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2006/05/25

偏見

感覚的な私は良く数学屋のめがねの秀さんのblogで論理についての概念を勉強させてもらっているのだけれど、その秀さんが珍しく感情のバイアスの掛かった記事を書かれていて、さらに、これもまた良くお邪魔する瀬戸さんのblogも多少関わっていたので気を揉みながら推移を見守っていた。
その後、秀さんは自らの誤りを認め、今もその誤りについて考察を続けている。
その考察は秀さんのものでありそれはそれでまた参考にさせていただきたいが、私は私でその後、自分に照らし合わせてしばらく考えこんでいた。
そこでの題材はフェミニズムであったが、それは「偏見」「差別」の話でもあるのでその事について感じたことを書いてみたい。


自分が直接関係していないと感じている偏見・差別(例えば白人と黒人の間に見られるものなど)に関しては気がつく事も理性的でいることもそれほど難しい事ではない。
その付属的なものとして、例えばアメリカ人が時折見せる矛盾の中に人種差別を「いけないもの」とするアメリカ人の「偽善」を見出すこともたやすい。

しかし、当事者として関わっている「偏見」に気がつく事は簡単な事ではない。
気付いたとしても「偏見」を「表わさない」ようにように振舞う事はできても、それだけでは必ずしも「偏見」を持っていないことを意味しない。
「偏見」はそれが観念から「一切」排除されて、意識の枠外に追いやる事ができたときに初めて無くなるものだと思う。
だから、頭で理解することともまた違うと思う。

既にその概念に浸されていた者がその概念に疑問を持ち、「偏見を持たないようにしよう」とか、「差別をしないようにしよう」とする「過程」ではその「努力」(意思といっても良い)そのものもまた「偏見」であり、「差別」である事を逃れることはできない。
(その意味では、今そこに観測される現象が偏見や差別の「問題」として観念される時、それを現実主義(現在主義)に基づいて「肯定」する限りはいつまでも「問題」であり、「差別」「偏見」でありつづける事を避けられそうに無い。)

しかし、この努力による「やせ我慢」とも思える「過程」を経ることなしに「偏見」が「気にとめる必要の無い差」に転換することはないと思う。言い換えると「偏見の解消」に直接達する事はよほどの強烈なインシデントが無い限りありえないのではないかと思う。

江戸時代の「身分」による「差」を、明治初期に「差別」という「問題」として観念して以来、当時の日本人には恐らく相当の(それを受け入れる為の)「やせ我慢」がそこにはあったのではないだろうか?
その「やせ我慢」の努力の結果、その次代にはその意識が先代よりも薄められ、その次代にさらに一層その意識が薄められ、そしてやっと(まだ不十分かもしれないが)現代の私たちが持つ「身分の差」に対する感覚にまで達しているのだと思う。
それが普遍性を保てるか、本当にいいことかどうかは、これからの変遷を見てそれが歴史になるまでは分からないのだが、少なくとも今を生きる私たちの(少なくとも私の抱く「私たち」の)理念に「概ね」沿っていて、その恩恵も感じているならば意識の改革は可能であり、かつ有意義なのだとしていいと思っている。

現実主義(現在主義)を標榜すれば、それ(やせ我慢)は「偽善行為」であるとか、現在そこにある概念に対する「思考停止」を強制するものだとする事も「可能」であるかもしれない。
それゆえ、現実を肯定する事の容易さ、起こりやすさに身を委ねてしまう可能性もある。
でも、「問題」が人に「理不尽」を感じさせる「何か」である限り、その解消は意義のあることであり、その為には「偽善」も必要な過程であると私は思う。
それを「偽善」や「思考停止」であることが事実であるから(実際に事実なのであるが)それは「純粋でない」「間違い」であるとして告発するならば、その概念を駆逐することもまた困難になってしまうように思う。

