不便と合理性
遅くなりましたが,あけましておめでとうございます。
先日、めったに雪など降らない私の住んでいる地域でも少し雪が降りましたが,雪国の方は年末から年始にかけて大変な状況のようです。
私もマイナス一桁が暖かく感じる冬のカナダにしばらく住んではいたのだけれど,寒さと積雪は別。
寒すぎると雪は飛ばされてしまい吹き溜まりでなければそれほど雪は積もらない。
寒い事と雪が多いか少ないかもまた別。
むしろ建物の入り口にカチカチに固まった雪(氷)を砕いて除去する作業の方がきつかった。
金属(ドアノブなど)にうっかり素手で触るとくっついてしまい,不用意に耳を外気にさらしていると,「気付かぬうち」にしもやけになる。
私はなったことはないが、これが酷いと凍傷になる。
自覚症状としては最初は「痛み」があるのだが、それを越えると「痒く」なり感覚がなくなってきて変化に「気がつかない」から恐いのである。
あったかい部屋の窓を開けると冷気が白い煙となって窓から床に落ち、床を這ってくる。
買ってきたビールは窓の外に晒せばあっという間に冷え,ちょっと気を抜くとすぐ凍り破裂する。
息を吸い込むと咳き込み,鼻毛が凍るのが良くわかる。
ちょっとした用事で-32度の中をジーンズをはいて(つまりインナー無しに)出た時には、戻ってきたらひざに力が入らなくなった。
初めての冬、何も知らずにサイドブレーキを引いて車を離れたらそのまま凍りついた。
凍りついたワイパーを溶かそうと熱湯をかけたらフロントウィンドウがあっという間に凍りつきにっちもさっちも行かなくなる。
スキー場は確かにパウダースノーなのだけれども、寒すぎると一向に滑らない。
私が住んでいたところでは雪よりも寒さの方に苦労が多かった。
その代わり,晴れた日は空気が澄み、シンと静まりかえって、太陽の光の中で空気中の水分が凍りつき、それがきらきら光って美しい。
「不便」でもカチッとした寒さはそれはそれで身が引き締まり大好きだった。
「不便」だけれどもその厳しさが過ぎ去った春のありがたさや美しさもまた格別。
そんなことをふと思い出す。
でも、今回の雪国の人の苦労はそれとは全く違い「積雪」にあるようだ。
もう既に何十人も転落事故などで、亡くなったという。
ニュースを見ていて気がつくのは高齢者の方が多いということだ。
若い人も同じように雪下ろしをしているが事故に遭わないということなのか,若い人がいなくて高齢者の方がその仕事をせざろう得ないと言うことなのか分からないが、高齢者が犠牲になるニュースは体力のない体に鞭打って一生懸命雪下ろしをする姿が目に浮かび、何ともうら悲しい。
だからといって「合理的に考えれば、このような不便は避ければよさそうな物だ」などとも思えない。
「不便だけれど良い」と言う事もあるのだ。
このような事故の本当の背景は判らないけれども、合理性が他に優先する「価値」である社会が加速すればするほど、このような「不便だけれども良い」の「価値」は下がり、「経済を基盤とする生活」の為に合理的であることを要求される若者はそこに留まる事は難しくなくなるのだろうな。
同じ合理性でも、このような場所でも生きていけるような合理性ならばいいのだけれど,なかなかそうも行かないようだ。
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