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2006/03/30

「格差」と「差」と「違い」

私は「格差」と言うものは「それだけ」ならば「違い」とそれほど差はないようにも思ったりもする。
単に「金持ち」が「金持ち」で「貧乏人」が「貧乏」であるだけならば生きていくだけの物さえあれば実はそれほど目くじらを立てることもないようにも私には思える。
ここでこのように表現すると「生きていくだけのものさえあれば」と言う前提そのものが問題(評価の違い)にもなろうが、だからこそ、そこが問題にならざるをえないある側面に関心をそそられる。

実際には上記のように思いながらも「価値」の基準が(原理的に,画一的に)「貨幣」である世界では「金持ち」は価値があり「貧乏人」は価値がなくなりかねないから「格差の拡大」を好ましくない物と私は判断しているのだが、それは後で触れるとして話を元に戻す。


その側面を切り取る為に誤解を覚悟で言えば、貨幣が「人」の価値を決める「雰囲気」がなければ「金持ち」が全体を養う「金持ち」の役割を果し、「貧乏人」がそれを支える「貧乏人」の役割を果す構図があってもそれほどそれが致命的な問題とも思えない。(そもそも「金持ち」も「貧乏人」の支えがなければ成り立たないのだし、逆もそうだし。)

別の意味で挑戦的な言い方をすれば「貧乏人がかわいそうだから救済する」ことと「金持ちは偉い」ということは『「価値」の基準が(原理的に,画一的に)「貨幣」である』という点では同一レイヤーを基盤にしているとすることも可能であるようにも思える。(もちろん他のレイヤーにおいては「違い」があると思う)

金持ちも偉く、よく働く平サラリーマンも偉く,良い物を作る貧乏頑固職人も偉く、おいしい料理を作る主婦も偉く、そしてそれが互いにリスペクトでき思いやれるならばそれでも許容はできるのではないかと。

そこで金持ちが贅沢ができ,貧乏人が倹約しなければいけなくても、それが他のレイヤーに波及しないならばその差は致命的でもないと思うし金持ちが「努力の結果」として金持ちとなり社会全体により多く貢献しているならそのことが尊敬されてもいいのではないかと。


でも「あらゆる価値」の基準が「貨幣」であるといった概念の領域ではそんなことは言っていられない。
そして日本も今はその影響下にいる。
「清貧」も「無欲」も「一生懸命」も「汗」も「貨幣の価値」無しには無価値扱いされてしまいがちである。
そのことは上記のような「価値」を目にした時に現実的ではない「価値」として受け取られがちであることが大方予期できてしまうことからそう思う。(そんなことは無いと反論されると内心は嬉しいのだけれど)
充分に消費しない事でさえ経済に寄与しないと言う理由で「無価値」を越えて「悪」のカテゴリーに括られそうな感じすらある。

そんな中で無価値とされた者は(貧乏で有るという事ではなく)無価値として生きることを受け入れられるのだろうか?
そこでは「持たないこと」と言う事実を突きつけられるのではなく、「無価値」であるという(原理的であればあるほど)絶対的な評価を突きつけられる事になるのではなかろうか。

家庭内では貨幣をもたらさない妻は無価値で、同じ理由で子供も無価値ならば妻も子供も価値(貨幣)を求めて居心地の悪い「そこ」から外に出て行こうとしても一向に不思議ではない。

無価値な(貨幣をもたらさない)人間と結婚して無価値(貨幣をもたらさない)な人生を送ろうとしないのもあたりまえ。

貨幣(唯一の価値)をたらふく喰う子供をたくさん産みたいとも思うまい。

価値のない者として扱われる事が予期されるなら、その価値のない(貨幣を充分もたらさない)仕事に就くことを嬉々として受け入れる者が減ってもおかしくは無い。

画一化された価値基準の元で生じる格差はさまざまな場面で日本が今「負」と見なしている現象を促進する「動機」を提供しているように思える。

おそらく「あらゆる価値」の基準が「貨幣」であると言う概念に浸れば浸るほど上記のような国が「負」と見なしている現象への動機は強く作用しそうである。

逆にそう(「あらゆる価値」の基準が「貨幣」)でなければ「無価値」が「無気力」に転化し,結果として経済に悪影響を及ぼすことも少なかろうにとも思う。

差は多かれ少なかれできてしまうものである。
差の生み出す活力は同時に生きがいである。
差にその効力を認めるのも間違っていないと思う。
でも格差の方向性が一方向でなければそれが無効(単に平等で活力のない状態)になると言う性質のもでもあるまい。

このような画一的な価値基準の元にあるからこそ本来それほど大きな問題ではない「できてしまう差」が「格差」という大きな問題として顕在化し、その「格差」がさらに「格差」を加速し社会に悪循環を引起してしまうのではなかろうか?

