在庫処分5「書きたくて書けなかった事」
書きたくても書けなかった事も多い。
今日はそれらを思考のメモとして羅列してみる。
来年書けるかなぁ。
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環境が与える「必然」にほんの僅かに含まれる「偶然」と「個」や「主観」には関係があるのかな。
人や社会について「考える」「掘り下げる」と言うのは「分析」ではなく「概念の発明」?
分析を終えた時点で「分析の対象」は変質し、それを語るつもりが全く別の新たな対象を語ることになってしまう?
その発明された時点ですでにその分析(したと思った)の対象は消滅し、全く新しい「考えたり掘り下げたりする対象」として置き換わる?
科学のように「原理を解明し期待する再現性を実現すること」とは関係無い?
でもそれは原理を正しさに置きかえてしまうからか?
コントロールし得ない「偶然」は受け入れようとする?いや受け入れざるを得ないとして何とか納得しようとするようにも思える(天災など)
逆にコントロールしうる「必然」であると受け止れば、そのコントロールし得る主体に「不公正感」を抱き,その思いを晴らそうとする?(人災など)
「偶然」の象徴?である「天」に「恨み」を抱いてもそれを「晴らすこと」も対象にぶつけることもできない。
恨みの連鎖はそこにない?
あったとしても他に転嫁するだけ?
「偶然」つまり「未知」、もしかしたら「予見不可能」
いずれにも「責任」は問えない?
「必然」つまり「既知」、もしかしたら「予見可能」
だから「責任」が問われる?
もしそうなら「既知」が増え続ければ「責任」も増え続けるのか?
そして「ルール」も増えつづける?
といっても「予見可能」と言ってもそれさえも確率を含む不確実性を持つ以上,仮の線引きで判断するしかないわけで...
個に対しては「偶然」にも「責任」が問われ始めた?
それは責任回避の為に既知を未知と偽るから?
既知となりその責任の所在が必要とされるのに共有できる線引きに承認を得られないから?
そこに「自己責任」が登場する必要性があるのだろうとも思うが?
民主主義と市場原理は(感情的には一緒にしたくないが)似ているようにも思えてきたがどうなのだろう?
一方は個の選択を基盤とした集団の望ましい社会像の集約、一方はこの選択を基盤とした集団の欲しいものの集約?
いずれもその集約の実現手段が理想的に機能すれば良いが、そうでなければ疑義が必要?
現実世界では近づけることはできても理想通りには行かない?
常に疑義が必要ならば「手段」に過ぎないとして扱うのが妥当で「信奉」してはいけない?
民主主義では、個々のありのままの望ましさが表明されなければその集約は歪められるように思う。
だから、個々があらかじめ集約を意識してはいけないのでは?
政治・システムが集約の為にその政治性によって現実の泥を被れば良く、個々がその泥を被ってしまえば望ましさは遠のくのでは?
民主主義では「個」が集約に協力しないことが無責任なのではなく、自らの望みに率直でないことのほうが無責任に思えてくる。
市場原理も傾向や大勢等の現実などに歪められず本当に欲しいものに率直でなければ本来なら理想どおり淘汰されるべき物も歪められるんでは?
民主主義も市場原理も個の自立が前提で、個が確立していなければ機能しないのでは?
共同体重視との相性は悪そう。
何らかの「倫理・規範」がなければ「民」であろうと「官」であろうと人が「望む通り」には機能しない?
「倫理・規範」に影響されているから「望む通りと思えない」だけ?
合理性だけでは、人をも合理的に虐げ・抹殺することを避けなければいけない理由が見出せるのか?
そもそも人の存在・継続が世界にとって合理的であるという積極的な理由があるのだろうか?
合理的には消えていきやすい傾向にあるのが「人の存在」であって、それに抵抗しようと生きているのが人であったり、人生であったり、喜びであったり,悲しみであったり,生きがいであったり,絶望であったりしたら何かおかしいのだろうか?
「合理性」に対してなにかしらの「本末転倒」はないだろうか?
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