「脅威」
車社会では歩行者にとって自動車というものはエネルギーの大きさを比較すれば間違いなく「脅威」である。
ドライバーが人をひき殺そうと決意すれば、その「脅威」は確かであり,たとえそうでなくともドライバーが運転ミスを犯さないと言う保証があるわけでもないのだから常に「脅威」に晒されていることになる。
車の持つ質量とスピードが生み出すエネルギーは人が耐えうる衝撃を容易に超える。
これほど「脅威」の不均衡は無い。
この「外に存在する潜在脅威」に対して万全に備える為には、車の生み出しうるエネルギーに耐える防壁でも築かねばなるまい。
現実的にはそうしなくても済むようにルールなどを駆使して起こりにくくしている。
でも、ルールに信頼がなくなればその「脅威」はより現実的にはなるだろう。
また、どんなにルールを作ろうとも事故は起きる事もあるので,「脅威」がなくなるわけではない。
そんな大げさに考えるまでも無く「私を脅かす潜在脅威」は身の回りに溢れている。
大工が近くにいれば彼は刃物を持っているだろう。
髪を切りに行けば鋭利なハサミが私を待っていることだろう。
人とすれ違う時にも「私を傷つける事ができる凶器」になりうる物はそこいら中に転がっている事だろう。
たぶん潔癖症の人が「菌」「汚れ」を必要なまでに恐れるのも平均的な人よりもそれを「脅威」として捉えているからで,実際に「脅威」である可能性が全く無いとは誰も言えやしない。
「潜在脅威」はもともと世界には溢れているのだ。
そして、どれをとっても、「万が一」を考えれば一瞬にして私を「抹殺」できるのである。
起こってしまえば取り返しはつかない。
それが「悪意」によって引起されるものであるかもしれないし,「間違い」によって引き起こされるのかもしれない、はたまた「善意」が仇になる事だってあるやも知れないが、理由はどうあれ起こってしまえば致命的である。
我が身の存在に関わる一大事にも拘わらず,私は(そして恐らくたいての人は)全ての潜在脅威に現実的脅威を感じ危機意識を持ち続けて生きているわけではない。
「潜在脅威」を全く排除することなどほぼ不可能であるからそのように生きていく事もまた不可能だろう。
でも「大工がノミで貴方を殺そうとしたらどうするのだ」のような問いを立てることは常に「可能」ではある。
そう言われたら「身を守るだろう」と応えるしかあるまい。
が「大工の殺意に備える」準備などは今のところするつもりはない。
もし(私の判断で)その大工が見るからに「危なそう」ならば、そのときは「備える」こともあるだろう。
でもそれは「大工がノミを持っている」(潜在脅威を持っている)から「備える」わけではない。
大工が仕事をするためにノミを持っているだけなのに、それに対抗してノコギリを構えたら、逆に「潜在脅威」が「現実的脅威」に転化しかねない。
気がついたら大工がノミを手にする前に、私の後ろで友達が相手にハンマーを構えてたなんてオチがあるのかもしれないし。
いずれにしても「潜在脅威」はそこいら中に溢れている。
そのうち幾つかが不幸にも状況・環境によって偶然・必然的に「現実的脅威」として出現する。
そんな中で「潜在脅威」そのものを「脅威」として論じることはあまりに「無謀」な試みに思える。
そんなことよりも「何が潜在脅威を現実的脅威に転化させるのか」とか「その起こりやすさは」とかに意識を向けることのほうが「脅威への備え」を考えるにはよほど有意義なのではなかろうか?
たしかに出現した「現実的脅威」を「潜在脅威」と見誤れば危険である。
かといって「潜在脅威」をそれが「潜在脅威」というだけで騒ぎ立てれば逆に「現実的脅威」を出現させかねない。
案外、多くの「現実的脅威」は数少ない前者に過度に備えるあまり、後者によって「出現させられている」のではないだろうか?
(但しこれは静的な物質を対象にした話ではなく、あくまで人を対象にかぎった話だけれど...)
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