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2006/01/14

金を出しても

かつて「日本は金を出しても血は流さない」と言う言葉があった。

この発言は後の「国際貢献」「PKO」「Show the flag」「自衛隊海外派遣」「憲法改正」という一連の流れへの重要なターニングポイントの一つでもある。

アメリカにしても、それ以外の先進国にしても何かが起これば各々の立場で色々な発言をする。
今でもそうであるが、実際には多様な意見があらゆる方向からなされる。
恐らく、これらの言葉も数ある彼らの発言のうち,日本を表すほんの一面的な部分を一部の立場の者がしたにすぎなかったに違いない。

なぜそう思うかと言えば、これらの発言がされた頃にCNNや主要なブロードキャストで日本がそれほどクローズアップされる事はほとんどなかった印象があるからだ。(今はどうかわからないが当時カナダで私が済んでいたところの有線はほとんどアメリカの番組だった)
大きなニュースとして日本が取り上げられたのは唯一昭和天皇が崩御されたとき。(このときは各局とも大々的に扱っていた)
小さなニュースとしてはもっぱら経済(特に企業や不動産の買収など)に関してがほとんどだったという印象だった。
これらに特に関心を持ってウォッチしていたわけでもないので「印象」でしかないが,少なくとも日本がアメリカや欧州の動きに関心を寄せるほどの関心はもともとありはしないと言う事はかなりの確信を持って言える。

ほとんどの欧米の一般市民はこの発言に関心も注目さえもしていなかったと思う。
あったとすれば経済大国の日本が経済に物を言わせ自国のシンボル的資産に侵食してくる事への漠然とした危機感のような物だったと思う。
この「日本は金を出しても血は流さない」発言が欧米人の僅かな関心を得ていたとしても、それはこの危機感に対する共有認識から来るものでしかなかったのではなかろうか。

この発言を他の様々な発言と切り離して、選択的に受け止め、重要視し、問題視したのは他でもない日本人自身なのだと思う。

別に世界(の人々)が「日本は金を出しても血を流さない事」に関心を示し侮蔑の目を向けていたわけではなく、日本人が持つ
「世界の常識」はもともとどこにもなく日本人がセンシティブである「世界の常識」を選択しただけだと思う。
たぶん日本に「金を出しても」に侮蔑の目を向けていたのも「血を流さない」に負い目を感じていたのも日本人自身で「世界」そのものはむしろ多様で無関心であったのではないだろうか。

そういえば経済成長の頃には「エコノミックアニマル」と言う言葉もあった。
これも日本的モラルにある「守銭奴」に対する侮蔑感が(当時は)表面はともかくも底流に流れていたから重要視し、問題視したのではないかと思う。
つまり非道徳的(あるいは理念のなさ)である事に対する後ろめたさや喪失感が自身のものであったから反応を示し傷ついたのだろう。

だってモラルを抜きにして「合理的」に考えれば「エコノミックアニマル」も「金は出すが血を流さない」もそれほど「非合理」であるわけではなくむしろ著しい成長をした結果がそこにある以上,徹底して経済・生産に対しては「合理的」だったともいえるのだから。

今ではベタに「血を流さない」=「軍隊を出さない」に変貌しつつあるようだが、以前の「エコノミックアニマル」にしても「経済以外では汗を流さない」(人的貢献)を「ボランティア」や「国際貢献」を例にして指摘された事にしてもその底流にあるのは「(経済だけではない)個々のより良い世界のための人的コミットメントであり、それを許容しない日本システム」への苛立ちだったのではなかろうか?
世界の要請が仮にあったとしたならばそういうことだったのではないかと思う。

現アメリカ政府の世界戦略(イラク政策等)には同意できないし結果も好ましくはないが、親政府、反政府いずれもの一般のアメリカ人が「世界を良くする」ことにコミットメントしようとしていること、反対の立場をとっても一般の欧州人が「世界を良くする」ことにコミットメントしようとしている事は間違いないと思う。
一方の日本では「利」や「益」こそが説得力のある理由であり,「世界を良くする」が世論を動かす原動力になって世界戦略に乗ったとはあまり思えない。

日本では良く世界の要請を持ち出すが、グローバル化は間違いなく進行していると思うけど、それに対する回答(秩序)が「市場原理主義」であるとする事を「世界の潮流」だと言う「世界」の対象とは誰なのであろうか?
誰もが葛藤しているというのが現実なのではないか?
それによって影響を受ける様々な対立軸で葛藤しているのではないのかなぁ。
保守とリベラル、宗教と政治、合理と不合理、絶対と相対、開放と保護,自由と規制...

