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2006/09/17

切実

今日は「はてな」の調子が悪いのでコチラにUPします。

ちなみにこれらは別館「NairFessのメモ」の「感覚遊び」「感覚遊び2」「感覚遊び3」の関連エントリーです。


「その時代に生きた国民の目で歴史を眺める」というのは私もそうしたいと思うし、なぜ日本が周辺国にも,そして自国民にもこれほどの悲劇をもたらしてしまったのかを考えるにもその視点は大事な事だと思う。
恐らく当時には当時で「切実」な事情があったに違いない。
俘虜虐待や虐殺のようなものがあったとしても、それを誘起する「切実さ」はどこかに有ったのかもしれない。
もしこれを戦前の日本が単に「悪」であったとして「忘れてしまえば」、「悪」を根絶した「善」である今の日本はけして間違う事は無いと過信してしまう事だろう。(しかし、私のこの論法はあくまで日本人が自らのことを考える事においてのみ通用する事だと思っている)

もし、その「切実」が形を変えて現在の我々の前に現れた時にどのように対処すれば同じ様な悲劇を生まなくて済むのか、「切実」がいかようにも避けがたいものであるならば、如何にしてその「切実」を寄せ付けずに済むかが日本人がしなければいけない多くの国内外の犠牲者に対する「供養」であり「反省」の要点なのではないかと思う。

でも、それは当時は当時なりに「切実」だったのだから仕方が無いと肯定するという事ではない。
その「切実」の先に「悲劇」があった事実はいささかも否定などできはしないのだから。
もし「切実ならば仕方が無い」とするならば、それはこれからも「切実」により戦争を起こすことも虐殺や虐待を行う事も吝かではないという事になってしまう。

それでは、国民や周辺国の持つ「危惧」はまさにその通りで、それを「過剰反応」と呼ぶには相応しくないと言わなければならない。
そんな事は無いだろうとは思うが「負けた」からいけないのであって戦争をしても負けなければ良いのだなどという理窟が出てくるとしたら(日本に切実を突きつけたわけでもないのに)膨大な被害を受けた近隣諸国が日本を「危険な国」と見なすことになったとしてもそれはあたりまえの事。
そんな事になれば少なくとも現憲法にしても改憲するにしても「平和」という文字をそこに刻む資格は無い。

「切実」はその切実さゆえに、感情に直接訴えかけてくる。
無視しがたい物をそこに抱えている。
だからこそ争いは絶えないのだと思う。

「切実さ」は今この瞬間で私自身の持つもっとも正直で、もっとも確からしく、そして大事なものである。
しかし、その「切実さ」によって起こされた行為は次の瞬間その私自身がもっとも後悔すべき、もっとも愚かな、間違ったものである事を「切実」に思い知らされる事にもなる。

「切実さ」は夫々の中で大事にしつつも、この瞬間に現れた「切実さ」を「美しい言葉」で飾ってシンボルのように固定しないほうがいいのではないか。

シンボルとして固定してしまえば、それが今度は「切実さ」自体を歪め始める。

それが「美しい国へ」という本に出てくる「その時代に生きた国民の目で歴史を眺める」というフレーズを見て「私」が感じたこと。

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2006/09/15

ちょっと遅れたけど9.11

もう5年になるのですね。

当時の映像に映る光景は確かに異常だった。
何かを予感させるものだった。
しかし、現在の姿まではさすがに想像がつかなかった。

当時「なぜ」と多くの人は思っただろうし、私も思った。
その起源を知りたいと思った。
なにがそうさせたのか?

私は当然米国国内でも、それが重要な関心ごとになるものと思っていた。

でも、本当の「なぜ」は省みられることは無かった。
9.11にはそれ以前に「なぜ」は無く、9.11は9.11こそが起源であり、「なぜ」は理由の無い「悪」のなせる技ということに帰結されてしまった。

いまでも、アメリカ人がブッシュ大統領を批判してもこの「なぜ」に立ち返ることは無いだろう。
なぜなら,それを認めることは「今」の超大国アメリカを成り立たせる捨てがたい何かを否定することになるかもしれないから。

確かに9.11そのものはそれ以降現在に至るまでの「テロ」定義とは違い正真正銘の無差別テロだったと思う。
そのことを「悪」と呼ぶことに異存は無いのだが、「悪」と済ましても解決しないものがこの『なぜ』にあるのでは、という思いは今でも私の中にくすぶっている。

それにしても5年経ってみて、その間の米国を外から見ていて、いかに情報というものが操作されるか、そして、いかに人がそれに影響されるかを思い知らされた気がする。
今尚フセインが9.11を支援していたと信じるアメリカ人がいるというのも驚きである。

既成事実に縛られる事でいかに事態が思わぬ方向にエスカレートしていくかも思い知らされた。
今のブッシュ大統領は「築き上げてきた事態」からは逃げられない。
そして、最近の演説の論法を見ていると、自らが築き上げたその事態をあたかも人質のようにして「ここで引いたら」を国民に迫る。
既成事実は「無視できない現実」として、国民を、そして大統領自身すらをも一つのベクトルに縛り付け、他の選択肢を排除し、アメリカ全体に重くのしかかっている。
利用するはずだった既成事実に翻弄され、理想からは益々遠ざかり、遠ざかっていることをいやというほど見せ付けられながらもその方向を断念できない。
(でも、イラク戦争は間違えではなかったかとの議論があるだけでもまだ何の検証もしない日本よりはましか...)

