偏見
感覚的な私は良く数学屋のめがねの秀さんのblogで論理についての概念を勉強させてもらっているのだけれど、その秀さんが珍しく感情のバイアスの掛かった記事を書かれていて、さらに、これもまた良くお邪魔する瀬戸さんのblogも多少関わっていたので気を揉みながら推移を見守っていた。
その後、秀さんは自らの誤りを認め、今もその誤りについて考察を続けている。
その考察は秀さんのものでありそれはそれでまた参考にさせていただきたいが、私は私でその後、自分に照らし合わせてしばらく考えこんでいた。
そこでの題材はフェミニズムであったが、それは「偏見」「差別」の話でもあるのでその事について感じたことを書いてみたい。
自分が直接関係していないと感じている偏見・差別(例えば白人と黒人の間に見られるものなど)に関しては気がつく事も理性的でいることもそれほど難しい事ではない。
その付属的なものとして、例えばアメリカ人が時折見せる矛盾の中に人種差別を「いけないもの」とするアメリカ人の「偽善」を見出すこともたやすい。
しかし、当事者として関わっている「偏見」に気がつく事は簡単な事ではない。
気付いたとしても「偏見」を「表わさない」ようにように振舞う事はできても、それだけでは必ずしも「偏見」を持っていないことを意味しない。
「偏見」はそれが観念から「一切」排除されて、意識の枠外に追いやる事ができたときに初めて無くなるものだと思う。
だから、頭で理解することともまた違うと思う。
既にその概念に浸されていた者がその概念に疑問を持ち、「偏見を持たないようにしよう」とか、「差別をしないようにしよう」とする「過程」ではその「努力」(意思といっても良い)そのものもまた「偏見」であり、「差別」である事を逃れることはできない。
(その意味では、今そこに観測される現象が偏見や差別の「問題」として観念される時、それを現実主義(現在主義)に基づいて「肯定」する限りはいつまでも「問題」であり、「差別」「偏見」でありつづける事を避けられそうに無い。)
しかし、この努力による「やせ我慢」とも思える「過程」を経ることなしに「偏見」が「気にとめる必要の無い差」に転換することはないと思う。言い換えると「偏見の解消」に直接達する事はよほどの強烈なインシデントが無い限りありえないのではないかと思う。
江戸時代の「身分」による「差」を、明治初期に「差別」という「問題」として観念して以来、当時の日本人には恐らく相当の(それを受け入れる為の)「やせ我慢」がそこにはあったのではないだろうか?
その「やせ我慢」の努力の結果、その次代にはその意識が先代よりも薄められ、その次代にさらに一層その意識が薄められ、そしてやっと(まだ不十分かもしれないが)現代の私たちが持つ「身分の差」に対する感覚にまで達しているのだと思う。
それが普遍性を保てるか、本当にいいことかどうかは、これからの変遷を見てそれが歴史になるまでは分からないのだが、少なくとも今を生きる私たちの(少なくとも私の抱く「私たち」の)理念に「概ね」沿っていて、その恩恵も感じているならば意識の改革は可能であり、かつ有意義なのだとしていいと思っている。
現実主義(現在主義)を標榜すれば、それ(やせ我慢)は「偽善行為」であるとか、現在そこにある概念に対する「思考停止」を強制するものだとする事も「可能」であるかもしれない。
それゆえ、現実を肯定する事の容易さ、起こりやすさに身を委ねてしまう可能性もある。
でも、「問題」が人に「理不尽」を感じさせる「何か」である限り、その解消は意義のあることであり、その為には「偽善」も必要な過程であると私は思う。
それを「偽善」や「思考停止」であることが事実であるから(実際に事実なのであるが)それは「純粋でない」「間違い」であるとして告発するならば、その概念を駆逐することもまた困難になってしまうように思う。
差別・偏見は恐らく最初はちょっとした「異質」に対する驚きであったり、見かけに始まるいわれの無い小さな「優越感」といったものなのだろうが、それが積み重ねられ、一つの「概念」へと発展し、実際に形や行動に現れてくる事で不信を生んだりしながら定着してしまうのだと思う。
それが定着した時点では既にそこに定着してしまった事により、その「概念」に異を唱えるとその既成事実を前提としたシステムの中で様々な現実的な「実害」も発生し、それがまた一層その偏見や現実を「当然のもの」として正当化してしまうように思える。
いつのまにか定着したその概念は偏見を持つ事を当然に思わせてしまう「切実な現実」をも伴ってしまう。
「偏見」を無くす事はそもそもが「切実な現実」と向き合うことであり、「内面にある矛盾」との葛藤だと思う。
私も秀さんがしたような感情的過ちを自らが関わる偏見・差別に対して犯しかねない要素を努力の過程の「偽善性」の中に常に抱えている。
その「偽善性」に触れられる事は、その矛盾を当人が一番切実に感じているだけに辛いものだという事は白状しておきたい。
それが差別・偏見を無くしていく上で考慮されるべき事かどうかはそれぞれが判断する事ではあるが、そういうものが「ある」とい言うことを白状しておくのも無駄ではあるまいと思う。
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