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2005/12/31

在庫処分5「書きたくて書けなかった事」

書きたくても書けなかった事も多い。
今日はそれらを思考のメモとして羅列してみる。
来年書けるかなぁ。

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環境が与える「必然」にほんの僅かに含まれる「偶然」と「個」や「主観」には関係があるのかな。

人や社会について「考える」「掘り下げる」と言うのは「分析」ではなく「概念の発明」?
分析を終えた時点で「分析の対象」は変質し、それを語るつもりが全く別の新たな対象を語ることになってしまう?
その発明された時点ですでにその分析(したと思った)の対象は消滅し、全く新しい「考えたり掘り下げたりする対象」として置き換わる?
科学のように「原理を解明し期待する再現性を実現すること」とは関係無い?
でもそれは原理を正しさに置きかえてしまうからか?

コントロールし得ない「偶然」は受け入れようとする?いや受け入れざるを得ないとして何とか納得しようとするようにも思える(天災など)
逆にコントロールしうる「必然」であると受け止れば、そのコントロールし得る主体に「不公正感」を抱き,その思いを晴らそうとする?(人災など)
「偶然」の象徴?である「天」に「恨み」を抱いてもそれを「晴らすこと」も対象にぶつけることもできない。
恨みの連鎖はそこにない?
あったとしても他に転嫁するだけ?


「偶然」つまり「未知」、もしかしたら「予見不可能」
いずれにも「責任」は問えない?
「必然」つまり「既知」、もしかしたら「予見可能」
だから「責任」が問われる?
もしそうなら「既知」が増え続ければ「責任」も増え続けるのか?
そして「ルール」も増えつづける?
といっても「予見可能」と言ってもそれさえも確率を含む不確実性を持つ以上,仮の線引きで判断するしかないわけで...
個に対しては「偶然」にも「責任」が問われ始めた?
それは責任回避の為に既知を未知と偽るから?
既知となりその責任の所在が必要とされるのに共有できる線引きに承認を得られないから?
そこに「自己責任」が登場する必要性があるのだろうとも思うが?


民主主義と市場原理は(感情的には一緒にしたくないが)似ているようにも思えてきたがどうなのだろう?
一方は個の選択を基盤とした集団の望ましい社会像の集約、一方はこの選択を基盤とした集団の欲しいものの集約?
いずれもその集約の実現手段が理想的に機能すれば良いが、そうでなければ疑義が必要?
現実世界では近づけることはできても理想通りには行かない?
常に疑義が必要ならば「手段」に過ぎないとして扱うのが妥当で「信奉」してはいけない?


民主主義では、個々のありのままの望ましさが表明されなければその集約は歪められるように思う。
だから、個々があらかじめ集約を意識してはいけないのでは?
政治・システムが集約の為にその政治性によって現実の泥を被れば良く、個々がその泥を被ってしまえば望ましさは遠のくのでは?
民主主義では「個」が集約に協力しないことが無責任なのではなく、自らの望みに率直でないことのほうが無責任に思えてくる。

市場原理も傾向や大勢等の現実などに歪められず本当に欲しいものに率直でなければ本来なら理想どおり淘汰されるべき物も歪められるんでは?
民主主義も市場原理も個の自立が前提で、個が確立していなければ機能しないのでは?
共同体重視との相性は悪そう。

何らかの「倫理・規範」がなければ「民」であろうと「官」であろうと人が「望む通り」には機能しない?
「倫理・規範」に影響されているから「望む通りと思えない」だけ?


合理性だけでは、人をも合理的に虐げ・抹殺することを避けなければいけない理由が見出せるのか?
そもそも人の存在・継続が世界にとって合理的であるという積極的な理由があるのだろうか?
合理的には消えていきやすい傾向にあるのが「人の存在」であって、それに抵抗しようと生きているのが人であったり、人生であったり、喜びであったり,悲しみであったり,生きがいであったり,絶望であったりしたら何かおかしいのだろうか?
「合理性」に対してなにかしらの「本末転倒」はないだろうか?

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在庫処分4「認識前後」

阪神に金本の兄貴が来てチームの雰囲気が変ったと言う話を良く聞く。
営業でも一人のトップセールスマンが加入する事で全体のレベルが上がったりすることもある。
仕事に対する「それまでの認識」が一人の姿を通して周りに影響を与え「新しい認識」を植え付ける。

「そこまでするものなのか」
「そんな事が本当にできるのか」
等々色々あるが
それまで知らなかった物を目にしたり,知っていても初めてそれを実際に目のあたりにする事で、現実的でなかったものが突然身近に感じられたりすることがある。
そんなときに感じるのは(それまでにはなかった)「自分にもできる」と言う思い。

