戯れ
確かに世の中いろいろなことがめまぐるしい。
身近なことも身近でないことも。
ひとつのことに注目している間にその一方で以前注目していたことが遠い過去のことであるかのように忘れ去られていく。
注目されなくなったかったからと言って、それが経験として何らかの検証・結果をそこに残したというわけでもなく、そのことが「今」身の回りに影響を与えてないと言うわけでもないのだが視野から抜け落ちていく。(つまり合理的でも,プラグマティックでもない)
偽装メール事件は直接的には耐震偽装、ライブドア、BSEを風化させ,間接的には小泉政権への検証を風化させた。
「イラク」は今まさに混乱の中にあるにも拘わらず,あたかも「無い物」であるかのように扱われ,それに伴う自衛隊撤退やその延期への関心も風化している。
そうこうしているうちに次はイランだ。
そのイランも風化するとかそういう問題以前に偽装メールのようなどうでも良い「関心」の陰に隠れてしまい国内では注目度そのものが薄い。
何も残ることなく、次から次に「内外」からもたらされ垂れ流される物に目を奪われたりウンザリしているうちにそれらは知らないうちに堆積し大きな山となって清算だけは迫って来る。
でも、それを清算する術も気力もない。
この間隙を縫って様々な決め事がいつの間にやら次々に「注目」されることなく決まっていく。
それがまた「堆積する山」の嵩を増やさなければいいのだが...
「堆積した山」を見るのは実に気が重いので、気楽な「関心」に目を向けしばしそれを忘れる。
だからなのかどうかは分からないが、気楽な「関心」は需要もあり高く売れる。
気楽な「関心」の次に人気があるのが単純な「関心」。
「堆積した山」とは違い「答えを持った」(ように装った)単純な物への需要も高い。
市場では「easy」「simple」に高値がついているのではなかろうか?
そのあおりを食って「堆積した山」(complex,problem)は自由市場ではまるっきり人気がなく売れ残り、在庫の山はさらにうず高く積まれていく。
そして、「関心」を得ない事象は「実在しない」と嘯きながら「閉塞感」と戯れている。
一方で,堆積した山を一瞬で消し去る「resetボタン」を「誰かが」見つけて押してくれるのを心の片隅で無意識に期待しながら。
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