理解
私たちは複合社会にあってそれにウンザリしているのかもしれない。
一つの視座(レイヤー)から捉えた世界で良いと思った結論をいざ実行してみると、思わぬ結果が待ち受け、それに打ちのめされる事でもう一つの視座(レイヤーが確かにあることを思い知らされるといった事は良くある。
その視座を考慮に入れてまたその新たな世界で良いと思った結論を実行してみてもまた同じ。
何かを立てれば何かが立たず,全てを立てようとすれば身動きができなくなってしまう。
だからどうしてもシンプルで分かりやすいもの,明確なものに惹かれてしまう。
物事を分かりやすくするには他のレイヤーを見ない事だ。
そこにはほぼ明確な正解がある可能性は高い。
そして,そのレイヤーにとどまる限り誰もそれを否定できない。
論理的に「自明」とする事も可能かもしれない。
迷わず行動する「だけ」ならばそれが良い。
レイヤー同士の互いの作用(関係性)が物事を複雑に感じさせる。
例えば「拉致問題」のどうしようもない複雑性から来る割り切れない苛立ちを解消するには「拉致の理不尽」だけを考え、そこから誰もが導き出すことができる「正しさ」だけを見ていれば良い。
それは、そこに限定する限り誰も否定する事はできない。
それは日本人はもちろんの事、相手の北朝鮮にしても同じ事。
しかし、それが正しくとも世界がその正しさゆえに期待した反応(拉致被害者の帰国)を返してくれる事は全く保証しない。
北朝鮮は「拉致の理不尽に限定した正しさ」を否定するわけではない。
他のレイヤー(それが日本人にとってさしたる意味はなくとも)における「正しさ」に基づいて拉致被害者を隠蔽している。
日本側にしても安全のレイヤー,軍事力のレイヤー、外交・経済のレイヤー...限りなく存在する別のレイヤーのそれぞれがそれぞれにその枠の中でほぼ自明な正解を持つ。
これらもそれぞれのレイヤーに限定すればその正解を否定する事はできない。
でももう一度言うが「分かりやすくする」には一つのレイヤーの「正しさ」の枠を出なければいい。
「靖国問題」も同じ事。
これを宗教のレイヤーにおける「心の問題」に限定すれば、先人を敬う参拝の「正しさ」は多くの人にとって自明である。
それは,そこに限定する限り誰も否定する事はできない。
これも日本人はもちろん,相手の中韓いずれにおいても世界においてさえもほぼ同じだといえるだろう。
しかし、合理性のレイヤー、歴史のレイヤー、戦争のレイヤー、経済のレイヤー...これに関わる別の様々なレイヤーもまたそれぞれにそこに限定すれば明確な正しさがある。
「心の問題の正しさ」はその正しさゆえに期待した反応を返してくれる事は保証しない。
ただ、ここでもまた「わかりやすくする」には一つのレイヤーの枠を出なければいいだけのことだ。
首相などはこれを上手に利用している。
彼は様々な問題に対して各レイヤー間の関係性には触れずに、各レイヤーに限定し自明である正しさを独立に明言することで、話を分かりやすくする。
靖国の話をするときは「心の問題」から一歩も出ない。
だから、そこに限定されれば明確になるだけでなく否定する事も誰にもできない。
経済の話をするときはそこから一歩も出ない。
防衛の話をするときは...(以下同文)
平和の話をするときは...
愛国心の話をするときは...
誰をも取り込む見事なレトリックである。
(でもいざ手をつけ現実(世界)に直面すると誰をも取りこんだその手法は逆に、その互いの関係性により誰をも何らかの形で裏切る事になる。)
人はそれぞれ独自のレイヤーを持っていると思う。
その違いは個性であって、共有される事はないだろう。
そのレイヤーには様々なレイヤーが経験・知識に裏づけされた軽重、関係性により位置付けられているのだと思う。
そこに位置付けられた個々のレイヤーは、その位置付けについて議論すれば議論は発散してしまうが、限定された各レイヤーの枠の中では論理によって理解を共有することはできると思う。
コミュニケーションというのは人それぞれに固有のレイヤー内に包含される様々な各レイヤーについての理解を深め、それにより互いのレイヤーの位置付けの再編成に寄与するといったような面をもつのではなかろうか?
そして、シンプルであるという事は単に恣意的に他のレイヤーをネグレクトする事ではなく自分固有のレイヤー内に「観念した様々なレイヤー」の位置付けを「最も予期、再現できる」形として築き上げることができた時初めて手にする事ができるのではなかろうか?(多分それも何度も再構築する事になるのだろうが)
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