スポーツでも、毎年人が入れ替わるのに強豪といわれるチームは(たとえ人を集めなくても)毎年その強さを維持していく事があるが、それを「伝統」と呼んだりする。
先輩の練習に対する姿勢や、どこまでできるものかを多くの時間をいっしょに練習をしたり過ごしたりする中で、自然に現実的なものとして体感しているからなのだろう。
あるところにいる人から見れば「ありえない事」や「凄い事」がそこではあたりまえだったりする。
もちろん人の世界なので例外的に頑なにその影響から距離を置く者もいるし、敢えて無視しようとする者もいて「人生色々」で「バラツキ」はあるのだが、全体として「そういうこと」は起こる。
私は良く知らないが、これをロールモデルと言うのであろうか?
言葉を知らなくともどのような分野でも、良く目にすることだと思う。
新しい認識を自らのものとして感じる事ができただけで、もうすでにそれ以前とは「違う」自分がそこに現れる。

このような話ならばどちらかと言えば「良い例」「ポシティブ」ということで評価され、「そういうことがある」ということに対してあまり異論を聞くことも無いように思う。
現実的なビジネスの現場でもこれらは大いに利用されていると思う。
「高いレベルの認識に触れ、それを体験し,その成功体験をして一つ上のレベルに至る」などという表現で使われ、それは時流にも合っているしそれほど違和感は感じないのではないだろうか?


ところで、これらの文脈を少し変えて、常識的にネガティブなものと思われている事にも同じような事が起こりうると考えたらそれはおかしなことなのだろうか?
例えば,これまでは考えもしなかったゆえに「ありえない」と思われていた事(犯罪)が現実に起こり、
「そこまでするものなのか」
「そんな事が本当にできるのか」
と認識され
「俺にもできる」
という実現可能な身近な認識に転換してしまうと言うような事だ。

これもありふれているといえばありふれている。
社会学者等が言いそうなことであり、ニュース解説者なども引き合いに出しそうなありがちな話である。
むしろ少し前までは結構一般的だったようにも思うが、彼らに対する不信もあって、このような論法は最近では「またそのような事を言っている。」と嫌われる傾向も同じようにありがちになってきた。
同じ現実を見ても殆どの人は犯罪を犯さないのだから、それは「本人の資質」であるとするものである。

そりゃ確かにそうかもしれない。
大抵は「俺にもできる」と認識しても、その代償(色々な意味で)を考えれば「やろう」とは思わない。
その先では多くの場合自らの自由も失いかねない。
我が身に置き換える想像力があればたとえ考えが浮かんでも打ち消したくなる。

でもこれはそういう話ではなく、起こりやすさの違いの話だ。

全体の中で「俺にもできる」と多くの人が認識しなくとも常にばらつきはあるのだから、それをしてしまう人は一定の確率でいる事だろう。
それに対して、全体の中で「俺にもできる」と認識するチャンスが多ければ多いほど、そのように認識する人も増え、それをしてしまう人が出る確率も増えるのではないかと言う話だ。

「本人の資質」云々はあたりまえすぎるほどあたりまえであり、それを放置すると言うわけではなく応急処置は採らねばならない。
ただ、再発防止を願うなら、それだけで終わらせてしまうわけにもいかないのではないかということだと思う。

私自身は、もしそこに「問題」や「不安」を感じるならば、やはり「資質」だけでなく「起こりやすさ」に注目することは大事なのではないかと思う。

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在庫処分3「良く生きたい」

ブログを見ていて思うのは、よくもまあ各々が各々の関心に基づいて一つの事件や出来事に意見を築けるものだなぁということだ。

いろいろな人が最も自分に関心が深い分野の前提を元にそれを成立させてしまう。
それだけどんな出来事にも多面性があるという事なのだろう。

この違いはめぐりめぐっていけば、恐らくその源流や過程、つまり前提のどこかに僅かな違いという分水嶺があって、大きな流れの向きを決定的に変えてしまうものなのかもしれない。
もちろん、僅かな違い以外のその過程は論理的であることが望ましいのだろうし、必ずしも様々な考えがそれに沿って表明されているわけでもないだろうが、たとえそうではなくとも今ある考えがそこにある以上は何らかの過程を何らかの理由を経てきているからこそ、そこに有るともいえると思う。
ただそれを論理という形でうまく表現できないだけなのかもしれない。

それを「感情的」といって否定してみても、そこに「感情」という形で「実際に現れている」以上、その「感情」を生む「論理的な理由」もなければならないはずである。
それを人が「正しくない」「理解できない」とするならば、それもまた単に一つの分水嶺がそこにあるに過ぎないのかもしれない。
もちろんこれは法や常識,規範に沿うものであるかどうかとは別の話。


