金を出しても
かつて「日本は金を出しても血は流さない」と言う言葉があった。
この発言は後の「国際貢献」「PKO」「Show the flag」「自衛隊海外派遣」「憲法改正」という一連の流れへの重要なターニングポイントの一つでもある。
アメリカにしても、それ以外の先進国にしても何かが起これば各々の立場で色々な発言をする。
今でもそうであるが、実際には多様な意見があらゆる方向からなされる。
恐らく、これらの言葉も数ある彼らの発言のうち,日本を表すほんの一面的な部分を一部の立場の者がしたにすぎなかったに違いない。
なぜそう思うかと言えば、これらの発言がされた頃にCNNや主要なブロードキャストで日本がそれほどクローズアップされる事はほとんどなかった印象があるからだ。(今はどうかわからないが当時カナダで私が済んでいたところの有線はほとんどアメリカの番組だった)
大きなニュースとして日本が取り上げられたのは唯一昭和天皇が崩御されたとき。(このときは各局とも大々的に扱っていた)
小さなニュースとしてはもっぱら経済(特に企業や不動産の買収など)に関してがほとんどだったという印象だった。
これらに特に関心を持ってウォッチしていたわけでもないので「印象」でしかないが,少なくとも日本がアメリカや欧州の動きに関心を寄せるほどの関心はもともとありはしないと言う事はかなりの確信を持って言える。
ほとんどの欧米の一般市民はこの発言に関心も注目さえもしていなかったと思う。
あったとすれば経済大国の日本が経済に物を言わせ自国のシンボル的資産に侵食してくる事への漠然とした危機感のような物だったと思う。
この「日本は金を出しても血は流さない」発言が欧米人の僅かな関心を得ていたとしても、それはこの危機感に対する共有認識から来るものでしかなかったのではなかろうか。
この発言を他の様々な発言と切り離して、選択的に受け止め、重要視し、問題視したのは他でもない日本人自身なのだと思う。
別に世界(の人々)が「日本は金を出しても血を流さない事」に関心を示し侮蔑の目を向けていたわけではなく、日本人が持つ
「世界の常識」はもともとどこにもなく日本人がセンシティブである「世界の常識」を選択しただけだと思う。
たぶん日本に「金を出しても」に侮蔑の目を向けていたのも「血を流さない」に負い目を感じていたのも日本人自身で「世界」そのものはむしろ多様で無関心であったのではないだろうか。
そういえば経済成長の頃には「エコノミックアニマル」と言う言葉もあった。
これも日本的モラルにある「守銭奴」に対する侮蔑感が(当時は)表面はともかくも底流に流れていたから重要視し、問題視したのではないかと思う。
つまり非道徳的(あるいは理念のなさ)である事に対する後ろめたさや喪失感が自身のものであったから反応を示し傷ついたのだろう。
だってモラルを抜きにして「合理的」に考えれば「エコノミックアニマル」も「金は出すが血を流さない」もそれほど「非合理」であるわけではなくむしろ著しい成長をした結果がそこにある以上,徹底して経済・生産に対しては「合理的」だったともいえるのだから。
今ではベタに「血を流さない」=「軍隊を出さない」に変貌しつつあるようだが、以前の「エコノミックアニマル」にしても「経済以外では汗を流さない」(人的貢献)を「ボランティア」や「国際貢献」を例にして指摘された事にしてもその底流にあるのは「(経済だけではない)個々のより良い世界のための人的コミットメントであり、それを許容しない日本システム」への苛立ちだったのではなかろうか?
世界の要請が仮にあったとしたならばそういうことだったのではないかと思う。
現アメリカ政府の世界戦略(イラク政策等)には同意できないし結果も好ましくはないが、親政府、反政府いずれもの一般のアメリカ人が「世界を良くする」ことにコミットメントしようとしていること、反対の立場をとっても一般の欧州人が「世界を良くする」ことにコミットメントしようとしている事は間違いないと思う。
一方の日本では「利」や「益」こそが説得力のある理由であり,「世界を良くする」が世論を動かす原動力になって世界戦略に乗ったとはあまり思えない。
日本では良く世界の要請を持ち出すが、グローバル化は間違いなく進行していると思うけど、それに対する回答(秩序)が「市場原理主義」であるとする事を「世界の潮流」だと言う「世界」の対象とは誰なのであろうか?