差別・偏見は恐らく最初はちょっとした「異質」に対する驚きであったり、見かけに始まるいわれの無い小さな「優越感」といったものなのだろうが、それが積み重ねられ、一つの「概念」へと発展し、実際に形や行動に現れてくる事で不信を生んだりしながら定着してしまうのだと思う。
それが定着した時点では既にそこに定着してしまった事により、その「概念」に異を唱えるとその既成事実を前提としたシステムの中で様々な現実的な「実害」も発生し、それがまた一層その偏見や現実を「当然のもの」として正当化してしまうように思える。
いつのまにか定着したその概念は偏見を持つ事を当然に思わせてしまう「切実な現実」をも伴ってしまう。

「偏見」を無くす事はそもそもが「切実な現実」と向き合うことであり、「内面にある矛盾」との葛藤だと思う。


私も秀さんがしたような感情的過ちを自らが関わる偏見・差別に対して犯しかねない要素を努力の過程の「偽善性」の中に常に抱えている。
その「偽善性」に触れられる事は、その矛盾を当人が一番切実に感じているだけに辛いものだという事は白状しておきたい。

それが差別・偏見を無くしていく上で考慮されるべき事かどうかはそれぞれが判断する事ではあるが、そういうものが「ある」とい言うことを白状しておくのも無駄ではあるまいと思う。

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2006/05/20

我々が決める事

政治などでは「我々が決める事」はたくさんある。
日本の行方は日本に住む様々な「私」が決める事。
私も日本以外の他の意図に沿って決められるのは快くない。
ところが
「私」が決める事が「他の意図に沿ったもの」とたまたま同じだったとしたらどうか。
「他の意図に沿ったもの」と同じでは他の意図に利用されてしまうのではと警戒する事もあるかもしれない。
「私が決めた事が実は知らぬ間に他の意図によって操作された物ではないのか?」なんて思う事もあるだろう。
その結果「他の意図に沿わないもの」を選択したくなるかもしれない。
その前に「どのような」「他の意図」に操作されているかを見出す事ほど困難な物はない。
信頼しているとか信頼していないとかが感覚としてあったとしても、それですら「他の意図」が介在しているかいないかについて何らかの答えを出してくれるわけではない。
「私が決める事」というのもなかなか一筋縄ではいかない。
特に今の国際政治が互いに深く係わりあいつつ、かつ不信を前提にしているような秩序の中では疑いはじめれば切りがない。


「人は~のような状況にあると~のような行動をとる傾向がある。」とか
「人は~のような物に出会うと~のように考える傾向がある。」
というような精神分析系の研究は少なくない。

これは、大抵「なぜ人はこのような行動をするのだろう」といった素朴な疑問があり、それを知ることで好ましくない行動をコントロールして世の中を良くしたいという「善意」から始まる事が多いのかもしれない。
その時代、その場所にふさわしい「善意」がそれを支持し究明を求め、やがて人々に還元され共有される。(もちろん専門家の間で閉じている事もあるだろうが、その中の成員に還元され共有される事には違いない)

概念化され共有された事により、中には世の中に好ましくない「行動」「考え」を無くそうとしてこの研究成果を駆使して「ある行動・考え」を生み出す「状況」を意図的に作り出して世の中に好ましい「秩序」をもたらそうとする「善意の人」が現れたりする。
恐らく近年で言えば「ゲッペルス」などはその1人だろう。
遠い昔でいうなら、宗教の創始者もことによるとそうなのかもしれない。
メディア戦略を身上とする「ブッシュ政権」や「小泉政権」そしてつい先日敗れたイタリア・「ベルルスコーニ政権」などもそうだと思う。
昔ならば経験、近年ならば科学という違いはあっても、統治・秩序そのものがそういう事を利用するものなのかもしれない。


そこにさらに「利害」が加わると、「利」の為に「ある行動・考え」を生み出す「状況」を意図的に作り出す事もある。
「利」の追求は「今の時代」、「今の場所」によって概ねサポートされているから特に問題にはされないが、CM等は常にこの研究成果を駆使してそれを求めている。(サブミナル効果のように、なぜか他と差別化され問題にされたりする物もあるが)
商品のデザインにも経営戦略にも営業手法にも流行にも様々なところで「価値」を創出するために利用されている。(芸術に関しては、その既知となった研究成果以上の物を偶然(未知)の中に見出そうとする行為ではないかと勝手に漠然と思っているが)
一般に支持されない物としては「振り込め詐欺」に代表される「詐欺」はまさにこの研究成果を巧みに利用しているものの一つだろう。