もともと上部が平坦な台地があり、そこに雨が降れば何らかのごくごく僅かな違いがいくつもの小さな流れを作り、その流れが出来た事により平坦であった台地は削られ、そこに「流れやすさ」を生み出し,小さな流れが次第に集まり谷を作りながより大きな川が全く違う方向に流れていくような。

そこでは、どの流れも「水は低きに流れる」という道理には従ってはいるが、どの方向に流れるかは「偶然」で、どの流れが「正しい」かとか、どこに流れ着くのが「妥当」なのかなどと言う事もない。

どんなに台地が平らであるといっても、水が均等に、一様に流れる(広がる)ような完全な理想的「平面」がないのもまた現実世界のありかたではなかろうか。


これはあくまで観念的なイメージなので、そのまま受け取る必要はもちろんないのだが、人の考えの「多面性」というものを考えたとき、そんなイメージが頭に浮かんだので書いてみた。
その「ありかた」のイメージを共有できないかへの小さな試みにすぎない。


大きく脱線したけれど現実的な世界で言うならば、持って生まれた「性質」、「生い立ち」、「経験」等、それは人の数だけある。
地域や国などもそれに影響を与える要素だと思う。
大きな体で生まれた者そうでない者、争いを体験したものそうでないもの、貧困を知るものそうでないもの.....
それにより生まれる「違い」がある中で、「正しさ」をもとめることは簡単なことではなさそうだ。

でも、このとき「水は低きに流れる」までもその「違い」「正しさ」といっしょに「共有できない物」としてしまっていいのだろうかとは思う。


ときどき「水は低きに流れる」のと同じように人は誰しも「良く生きたい」と思いながら生きているのではないかと思う事がある。
どのように「良く」生きたいかは判らなくても、あるいはそれが人により違いはあっても「それ」を願うのではないだろうか?
道理にまぎれた偶然に邪魔をされ未来を予見できない「人」同士が争ったとしても、それでもなお「良く生きたい」はそこに有り,だからこそ争いも起こるのではなかろうか。
良く生きたいから、それができず絶望し自ら命を絶つ。
良く生きたいから、困難に対して無関心を装う。
良く生きたいから、それを妨げる他人を殺(あや)める。
どれも良く生きたいからこそなのではなかろうか。

もし「(他)人も私がそうであるように良く生きたいと思っている」ということを共有でき「気にとめる事」ができたなら、それだけでも暗闇を何の手がかりもなく生きるよりは少しはましなのではなかろうか?

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在庫処分2「人を助ける」

「正しい」と思っていた事は何か「齟齬」が起きるまでは、大抵それを「正しい」と思う事を疑う事は無いと思う。
たぶん、周りもそう思っているだろうということも疑っていない。
それによる不都合も無い。

例えば「人を助ける」ということがほぼ間違いなく「正しい」とされる環境にいれば、それが「その人の為にならない」という可能性にも気付かない。
気付くチャンスも無いし、気付く必要性も無い。

また、困っている人が「自から生きよう」とする中で偶然により「不運にもそのような状態に陥ってしまった」と言う事例ばかりならば「人を助ける」と言う事が「正しい」という事を疑うチャンスも小さいのではないかと思う。

でも、「どうせ困れば助けてもらえるのだから自らを助けようとする必要などは無い」と言って意図的に自ら困った状況に陥ってしまう人たちに囲まれてしまえばその「正しさ」を疑う事になるかもしれない。

「人を助ける」ことが「正しい」として「賞賛」される事を知り、それを利用して「賞賛」される(代償を得る)ために「人を助ける」事を装えば、いずれ期待した賞賛が得られないことへの不満からそれが露見し「人を助ける」事の正しさに疑いが向けられる事もあるだろう。

概ね人が「正しい」と思っている中でも,それが「正しさ」であるがゆえに、それは常に期待通りの結果をもたらさければいけないので、たとえこのような瑕疵が割合的には小さな物であろうとも「人を助ける」このと「正しさ」への「不信」は助長されてしまう。

同じ「人を助ける」と言う行為にも「正しい」「間違い」「偽善」等、その状況により様々な評価がされてしまう。(そして「偶然」や「ばらつき」がきっかけとなりどの状況も起き得るのである。)

これはいつも
「人を助ける事が間違い」
であるわけでもなく
「人を助ける事は偽善である」
というわけでもない。
もちろん同じ理由でいつも
「人を助ける事が正しい」
わけでもないということだ。

あるとしたならば
どれが最も信頼を得ているか。
それが一番信頼を得る状況を「望ましい状況」として受けいれられるか。


何をいまさらではあるが。

すっきりしないといえばそうだけど,そうなっている(と思われる)事を無理に歪めてどれかに固定しなければいけない理由も無く、それに慣れれば充分それ自体がそのままシンプルなものにも思える。
そこには「正しさ」に「秩序」を求めるのではなく、「そうなっている」という共通理解に「正しさ」に代わる「秩序」を求めると言う事なのかもしれない。