日本は(今のところ)「選ばなければ」餓死するような社会ではない。
にも拘わらず毎年「自殺」と言う形で多くの死者を出す。
「選ばずにはいられない」何かがあり,それを(生存を断念するくらい)無視できない。
この「何か」とは何だろう。
たとえば「無価値(とされたもの)を選ぶことで(私が)無価値(とされるもの)にされ、そのように扱われてしまうこと」であったり「貨幣がない・生まない」と言うそのことよりもそのことがすなわち「価値が無い」と「される」事,またそのように「扱われる」事への「絶望」や「恐れ」や「諦め」
と言ったようなことではなかろうか。

この画一的な価値の元では(達観して価値そのものを無効化した者以外は)人(他者・社会)から無価値だと指をさされても「俺は無価値ではない」と主観的虚勢を張る(としか人から受け取られない)方法以外に生存の無価値化から回避できる術があるだろうか。
多様な価値の元でならば「俺は無価値ではない」はその価値によっては間接的に客観的支援を受ける可能性もあるが、画一的な価値の元ではそれは「孤立無援」。
より日本的に言えば画一的価値に浸され始めた「世間」や「空気」から「孤立無援」の状態におかれ疎外されてしまうのではなかろうか。

それではいけないと説教をして負荷を掛けるのは可能だけれど構造改革を市場原理に丸投げすることしかできないのに上記のような現象(少子化,非婚・晩婚,家庭崩壊,NEET)が「負」であるからといって市場原理と同じような構造をもつこれらが「説教」で変わとも思えない。
意思が無力だから市場原理でしか構造改革ができないのであれば,これら「負」も「なるように」しかなるまい。

誰にでも同じように評価でき、それゆえあらゆる物と無条件に交換可能にする「全ての価値の貨幣化」という概念の長所は、同時に何かを同じようにしか評価できないという短所でもある。
あらゆる価値を公平に包含しているようでいて、(特に定量化できない)他の価値の本質を破壊して(切り捨てて)いる。

格差を考える時にその格差がどのような状況のもとで発生する格差であるか、つまり「組み合わせ」が現実世界では結構重要なのではなかろうか?

「全ての価値の貨幣化」という概念が捨てきれないのであれば、やはり問題を引起す「格差」の拡大を少しでも抑制する為に充分なセーフティーネットが必要で有るという結論に落ち着くことになるのだろうが、多少緩和はできてもそれだけでは根底にある人の存在の無価値化(負の動機)は解消されそうには思えない。

どうもこのあたり、価値観の多様化といいながら、その実、様々な政策が人をコチコチの単一の価値観に縛りつけようとしているような気がしてならないのだ。

「経済活性の為の多様化」なのか「価値の多様化の結果としての経済活性」なのかの間には基盤となるレイヤーにおいて大きな違いがあるのではなかろうか。(目的合理的には差は無いと見なすのかもしれないけど...)

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2006/03/27

延命処置の中断

射水市民病院で入院中の回復の見込みの無い患者の延命措置が中止され7人がなくなっていたというニュースがあった。
この出来事はまだどのような経緯で、外科部長が何を思ってこのような行為に及んだか、どこに違法性があるかが明らかではないのでこの出来事に特化して書くことは差しさわりがあるけれど、この出来事は私からそんなに遠い話ではないと思うので少し書いてみる。


