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2006/05/12

共謀罪再び

「共謀罪」の前提には「国際組織犯罪防止条約」がある。

様々な分野のグローバル化が進む中で犯罪も例外ではないというのは確かだと思う。
チョット考えただけでも「麻薬犯罪」「人身売買」「紙幣偽造」等々世界的な取り組みにより防止していかなければいけない犯罪はグローバル化してきている。
その犯罪によって手に入れた「資金」もまたグローバルに移動し、その過程で「犯罪起源」の金がその起源を消し去り、正当な資金との区別がつかないまま、その資金がさらに犯罪組織の強化・犯罪の助長に繋がるというマネーロンダリングの現実も大きな問題である。

このような問題を解決していこうという取り組みに対して否定的な思いはないのだけれども「共謀罪」に関してはどうしても否定的になる。

どうしてなのだろう。

この犯罪防止というレイヤーは人権というレイヤーと微妙に交差する。
要するに「コチラを立てれば、アチラが立たず」という関係がそこにある。
ただ、犯罪防止自体がなぜ必要かを考えると、より良く「人権」を保証する目的がそこにあるからだと思う。
少なくとも逆ではないはずだ。
(越境)犯罪防止レイヤーだけを考えるならば、それを広範囲に、漏らさず、徹底的に行うのが良いに決まっている。
ところが、それは同時に本来の(根底にある)目的であるところの人権が侵されるようでは本末転倒という事になってしまう。
そして、犯罪防止の概念はともかく、それを実現する運用面においては、それを広範囲に、漏らさず、徹底的に行ってしまえば「人権抑圧」という現実が出現してしまう可能性が充分予期されるため、そこへの配慮が必要となる。
その配慮が充分でないということがやはり私の場合この法案に否定的になる原因だろうと思う。

与党は修正を繰り返し配慮の「姿勢」は見せるのだが、修正してもよさそうなところを修正せずに残そうとする部分やこの時期に成立を急ごうとするところに気持悪さを感じるのだと思う。


この法案の大元である「国際組織犯罪防止条約」は2000/11/15のものであるが、おそらくのんきな私はその時点ならば今ほどの気持悪さは感じなかったのではないかとも思う。
しかし、その時から現在の間には大きな変化がある。

2001/9/11に起きた同時多発テロから始まる一連の「テロとの戦い」がある。
それに伴う政府による国家への求心力強化傾向がある。

9.11を境に「国際組織犯罪防止条約」は当初の目的からシフトして対テロ、つまり「テロとの戦い」の一環に組み入れられてしまったような気がするのだ。

私は「共謀罪」のシュミレーションを米国内に起きた一連のヒステリー状態や「愛国法」に見てしまうのである。
そこで起きた不当逮捕や抑圧、不信に包まれた監視社会。
そして、(意図的であったかどうかはともかく)その後に次から次へと表に出るアメリカ政府の方針決定の根拠となった情報の扱いの杜撰さ。
国家が誤った情報の元に、その政策を遂行し、そして、その過程で米国内でも国家によって行き過ぎた法律が行き過ぎた検挙を正当化してしまった。
このような法律は国家により容易に利用されてしまうのである。

現在、米国はその反省の真っ最中であろう。
その後遺症は未だに米国国内に滞留している。
異論が尊重される土壌のある米国でさえもそうである。

日本の「共謀罪」に、その頃の「愛国法」などの匂いがプンプン漂っているのである。
政府のこれまでの政策がかの国の政策に従順であったこともその匂いを強めている。
修正してもよさそうなところを修正せずに”広範囲"と"自由度(裁量)”を残そうとするところに同種のものに備えたいという「意図」を感じるのである。

さらに、「空気を読む」国民性を考えると、権力による行き過ぎた法律ができてしまえば、アメリカとは違い異論が表に出にくい(全体性に従順)という事情が、かつての「治安維持法」とそれがもたらした暗い過去をリアリティーと共に想起してしまうのだ。
一度決めてしまうと「しょうがない」といいながら状況が変っても「決まってしまった」という「現実」を理由に再考せずに諦めようとするのも日本人の常であろう。

ついでに言えば法律を詭弁により捻じ曲げてきたここ数年の政権の手法を見れば"広範囲"”裁量"を残した法律が、"現実"という言葉により如何に容易に思わぬ運用を可能にしてしまうかを予期するのは難しい事ではあるまい。
それを予期させるだけの充分な実績(再現性)を政府は積み上げてきている。
仮に、これまでの政権の実績についての「良し悪しの評価」を留保しても、政府による都合の良い法律の恣意的な運用の実績は否定できまい。

実際のところ「運用の曖昧さ」は今に始まった事ではないが、異常なまでに「愛国心」にこだわったり、「憲法改定」により求心力を強めようという意図のある「今」「このとき」に「運用の曖昧」な「共謀罪」ができることはどうにも気持悪いのである。

条約に「主権の保護」があるのならば、「留保」により、条約の本来(9.11以前の)の主旨を逸脱しない範囲でより厳しい限定を設けてもいいのではなかろうか?
厳しいところからはいって、その後に論議を尽くして必要ならばその留保を撤廃しても遅くは無いのではないか?
条約に「留保」をつけるのは得意ではなかったかと思うのだが...

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