そのためのイラク戦争であったというつもりも無いが、結果的にほくそえんだのは冷戦終結で需要が縮小していた軍需産業・防衛産業だけで、彼らは多くの資産を政府や一般国民や同盟国からせしめた。

ベトナム戦争も同じだったはず。
イラク戦争突入前にベトナム化、つまり泥沼化を危惧したものがそれを口にすれば、自信を持って「今回は違う」と軽蔑するかのように言い放っていたが結果は同じ。
そのときも結局はどうしようもないところまで来て「逃れられない現実」に反しても、とにもかくにも「断念」することでしか事態を終わらせることはできなかった。

愚かを絵に描いたような5年であり、今もまだ「既成事実」は世界を巻き込んで「テロとの戦い」として「不信」を伴いながら誰もがそれから逃れられない事態を演出しつづけている。

その浅はかに築き上げた「既成事実」は今尚世界に重くのしかかっている。


考えてみれば軍需産業の存在というのは本当に厄介だと思う。
財政的に見ればこれほどの金食い虫は無い。
国民としての「人」には「安心」を与えるかのような作用を示すかもしれないが、総体としての「人」から見れば収支は何時もマイナスしか齎さない。
国民としての立場で考えても「安心」を確保する為には他よりも優位であるために労働の多くの成果を常に満たされることの無い安全につぎ込みつづけなければならないのだから。

「安心」にはここまですれば「安心」などということが無い。
気持に「不安」があれば、どんな状況を作ろうとも「安心」が満たされることは無い。
ちょいとメディアを使い「脅威」のサイクルをまわしてやれば人の気持を不安にすることは容易い事だというのも9.11以降の出来事が語る教訓である。
マイナス方向に回したWeb2.0ディストラクションバージョンのようなものだ。

日本もどうなることか。
自衛隊を軍隊と認め、そこで「その方面の誇り」を取戻せば今にもまして「独自」の兵器も開発したくもなるだろうし、日米の共同開発の密度も濃くなるだろう。違うかな?
しかも、それは最新でなければならない。
例えば周辺国(特に中国、さすがにアメリカに対抗し様とは思わないだろう)よりも劣った兵器で「その方面の誇り」を満たすことができるだろうか?

その開発には莫大な資金が必要であり、平時においても常に最新を維持することを余儀なくされるはずだ。(今も米軍への支出を考えれば同じようなものだけど)
「自分の国は自分で守る気概を持つ」が今のように武力による手段を想定するなら、それがあたりまえの方向性になろう。

そこでは、その莫大な資金を如何にしてやりくりするのかの議論が出て来こないという事は想定しにくい。
既にそこには既成事実があるから,「資金がかかるから諦めよう」などといった選択が可能だなどと思ったら大間違いで、その既成事実を満たしうる現実的選択肢でなければ相手にもされないだろう。(現在の様々な議論がそのような方向でなされているように)
少子化で高齢化社会が進む中で増税ができるのか?
福祉を削ることはできるかもしれないが、それも限界がある。
もっとも現実的な選択肢として他の「普通の国」とやらがそうであるように、民でできることは民でということで武器の輸出により軍需産業に自ら利益を稼いでもらい、それを開発資金に当てる事ができるとなればどうであろう。
既成事実(現実)には逆らえない、軍事力は維持したい、でも福祉は削りたくない。
そんなときに現実的な政治家の言いそうな事は「もし武器輸出以外に方法があるのなら代案を出せ」。
そんな時に「そんなに金が必要なら止めるべき」などと言おうものなら今の社・共を見るような軽蔑の目で見られ相手にもされまい。

とはいっても軍需産業だって市場が無ければ利益は生めない。
この場合の市場が何かを考えれば、それは紛争地域であり、緊張地域である。
市場活性化のファクターは尽きることの無い「不安」と「脅威」だ。
安全になったから軍需産業止めますなんて事を既得権者が言い出すことを夢想するわけにもいくまい。
そのときにはとっくに政治家とも利害関係で結びついているはずだし。

一つの既成事実が次の選択肢を狭め、その選択がさらに次の選択肢を縛りつける。
気がつけば一つの方向に知らず知らずの内に引き込まれ後戻りのできない状態に陥る。
今を知る世代が「そこまではいかないだろう」と思ったとしても、今の世代がいつまでも社会の中心にいるわけもなく、今を知らず,彼らの生まれた時点を前提として物を考える若い世代から「時代は変ったのだ」と諭されれば、黙り込むしかあるまい。
空気を読み、皆と同じであろうとする国民性は、共同体内の「和」には威力を発揮しても、
「既成事実」に異を唱えることには無力だ。
ましてこれに今言われているよな愛国心が加わればなおさらのこと。

これらの過程のどこかで、その過程の夫々に内在する「切実さ」に反発して「既成事実」に立てつく事ができるだろうか?

戦前の人々もきっと同じ様に日本人が美徳と考える規範の負の側面が「既成事実」に従順である事に作用してしまい、思いもよらぬ結果を呼び寄せることになったのではなかろうか?

「今回は違う」という意見などは全く当てにならず、結果が出ても尚その当事者はそれを認めることもそれに見合う責任をとることも無い(そんなものはそもそも取れるはずも無いのだが)というのも今回の9.11から始まった一連の事態の教訓であろう。


といっても、これは今の時点でこのような日本の将来像を渇望している人にはまるで関係の無い話だけど...。

あっ 9.11の話だった。

追記)あっちこっちにすっ飛んだまとまりの無い文章だけど、niftyの障害以来、「本家」が休止状態だったので、今回はこちらに掲載することにします。
文章の長さも,長さだけなら十分あるし。

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