私もそんな場面につい最近出会ったことがある。

介護している母が誤飲誤嚥性肺炎を引き起こし入院した際に最初に医師に確認されたのが、もしもの場合に「延命治療」を施すかどうかだった。
医師が言うには一度延命処置を選択したならば、それを途中で止める事は困難になるとのこと。
症状が現れ、家族(私)が異常だと気付き、救急車で運ばれ、めまぐるしく状況が変わる混乱の中にあって、その選択を迫られるまでの時間はそれほど長くない。
「生きてほしい」という思い、その逆の「苦しまないでほしい」という思い、身内の生死に関わることを選択する責任の重圧、今後予想される経済的、介護上の負荷、倫理的呵責と現実的対応との葛藤...
自分の中で解決されずにペンディングされているさまざまなレイヤーに問いかけ、正解のない多レイヤーにまたがる出来事に対して選択をしなければならない。

幸いにしてその「もしも」は起こらなかった。
でも世の中には「もしも」が起こるケースは少なくないだろう。

母を介護するきっかけとなった脳梗塞で倒れた時は「もしも」をすっ飛ばしそれは具体的現実だった。
「このままでは死にます」「(手術を施して)助けても重度の後遺症が残ります」「どうしますか?」
このときに求められたのはその緊急性ゆえ、その場での「即答」だった。
医者も助かるかどうかはもちろんのこと、重度の障害が具体的にどの程度「重度」となるかを明確に答えることはせず、確率的な話として「かろうじて」情報を提供してくれるだけだ。(事実に真摯であればあるほどその対応は妥当だと思う)
正直言えば、次男であり殆ど「家」から遠く離れて暮らすことが多かった私にとっては「介護」など具体的に想像すらしたこともなかった。
母が以前の母とは全く違った姿で戻ってくることへの戸惑いや、そのギャップから来る対象不明な苛立ち,怒り,後悔は実際に体験する以前にはとても想像できなかった。(さらにその後、全く変わり果てて戻ってきた今の母をそのまま受け入れることができるようになってからの苛立ちの解消などはそれ以上に予想もつかなかったが...)
重度の障害が「実際に」どのようなものか、どのように家族に影響を及ぼすのかの実感もなかった。

そんな中での選択だ。
たぶん多くの人が経験することだろう。

当初は、介護が始りその現実に直面すると暗澹たる気持ちにもなったが、これも幸いにして、元来がのんきだからなのかどうか判らないが今では生活の一部となり当初あったさまざまな苛立ちもかなりなくなってきている。
(後遺症によるコミュニケーションの障害はあるが)母は突然騒ぐことはあっても愚痴を表現しない。
まれに、意識のハッキリしたときにたどたどしい言葉をくれる。(これがなんとも嬉しい)
たまたま幸いに、母はそこにいるだけで「雰囲気」がユーモラスだから私はノイローゼにはならない。

でも、ニュースなどでは「介護に疲れ果てる」というケースも少なくない。
母とは違い極度の苦痛を伴う病気で患者の苦痛を見つづけなくてはならないことも少なくないだろう。


こんな経験から、家族にとって身内が重大疾病にかかったときの選択は「不確か」ななかで行われ、その選択の結果が患者自身にも家族にもどのような結果をもたらすかを現実味を持って想像することは本当に難しいことだと思う。
選択の結果、身内である患者に苦痛を与えてしまい、それを見続けなければいけないとなったらその家族の苦痛も計り知れない。

医師から選択を迫られたとき、その医師が「助ける選択をして結果的に生命維持装置にパイプでつながれたり、苦しむ患者の姿を目にして後悔する家族もいます」といっていた事を思い出す。

世界の切り取り方として「人の命は大事である」と言うレイヤーは強固な信頼を持つ有用な世界の切り取り方の一つだと思う。
例外を認めてしまうと切り取りの「合意」が損なわれ「信頼」(再現性、予見性)を失う「性質」(社会性)があるために例外を認めることはそのレイヤーにとっては大きなダメージとなってしまうこともあるので慎重にならざるを得ない。
だから「人の命は何よりも大事である」というレイヤーは何よりも優先され、信頼されたる事を私は基本的に望んでいる。
しかし、これさえも切り取り方である以上、切り捨てられている部分(たとえば苦痛、意思の軽視)や他のレイヤーはある。

「人の命」の上に「人の尊厳」と言うレイヤーを置き「人の命」を包含して「切り捨てられたもの」を救済できないかと言うのが「尊厳死」や「延命治療の中止」の問題の一面だと思う。

