既得権を得ているのにその経緯を顧みることも自責の念を持つことも無く日本を断罪(極東裁判もそう)する姿に傲慢さを感じ不当感を感じてしまうのだろう。
歴史修正主義はそこへの反発だと思う。

この違いは思考傾向の違いによるところが大きいのだと思う。

これは過去に彼らの都合で(国境の)線引きを行った中東で起きている様々な問題に対しても、彼ら以外がその経緯を問題に思うほど彼ら自身は問題には思っていないのもそうだと思う。

イラクでフセイン政権が台頭した影にアメリカ自身のてこ入れがあったと言う経緯にそれほど関心を持たないのもそうだろうし、パレスチナでイスラエルが彼らの思惑で建国されたことによってパレスチナ人が理不尽を受けてきた経緯に関心を向けないのもそうかもしれない。
経緯はともかくフセインが今していること(開戦直前にしていたこと)が間違っているのであり,パレスチナ人が今テロのような抵抗をしているのが間違っているのだから「成敗しよう」と思考する傾向は強いはず。

日本の難しいところは(欧)米化された部分とオリジナルの部分が同居しているところだと思う。

極東裁判を「不当」だと思おうとするのはオリジナルの部分を根拠にしていて,中韓に対して「正当性」を主張しようとするのは(欧)米化された部分を根拠にしているように思える。
つまり前者は(自らが観念している)「経緯」を斟酌してもらいたいという情感で、後者は(先方が観念している)「経緯」を廃してもらいたいという合理性。
そこにどちらか一方への整合性は無く、かなりご都合主義で使い分けている。
構図としては日本に向けられる合理性に対する反発から前者(情感)が、日本に向けられる情感に対する反発から後者(合理性)がそれぞれ誘起されているようなのだけれども、日本に向けられる合理性([欧]米)に対して誘起されているはずの情感を、そこに向けるわけにも行かない事情により屈折した形で一方の情感(中韓)にぶつけてしまっているようなところが有る。


私は思想的に非(欧)米である日本の立場として情感の部分と合理性の部分が共存しバランスをとりながらそれを維持しようとするのは難しいけれどもけして悪いことばかりだとは思っていない。
それは情感の欠いた合理性が既得権を持たない後進国で不満や不合理を生みそれがテロや内戦の原因にもなっていると思うし、合理性を欠いた情感が無用な対立を先鋭化させているところもあると思っているので,その両方に対しその立場を理解できると言う意味でユニークでありえるからだ。
つまり、合理性を押し付けられる側の立場を代弁することも、情感に苛立つ側の立場も代弁することができるという事。

でも、両方が共存しているだけでも一般的に見れば不可解なのに、それを向ける相手により自国のご都合主義でそれ使い分けていたら両方の側からただ単に中途半端で信用できない国として見られてしまうだけなのではなかとも思う。
もしそうならばむしろ割り切ってどちらかに整合性をつけていくほうがよほどマシだとは思うのだけれど、やはりそれもなんか惜しい。(その場合は合理性に整合性を付ける事になり「美しい国」などとは言っていられなくなるとは思うが。)

安倍総理の方針にも情感と合理性が同居しているが、それが「どのように」内在しているかで見るのもおもしろいと思う。

北朝鮮問題も核問題やそれへの制裁、拉致被害者問題等々、情感と合理性がどのように織り成されているか、各国の政策と比較してもおもしろい。

日本と韓国はその錯綜振りが良く似ているなと私などは思うのだけれど。

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2006/10/13

もし銃を突きつけられたら

北朝鮮の核実験に直面するという事態を「切実さ」の中から見れば目の前の事が全てに見える。

その時、「銃を突きつけられ、まさに撃たれようとしている自分」を切実にイメージしているかもしれない。
事態をこのようにイメージすればその時は戦うしかないではないかという意見(論法)もよく目にする。
私自身も「脅威」に対する自身の不安を見つめればそのようなイメージを抱えていないといえばウソになる。

でも、もしそれをイメージするならば、自分の手が何を握っているかも確認する必要がある。
さらに自分の周りにその相手にマシンガンを構えて私を守ってくれている者がいることも思い出していい。
周りにいる誰がその相手を睨み付け、誰が同情の目を向け、誰がそ知らぬ顔をしているかも観察しても良い。
ついでに余裕があれば自分がどんな形相で相手をにらみつけているかもそのイメージに加えるといい。
このような中で,どのような立場が優勢で、それが故にそこに「正当性」を見出す事もあるかもしれない。

ただ,このような優位であるとか正当性であるとかといった価値判断の一方で、このような状況で誰が一番切羽詰った切実な形相をしているかを見定める必要はあるのではないだろうか?


そんな構図(イメージ)の中でも確かに自分は危険な最前列にいる。

でも、これから起こる事態は「私」が思う「なぜ今の事態が現出したか」「誰が正しいか」なんてことで決まるのではなく、「今まさにここにある状態」こそがそれを決めるのではないかと思う。

全体の構図(状態)をイメージすれば、むしろ最初の「喩え」はその相手(北朝鮮)の心情にこそピッタリ合うものではなかろうか?
この構図の中でそれを俯瞰した時、誰がもっとも切実に「銃を突きつけられている」と観念していると見るのが妥当なのであろうか?

