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2006/03/27

延命処置の中断

射水市民病院で入院中の回復の見込みの無い患者の延命措置が中止され7人がなくなっていたというニュースがあった。
この出来事はまだどのような経緯で、外科部長が何を思ってこのような行為に及んだか、どこに違法性があるかが明らかではないのでこの出来事に特化して書くことは差しさわりがあるけれど、この出来事は私からそんなに遠い話ではないと思うので少し書いてみる。


私もそんな場面につい最近出会ったことがある。

介護している母が誤飲誤嚥性肺炎を引き起こし入院した際に最初に医師に確認されたのが、もしもの場合に「延命治療」を施すかどうかだった。
医師が言うには一度延命処置を選択したならば、それを途中で止める事は困難になるとのこと。
症状が現れ、家族(私)が異常だと気付き、救急車で運ばれ、めまぐるしく状況が変わる混乱の中にあって、その選択を迫られるまでの時間はそれほど長くない。
「生きてほしい」という思い、その逆の「苦しまないでほしい」という思い、身内の生死に関わることを選択する責任の重圧、今後予想される経済的、介護上の負荷、倫理的呵責と現実的対応との葛藤...
自分の中で解決されずにペンディングされているさまざまなレイヤーに問いかけ、正解のない多レイヤーにまたがる出来事に対して選択をしなければならない。

幸いにしてその「もしも」は起こらなかった。
でも世の中には「もしも」が起こるケースは少なくないだろう。

母を介護するきっかけとなった脳梗塞で倒れた時は「もしも」をすっ飛ばしそれは具体的現実だった。
「このままでは死にます」「(手術を施して)助けても重度の後遺症が残ります」「どうしますか?」
このときに求められたのはその緊急性ゆえ、その場での「即答」だった。
医者も助かるかどうかはもちろんのこと、重度の障害が具体的にどの程度「重度」となるかを明確に答えることはせず、確率的な話として「かろうじて」情報を提供してくれるだけだ。(事実に真摯であればあるほどその対応は妥当だと思う)
正直言えば、次男であり殆ど「家」から遠く離れて暮らすことが多かった私にとっては「介護」など具体的に想像すらしたこともなかった。
母が以前の母とは全く違った姿で戻ってくることへの戸惑いや、そのギャップから来る対象不明な苛立ち,怒り,後悔は実際に体験する以前にはとても想像できなかった。(さらにその後、全く変わり果てて戻ってきた今の母をそのまま受け入れることができるようになってからの苛立ちの解消などはそれ以上に予想もつかなかったが...)
重度の障害が「実際に」どのようなものか、どのように家族に影響を及ぼすのかの実感もなかった。

そんな中での選択だ。
たぶん多くの人が経験することだろう。

当初は、介護が始りその現実に直面すると暗澹たる気持ちにもなったが、これも幸いにして、元来がのんきだからなのかどうか判らないが今では生活の一部となり当初あったさまざまな苛立ちもかなりなくなってきている。
(後遺症によるコミュニケーションの障害はあるが)母は突然騒ぐことはあっても愚痴を表現しない。
まれに、意識のハッキリしたときにたどたどしい言葉をくれる。(これがなんとも嬉しい)
たまたま幸いに、母はそこにいるだけで「雰囲気」がユーモラスだから私はノイローゼにはならない。

でも、ニュースなどでは「介護に疲れ果てる」というケースも少なくない。
母とは違い極度の苦痛を伴う病気で患者の苦痛を見つづけなくてはならないことも少なくないだろう。


こんな経験から、家族にとって身内が重大疾病にかかったときの選択は「不確か」ななかで行われ、その選択の結果が患者自身にも家族にもどのような結果をもたらすかを現実味を持って想像することは本当に難しいことだと思う。
選択の結果、身内である患者に苦痛を与えてしまい、それを見続けなければいけないとなったらその家族の苦痛も計り知れない。

医師から選択を迫られたとき、その医師が「助ける選択をして結果的に生命維持装置にパイプでつながれたり、苦しむ患者の姿を目にして後悔する家族もいます」といっていた事を思い出す。

世界の切り取り方として「人の命は大事である」と言うレイヤーは強固な信頼を持つ有用な世界の切り取り方の一つだと思う。
例外を認めてしまうと切り取りの「合意」が損なわれ「信頼」(再現性、予見性)を失う「性質」(社会性)があるために例外を認めることはそのレイヤーにとっては大きなダメージとなってしまうこともあるので慎重にならざるを得ない。
だから「人の命は何よりも大事である」というレイヤーは何よりも優先され、信頼されたる事を私は基本的に望んでいる。
しかし、これさえも切り取り方である以上、切り捨てられている部分(たとえば苦痛、意思の軽視)や他のレイヤーはある。

「人の命」の上に「人の尊厳」と言うレイヤーを置き「人の命」を包含して「切り捨てられたもの」を救済できないかと言うのが「尊厳死」や「延命治療の中止」の問題の一面だと思う。

「人の尊厳」が「人の命」を包含しようとしても、これもやはり「人の命」のレイヤー同様切り捨てられる部分や顧みられない他のレイヤーがある。
「臓器移植」に対する倫理的反対などは「人の尊厳」によって「人の命」が切り捨てられるもの(逆に、「臓器移植」を推進することは「人の命」によって「人の尊厳」が切り捨てられる)という側面があるのかもしれない。
「尊厳」についても前提・合意が無ければ、(例外はあろうとも)十分に寄与している「人の命」の「信頼」をいたずらに貶めるだけになってしまうことにもなりかねない。