そんな中で最近耳にする機会が増えた(ように感じる)、金が全て(=全ての価値は貨幣に換算される),合理性が全てに優先、弱肉強食だとする「世界の現実」は本当に世界の現実なのか?
いや現実は現実なのかもしれない

「だから仕方がない」(「現実」にただ従う事)とするのが「世界の潮流」とするのはちょっと違うように思う。
私はここまで現実を割り切って受け入れる「世界」(政府ではない)の方が今はまだ傍流なのではないかと思う。(希望的観測か?)
「現実」を少しでも(夫々に)「良き」方向を望む事を「美しい」と思う「世界」(政府ではない)は意外に広いのではないだろうか?

人が作ったシステム(統治システム)の持つ「矛盾という現実」は「政治性」という責務を負った政治家が「密かに」口にすればいい。
皆が政治家に倣う必要などないと思う。
もし皆が政治家の立場に倣うならばそもそも政治が被るべき「矛盾」もないのだから政治家の出る幕ない。
皆が夫々に「望み」があるから政治家が必要とされ、それを集約するために政治システム(民主主義)があって、それにより決められた集約と外部との「違い」があるから外交という外向けの政治がある。(と思う)
逆にいえば外部との「違い」が無いように「現実的だから」と内部の方針が決まり、それに皆が「現実的だから」といって従うシステムに政治はいらない。(と思う)


金が全て(=貨幣に換算されなければ価値ではない),合理性が全てに優先、弱肉強食
とは口にしても多くの人にとってはそれは「望み」ではなく、単に無視できない「現実」と観念しているにすぎないと思う。
でも、現実には従わざるをえないとするか、現実は望みに向うための前提・基点に過ぎないとするかは大きな違いである。
もしここで「望み」を持つ事を「現実」で「断念」するならばなおさらの事、グローバル市場原理主義なんて止めた方がいい。

グローバル市場原理主義経済で「価値」を生み出しそれを「マーケティング」し「顕在化」させ「貨幣」に置換する「ビジネスモデル」を生み出すことで「流通」させ成功するのは「望み」を実現するためにあらゆる手段を使って「現実」を打破していく者だけではないのかな?
「現実」を「現実」として認め,それを前提としながらもリスクと共に「望み」を持ってそれを叶えようとする者だけが市場原理でいわれる属性「勝ち組」となるのだと思う。
世界の潮流がそうだという現実があるから仕方がないとして受け入れるグローバル市場原理と、それが良いからそれを「望む」グローバル市場原理とでは全く様相は異なる。
どうも、専門家の先生の話を聞いていると外部の要請として受身的に「せざろう得ないのだ、文句あるなら現実に従う対案を出せ」的な無理を言う。(リスクをはなから排除するグローバル市場原理擁護の専門家というのはどうも信用できない。)

グローバル市場原理主義の「理想」(あくまで理想)が仮に世界にとって優れているとしたら「望む」ものを「実現」(これが世界を良くする)しようとする「意思」に「インセンティブ」をもたらす事だと思うのだけど...
実際には「積極性」も「多様性」も「望み」も「意思」も「自由」も「民主主義」も、日本では「アイロニカル」に「陳腐な建前」であり続けているのではないかなぁ?

そしてその「アイロニー」が「グローバル市場原理」受入れの原動力になっているように見える(私だけの視点かもしれないけど)現状はそれ以上に「皮肉」に思える。

「日本は金を出しても血は流さない」と言うターニングポイントから十数年が過ぎたけど、今思うのは、それに対するアクションを取っているつもりでいながら知らず知らずに「さらにそれに拍車をかけ磨きがかかったな」という事。

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価値の公平性

経済ではその流通や利便性のために「価値」は「評価」され「換算」される。
「価値」を「そのままの価値」として持っているだけでは(経済的な)意味を持たない。
「価値」は(貨幣価値へと)換算され「なければならない」のである。
換算できなければ「無価値」である事と何ら変わりがない。

理想はともかく現実世界では「価値」がそのまま評価されるのではなく、価値を換算出来る可能性とそれをする能力(ビジネスモデル、広告・マーケティング、既存のルール・システムのようなもの)によって初めて価値として世に公認される。
これは「そのままの価値」は常に「価値を換算する能力」に飲込まれてしまう事も意味するように思える。
「価値を換算する能力」も一つの「価値」ではあるが、そこに「主従関係」がたち現れて来るならば各々の価値が多様性の中で公正に評価される事を歪めてしまうと思う。
それがそれだけで済めば問題ないのだが、「価値」を「そのままの価値」として存在する事を許さない状況をも作り出してしまうと言う事になりはしないか?