「銃を突きつけられ、まさに撃たれようとしている自分」という「固定された前提」により突きつけられる仮定は条件を排除する仮定である。
条件がいかようであっても、ある方向性を持つ答えを(論理とは別の切実さにより)暗黙の内に強いる。
何しろ「切実さ」「評価」が既に論理の前提になっているのだから。
それは、「私の立場」で言おうと「相手の立場」で言おうと変わりようがない。

自分が銃を突きつけられ,まさに撃たれようとしている時にはそれにトコトン抵抗するのがあたりまえと思ってしまうのに,相手が同じ様な状況に追い込まれたときにはその相手が抵抗するよりも妥協するだろうと思ってしまうのはあまりに都合の良すぎる論理展開ではなかろうか?
この都合の良い解釈を互いに持ってしまう状態が,チキンレースの構図だと思う。

その「比喩」が現実的であると思えば思うほど、そのような解釈はジレンマに陥る。


これがジレンマとならない状況があるとすればどんな状況だろう?

日本人である私は相手(北朝鮮)は周囲から「銃など突きつけられていない」のに「銃を突きつけくる」から「銃を突きつけねばならぬのだ」と思っている。
一方、そうであるにも拘わらず,相手はむしろコチラ「側」が先に「銃を突きつけている」と確信している。
どちらかが間違っているのであればジレンマはない。
つまりどちらかの「銃を突きつけられている」という「前提」に妥当性が無ければジレンマはない。
「銃を突きつけられている」と思わせる「主権を脅かすとして抽出された諸々の事実」と、その事実が「まさに撃たんとしている」という切実さを伴う「評価」に妥当性が無ければジレンマにはならない。
「私」としては、相手が持つその「事実」や「評価」こそが事実無根であり不当であるとしたいわけである。
が、「私」がどう思おうとその通りには相手は評価したりしない。
「私」には無害な「私の側」は別に真理でも何でもなく、ただ私の立場で「無害」で「無自覚」でいられるに過ぎない。
どのような事実に目が向くか、その事実をどのように評価するかは環境・経緯により生み出される「切実さ」の問題で、論理的に白黒つけられる代物ではなさそうである。

このような「切実さ」を根拠に「脅威」を語っている限りジレンマが消えることは無いように思う。
だから、上記のような比喩で物事をシンプル化して固定し、「切実さ」を先鋭化する試みは個人的には好ましくないと思っている。

圧力を「実」のあるものにしたければ尚更の事,このような「切実」と「切実」が先鋭化しないように相手も自分も冷静に思考できる環境・逃げ道を注意深く創出・維持しながら我慢強く進めていかなければならないと思う。

これは今の事態を紛争や戦争に発展させない事を前提にした話で、別に紛争や戦争になっても致しかたないという前提であれば、それはもちろんその限りではないけど。


とはいっても、それ以前にこの「たとえ話」で言うならば、銃を突きつけている相手やそれを取り囲む夫々を一人称として扱い、それが実際は多人称であると言うことを考慮に入れていない(国を擬人化してしまった)時点で破綻しているのではないかなぁとも思うのだけれど...どうなんでしょうね。

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2006/10/10

北朝鮮の地下核実験

北朝鮮による地下核実験が現実の物となったようだ。

計算づくの実験なのか、それとも切羽詰っての実験なのか。
情報の限られる私のような一般人には到底分からない。
色々な人がもっともらしく色々な事を言う。
でも実際のところは分からない。

よく分からないから、余計不気味さを感じる。


世の事件は大部分の当事者にとっては合理的に起こらない。
多くの人にとって合理的に考えれば起こりそうもないと思うことが起きるから事件になる。
発生した事件に理由がつくのは大抵その事件が起きた後だ。

日本がハルノートを受けて追い詰められた時点の戦力、戦略,物量等を合理的に綿密に検証したとしたら日本が対米戦争に踏み切ることを予期できただろうか?
人の持つ「切実さ」(不合理)を理解、もしくは感知しないところにこの予期の可能性は無いのではないかと思う。
日本は「切実さ」とそれが生み出すかもしれない「可能性」に魅せられた。
死をも厭わないという非合理な「切実さ」に魅せられた。

「合理性」が「切実さ」の持つ「意味」「意義」に負ける。
「事実」が「概念」に負ける。
こんな時に予期せぬ事件・事故が起きる。

北朝鮮が個人主義の国ならば人々の「切実さ」は分散し内部分裂を起こすかもしれない。
でも、北朝鮮が名目だけでなく実質的にも集団主義ならばかつての日本のように「切実さ」は国家の物である。
そして、メディアも政府も「個人の自由のないそのような独裁国家」だから危険だという。

「国の為に身をささげる事を美しい」と言う「切実さ」をもっとも理解しているはずの人たちが、同じ概念を共有しているように思える北朝鮮にその「美しさ」を証明する機会を齎す「切実さ」を圧力で演出しようとする。

その「切実さ」が何を引起す事を期待しているのだろうか?
そしてその予見ははたして正しいのだろうか?