「人の尊厳」が「人の命」を包含しようとしても、これもやはり「人の命」のレイヤー同様切り捨てられる部分や顧みられない他のレイヤーがある。
「臓器移植」に対する倫理的反対などは「人の尊厳」によって「人の命」が切り捨てられるもの(逆に、「臓器移植」を推進することは「人の命」によって「人の尊厳」が切り捨てられる)という側面があるのかもしれない。
「尊厳」についても前提・合意が無ければ、(例外はあろうとも)十分に寄与している「人の命」の「信頼」をいたずらに貶めるだけになってしまうことにもなりかねない。

だからこそ慎重である必要があると思う。

具体的に慎重であるには(現時点での合意であるところの)法に問いかけ(その法のレイヤーの切り取り方が不十分であっても)合法・違法は明確にし、そこにもし違法性があるならば罰を受けねばならぬことに同意することだと思う。
その上で、できれば量刑で(切り取り方の不十分さがあるなら)それを補えないものかと思う。
その一方で、医師に非難を向けるのも罰の一つであるが、医師の投じた一石が次の信頼を得るレイヤーの礎になりうることも頭の片隅に置く必要もあるのではなかろうか?
今回の医師がどうであったかはわからないが、患者の意思の確認が困難であるケースは少なくない。
レイヤーの不十分さが自覚されながらそれを放置するだけではそのレイヤー自身の信頼そのものが落ちていくだけ。
運用により試行錯誤しながら「人の尊厳」を法に織り込んでいく事ができればいいのにと思う。
そのような動きの中で、レイヤー(概念)の運用しだいでどちらがより信頼を得るか、どちらがより普遍性を得るかが方向付けられ、さらにこれが発展し人にとってより良いこれらを包含するレイヤーが構築されていくのではなかろうか。

「助かる可能性がある命が助からない」事への「悔恨」や「責任」は医療が発展しそれを可能にしなければ考慮する必要の無かったことだが、発展を前提とする以上このような問題は今後ますます増えてくると思う。
それが人の進歩であるとするならレイヤーも進歩しなくてはいけないのだろうと思う。

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2006/03/13

戯れ

確かに世の中いろいろなことがめまぐるしい。
身近なことも身近でないことも。
ひとつのことに注目している間にその一方で以前注目していたことが遠い過去のことであるかのように忘れ去られていく。
注目されなくなったかったからと言って、それが経験として何らかの検証・結果をそこに残したというわけでもなく、そのことが「今」身の回りに影響を与えてないと言うわけでもないのだが視野から抜け落ちていく。(つまり合理的でも,プラグマティックでもない)
偽装メール事件は直接的には耐震偽装、ライブドア、BSEを風化させ,間接的には小泉政権への検証を風化させた。
「イラク」は今まさに混乱の中にあるにも拘わらず,あたかも「無い物」であるかのように扱われ,それに伴う自衛隊撤退やその延期への関心も風化している。
そうこうしているうちに次はイランだ。
そのイランも風化するとかそういう問題以前に偽装メールのようなどうでも良い「関心」の陰に隠れてしまい国内では注目度そのものが薄い。

何も残ることなく、次から次に「内外」からもたらされ垂れ流される物に目を奪われたりウンザリしているうちにそれらは知らないうちに堆積し大きな山となって清算だけは迫って来る。
でも、それを清算する術も気力もない。
この間隙を縫って様々な決め事がいつの間にやら次々に「注目」されることなく決まっていく。
それがまた「堆積する山」の嵩を増やさなければいいのだが...

「堆積した山」を見るのは実に気が重いので、気楽な「関心」に目を向けしばしそれを忘れる。
だからなのかどうかは分からないが、気楽な「関心」は需要もあり高く売れる。
気楽な「関心」の次に人気があるのが単純な「関心」。
「堆積した山」とは違い「答えを持った」(ように装った)単純な物への需要も高い。
市場では「easy」「simple」に高値がついているのではなかろうか?
そのあおりを食って「堆積した山」(complex,problem)は自由市場ではまるっきり人気がなく売れ残り、在庫の山はさらにうず高く積まれていく。

そして、「関心」を得ない事象は「実在しない」と嘯きながら「閉塞感」と戯れている。
一方で,堆積した山を一瞬で消し去る「resetボタン」を「誰かが」見つけて押してくれるのを心の片隅で無意識に期待しながら。