仮に多くの人にとって「価値」であるような場合であったとしても、換算が困難であったり,換算する能力を持つものの価値にそぐわなければ、それは「無価値」だと評価され、「無価値」と「無価値との評価」に区別(差)を見出す事さえもできない。
そこに本来「価値に対して公正中立」であるべき流通媒体としての条件(正当性)が成立しない状況を生み出しやしないだろうか?
経済システムに生を受ける事のない「大事な価値」が存在する「可能性」がそこにあるように思える。

経済における市場原理は概念的な「原理」であるが、社会主義がそうであったように現実社会においては、その「原理」を「原理」であるが故に「信奉」してしまっては「綻び」から目をそらす事になりかねない。
そして人にとってこの「綻び」の意味は、近年ますます無視できないものになりつつあるのではなかろうか?

市場原理や競争は有用であると私も思う、が、「原理」として「信奉」する物ではなく条件を十分吟味した上でのみ有用な手段なのではないか(同じような事を何度も書いているが)と思えてならない。



--------------おまけ(エントリーを立てるほどの事もないメモなので)-------------------
合理・非合理

市場原理が合理性の表現ならば、テロ等は合理性に対峙する非合理な(抵抗)表現なのかもしれない。
合理原理主義と非合理原理主義。(こんな言葉があるかどうかは分からない。)

どちらもそこでは「個」としての「人」が排除されていると言う点でよく似ている。
同時に,どちらも「人」の表裏であり、「人」を二元論的に扱うことの当然の帰結なのでは。

もともと非合理な「人」は何のために合理的であろうとするのか?
「人」の為にそうあろうとするのではなかろうか。

もう一方で
合理的であろうとする「人」はなぜ非合理性を捨てきれないのか?
「人」であろうとするからなのではなかろうか?

前々回「書きたくてもかけなかったこと」で書いた「本末転倒」の匂いはこんなところに関係あるのかもしれない。
でも、まだよく分からないので覚書メモ。

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「脅威」

車社会では歩行者にとって自動車というものはエネルギーの大きさを比較すれば間違いなく「脅威」である。
ドライバーが人をひき殺そうと決意すれば、その「脅威」は確かであり,たとえそうでなくともドライバーが運転ミスを犯さないと言う保証があるわけでもないのだから常に「脅威」に晒されていることになる。

車の持つ質量とスピードが生み出すエネルギーは人が耐えうる衝撃を容易に超える。
これほど「脅威」の不均衡は無い。
この「外に存在する潜在脅威」に対して万全に備える為には、車の生み出しうるエネルギーに耐える防壁でも築かねばなるまい。

現実的にはそうしなくても済むようにルールなどを駆使して起こりにくくしている。
でも、ルールに信頼がなくなればその「脅威」はより現実的にはなるだろう。
また、どんなにルールを作ろうとも事故は起きる事もあるので,「脅威」がなくなるわけではない。


そんな大げさに考えるまでも無く「私を脅かす潜在脅威」は身の回りに溢れている。

大工が近くにいれば彼は刃物を持っているだろう。
髪を切りに行けば鋭利なハサミが私を待っていることだろう。
人とすれ違う時にも「私を傷つける事ができる凶器」になりうる物はそこいら中に転がっている事だろう。
たぶん潔癖症の人が「菌」「汚れ」を必要なまでに恐れるのも平均的な人よりもそれを「脅威」として捉えているからで,実際に「脅威」である可能性が全く無いとは誰も言えやしない。

「潜在脅威」はもともと世界には溢れているのだ。
そして、どれをとっても、「万が一」を考えれば一瞬にして私を「抹殺」できるのである。
起こってしまえば取り返しはつかない。
それが「悪意」によって引起されるものであるかもしれないし,「間違い」によって引き起こされるのかもしれない、はたまた「善意」が仇になる事だってあるやも知れないが、理由はどうあれ起こってしまえば致命的である。

我が身の存在に関わる一大事にも拘わらず,私は(そして恐らくたいての人は)全ての潜在脅威に現実的脅威を感じ危機意識を持ち続けて生きているわけではない。
「潜在脅威」を全く排除することなどほぼ不可能であるからそのように生きていく事もまた不可能だろう。

でも「大工がノミで貴方を殺そうとしたらどうするのだ」のような問いを立てることは常に「可能」ではある。
そう言われたら「身を守るだろう」と応えるしかあるまい。
が「大工の殺意に備える」準備などは今のところするつもりはない。
もし(私の判断で)その大工が見るからに「危なそう」ならば、そのときは「備える」こともあるだろう。
でもそれは「大工がノミを持っている」(潜在脅威を持っている)から「備える」わけではない。
大工が仕事をするためにノミを持っているだけなのに、それに対抗してノコギリを構えたら、逆に「潜在脅威」が「現実的脅威」に転化しかねない。
気がついたら大工がノミを手にする前に、私の後ろで友達が相手にハンマーを構えてたなんてオチがあるのかもしれないし。