だからこそ慎重である必要があると思う。

具体的に慎重であるには(現時点での合意であるところの)法に問いかけ(その法のレイヤーの切り取り方が不十分であっても)合法・違法は明確にし、そこにもし違法性があるならば罰を受けねばならぬことに同意することだと思う。
その上で、できれば量刑で(切り取り方の不十分さがあるなら)それを補えないものかと思う。
その一方で、医師に非難を向けるのも罰の一つであるが、医師の投じた一石が次の信頼を得るレイヤーの礎になりうることも頭の片隅に置く必要もあるのではなかろうか?
今回の医師がどうであったかはわからないが、患者の意思の確認が困難であるケースは少なくない。
レイヤーの不十分さが自覚されながらそれを放置するだけではそのレイヤー自身の信頼そのものが落ちていくだけ。
運用により試行錯誤しながら「人の尊厳」を法に織り込んでいく事ができればいいのにと思う。
そのような動きの中で、レイヤー(概念)の運用しだいでどちらがより信頼を得るか、どちらがより普遍性を得るかが方向付けられ、さらにこれが発展し人にとってより良いこれらを包含するレイヤーが構築されていくのではなかろうか。

「助かる可能性がある命が助からない」事への「悔恨」や「責任」は医療が発展しそれを可能にしなければ考慮する必要の無かったことだが、発展を前提とする以上このような問題は今後ますます増えてくると思う。
それが人の進歩であるとするならレイヤーも進歩しなくてはいけないのだろうと思う。

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コメント

いつも読ませていただいております。でみあんと申します。ちょうど射水市民病院はわたしの地元で、衝撃を受けてつらつらととりとめのない話を自分のブログでも書いてみました。http://d.hatena.ne.jp/demian/20060328/p1
です。

その中でFAIRNESSさんのこのエントリのこともご紹介させていただきました。トラックバックをしようとしてうまくいかなかったのでコメント欄でお知らせさせていただきますね。

FAIRNESSさんのお話からまたいろいろ考えさせられました。やっぱり生きてみて、それがそう悲惨なものにならなければ、それはやはり生きてみてよいのかもしれない、と思いました。

投稿: でみあん | 2006/03/30 22:55

すみません。トラックバックがうまくいかないと思っていたら時間差でうまくいったようです。どうもすみませんでした。1つは消してくださって構いませんのでどうぞよろしくお願いします。

投稿: でみあん | 2006/03/31 00:22

でみあんさん コメントありがとうございます。
TB読ませていただきました。
難しい問題ですね。
ここで書いた物はやはり家族としての経験でしかなく、実際に母がどう思っているか、仮にそれを尋ねたとしてその判断が正常な判断から出たものなのかを知る術もない。
「尋ねる」という行為そのものさえ「そのような事を考えていたのか」という不安を与えてしまうのではないかという恐れに近い物があります。

ただ、テレビで映画を見て声を出して大泣きしたりたりする母、甘い物を満足そうに食べる母、おこられてすねる母を見ていれば、そこに以前とは違っていても今生きている母が実感でき、もしかすると私のエゴでしか無い可能性が有っても「長生きして欲しい」と母に刷り込んでいるのです。

しかし、かといってこれが今一般化できるかには自信は有りません。

ただ生きる事であろうともそれが社会的認知を得て、苦痛を和らげる手段が広く一般化される事を目指すことを正しい事とするのには積極的に同意するのですが、「それまでの間」それが実現しない環境の中に患者がいてそれに苦しむ家族、そして医療現場の医師・職員がいる事を切り捨ててはいけないと思うのです。

目指す物を正しいとしながら、その信頼を傷つけずにいかにこれらを救い上げていくかも慎重に視野に入れていかなければいけないのではないかという思いは捨てきれません。

それが無いと皮肉にも逆に「命」の大事さ自体の信頼が揺らいでしまうような気がするのです。

P.S.
実は最近ココログの動作がおかしいようでTBやコメントに異常が出るのです。(過去のコメントも表示されなくなってしまいました)
TBが反映されなかったのも恐らくココログ側の動作の問題だと思います。
一応TBの一つを削除しておきます。

投稿: FAIRNESS | 2006/03/31 09:20

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» 今かくあれども [瀬戸智子の枕草子]
富山の『安楽死』疑惑ということで東京新聞が先日の富山県の射水市民病院の人工呼吸器 [続きを読む]

受信: 2006/03/29 17:22

» [生命]射水市民病院でのことから とりあえず言っておきたいこと [Demilog@はてな]
この土日の間にわたしの地元にある射水市民病院で、これまで7名の入院患者さんが人工呼吸器を医師によって外されていたことがわかりました。わたし自身安楽死や尊厳死、そして優生思想などとのつながりなどに関心を持ってきただけに大きな衝撃でした。 立岩真也さんや小松美彦さん、安楽死や尊厳死、優生思想に反対する人たちやいろいろなみなさんの文章や話から知ったことが自分の書いていることの背景にあって、今何か書くとそれらからの抜書きみたいになってしまいます。かといってそういった人たちの文献リストを出して「読んで... [続きを読む]

受信: 2006/03/30 22:39

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富山県の射水市民病院で延命措置が中止され、入院患者7人が死亡した問題に関連し、ネットでも尊厳死に関する議論が盛んに行われている。 仕事で取材しているので、本論に立ち入ったことは書けないのをまずお断りしつつ、自分なら、と考えた場合、非常に矛盾した立場にあることを思い知り、とまどっている。 この議論には「唯一の正しい答え」というものは存在しないのであろう。その人の生死観、宗教観、家庭や経済などを含むその人がおかれた環境によって、様々な答えが出てくるからだ。 僕自身については回復不能な状... [続きを読む]

受信: 2006/04/03 20:26

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