あまり詳しくはないのだが、以前(今も?)「blog」などで良く見かけた「Web2.0」といわれる「現象」も、その捉えられ方を見ていると、これをサイクル化したもの、つまり
『「ある行動・考え」を生み出す「状況」』を「初期値」として与え、次には生み出された「ある行動・考え」が新たな「状況」を作り出し、その「状況」がまた「ある行動・考え」を生み出し、さらにそれが...と繰り返される。
というもののように感じられる。
ここでは「初期値」の設定において
「状況」が「ある行動・考え」を「必ず」「より強く」誘起する(再帰させる)
そんな関係性が保たれるような条件があると成り立ちそうに思えてくる。

このサイクルが成り立つ条件を見つけ出し、それにより利を得る者がいたとしたならば、初期値を与えた段階で(被対象者はコントロールされているつもりはなくとも)初期値を与えた者にコントロールされているという構造は形成されてしまう事になりそうに見える。
私自身'Web2.0'とかいったものにはそれほど関心がないので正直良くわからないのだけど、見ている限りではそんな一面があるような感じがする。

「意図的」に「コントロール」される事はけして心地よい物ではないのだが「人が人を分析」し始めて以来、様々な「意図」に左右されながら生きる事になってしまった。
それが研究されず「偶然」のままであったならば、それを利用する者もなく、心地良いか心地よくないかなどは考える必要さえないのだが、そうならざるを得ないところが人なのだろう。

世界(自然)が人に影響を与える偶然を人は問題には出来ないが、人が人に影響を与える意図が生む必然は、その対象・結果が自覚されてしまうだけになかなか見過ごす事はできない。

でも、見過ごせないとはいえ「如何にコントロールされないか」を考えるのは、おそらく無謀な事なのだろう。

それでも自らの意思を信じて言うならば何にコントロールされ影響されているにしろ、「世界」に沿った「持続性」はいかにして可能なのだろうというところに指針を置いて考えたいと今は思っている。
そんな基準で私は決めたいと思う.

根拠? ン~ なんか今一番しっくり来るから...かな。
それじゃなんだから、無理やり理屈をつければ、きっと偶然(未知、世界だけが知っている必然)が私という個性を裏付けていて、しっくり感がそこから来るものとしても不都合ではなさそうだから...としておきます。

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2006/05/12

共謀罪再び

「共謀罪」の前提には「国際組織犯罪防止条約」がある。

様々な分野のグローバル化が進む中で犯罪も例外ではないというのは確かだと思う。
チョット考えただけでも「麻薬犯罪」「人身売買」「紙幣偽造」等々世界的な取り組みにより防止していかなければいけない犯罪はグローバル化してきている。
その犯罪によって手に入れた「資金」もまたグローバルに移動し、その過程で「犯罪起源」の金がその起源を消し去り、正当な資金との区別がつかないまま、その資金がさらに犯罪組織の強化・犯罪の助長に繋がるというマネーロンダリングの現実も大きな問題である。

このような問題を解決していこうという取り組みに対して否定的な思いはないのだけれども「共謀罪」に関してはどうしても否定的になる。

どうしてなのだろう。

この犯罪防止というレイヤーは人権というレイヤーと微妙に交差する。
要するに「コチラを立てれば、アチラが立たず」という関係がそこにある。
ただ、犯罪防止自体がなぜ必要かを考えると、より良く「人権」を保証する目的がそこにあるからだと思う。
少なくとも逆ではないはずだ。
(越境)犯罪防止レイヤーだけを考えるならば、それを広範囲に、漏らさず、徹底的に行うのが良いに決まっている。
ところが、それは同時に本来の(根底にある)目的であるところの人権が侵されるようでは本末転倒という事になってしまう。
そして、犯罪防止の概念はともかく、それを実現する運用面においては、それを広範囲に、漏らさず、徹底的に行ってしまえば「人権抑圧」という現実が出現してしまう可能性が充分予期されるため、そこへの配慮が必要となる。
その配慮が充分でないということがやはり私の場合この法案に否定的になる原因だろうと思う。