もちろん、主観的には(現在の状況がどうあれ)どのあたりがいい(どのあたりの状況が保たれるのがいい)と思うものはあるし、同じように思う人が多くなればさらにいいと思っている。
だからと言って変化する自分がそこにないわけでもなく、「他の状況」が存在しないとするわけでもないのだけれども、今の私に「ある」ものを総動員してひたすらそのような「望まない状況」にならない方法は無いのだろうかとあがく。
その理由は、単純に「他の状況」が(今のところ私自身にとって)「生き難いだろうな」と思うからなんだけど。

状況により移り行く「正しさ」よりも「どんな状況を本当は望んでいるのか」がもっと話題になればいいと思う。
例えその結果、各々の「本当に望むもの」が違っていても。

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在庫処分1「異常と傾向」

今年も数時間で終わる。

今年もいろいろな方のお世話になりました。
皆様ありがとうございます。

いろいろな事も起きました。
特に後半は両親が共に入院し、特に母は一時危ないといわれ慌てました。
二人とも退院はしたが,仲良く父は酸素チューブ,母は栄養チューブと共に戻ってきた。
それらを通して、社会保障、保険、医療、介護いろいろな事を実感をもって学ばせてもらいました。

色々ありすぎて、blogの更新もおろそかになってしまった。

書いても投稿しない物が溜った。
そこで、来年まで持ち越すのも何なので今日は在庫処分をする事にしました。
第一弾は[異常と傾向」でこれは以前のエントリーと少し関係します。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー本文ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「異常と傾向」
前々回のエントリー「もう一つの循環社会」で
「工程能力からみて当然起こりうる異常ではない不具合」
などとわかりにくいことを不用意に書いてしまったのでちょっと捕捉。

よく品質管理などではねらい値に対して規格値の他に管理値などが使われる。
この二つをあまり混同したりはしない。

出してはいけないとして決められた規格値があったとしても、その品質を生み出す能力(ノウハウ)がなければバラツキにより、工程に異常がなくても規格外は発生する。

規格外が出たからと言ってそれを異常でもないのに異常と捉え、間違ったアクションを採れば逆に規格外の発生が増える事の方が多い。
これはバラツキに惑わされる例だ。
かといって工程能力がないからといってそれを放置することができないのも当然である。
結局、個々に対応(全品検査)していくしかあるまい。

一方、管理値は工程の能力に対して設定される。
つまりその工程が持っている平均的なバラツキを基準に設定される。
バラツキを考慮してもなおかつ起こりにくい事がおきたときを「異常」として扱う。
その判定の基準が管理値となる。
ある意味で規格値は「絶対性」を、管理値は「相対性」を見ているともいえるかもしれない。

単純化しすぎて品質管理職の方には不正確だと怒られそうだが、これにより「規格外であっても異常でないこと」、逆に「規格内であっても異常であること」などをある程度判定している。


最近起こる事件を「異常」であるとするニュースを聞くと、どうしてもこの事が頭に浮かんでしまうのでついこのような表現を使ってしまう。

私も起こって欲しくないという意味では「異常」だということに同意したいのだけれども、「異常」だと捉えればそのことにだけに焦点をあてて個別の分析で終ってしまいかねない。
普通は起こらない非常に希なケースとして日常や傾向から切り離すことになる。

異常とは「常」でないこと。
もし通常のばらつきの範疇ならば「異常」ではない。
その前後に比較して、その状態を作り出す特異な要因があるわけでもない。
このバラツキは、未だ知られていないコントロールできない「未知」がそこにあり「偶然」という形で(当然その前後にも同じように)たちあらわれるもの。
実世界では「未知」をすべて知ることはできないので「既知」とし「コントロール」できるようになれ

ばなるほどバラツキは減らせるがゼロになることはなく、相対性の中でほぼ永遠に付き合わなくてはいけないのがこの偶然やバラツキだと思う。


最近起こる事件は異常というよりは、むしろ規格(社会の規範)に対して工程能力がない(ばらつきが大きすぎる)だけ、または「傾向」として現れてきているなのではないだろうか。
それは、バラツキはそのままに社会の要請により「中心値」がいつのまにか「狙い値」がずれて規格外(規範外)の発生が増加するような「傾向」の問題なのではないかと思う。
別の特性値のねらい値を「意図」に従って調整しようとして行ったアクションが、予期しない別の特性値に影響を与え「傾向」を生み出し、その特性値に規格外をもたらしているというような...
もしそうならば「傾向」に見えるアクションと別の特性値との関係が本当に「相関」なのか「擬似相関」なのかに関心を持つ事は無意味ではないと思う。


