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2006/05/20

我々が決める事

政治などでは「我々が決める事」はたくさんある。
日本の行方は日本に住む様々な「私」が決める事。
私も日本以外の他の意図に沿って決められるのは快くない。
ところが
「私」が決める事が「他の意図に沿ったもの」とたまたま同じだったとしたらどうか。
「他の意図に沿ったもの」と同じでは他の意図に利用されてしまうのではと警戒する事もあるかもしれない。
「私が決めた事が実は知らぬ間に他の意図によって操作された物ではないのか?」なんて思う事もあるだろう。
その結果「他の意図に沿わないもの」を選択したくなるかもしれない。
その前に「どのような」「他の意図」に操作されているかを見出す事ほど困難な物はない。
信頼しているとか信頼していないとかが感覚としてあったとしても、それですら「他の意図」が介在しているかいないかについて何らかの答えを出してくれるわけではない。
「私が決める事」というのもなかなか一筋縄ではいかない。
特に今の国際政治が互いに深く係わりあいつつ、かつ不信を前提にしているような秩序の中では疑いはじめれば切りがない。


「人は~のような状況にあると~のような行動をとる傾向がある。」とか
「人は~のような物に出会うと~のように考える傾向がある。」
というような精神分析系の研究は少なくない。

これは、大抵「なぜ人はこのような行動をするのだろう」といった素朴な疑問があり、それを知ることで好ましくない行動をコントロールして世の中を良くしたいという「善意」から始まる事が多いのかもしれない。
その時代、その場所にふさわしい「善意」がそれを支持し究明を求め、やがて人々に還元され共有される。(もちろん専門家の間で閉じている事もあるだろうが、その中の成員に還元され共有される事には違いない)

概念化され共有された事により、中には世の中に好ましくない「行動」「考え」を無くそうとしてこの研究成果を駆使して「ある行動・考え」を生み出す「状況」を意図的に作り出して世の中に好ましい「秩序」をもたらそうとする「善意の人」が現れたりする。
恐らく近年で言えば「ゲッペルス」などはその1人だろう。
遠い昔でいうなら、宗教の創始者もことによるとそうなのかもしれない。
メディア戦略を身上とする「ブッシュ政権」や「小泉政権」そしてつい先日敗れたイタリア・「ベルルスコーニ政権」などもそうだと思う。
昔ならば経験、近年ならば科学という違いはあっても、統治・秩序そのものがそういう事を利用するものなのかもしれない。


そこにさらに「利害」が加わると、「利」の為に「ある行動・考え」を生み出す「状況」を意図的に作り出す事もある。
「利」の追求は「今の時代」、「今の場所」によって概ねサポートされているから特に問題にはされないが、CM等は常にこの研究成果を駆使してそれを求めている。(サブミナル効果のように、なぜか他と差別化され問題にされたりする物もあるが)
商品のデザインにも経営戦略にも営業手法にも流行にも様々なところで「価値」を創出するために利用されている。(芸術に関しては、その既知となった研究成果以上の物を偶然(未知)の中に見出そうとする行為ではないかと勝手に漠然と思っているが)
一般に支持されない物としては「振り込め詐欺」に代表される「詐欺」はまさにこの研究成果を巧みに利用しているものの一つだろう。


あまり詳しくはないのだが、以前(今も?)「blog」などで良く見かけた「Web2.0」といわれる「現象」も、その捉えられ方を見ていると、これをサイクル化したもの、つまり
『「ある行動・考え」を生み出す「状況」』を「初期値」として与え、次には生み出された「ある行動・考え」が新たな「状況」を作り出し、その「状況」がまた「ある行動・考え」を生み出し、さらにそれが...と繰り返される。
というもののように感じられる。
ここでは「初期値」の設定において
「状況」が「ある行動・考え」を「必ず」「より強く」誘起する(再帰させる)
そんな関係性が保たれるような条件があると成り立ちそうに思えてくる。

このサイクルが成り立つ条件を見つけ出し、それにより利を得る者がいたとしたならば、初期値を与えた段階で(被対象者はコントロールされているつもりはなくとも)初期値を与えた者にコントロールされているという構造は形成されてしまう事になりそうに見える。
私自身'Web2.0'とかいったものにはそれほど関心がないので正直良くわからないのだけど、見ている限りではそんな一面があるような感じがする。

「意図的」に「コントロール」される事はけして心地よい物ではないのだが「人が人を分析」し始めて以来、様々な「意図」に左右されながら生きる事になってしまった。
それが研究されず「偶然」のままであったならば、それを利用する者もなく、心地良いか心地よくないかなどは考える必要さえないのだが、そうならざるを得ないところが人なのだろう。

世界(自然)が人に影響を与える偶然を人は問題には出来ないが、人が人に影響を与える意図が生む必然は、その対象・結果が自覚されてしまうだけになかなか見過ごす事はできない。

でも、見過ごせないとはいえ「如何にコントロールされないか」を考えるのは、おそらく無謀な事なのだろう。

それでも自らの意思を信じて言うならば何にコントロールされ影響されているにしろ、「世界」に沿った「持続性」はいかにして可能なのだろうというところに指針を置いて考えたいと今は思っている。
そんな基準で私は決めたいと思う.

根拠? ン~ なんか今一番しっくり来るから...かな。
それじゃなんだから、無理やり理屈をつければ、きっと偶然(未知、世界だけが知っている必然)が私という個性を裏付けていて、しっくり感がそこから来るものとしても不都合ではなさそうだから...としておきます。

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» ラプラスの魔 [瀬戸智子の枕草子]
愚樵空論の愚樵さんは、[空論]命は尊い?と言うエントリーで、他者の命が大切か否か [続きを読む]

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