与党は修正を繰り返し配慮の「姿勢」は見せるのだが、修正してもよさそうなところを修正せずに残そうとする部分やこの時期に成立を急ごうとするところに気持悪さを感じるのだと思う。


この法案の大元である「国際組織犯罪防止条約」は2000/11/15のものであるが、おそらくのんきな私はその時点ならば今ほどの気持悪さは感じなかったのではないかとも思う。
しかし、その時から現在の間には大きな変化がある。

2001/9/11に起きた同時多発テロから始まる一連の「テロとの戦い」がある。
それに伴う政府による国家への求心力強化傾向がある。

9.11を境に「国際組織犯罪防止条約」は当初の目的からシフトして対テロ、つまり「テロとの戦い」の一環に組み入れられてしまったような気がするのだ。

私は「共謀罪」のシュミレーションを米国内に起きた一連のヒステリー状態や「愛国法」に見てしまうのである。
そこで起きた不当逮捕や抑圧、不信に包まれた監視社会。
そして、(意図的であったかどうかはともかく)その後に次から次へと表に出るアメリカ政府の方針決定の根拠となった情報の扱いの杜撰さ。
国家が誤った情報の元に、その政策を遂行し、そして、その過程で米国内でも国家によって行き過ぎた法律が行き過ぎた検挙を正当化してしまった。
このような法律は国家により容易に利用されてしまうのである。

現在、米国はその反省の真っ最中であろう。
その後遺症は未だに米国国内に滞留している。
異論が尊重される土壌のある米国でさえもそうである。

日本の「共謀罪」に、その頃の「愛国法」などの匂いがプンプン漂っているのである。
政府のこれまでの政策がかの国の政策に従順であったこともその匂いを強めている。
修正してもよさそうなところを修正せずに”広範囲"と"自由度(裁量)”を残そうとするところに同種のものに備えたいという「意図」を感じるのである。

さらに、「空気を読む」国民性を考えると、権力による行き過ぎた法律ができてしまえば、アメリカとは違い異論が表に出にくい(全体性に従順)という事情が、かつての「治安維持法」とそれがもたらした暗い過去をリアリティーと共に想起してしまうのだ。
一度決めてしまうと「しょうがない」といいながら状況が変っても「決まってしまった」という「現実」を理由に再考せずに諦めようとするのも日本人の常であろう。

ついでに言えば法律を詭弁により捻じ曲げてきたここ数年の政権の手法を見れば"広範囲"”裁量"を残した法律が、"現実"という言葉により如何に容易に思わぬ運用を可能にしてしまうかを予期するのは難しい事ではあるまい。
それを予期させるだけの充分な実績(再現性)を政府は積み上げてきている。
仮に、これまでの政権の実績についての「良し悪しの評価」を留保しても、政府による都合の良い法律の恣意的な運用の実績は否定できまい。

実際のところ「運用の曖昧さ」は今に始まった事ではないが、異常なまでに「愛国心」にこだわったり、「憲法改定」により求心力を強めようという意図のある「今」「このとき」に「運用の曖昧」な「共謀罪」ができることはどうにも気持悪いのである。

条約に「主権の保護」があるのならば、「留保」により、条約の本来(9.11以前の)の主旨を逸脱しない範囲でより厳しい限定を設けてもいいのではなかろうか?
厳しいところからはいって、その後に論議を尽くして必要ならばその留保を撤廃しても遅くは無いのではないか?
条約に「留保」をつけるのは得意ではなかったかと思うのだが...

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2006/05/05

知らないこと

ちょっと古くなってしまったが先日

東京裁判「知らぬ」7割、20代では9割 本社世論調査
というニュースがあった。
私も多少興味はあるとはいえ、五十歩百歩。


そこで、私はいつ関心を持ったのだろうと記憶を辿ってみたが、ハッキリしない。
小さい頃、講堂のような中で東條被告がヘッドホーン(イヤーホン?)をつけて起立している姿を写した白黒映像が頭に浮かんでいたところをみるとドキュメンタリーか何かで関心を持ったのだと思う。