もし、これらの事件を「正常」として「あたりまえ」に受け止められない何かがあるならば「工程能力」や「中心値」のズレに焦点があてられなければ再発は防げないように思えてしまうのだ。
もちろん、これを正常として「あたりまえ」に「扱える」ように、規格自体(規範)を変えてしまう選択肢がないわけではない。
技術では「わが社にはこの規格を満たすだけのノウハウはないので規格を変えましょう」などと顧客に言うわけにもいかないが、社会や人ならばその規格(規範)を意識・無意識のうちに認識操作し変える事もあるかもしれない。

人は物とは違うので、ここに品質管理の例を出すことが必ずしもふさわしいとは言えないが、現実世界には(人ならば尚更)必ずバラツキ、不確実性といったものがあることを考慮し、それに惑わされずにその根にあるものを見失わないようにすることは重要なのではないかと最近特に思う。


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2005/12/10

世代?

個々の「人」には限界がある。

寿命もそうだ。

私が生きる事ができる期間は限られている。

だから私の生きる間だけ「良く生きる」ことができればいいのかと言えばそうも行きそうに無い。

もし私が「私が死んだ後のことなど知った事か」と言おうとも、その事による作用が今において現れないわけでもない。

「先の世代」や「次の世代」とは生きる期間に「ズレ」があろうとも、重なる期間を過ごしている。

もし、私が年老いた「先の世代」を「既に人として活動的な絶頂期を過ぎた役立たず」として粗末に扱えば、「若い次の世代」はそれを継承することにもなろう。
彼らに影響を与えるのは私たちの世代に他ならないのだから。

それだけではない。
歳をとることが「既に人として活動的な絶頂期を過ぎた役立たず」であるとする価値観に自らが浸されたならば、現在において「未来に対する希望」をもつことは難しいだろうし、体力の衰えに対する嫌悪を常に無意識の内に抱きながら現在を生きていく事にもなろう。
ことによると歳を重ねる事そのものをネガティブなものとして生きていく事にもなるかもしれない。

もし、私が若い「次の世代」を「社会的立場の弱い未熟者」として虐げるならば、私たちの世代が「活動的な絶頂期」を過ぎた時点で過ごしやすい社会を用意してくれようはずもあるまい。

それとも、次世代にだけは理由の無い「思いやり」を期待するのであろうか。

現実の中にも、歳をとる事に対してネガティブな「環境」「場所」「時」もあれば、そうではなく歳を重ねる事に比較的ポジティブな「環境」「場所」「時」もある。
どちらかと言えば後者のほうが「いいな」と思うだけのことではある。


若いときには老いる事を実感する事はできないのかもしれない。
歳を重ねると若いときの思いを忘れてしまう物なのかもしれない。

その今時点での感覚だけを頼りに生きていけば
「先の世代」を「既に人として活動的な絶頂期を過ぎた役立たず」
とすることも
「次の世代」を「社会的立場の弱い未熟者」
とすることも可能なのかもしれない。

しかし「世界のあり方」は、それらに対する「作用」をそれ(限定された個々の今時点の感覚)とは関係無しに用意している(ように思える)
そのような関係が用意されているだろう事をかろうじて知ることができるとしたら、それは「限定された個々の人の感覚」では窺い知れない過去何世代にもわたる経験が蓄積され物語として受け継がれているからなのではなかろうか。

この物語もまた、人が今を良く生きるための先人の知恵なのではないだろうか。


本来ならばこれらをいちいち「理」や「利」によって掘り下げなくとも、「そういうものである」とそのままに受け止められるところに「生臭い部分」をオブラートに包んだ「倫理・規範」の「効用」があるとも思う。(これは言い換えれば思考停止の効用と表現する事にもなってしまうのだが...)
「利」や「理」が無ければ受け止めにくくなった現代ではこのように考えなければならないのも致しかたないとはいえ、なんともやるせない。
それは、「そういうものである」にいつのまにか澱が積ったりミスリードされたりして再考が必要である一方で、「掘り下げ」「理由付け」することで、それをする前にそこにあったものとは違う物になってしまうような気もするからなのだが...