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2006/03/02

Multi_layer

一つの出来事には様々な面がある。

それを考える経緯や、イメージからそれらを「視野」と言ったり「地平」と言ったり「層」「レイヤー」そして「前提」と言ったり、それこそ表現の仕方も色々あるけれど、これらは皆共通の「あり方」を表しているように思う。

Multi_layer


例えば、同じ「自由」に注目しても,それが「自由」と言う同じキーワードだからといってそれが一つの自由と言うレイヤーを成しているというだけではなく、違うレイヤー上においても、そこでの独特な作法で「自由」は語られる。
「統治」というレイヤー上に出てくることもあれば、「個」というレイヤー、「経済」というレイヤー、もしかすると「安全」などというレイヤーで出てくるかもしれない。
もちろん「自由」と言うレイヤーもあるだろうが,そのレイヤー上では「それを成す為の」別のキーワードで語られているのだろう。
おそらく、このレイヤーはこれまで人の生み出した「概念」の数だけ「無数」あるのだろうけれど、それでも世界から見れば隙間だらけの「全く不十分」といった数だけあるにすぎないだろう。
常に予期せぬ未知と出会い、予期しない反応に出会うたびに新しいレイヤーが生まれているのだから常に「不十分」であるといえると私は思っている。

それぞれのレイヤーで語られる「自由」には重なるところもあれば、まったく別の様相で語られる事もある。
そして、それぞれの(自由が語られる)各レイヤーへの関心(影響)にも軽重があるだろう。

レイヤーは「論理」を適用するのに都合が良いカテゴライズであり、論理を支える何がしかの共通する場のような物にも思える。
別の言い方をすると「合理的解釈」のための「世界の切り取り方」なのではなかろうか。
そのレイヤーの中ではそこの作法に従うことで論理的に「世界」を扱うことを可能にしているようだ。
そういった意味ではレイヤーは社会学者の言う「システム」とも関係あるのかもしれない。

現代では「論理」「合理性」を潜在的に(疑うことなく,選択の余地なく)基盤にしているからなおさらのこと「自然に」「勝手に」「都合よく」、「世界」のあり方には関係なく「カテゴライズ」はますます進んでいく。
でも論理で観念できないからと言って(つまりカテゴライズがされていないからと言って)「世界のあり方そのもの」が意味がないわけでもなく、これまでのレイヤーに当てはまらないものに否応なく出会ってしまうことで、「意識せざろう得ない」と言う形で無視できない意味を持つはずである。(それがあるからまた新たなレイヤーが次々と生み出されるのだが)

狂牛病問題などは「外交」や「経済」のレイヤーもあれば「安全」のレイヤーもある。
もちろんその他の様々なレイヤーもあることだろう。
経済のレイヤーで見る場合には経済にとって「概ね」何が合理的かを語ることはできる。(実際にはこのレイヤーの中にもサブレイヤーがいくつもあり、その中での取捨もあるので「概ね」なのだが)
外交のレイヤーでは外交にとって「概ね」何が合理的かを語ることもできる。
安全のレイヤーでは安全にとって「概ね」何が合理的かを語ることもできる。
しかし外交・経済・安全の各レイヤー同士では軽重・度合いを語ることはできても、個々に挙げた各レイヤーの論理でこの問題の全体の合理性を語ることは難しい。

現実世界ではいくら「経済の活性化の為には障壁のない自由貿易こそが合理的である。」
と言われようとも、それは経済レイヤーに限れば論理的説得力は確かにあちそれはそれで間違いではないのだが、別レイヤーである「安全」や「外交」を考慮する必要があるときにはこの論理的説得力は無力であり、このような各レイヤーにまたがる問題ではレイヤー同士の軽重・度合いでしか妥当性は語れないだろう。
経済のレイヤーの論理で「最善」であることに従っても、外交・安全のレイヤーや考慮されない他のレイヤー上ではそれは「最悪」を意味することもあるはずだ。
最善を選択したはずであっても他のレイヤーで「最悪」であれば当然「世界」は「それなり」の反作用を示すことになろう。逆も然りである。
経済のレイヤーの理論で作法の違う外交・安全のレイヤーの理論を語ること(その逆も)だけでは妥当性はどうやら得られそうにない。
これを「あくまで合理的に」語るには政治・経済・安全をレイヤー上に置く別のレイヤー、もしくは新たなレイヤーを創造してそこ(基本理念)での妥当性について語ることになるのであろう。
当然このレイヤーも一つの「世界の切り取り方」には違いない。
だからと言ってどんな物でもいいというものでもなく,このレイヤーがレイヤーである為には「作法に従う」場であるための「信頼」が必要になるのであって、このレイヤーにおいて世界の一部をしっかり切り取っていると観念できるだけのものでなければならないから難しいのだろうなと思う。

