イジメ自殺
イジメ自殺の問題がマスメディアで色々取り上げられているけれども、自殺が残された唯一の消極的報復手段のように子供たちに観念されてしまうのではないかと少し心配になる。
私も子供の頃親にしかられたりした時に、自分が死んだら親が悲しむに違いないとか、そうなればどんなに自分がショックを受けたか分かってくれるだろうなどと言った親不孝な思いに刈られたことがある。
本当に死のうなんて思ってやしなかったのだけれども、子供だから短絡的にそんなことを想像したりする。
追い詰められた子供が最後の手段として唯一その思いを表明できるのが「自殺」であったならこれほど悲しい事は無い。
イジメは「いじめる側の意識の問題」「いじめられる側の内面の問題」「それを取り巻く環境の問題」が相互に作用しながら深刻化してきているような気がする。
まだ人格の形成途上である子供の世界で起きる問題であることを考慮に入れると「それを取り巻く環境の問題」が先ず始めにあり、それに続いて「いじめる側に意識の問題」そして「いじめられる側の内面の問題」と考えられていくのが順当なのだと思う。
ただ、だからと言って「環境の問題」に固執しすぎると「いじめる側の意識」がそこに責任転嫁して増長することもあるだろうし「いじめられる側の内面」も自分に責任が無いとの意識から一層受動的になってしまう可能性も有る。
また「いじめる側の意識」に固執しすぎると子供を萎縮させたり、イジメが隠蔽されより陰湿化されたりすることもあるだろう。
もし「いじめられる側の内面」だけが強調されることにでもなれば「環境」「いじめる側」の無責任化を助長することにもなり、これはモラルの面から見れば最悪である。
要因が独立ではなく相互的であるというところに問題の複雑さがあるように思う。
このようなイジメ自殺のような事件に対して(直接的・間接的当事者ではない)社会が一般論的に関わる事ができるのは、「それを取り巻く環境」についてぐらいなのではないかと思う。
「いじめる側の意識の問題」や「いじめられる側の内面の問題」は夫々の個別に関わる直接的・間接的当事者が真剣になって取り組んでいく方が良いのではないだろうか。
今はマスメディアを通じて個別の事件に関して被害者家族の「悲しみ」だけでなく「怒り」までも衝撃的に伝播され、それによって「いたわり」よりむしろそれが「憎しみ」として増幅し、その複製された膨大なエネルギーが「制裁」のような形でその現場に集中して向けられてしまう。
そのような増幅された「マス」の力への恐怖・警戒が「隠蔽」へと向かわせ、むしろ現場での問題解決を疎外しているようにも思う。
教師に不適切な面があればそれは非難されるべきだと思う。
学校の対応に不適切な面があればそれは非難されるべきだと思う。
我が子を失った親やその関係者ががかれらに切実な「怒り」「恨み」の念を持つことは当然であり、仮にどんなに取り乱そうともいささかもおかしなことだとは思わない。
しかし、マスメディアで伝えられた日本中の津々浦々から放たれる膨大なエネルギーとしての「怒り」がそこ(特に個人)に「制裁」として与えられることには私は疑問がある。
できることなら、この膨大なエネルギーが遺族に向けられる「いたわり」であったらと思う。
今回の教師に見られる類の「不適切さ」は彼だけの物ではないはず。
それを自らの「切実さ」で免責・見ぬ振りをしていることもあるはず。
様々な問題もひきおこすが、それでもマスメディアが事件や事実を正しく報道することは大事だと思う。
その情報に含まれる構図を適切に抽出して、その抽出した構図で身の回りを見回せたらと思う。
身近なところにある「不適切さ」を夫々が夫々のコミュニティーで見直し、そこに真剣にコミットする方向に向けられたらと思う。
そして、その情報に個別性を越えて一般化できるものがあるのなら、その時は(個に対する糾弾ではなく)「環境」「システム」の問題として大いにその「是非」を議論すれば良いと思う。
「いじめる側の意識の問題」「いじめられる側の内面の問題」「それを取り巻く環境の問題」はいずれが抜けても改善には繋がらない。
その進め方も足並みが揃わなければまた別の問題を生む。
そして、夫々の問題に対して誰がどのように担っていくのが適切なのかも慎重に見極めていかなければいけないのだと思う。
そんなことを最近の一連のイジメ自殺報道を見て感じた。
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