世界のあり方を「理」や「利」を使って翻訳し物語を生み出す賢者が受難者としてその罪を一身に被らなくてはいけなかったのもこんなところにあるのかもしれない。(とも思ったりする)

ところで何の話だっけ?
ま、いいか。

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2005/12/03

もう一つの循環社会

建築業界と言えば、以前(今もそうだといえばそうだけど)私も携わっていた。
マンションのような大型物件を扱っていたわけではないのでちょっと違うけれでも、一つの支店を任され、コスト,販売のジレンマの間に身を置いていただけにあまり人事(ひとごと)とも思えない。
「競合」がひしめき、そこで生き残る為に良い物を安く提供しなければいけないという現実の中で、本社は新しい商品・技術の開発や合理化、支店側は(本来は販売が主であるが)業者の単価切り下げ、施工部門の合理化が仕事であったと言ってもいい。
私が所属していた会社は建築物の強度に対しては殆ど妥協しなかったのは救いであった。(そこは好きなところでもあり、逆に販売サイドから見れば現実的しわ寄せでもあった)
見えない部分を如何に興味を持ってもらうか、どのように伝えて信頼を勝ち得るかが勝負のようなところがあったが、時代の流れもあって「価格」が、徐々にそのウェイトを大きくしてきていた。
(実際には違いはあるのだが)「良いものである事は当然」、消費者の「関心」はむしろ「低価格」に向っていたのである。
営業現場サイドの営業マンからの要望もまた切実だ。
営業社員である以上「売って何ぼ」の世界である。
業者さんの立場とて同じことで「仕事があって何ぼ」の世界である。
彼らには守るべき家族や生活がある。
そこには構造的に常に圧力が存在するのである。

そのときの私の仕事はこんな状況の中でも営業社員が何とか仕事にやりがい、やる気を持ってもらえるように工夫(悪く言えば洗脳)しながらも、「収入を確保したい」彼らのけつを叩く事であり、そして、「運命共同体」という理屈を持って、「仕事が欲しい」業者の単価を徹底的にカットしていく、もしくはより単価の安い業者を探し出していく事。

これを「努力」と呼んだらいいものか、「犠牲を強いる」と呼んだらいいものなのか,どちらにしても「現実」を前にしては「犠牲」などと考えてはいられない,いやそのように考えては「いけない」のである。
それはそこでは「甘い」事でしかなく、そうしなければ「敗者」となるのである。
私も、それは「努力」であると自らに言い聞かせ「犠牲」ではないかと言う疑念を否定しつづけてきた一人である。

私はディベロッパーの社長のことばを聞き、あまり思い出したくない当時を思い出した。
設計者が構造計算を捏造した事は明らかにルールに違反した「悪事」ではある。
それを選択したのも彼自身(設計者)である。
彼を使ったとする委託の建築業者の選択も彼らの物である。
そしてその建築業者に発注した発注者の選択ももちろん彼らの物である。
彼らにそうするべきではなかったと「責任」を見出し「糾弾」する事は簡単であり、たぶんそれは正しい。
たとえそこに合理的解決策が無くとも、それがなければ秩序は保てない。
ただし、一方でこのときだけ都合よく市場原理の現実を忘れ「倫理観」で糾弾していると言う事実を忘れていいものなのだろうか?

この原理の中の「守るべき物がある者」の多くは「選択肢は無い」と信じている、もしくは「信じようとしている」のもまた現実なのだ。
市場原理が働く一方で、世間・企業の共同体意識もまた(イビツ)に生きているから,個人の意思でこれに反する事への風当たりも強く逃げ場が無いのである。
それを避けようとすればその先にはニートやフリーターとラべリングされた立場が待つと言うことにもなろう。

これは建築業界に限った事ではないと思う。

そもそも、「倫理」「理性」に対する「諦め」があるからこそ、それを「市場原理」に委ねようとしているのであり、それを「現実的だ」と多くの人が共感しているから「今の民営化の流れ」の中にいるのである。
民営化に期待されるのは「既存の倫理」ではなく、人の行動原理であり、その結果こそが有無を言わさぬ「市場原理の倫理」。
それは、ルール(取り決め)であり、それは何かが起こった事実の認識の共有により、はじめて形になる。
そして市場原理ではルールさえもまた市場原理で決められるのである。

これらを理性的に因果から予期し、未然に修正しようとするのがヨーロッパ的試みであろうが、今のところこれらは「社民的」であるという理由で日本では信頼を得ることは無いだろう。
既存の倫理で糾弾しても、この原理に手が加えられない以上、通常のイレギュラーとして同じような事はこれからも様々なところで様々に姿を変え起こりつづけると思う。
これは工程能力からみて当然起こりうる「異常ではない不具合」のようなもの。
そして、起こってしまってから市場原理で淘汰されたりルール化されたりしても、「既成事実」が消えることも無い。
ただ不具合が起こるたびにこれを繰り返していくのである。

ある意味、今の「民営化」信仰は宗教的規範が無い分、市場原理の本家と思われている(私は本来の市場原理主義者は国境に囚われてなどいないと思っているが)アメリカ以上に「原理的」にすら思える。