いずれにしても「潜在脅威」はそこいら中に溢れている。
そのうち幾つかが不幸にも状況・環境によって偶然・必然的に「現実的脅威」として出現する。
そんな中で「潜在脅威」そのものを「脅威」として論じることはあまりに「無謀」な試みに思える。
そんなことよりも「何が潜在脅威を現実的脅威に転化させるのか」とか「その起こりやすさは」とかに意識を向けることのほうが「脅威への備え」を考えるにはよほど有意義なのではなかろうか?


たしかに出現した「現実的脅威」を「潜在脅威」と見誤れば危険である。
かといって「潜在脅威」をそれが「潜在脅威」というだけで騒ぎ立てれば逆に「現実的脅威」を出現させかねない。
案外、多くの「現実的脅威」は数少ない前者に過度に備えるあまり、後者によって「出現させられている」のではないだろうか?

(但しこれは静的な物質を対象にした話ではなく、あくまで人を対象にかぎった話だけれど...)

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2006/01/08

不便と合理性

遅くなりましたが,あけましておめでとうございます。
先日、めったに雪など降らない私の住んでいる地域でも少し雪が降りましたが,雪国の方は年末から年始にかけて大変な状況のようです。

私もマイナス一桁が暖かく感じる冬のカナダにしばらく住んではいたのだけれど,寒さと積雪は別。
寒すぎると雪は飛ばされてしまい吹き溜まりでなければそれほど雪は積もらない。
寒い事と雪が多いか少ないかもまた別。
むしろ建物の入り口にカチカチに固まった雪(氷)を砕いて除去する作業の方がきつかった。
金属(ドアノブなど)にうっかり素手で触るとくっついてしまい,不用意に耳を外気にさらしていると,「気付かぬうち」にしもやけになる。
私はなったことはないが、これが酷いと凍傷になる。
自覚症状としては最初は「痛み」があるのだが、それを越えると「痒く」なり感覚がなくなってきて変化に「気がつかない」から恐いのである。
あったかい部屋の窓を開けると冷気が白い煙となって窓から床に落ち、床を這ってくる。
買ってきたビールは窓の外に晒せばあっという間に冷え,ちょっと気を抜くとすぐ凍り破裂する。
息を吸い込むと咳き込み,鼻毛が凍るのが良くわかる。
ちょっとした用事で-32度の中をジーンズをはいて(つまりインナー無しに)出た時には、戻ってきたらひざに力が入らなくなった。
初めての冬、何も知らずにサイドブレーキを引いて車を離れたらそのまま凍りついた。
凍りついたワイパーを溶かそうと熱湯をかけたらフロントウィンドウがあっという間に凍りつきにっちもさっちも行かなくなる。
スキー場は確かにパウダースノーなのだけれども、寒すぎると一向に滑らない。

私が住んでいたところでは雪よりも寒さの方に苦労が多かった。

その代わり,晴れた日は空気が澄み、シンと静まりかえって、太陽の光の中で空気中の水分が凍りつき、それがきらきら光って美しい。
「不便」でもカチッとした寒さはそれはそれで身が引き締まり大好きだった。
「不便」だけれどもその厳しさが過ぎ去った春のありがたさや美しさもまた格別。

そんなことをふと思い出す。


でも、今回の雪国の人の苦労はそれとは全く違い「積雪」にあるようだ。
もう既に何十人も転落事故などで、亡くなったという。
ニュースを見ていて気がつくのは高齢者の方が多いということだ。
若い人も同じように雪下ろしをしているが事故に遭わないということなのか,若い人がいなくて高齢者の方がその仕事をせざろう得ないと言うことなのか分からないが、高齢者が犠牲になるニュースは体力のない体に鞭打って一生懸命雪下ろしをする姿が目に浮かび、何ともうら悲しい。

だからといって「合理的に考えれば、このような不便は避ければよさそうな物だ」などとも思えない。
「不便だけれど良い」と言う事もあるのだ。

このような事故の本当の背景は判らないけれども、合理性が他に優先する「価値」である社会が加速すればするほど、このような「不便だけれども良い」の「価値」は下がり、「経済を基盤とする生活」の為に合理的であることを要求される若者はそこに留まる事は難しくなくなるのだろうな。
同じ合理性でも、このような場所でも生きていけるような合理性ならばいいのだけれど,なかなかそうも行かないようだ。

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