以前にも書いたが、プラモデルが好きだった私はとにかく戦争映画が好きでそればかり見ていた。
「史上最大の作戦」の再上演を映画館に喜び勇んで見に行き、「ミッドウェー」という映画を臨場感のあるセンサラウンド方式に感動しながらも「もしこのときこうしてたら」と悔しさをかみしめ、「決断」というアニメを毎週愉しみに待ち、そして、従軍画家が描いた旧かな使いの勇ましい解説つきの古い戦場画集を祖父からせしめ「すごいだろ」とか言って友達に見せ、宝物のように大事にするような少年だった。
小学校時代には防衛大に行って将来は自衛官になりたいなんて事を自民党員の祖父に話した記憶もある。
そんな少年期を過ごしたので学校の社会科で習うよりも早く「極東裁判」にも関心を持っていたはずである。
多分その関心は「悔しさ」のシンボルのような捉え方をしていたと思う。
少年にとってはミリタリーものは「かっこいい」対象。
負けたのがかっこ悪いからその象徴としての極東裁判に悔しさを感じたのだろう。

学生時代には当然歴史で学ぶのだけれど、ご存知の通り近代にはあまり時間を割くわけでもないし、関心も技術系に偏っていたので両親の話や歴史を通じて「戦争観」は変わっても極東裁判については長いこと気にもかけなかったと思う。

詳細に関心を持つようになったのは人より遅い二十歳をチョット過ぎた頃読んだ山崎豊子の「ニつの祖国」がきっかけだったのではないかと思う。
小説ではあるけれど、主人公が裁判のモニター(通訳のチェック)をする設定になっている関係で小説の後半部分は殆ど法廷内の具体的証言のやり取りで、それを読んでから極東裁判に興味を引かれるようになったように思う。

そのとき強く感じたのは極東軍事裁判は裁判の名を借りた政治、戦後秩序の主導権を賭けた外交の駆け引きの場としての側面。
小説の中ではパル判事を好意的に描いていたこともあって、パル判事の裁判に対する姿勢も強く印象付けられた。

それからだと思う、極東裁判についての情報を目にすると、つい読んだり見たりするようになったのは。
当時は歴史小説ばかり読んでいた時期で、歴史上の出来事を別の作者による別の人物の描写から受け取る印象の違いに面白さを感じていた時期なので、この極東裁判も別の資料でどう語られているかに興味を持ったのだと思う。


今の段階で私が極東裁判について思うのは、
倫理性においては「正義に名を変えた戦勝国(欧米列強)の欺瞞」。
そして、現実性においては「戦後世界秩序の為の政治的意義」。

ただし、帝国主義により獲得した既得権の保全を正当化してきた欧米戦勝国に欺瞞を見る以上、それは同時に、それに倣い、同じ理窟でアジアに進出した日本の欺瞞も同時に見なければならないと私は思う。
一方の現実性(日本の理想を為し遂げた暁に実現されたであろう秩序によって「手段が正当化」されるという現実性)は「負けた」と言う決定的事実で跡形も無く消え去ってしまったと思う。


もう一つ極東裁判の内容(証言)に触れた時に思うのは
「いかにして、かくも多大な損失を周辺国に与え、自らにももたらした戦争に突入することになったのか」
「なぜ、非合理が繰り返され、ここまで荒廃することになったのか」
のヒントがちりばめられているのではないかという事。
ここに、日本がしてこなかった「自ら省みなければいけない要素」があるように感じる。

私は前回のエントリーで
「最初から戦争を望む者など居やしないのであって、いくつもの選択の積み重ねの結果、気が付けばいつの間にやらそこにいて、「ここに至っては」と思いながらおっぱじめるのが戦争だ」と書き、以前にも似たような戦争観でエントリーを書いているけれど、そのベースには多分にこの極東裁判に関心を持って読んだり見たりしたものの影響があるのではないかと思う。

今、改憲論議が政治の舞台では盛んである。
靖国問題も重要な課題だ。
これらと極東裁判は深い部分で繋がっていると思う。

教育基本法も共謀罪も、その必要性とは別のところにどのような落とし穴があるかを予期させるエッセンスがこの極東裁判の証言の数々の中にあると思う。

そんなこんなを考えあわせると、知らなければならない事は山積みだと思う。

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