それが今の日本の「姿」だと私は思う。

そして、日本全体がその方向に進み,それができるのが勝者であり,その勝者が「美しく」感じられる事が価値観となる世界に変貌しようとしているのだと思う。

今の流れの中では今回のような出来事(不具合)はけして異常ではなく、起こるべくして起きているに過ぎないのだと思う。

リスクの回避に巨額のコストを支払い,そのコストを稼ぐ為に新たなリスクを生み出すという、これまた別の「循環社会」の姿がそこにあるような気がする。

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既成事実の罪

最近日本で起こる「困った事」はどれもなんか似ている。
まるでデジャブーを見ているようだ。

構造計算書の偽造もそうした中の一つ。

「マンションはすでに建ってしまっている。」
と言う「事実」は覆りようが無い。
全てはこれを「前提」としなければならない。
これが既成事実。

既に建てられたマンションを建直すにももちろんだが、壊すだけでも「費用」が掛かる。
「費用」が掛かれば責任を負うべき「企業」は負債を抱え「倒産」することもある。
「倒産」すれば被害者を保証することも損失に対して責任をとることもできない。
これをカバーするような保険システムも一般的ではない。
当然、武部幹事長の言うように建築業界へのダメージも経済へのダメージも与えるのも事実だろう。
でも、それを強調すれば被害者の立つ瀬が無い。

かといって、国にも責任があるとして公的にこれを助ける事は税金を使って責任を取るべき者を何の罪も無いものがその肩代わりをする事にもなる。
実際は国の責任と言っても、政府と言うシステムに携わる者を意味するのではなく、その主体である国民(納税者)が責任をとる事になるのである。
(このような事が起こると、「国」が「フィクション」であると表現される意味もわかりやすい。)

いずれにしても、そこには色々なジレンマのみが残される。

何も珍しい事ではない。
「銀行」の不始末,「行政」の不始末、「企業」の不始末、最近立て続けにおきているこれら殆ど全てにおいて、その責任の所在とは違うところにそのしわ寄せが行き、しかもそれで元の姿が回復されるわけでもない。
このような事を繰り返しながら、「社会」の「信頼」を食いつぶしている。

・高速道路建設には既に多くの資金が投入されてしまった、いまさらこれを中止してこれまでの投資を無駄にするわけにも行かない...
・政府は既に多くの借金を背負ってしまっている、増税してもこれらを何とかしなくてはいけない...
・銀行が不良債権をすでに背負ってしまっている、これらがつぶれて経済を混乱させるわけにも行かない...
・年金は既にその財源が破綻している,積立額を上げてでもこのシステムを維持しなくてはならない...
「既成事実」を盾に「不合理」が押し付けられるのである。
(もっとも、立場の次元をかえて社会の構成員の一員としてそれを「見過してきた」と言う認識に立てば不合理であるとばかりもいえないが)

ここ数年の間に嫌と言うほど経験している事。


現実社会では「責任」のありかを追求し決定する事も難しいが、既成事実により発生した「結果」に対して、「責任」をとる事が「可能」かどうかの方がより難しい問題になってきているように思う。
法律(ルール)を駆使して「誰々に責任がある」とする事ができても、その誰かが「損失」を補う事ができない。
まして「人命」が関わってきたりすれば、別の意味で「損失」を補う事は全く不可能だ。
(違法建築の建物被害で人命が失われなかった事はせめてもの救いである)
おそらく、だからこそ当事者たちも必死に「負いきれない」その責任からできるなら逃れようと試み、構造的に常にその危険にさらされる大きな企業は、それから逃れる為に尻尾切りができるようなシステムを模索しようとするようになるのだろうが...


このような問題は「起きてしまえば」社会全体としては不合理や損失しかもたらさない。
もし、それが嫌ならば「予期」の精度をあげるしかないのだが、「予期」も「理性」もその煩わしさや複雑さや不確かさによって信頼が失なわれ、どちらかといえばシンプル性が好まれつつある。

昨今ではどのような「予期」が事前に提示されようと、むしろ有無を言わせない推進力・突破力を持つ既成事実を駆使する「力」のほうに魅力を感じ、実力者として賞賛されるのも事実。
この「力」は、事件の発覚さえなければ今回のディベロッパーに見られる姿そのものである。
私の身の回りでも、政治の世界でも見られるごくありふれた物である。
「やってみなければ分からない」と言って「予期」を吟味することが軽視され既成事実で物事を強引に進めるのを許してしまう構造。


その延長線上に今回のような損失や不合理が待ち受けている。
根本の認識が変らなければ、形は違えど同じような構造の問題は今後も続くだろう。
これを「無理が通れば道理引っ込む」として戒める言葉もある。

もちろん「予期」の精度をいくら高めようとも、その先には必ず「やってみなければ分からない」要素が待っているのも事実ではあるだろうし、そこに身動きが取れない息苦しさがあるのも事実だろうが、それがすなわち「精度の高い予期を軽視する」事を「正しい」する根拠になるわけでもない。