今回の北朝鮮の核実験が追い詰められ切羽詰って行われたものである事を期待し、心地よく思う人もいるかもしれないが,私には計算づくで「核実験」をしてくれていたほうがいくらかはマシだと思えてくる。

もちろん,限定された情報しかもたない私には分からない事ばかりで本当のところは知りようがないのだが....

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2006/10/01

所信表明演説

安倍新総理の所信表明演説を聞いた(見た)。
以前見たpdfのパンフにあったものを殆ど踏襲しているような感じだったが、安倍総理の言う「美しい国」が4つの柱として述べられていたのでちょっと感じたことを書いてみたい。

「美しい国」の4つの柱
1.文化、伝統、自然、歴史を大切にする国
2.自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国
3.未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国
4.世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国

夫々を個別に取り上げれば分からないという事も無いのだけれども、これらは..なんと言うか「自己自家中毒」を起こしそうな気がしてならない。
これらは互いに根本的な部分に対立的概念が含まれていて、現実的には優先順位と妥協、あるいは曖昧さによる包含等によって取り組まざるを得ない課題だと思う。

「1」を立てるにはオープンにするべきところと守らねばならないところの何らかの「境界」を設定しなければいけなくなると思う。
あるいは事実を離れて新たな共同幻想としての概念を打ち立て、その概念によりこれらを包含してグレーを白と言い立てるなどの方法が必要になりそう。
グローバリズムと1との関係はそのシステム上の特徴から考えれば、そのまま欧州型か米国型の違いを意味しそうな気がするのだが違うだろうか?
所信演説で「3」について述べているところを聴いていると、「未来に向かって成長」していく手段は、より「自由な自助型市場原理」を志向しているように思える。
つまり、米国型グローバリゼーションだ。

普通に考えれば「1」に重点を置けば結果的に(形の上で)欧州型グローバルを志向することになり、「3」が志向する自由な自助型市場原理(オープンスタイル)に重点を置けば米国型グローバルを志向する事になるように思える。

でも、3を実現する手段、つまり米国型グローバリズム重視を「既定事実」として考えざるを得ない政府の立場を考えれば、対外的には米国型(対外的)なのだけれども国内的にはあたかも欧州型システムを装わなければいけないといったトリッキーなものになってしまいそう。
(文化、伝統、自然、歴史を守ろうとする時に自由・民主主義以前の歴史を持つ欧州や日本と、それ以前の歴史の無い人工国家的アメリカとの間でグローバル化に対するアプローチが違ってもそれは当然だとも思うのだが...)
それはなんか、実体は(国内的には)社会主義的(共助的)社会であったにも拘わらず、(対外的には)資本主義国家である事を装っていた高度成長期とその矛盾が噴出した円高以降の日本の姿を思い起こさせる。

もし、このような状況が現れれば、「1」は国内的な(しかも対外向けとの整合性・根拠の薄い、信頼を生みにくい、形式的)パフォーマンスに終ってしまうのではなかろうか。
これを共同幻想で辻褄を合わせることができても、「事実」がそこに「無理」を生み、手段として用いたはずのその「共同幻想」がもたらすであろう「それを希求しようとする切実さ」を回収しきれなくなるのではないか。

「2」は「2」で米国型を志向することが前提の「3」との兼ね合いでこれも厳しい選択を迫られそう。
この「2」で謳われている「規律」のあり方は所信表明演説の後半を聴くと,個人主義を基調とするのではなく共同体主義を志向しているように見受けられる。
とすると「共助」と「自助」が真っ向からぶつかり合ってしまわないか?
恐らくここでも現実的な選択として米国保守的「自助」により重点が置かれ、共同体幻想に共助を夢想する「切実さ」が(国内的に)自己自家中毒を起こしそう。

このようなダブルスタンダードこそが国内的には「誇り」を,国外的には「信頼,尊敬,リーダシップ」つまり総理が望む「4」に破綻をきたす要因になりはしないか?

演説の最後の方で総理が「美しい国」の姿として引用されるアインシュタインの言葉「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」はどう考えてもプラグマティズムや米国式市場経済原理との相性は悪そうだ。

「自助」「再起」の前提となる「多様性」についても、これは「日本人の意識」の問題であり,「日本人の意識」は「共有される概念」の話であって、「共有される概念」は納得から生まれるのであって、制度ができても「再現性(事実)」や「整合性」の無いところに真の「多様性」は生まれないと思う。

本気で総理の言う「美しい日本」を志向するなら「既定事実」として前提と見なしている「グローバリズムへのアプローチ」を根本から見直すことから始めなければ実現できないのではなかろうか。

所信表明演説は総理の個人的な理想を表明する場だとおもうので、演説自体はそれはそれでいいのだけれど、このあたりをどのように切り抜けていこうとするのか今後注目してみていきたい。

過去の関連blog内エントリー
多様性
経済至上主義の落とし子
参照リンク
読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」


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