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2005/12/31

在庫処分2「人を助ける」

「正しい」と思っていた事は何か「齟齬」が起きるまでは、大抵それを「正しい」と思う事を疑う事は無いと思う。
たぶん、周りもそう思っているだろうということも疑っていない。
それによる不都合も無い。

例えば「人を助ける」ということがほぼ間違いなく「正しい」とされる環境にいれば、それが「その人の為にならない」という可能性にも気付かない。
気付くチャンスも無いし、気付く必要性も無い。

また、困っている人が「自から生きよう」とする中で偶然により「不運にもそのような状態に陥ってしまった」と言う事例ばかりならば「人を助ける」と言う事が「正しい」という事を疑うチャンスも小さいのではないかと思う。

でも、「どうせ困れば助けてもらえるのだから自らを助けようとする必要などは無い」と言って意図的に自ら困った状況に陥ってしまう人たちに囲まれてしまえばその「正しさ」を疑う事になるかもしれない。

「人を助ける」ことが「正しい」として「賞賛」される事を知り、それを利用して「賞賛」される(代償を得る)ために「人を助ける」事を装えば、いずれ期待した賞賛が得られないことへの不満からそれが露見し「人を助ける」事の正しさに疑いが向けられる事もあるだろう。

概ね人が「正しい」と思っている中でも,それが「正しさ」であるがゆえに、それは常に期待通りの結果をもたらさければいけないので、たとえこのような瑕疵が割合的には小さな物であろうとも「人を助ける」このと「正しさ」への「不信」は助長されてしまう。

同じ「人を助ける」と言う行為にも「正しい」「間違い」「偽善」等、その状況により様々な評価がされてしまう。(そして「偶然」や「ばらつき」がきっかけとなりどの状況も起き得るのである。)

これはいつも
「人を助ける事が間違い」
であるわけでもなく
「人を助ける事は偽善である」
というわけでもない。
もちろん同じ理由でいつも
「人を助ける事が正しい」
わけでもないということだ。

あるとしたならば
どれが最も信頼を得ているか。
それが一番信頼を得る状況を「望ましい状況」として受けいれられるか。


何をいまさらではあるが。

すっきりしないといえばそうだけど,そうなっている(と思われる)事を無理に歪めてどれかに固定しなければいけない理由も無く、それに慣れれば充分それ自体がそのままシンプルなものにも思える。
そこには「正しさ」に「秩序」を求めるのではなく、「そうなっている」という共通理解に「正しさ」に代わる「秩序」を求めると言う事なのかもしれない。

もちろん、主観的には(現在の状況がどうあれ)どのあたりがいい(どのあたりの状況が保たれるのがいい)と思うものはあるし、同じように思う人が多くなればさらにいいと思っている。
だからと言って変化する自分がそこにないわけでもなく、「他の状況」が存在しないとするわけでもないのだけれども、今の私に「ある」ものを総動員してひたすらそのような「望まない状況」にならない方法は無いのだろうかとあがく。
その理由は、単純に「他の状況」が(今のところ私自身にとって)「生き難いだろうな」と思うからなんだけど。

状況により移り行く「正しさ」よりも「どんな状況を本当は望んでいるのか」がもっと話題になればいいと思う。
例えその結果、各々の「本当に望むもの」が違っていても。

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