誰もが葛藤しているというのが現実なのではないか?
それによって影響を受ける様々な対立軸で葛藤しているのではないのかなぁ。
保守とリベラル、宗教と政治、合理と不合理、絶対と相対、開放と保護,自由と規制...
そんな中で最近耳にする機会が増えた(ように感じる)、金が全て(=全ての価値は貨幣に換算される),合理性が全てに優先、弱肉強食だとする「世界の現実」は本当に世界の現実なのか?
いや現実は現実なのかもしれない
が
「だから仕方がない」(「現実」にただ従う事)とするのが「世界の潮流」とするのはちょっと違うように思う。
私はここまで現実を割り切って受け入れる「世界」(政府ではない)の方が今はまだ傍流なのではないかと思う。(希望的観測か?)
「現実」を少しでも(夫々に)「良き」方向を望む事を「美しい」と思う「世界」(政府ではない)は意外に広いのではないだろうか?
人が作ったシステム(統治システム)の持つ「矛盾という現実」は「政治性」という責務を負った政治家が「密かに」口にすればいい。
皆が政治家に倣う必要などないと思う。
もし皆が政治家の立場に倣うならばそもそも政治が被るべき「矛盾」もないのだから政治家の出る幕ない。
皆が夫々に「望み」があるから政治家が必要とされ、それを集約するために政治システム(民主主義)があって、それにより決められた集約と外部との「違い」があるから外交という外向けの政治がある。(と思う)
逆にいえば外部との「違い」が無いように「現実的だから」と内部の方針が決まり、それに皆が「現実的だから」といって従うシステムに政治はいらない。(と思う)
金が全て(=貨幣に換算されなければ価値ではない),合理性が全てに優先、弱肉強食
とは口にしても多くの人にとってはそれは「望み」ではなく、単に無視できない「現実」と観念しているにすぎないと思う。
でも、現実には従わざるをえないとするか、現実は望みに向うための前提・基点に過ぎないとするかは大きな違いである。
もしここで「望み」を持つ事を「現実」で「断念」するならばなおさらの事、グローバル市場原理主義なんて止めた方がいい。
グローバル市場原理主義経済で「価値」を生み出しそれを「マーケティング」し「顕在化」させ「貨幣」に置換する「ビジネスモデル」を生み出すことで「流通」させ成功するのは「望み」を実現するためにあらゆる手段を使って「現実」を打破していく者だけではないのかな?
「現実」を「現実」として認め,それを前提としながらもリスクと共に「望み」を持ってそれを叶えようとする者だけが市場原理でいわれる属性「勝ち組」となるのだと思う。
世界の潮流がそうだという現実があるから仕方がないとして受け入れるグローバル市場原理と、それが良いからそれを「望む」グローバル市場原理とでは全く様相は異なる。
どうも、専門家の先生の話を聞いていると外部の要請として受身的に「せざろう得ないのだ、文句あるなら現実に従う対案を出せ」的な無理を言う。(リスクをはなから排除するグローバル市場原理擁護の専門家というのはどうも信用できない。)
グローバル市場原理主義の「理想」(あくまで理想)が仮に世界にとって優れているとしたら「望む」ものを「実現」(これが世界を良くする)しようとする「意思」に「インセンティブ」をもたらす事だと思うのだけど...
実際には「積極性」も「多様性」も「望み」も「意思」も「自由」も「民主主義」も、日本では「アイロニカル」に「陳腐な建前」であり続けているのではないかなぁ?
そしてその「アイロニー」が「グローバル市場原理」受入れの原動力になっているように見える(私だけの視点かもしれないけど)現状はそれ以上に「皮肉」に思える。
「日本は金を出しても血は流さない」と言うターニングポイントから十数年が過ぎたけど、今思うのは、それに対するアクションを取っているつもりでいながら知らず知らずに「さらにそれに拍車をかけ磨きがかかったな」という事。
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