煩わしくとも、シンプルでなくともこの両面性の中で程よいバランスを探ったり別の次元を模索するかして悩み、その苦さを味わいながら生きなければならないとしても、「それがそうなっている」ならば、それを無視するわけにもいくまい。
そもそも人の考え付く合理性に合わせて世界が作用してくるわけではないのだから。

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リスクを避けたリスク社会の選択

構造計算書の捏造事件の推移を見ながら3つほどエントリーを書いたのだけれど、投稿せずにいた。
世の中の推移が早すぎてタイミングを失ってしまっただけなのだけれど、せっかくなので思考の足跡としてまとめて投稿しておく事にした。
この「リスクを避けたリスク社会の選択」と「既成事実の罪」「もう一つの循環社会」です。

-------本文-------
グローバル自由経済や市場原理というのはリスク社会だと思う。
リスク社会にはリスク社会なりのダイナミズムがあるとは思う。

自然状態で人の行為に最も影響を及ぼす(起こりやすい)「欲」を基盤に置きながら、そのあらゆる「欲」をMoneyという媒体を介して目に見える「差」として提示する事が「可能ならば」、全体としての「発展」「豊かさ」はより「実現性」は高まるかもしれない。

「欲」を従来の倫理観を伴う言葉として受け止めれば受け入れがたい事ではあるが「欲」をより広義に捉える事が可能ならば、その可能性を絶対的に否定する自信は無い。

物や科学・技術等は言うまでもないが、例えば「環境問題」のような事も人が「欲する」事である以上、倫理観から来る「欲」と言う言葉の持つ悪印象からはなれ、それを「良い環境を多くの人が欲している事」だと認識されれば(つまりその物語を一般化できれば)それさえも商品化され、競争の結果、より安く、より良い環境を提供する商品が生き残り、全体として良い環境が実現でき、結果としてその商品を提供した者もMoneyと言う恩賞に預かりモチベーションもさらに維持できるという物語も可能かもしれない。

もしそうならば、倫理感すらも多様化し、その「共有」をなしえないように見える今の世界においては、良い環境を作る動機(モチベーション)として最も現実的なアプローチだと言えるのかもしれない。

安全や平和も人が「欲する」事である以上、これを「安全や平和を多くの人が欲している事」として認識されれば同様に流通する物であるかもしれない。

とはいっても私自身は、「人が欲する物」にも限定された視野(スコープ)があり、本当に「人が欲する事」を人自身が「目先の欲する物」の誘惑に抗し切れず歪めてしまう性質を持っていると感じるので、これを「原理」として信奉する事に同意はできない。(総本山と思われている米国にしてもその根底にある宗教的倫理がなければ、どのような社会になるか分かった物ではない)

だから、先人の知恵の助けを借りる事も,多様になったとはいえ様々な倫理観に共通する要素を慎重に取り出す事も,正確ではなくとも物事の因果を捉えようとする試みも必要だと思っているのだが、それは私の思いでしかないので、ここではひとまず置いておく。

いずれにしても、このような価値観ではモチベーションを高めるためにも「差」は不可欠である。
しかも、あらゆる方面に対して開かれていなくてはならない。
ここでは差を生み出すためにも、新しい方面に差を作り出すためにも「既存」という安定に対するリスクテイクが要求される。
OwnRiskはRiskTakeのために必要な概念なのであり、社会のNoRiskの為に他人のOwnRiskの最小化を強いる試みではないと思う。
後者はどちらかと言えば共同体的管理社会のようなものだ。


さて、ここで今の日本の市場原理やリスク社会へのシフトは、何を原動力としているかである。
「世界の潮流であるから」
「米国経済圏の一員である以上、米国流を取り入れざるをえない」
「現実的選択肢は他に無い」
はよく聞かれる理由だ。
他にもあるだろうがどちらかと言うとこの思考の源は「最も精神的リスクの少ない選択」だからではないかとわたしには思えてしまうのだ。
日本人自身が本当に望む物を得る為にリスクを負う行動様式こそがOwnRiskの原則だ。
望む思いの比率が低くリスクの最小化のみを過剰に意識する行動様式はこれにそぐわない。

「グローバル化・市場原理の圧力(外圧)が無くとも自らそれを選択しようとするだろうか?」を考えれば分かりやすいかもしれない。

同じリスクでも、リスク社会のリスクと上述のリスクとは本質的に違うと言う反論もあるだろうが、「リスク」と言う概念に対する日本人の意識を考えるならば意味はあると思う。
もしそこに本質的に日本人のリスクを好まない性質があるならば、グローバル化や市場原理を表面的に採用してもうまくいくとも思えない。
そんな事を考えると今回のタイトルのような
「リスクを避ける為にリスク社会を受け入れようとしている」
という何とも皮肉なイメージが私の頭の中に浮かんでしまうのである。


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