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2006/01/14

価値の公平性

経済ではその流通や利便性のために「価値」は「評価」され「換算」される。
「価値」を「そのままの価値」として持っているだけでは(経済的な)意味を持たない。
「価値」は(貨幣価値へと)換算され「なければならない」のである。
換算できなければ「無価値」である事と何ら変わりがない。

理想はともかく現実世界では「価値」がそのまま評価されるのではなく、価値を換算出来る可能性とそれをする能力(ビジネスモデル、広告・マーケティング、既存のルール・システムのようなもの)によって初めて価値として世に公認される。
これは「そのままの価値」は常に「価値を換算する能力」に飲込まれてしまう事も意味するように思える。
「価値を換算する能力」も一つの「価値」ではあるが、そこに「主従関係」がたち現れて来るならば各々の価値が多様性の中で公正に評価される事を歪めてしまうと思う。
それがそれだけで済めば問題ないのだが、「価値」を「そのままの価値」として存在する事を許さない状況をも作り出してしまうと言う事になりはしないか?


仮に多くの人にとって「価値」であるような場合であったとしても、換算が困難であったり,換算する能力を持つものの価値にそぐわなければ、それは「無価値」だと評価され、「無価値」と「無価値との評価」に区別(差)を見出す事さえもできない。
そこに本来「価値に対して公正中立」であるべき流通媒体としての条件(正当性)が成立しない状況を生み出しやしないだろうか?
経済システムに生を受ける事のない「大事な価値」が存在する「可能性」がそこにあるように思える。

経済における市場原理は概念的な「原理」であるが、社会主義がそうであったように現実社会においては、その「原理」を「原理」であるが故に「信奉」してしまっては「綻び」から目をそらす事になりかねない。
そして人にとってこの「綻び」の意味は、近年ますます無視できないものになりつつあるのではなかろうか?

市場原理や競争は有用であると私も思う、が、「原理」として「信奉」する物ではなく条件を十分吟味した上でのみ有用な手段なのではないか(同じような事を何度も書いているが)と思えてならない。



--------------おまけ(エントリーを立てるほどの事もないメモなので)-------------------
合理・非合理

市場原理が合理性の表現ならば、テロ等は合理性に対峙する非合理な(抵抗)表現なのかもしれない。
合理原理主義と非合理原理主義。(こんな言葉があるかどうかは分からない。)

どちらもそこでは「個」としての「人」が排除されていると言う点でよく似ている。
同時に,どちらも「人」の表裏であり、「人」を二元論的に扱うことの当然の帰結なのでは。

もともと非合理な「人」は何のために合理的であろうとするのか?
「人」の為にそうあろうとするのではなかろうか。

もう一方で
合理的であろうとする「人」はなぜ非合理性を捨てきれないのか?
「人」であろうとするからなのではなかろうか?

前々回「書きたくてもかけなかったこと」で書いた「本末転倒」の匂いはこんなところに関係あるのかもしれない。
でも、まだよく分からないので覚書メモ。

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