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digitalとanalogue

最近の事件や出来事を見ていて、「アナログのデジタル化」みたいなものがよく頭に浮かぶ。
もともとはありもしなかったところに「便宜上の線引き」をして、論理的に扱いにくい移り行く世界の「ありかた」から扱いやすい部分を切り取り、扱いやすいように層分(レイヤー化)して人が「合理的」に世界を扱えるようにしたようなもの。
実際には、「合理性」一般について考える時に浮かんでくるイメージだ。
これは以前のエントリーのコメント欄にも書いたことがあるのだけれどイメージしてもあまりに抽象的なのでそれ以上書かなかったけれども、いまだに付きまとうイメージなのでもう少しつぶやいてみる。

digital_analogue

デジタル化しないと「則」が使えない、切り取らなければ意味を持ち得ないのが「合理性」なのではないか。

さしずめ世界をデジタル化し、さらにそれを二進法に翻訳した物が「善悪」「合法・非合法」「正義の味方・テロリスト」などといった二元論なのかもしれず,合理的な「扱いやすさ」や「共有しやすさ」ではこの上ないが、それを信奉してしまえば「世界そのもの」からは隔離れていく。

連続的に互いに影響しあう重層的な世界をそれぞれ「独立の物」として各レイヤー(分野,専門性,システム、概念)に分割し、そのレイヤー内でデジタル化、2進法化が進んでいく。

連続した重層も層内の連続も「合理性」の適用を受けるべく世界により近づけるべく極限を目指して分断され断片化されていく。

でも、私たちに作用する世界はあくまでアナログ。
デジタルで解釈して、それを頼りに起こした行為に対する世界からの反応は常にアナログであり、解釈の為に切り取ったデジタルの解釈に必ずしも沿った反応を示すわけではない。

デジタル音,デジタル画像は人の知覚の限界を超えることで「欠損」が認識されない領域にまで達し、切り捨てられた生の「隙間」を気にする人はそうそういない。(潜在的に知覚しているかどうかは知る由もないが)
物の世界では「合理性」を「便利」な物としては使いこなしつつあるのかもしれない。
それに倣い、人の世界にもこれを適用しようと試みるのだが、デジタル化の過程でアナログの断片を無視することに慣れすぎそれが存在することすら忘れてしまったような場面にも出くわす。

現実の世界では単純化したデジタルの隙間を「合理性」の為に無視しても、それをあざ笑うかのように偶然・異常を装いその不合理(というより合理の至らなさ)が顔を見せる。

人の世界ではどこまで細分化に耐えられるのであろう。
マトリックスという映画に描かれた空想のサイバー空間のように人の限界を機械に委ねればもしかしたら「細分化」の「理想形」が実現するのかもしれないが...

その一方で,そろそろ悲鳴をあげデジタル音やデジタル画像の様に忠実に細分化することを諦め、(ただ合理性の為に)世界に対しそのまま粗雑に2進法を適用し,シンプル化することで対応し始めてしまったようなところもある。
でも、細分化されない「粗」なデジタル音もデジタル画像も恐らく聴く(見る)に耐えないだろう。

人は世界を切り取りながら解明してきたが、今では無理やり「合理性」に世界をあてはめはじめたというようなイメージだ。
それに対して世界はどんな反応(作用)を示すのだろう。

断片化、極限化せずに連続をそのまま語ることができる「合理性」、影響しあい重なり合うレイヤーをそのまま語ることができる「合理性」を人が当然の如く扱える日は来るのだろうか?
などとついつい考えてしまう。

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