「格差」と「差」と「違い」
私は「格差」と言うものは「それだけ」ならば「違い」とそれほど差はないようにも思ったりもする。
単に「金持ち」が「金持ち」で「貧乏人」が「貧乏」であるだけならば生きていくだけの物さえあれば実はそれほど目くじらを立てることもないようにも私には思える。
ここでこのように表現すると「生きていくだけのものさえあれば」と言う前提そのものが問題(評価の違い)にもなろうが、だからこそ、そこが問題にならざるをえないある側面に関心をそそられる。
実際には上記のように思いながらも「価値」の基準が(原理的に,画一的に)「貨幣」である世界では「金持ち」は価値があり「貧乏人」は価値がなくなりかねないから「格差の拡大」を好ましくない物と私は判断しているのだが、それは後で触れるとして話を元に戻す。
その側面を切り取る為に誤解を覚悟で言えば、貨幣が「人」の価値を決める「雰囲気」がなければ「金持ち」が全体を養う「金持ち」の役割を果し、「貧乏人」がそれを支える「貧乏人」の役割を果す構図があってもそれほどそれが致命的な問題とも思えない。(そもそも「金持ち」も「貧乏人」の支えがなければ成り立たないのだし、逆もそうだし。)
別の意味で挑戦的な言い方をすれば「貧乏人がかわいそうだから救済する」ことと「金持ちは偉い」ということは『「価値」の基準が(原理的に,画一的に)「貨幣」である』という点では同一レイヤーを基盤にしているとすることも可能であるようにも思える。(もちろん他のレイヤーにおいては「違い」があると思う)
金持ちも偉く、よく働く平サラリーマンも偉く,良い物を作る貧乏頑固職人も偉く、おいしい料理を作る主婦も偉く、そしてそれが互いにリスペクトでき思いやれるならばそれでも許容はできるのではないかと。
そこで金持ちが贅沢ができ,貧乏人が倹約しなければいけなくても、それが他のレイヤーに波及しないならばその差は致命的でもないと思うし金持ちが「努力の結果」として金持ちとなり社会全体により多く貢献しているならそのことが尊敬されてもいいのではないかと。
でも「あらゆる価値」の基準が「貨幣」であるといった概念の領域ではそんなことは言っていられない。
そして日本も今はその影響下にいる。
「清貧」も「無欲」も「一生懸命」も「汗」も「貨幣の価値」無しには無価値扱いされてしまいがちである。
そのことは上記のような「価値」を目にした時に現実的ではない「価値」として受け取られがちであることが大方予期できてしまうことからそう思う。(そんなことは無いと反論されると内心は嬉しいのだけれど)
充分に消費しない事でさえ経済に寄与しないと言う理由で「無価値」を越えて「悪」のカテゴリーに括られそうな感じすらある。
そんな中で無価値とされた者は(貧乏で有るという事ではなく)無価値として生きることを受け入れられるのだろうか?
そこでは「持たないこと」と言う事実を突きつけられるのではなく、「無価値」であるという(原理的であればあるほど)絶対的な評価を突きつけられる事になるのではなかろうか。
家庭内では貨幣をもたらさない妻は無価値で、同じ理由で子供も無価値ならば妻も子供も価値(貨幣)を求めて居心地の悪い「そこ」から外に出て行こうとしても一向に不思議ではない。
無価値な(貨幣をもたらさない)人間と結婚して無価値(貨幣をもたらさない)な人生を送ろうとしないのもあたりまえ。
貨幣(唯一の価値)をたらふく喰う子供をたくさん産みたいとも思うまい。
価値のない者として扱われる事が予期されるなら、その価値のない(貨幣を充分もたらさない)仕事に就くことを嬉々として受け入れる者が減ってもおかしくは無い。
画一化された価値基準の元で生じる格差はさまざまな場面で日本が今「負」と見なしている現象を促進する「動機」を提供しているように思える。
おそらく「あらゆる価値」の基準が「貨幣」であると言う概念に浸れば浸るほど上記のような国が「負」と見なしている現象への動機は強く作用しそうである。
逆にそう(「あらゆる価値」の基準が「貨幣」)でなければ「無価値」が「無気力」に転化し,結果として経済に悪影響を及ぼすことも少なかろうにとも思う。
差は多かれ少なかれできてしまうものである。
差の生み出す活力は同時に生きがいである。
差にその効力を認めるのも間違っていないと思う。
でも格差の方向性が一方向でなければそれが無効(単に平等で活力のない状態)になると言う性質のもでもあるまい。
このような画一的な価値基準の元にあるからこそ本来それほど大きな問題ではない「できてしまう差」が「格差」という大きな問題として顕在化し、その「格差」がさらに「格差」を加速し社会に悪循環を引起してしまうのではなかろうか?
日本は(今のところ)「選ばなければ」餓死するような社会ではない。
にも拘わらず毎年「自殺」と言う形で多くの死者を出す。
「選ばずにはいられない」何かがあり,それを(生存を断念するくらい)無視できない。
この「何か」とは何だろう。
たとえば「無価値(とされたもの)を選ぶことで(私が)無価値(とされるもの)にされ、そのように扱われてしまうこと」であったり「貨幣がない・生まない」と言うそのことよりもそのことがすなわち「価値が無い」と「される」事,またそのように「扱われる」事への「絶望」や「恐れ」や「諦め」
と言ったようなことではなかろうか。
この画一的な価値の元では(達観して価値そのものを無効化した者以外は)人(他者・社会)から無価値だと指をさされても「俺は無価値ではない」と主観的虚勢を張る(としか人から受け取られない)方法以外に生存の無価値化から回避できる術があるだろうか。
多様な価値の元でならば「俺は無価値ではない」はその価値によっては間接的に客観的支援を受ける可能性もあるが、画一的な価値の元ではそれは「孤立無援」。
より日本的に言えば画一的価値に浸され始めた「世間」や「空気」から「孤立無援」の状態におかれ疎外されてしまうのではなかろうか。
それではいけないと説教をして負荷を掛けるのは可能だけれど構造改革を市場原理に丸投げすることしかできないのに上記のような現象(少子化,非婚・晩婚,家庭崩壊,NEET)が「負」であるからといって市場原理と同じような構造をもつこれらが「説教」で変わとも思えない。
意思が無力だから市場原理でしか構造改革ができないのであれば,これら「負」も「なるように」しかなるまい。
誰にでも同じように評価でき、それゆえあらゆる物と無条件に交換可能にする「全ての価値の貨幣化」という概念の長所は、同時に何かを同じようにしか評価できないという短所でもある。
あらゆる価値を公平に包含しているようでいて、(特に定量化できない)他の価値の本質を破壊して(切り捨てて)いる。
格差を考える時にその格差がどのような状況のもとで発生する格差であるか、つまり「組み合わせ」が現実世界では結構重要なのではなかろうか?
「全ての価値の貨幣化」という概念が捨てきれないのであれば、やはり問題を引起す「格差」の拡大を少しでも抑制する為に充分なセーフティーネットが必要で有るという結論に落ち着くことになるのだろうが、多少緩和はできてもそれだけでは根底にある人の存在の無価値化(負の動機)は解消されそうには思えない。
どうもこのあたり、価値観の多様化といいながら、その実、様々な政策が人をコチコチの単一の価値観に縛りつけようとしているような気がしてならないのだ。
「経済活性の為の多様化」なのか「価値の多様化の結果としての経済活性」なのかの間には基盤となるレイヤーにおいて大きな違いがあるのではなかろうか。(目的合理的には差は無いと見なすのかもしれないけど...)
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