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2006/03/02

digitalとanalogue

最近の事件や出来事を見ていて、「アナログのデジタル化」みたいなものがよく頭に浮かぶ。
もともとはありもしなかったところに「便宜上の線引き」をして、論理的に扱いにくい移り行く世界の「ありかた」から扱いやすい部分を切り取り、扱いやすいように層分(レイヤー化)して人が「合理的」に世界を扱えるようにしたようなもの。
実際には、「合理性」一般について考える時に浮かんでくるイメージだ。
これは以前のエントリーのコメント欄にも書いたことがあるのだけれどイメージしてもあまりに抽象的なのでそれ以上書かなかったけれども、いまだに付きまとうイメージなのでもう少しつぶやいてみる。

digital_analogue

デジタル化しないと「則」が使えない、切り取らなければ意味を持ち得ないのが「合理性」なのではないか。

さしずめ世界をデジタル化し、さらにそれを二進法に翻訳した物が「善悪」「合法・非合法」「正義の味方・テロリスト」などといった二元論なのかもしれず,合理的な「扱いやすさ」や「共有しやすさ」ではこの上ないが、それを信奉してしまえば「世界そのもの」からは隔離れていく。

連続的に互いに影響しあう重層的な世界をそれぞれ「独立の物」として各レイヤー(分野,専門性,システム、概念)に分割し、そのレイヤー内でデジタル化、2進法化が進んでいく。

連続した重層も層内の連続も「合理性」の適用を受けるべく世界により近づけるべく極限を目指して分断され断片化されていく。

でも、私たちに作用する世界はあくまでアナログ。
デジタルで解釈して、それを頼りに起こした行為に対する世界からの反応は常にアナログであり、解釈の為に切り取ったデジタルの解釈に必ずしも沿った反応を示すわけではない。

デジタル音,デジタル画像は人の知覚の限界を超えることで「欠損」が認識されない領域にまで達し、切り捨てられた生の「隙間」を気にする人はそうそういない。(潜在的に知覚しているかどうかは知る由もないが)
物の世界では「合理性」を「便利」な物としては使いこなしつつあるのかもしれない。
それに倣い、人の世界にもこれを適用しようと試みるのだが、デジタル化の過程でアナログの断片を無視することに慣れすぎそれが存在することすら忘れてしまったような場面にも出くわす。

現実の世界では単純化したデジタルの隙間を「合理性」の為に無視しても、それをあざ笑うかのように偶然・異常を装いその不合理(というより合理の至らなさ)が顔を見せる。

人の世界ではどこまで細分化に耐えられるのであろう。
マトリックスという映画に描かれた空想のサイバー空間のように人の限界を機械に委ねればもしかしたら「細分化」の「理想形」が実現するのかもしれないが...

その一方で,そろそろ悲鳴をあげデジタル音やデジタル画像の様に忠実に細分化することを諦め、(ただ合理性の為に)世界に対しそのまま粗雑に2進法を適用し,シンプル化することで対応し始めてしまったようなところもある。
でも、細分化されない「粗」なデジタル音もデジタル画像も恐らく聴く(見る)に耐えないだろう。

人は世界を切り取りながら解明してきたが、今では無理やり「合理性」に世界をあてはめはじめたというようなイメージだ。
それに対して世界はどんな反応(作用)を示すのだろう。

断片化、極限化せずに連続をそのまま語ることができる「合理性」、影響しあい重なり合うレイヤーをそのまま語ることができる「合理性」を人が当然の如く扱える日は来るのだろうか?
などとついつい考えてしまう。

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