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2005/11/18

頭でっかち

先日NHKスペシャル「兵士たちの帰還」を放送していた。
一連のアーカンソン州兵のイラク派遣を追ったドキュメンタリーで、以前のエントリーでも書いた事がある。
私が見たのは「派遣に至るまで」,「イラク滞在中」、そして今回の「帰還」の3回で彼らの心の変化を時系列的に垣間見ることになった。

海外に派遣されることが無かった平時は州兵としての役(6年)につけばさまざまな特典が用意されていて実際に派遣されるまではそれだけのことでしかなかった。
9.11があり、祖国を守ると言う愛国心、アメリカの掲げる理想である自由と民主主義を世界にもたらすと言う使命感を胸に彼らはイラクへと向かった。
そのイラクで「戦争」の現実に直面し,戸惑い、迷いながらも任務を遂行し帰還することとなったのである。

大学への奨学金の為に入隊したマッドさん
彼は若いだけに現実的である。
イラクに入りバグダッドに向かう途中も、夜のバグダッドで巡回中に襲撃を受けた時も,警備をしていても、狙撃手としての役割は役割として割り切っているように見えた。
「大人も子供も敵と思わなければならない」と語り,子供に物を請われても、それに対する警戒感と不快感を露にする。
この「大人も子供も敵と思わなければならない」という現実に嫌気はさしても、それはそれとして現実的に対応していく。
味方が襲撃を受ければ、敵への憎しみの感情も隠さ無い。
その感情は「国にいて文句ばかり言っているやつら...」という形で口にされた。
このような現実の中で,矛盾があろうと生き残る為にその現実に身を委ねなければならない我が身に比べ、現実を知ることも無く頭でっかちな「国にいて文句ばかり言っているやつら」にその怒りが向けられる心情は、たとえその矛先が正しかろうと間違っていようと「素直」な感情であることには違いあるまい。
そんな彼は言う。
「任期の延長なんか死んでも嫌だ」
「以前は勲章が欲しいと思ったが,こんな物をもらうより,仲間を返して欲しい」と。
そして、彼は故郷に帰り母校の生徒に語る。
「何の危険も無く,何の不自由も無く学校に通う事ができることに感謝しなければならない。」
彼はジャーナリストを目指すと言う。


電機メーカーに29年勤めていた職人アイルランさん
彼は迫撃弾の破片で頭,顎、左腕に重症を負い、皆よりも先に帰還した。
帰還したときにはリムジンが用意され、地元のパトカーが先導を買って出て住民の歓迎を受けた。
しかし、左腕は自分で動かせず、時々気を失ったり、記憶障害に悩んでいる。
そんな彼が帰還してしばらくして息子に戦争に行ったことの意義を問われたときに静かにこう応える。
「価値はあると思う。反対する人も多いけど意味はあると思う。」
「なんにでも犠牲は必要だ。もう一度行けと言われれば行くさ。」
その後、彼は会社を解雇された。
30万/月の補償を政府から受けながらリハビリを続ける。
その補償はリハビリに消えていく。
このとき彼は
(イラク戦争は)「破壊だった」
「イラクの人々の為にできることはした。」
「イラクへ行ったのは私自身の決断」
そう納得させる以外に何ができるだろう、と私は思う。
彼も彼のケアをする家族も、これから先もこのようにして生きて行かねばならない。

彼らの帰還の40日前、2児の父であるライルライマーさんは武装勢力の狙撃を受け亡くなった。
マッドさんやアイルランさんとは違い、彼の言葉は聞くこともできない。

これが,「圧倒的有利」な米軍(州兵)の一人一人の現実である。
戦争前はアメリカであり、イラクであり,愛国心であったかもしれないが、戦争を経て直面するのは一人一人の人生。
それでも、それを知らない私たちのような頭でっかちは、頭でっかちでありながら戦争の現実に対してまともな想像すらできない。

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2005/11/15

欲しい原理

サービスを消費するためにサービスを提供し、「より多くのサービス」を消費するために「より新しいサービス」を生み出す。

これを「発展」、「豊かさ」といっても確かに間違いではないとは思う。

しかし

サービスを提供するためにはサービスは消費されなければならず、新しいサービスを生み出すためにはより多くのサービスが消費されなければならない。

という「ねばならぬ」状態にも同時に陥ってしまっているという事はないだろうか?

今、私は本当に「欲しい」から消費しているのだろうか?
本当に人が「欲しい」ものを提供しているのであろうか?
人が本当に「欲しい」物を提供し喜んでもらう事は喜びであるが、人が「欲しい」ものを提供していると思わずにはいられないとしたならば苦痛である。
そのように考えることが「ネガティブ」であるからとそのような「動機」を排除しなければならないとすればそれもまた虚しい試みである。

「欲しい」と思わなければこれが成り立たないから「欲しい」と思っているということはないだろうか?
もともと「欲しい」ともなんとも思ってもいないものを、あたかも「欲しい」物であるかのように思うことを無意識のうちに義務付けられてはいないだろうか?
有れば無いよりはまし程度のどうでもよいものを「欲しい」ものとして手に入れるために、本当に「欲しい」ものを犠牲にしているということはないのだろうか?

この枠の中では、それを「欲しい」と表明しなければ「偽善者」であり、それを「欲しい」と思わなければ「ネガティブ」であり、それを「欲しい」という動機をもたなければ「経済の敵」つまり「負組」である。
人は「欲しい」存在でなければいけないのである。

そこに何も「欲しい」ものがなくても、たとえ満腹でも「欲しい」といいつづけなければいけない。

私自身についていうならば、心のどこかで「こんなことを考えても仕方がない」と納得させようとしている事自体が「ねばならぬ」にどっぷりつかりながら生きている証である。

いずれにしても、「欲しい」原理は賞賛するほどのものでも、望むほどのものでもなかろう。

追記
blogでさえ滞りがちなのに、よせばいいのについついmixiに手を出してしまいました。
これもひょっとして「欲しい原理の虜」の証?

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2005/11/01

子供の遊び

たまたま近くの公園で子供たちが遊ぶ姿を見て子供時代を思い出した。
遊びにつきものだったのがジャンケン。
鬼を決めるにも、順番を決めるにもよく使った「決定手段」だ。
3つの確率にすべてをかけた「公正」な手段だったんだなーと思う。
不確かさ(or未知)と公平感の関係も書いてみたいけど今日は疲れるのでパス。

近くに公園があり学校とは関係なく歳も関係なく(遊びによっては男も女も関係なく)近くの子供が集まって缶蹴り、ビー球、こま、ベーごま、めんこ、S(エス)や6むし(たぶんローカル)等々夕方までよく遊んだ。
遊びというのはPlayerとしてはズルがあったり差がありすぎたりすると面白くないんだよなぁ。
勝つか負けるかわからない程度か、ちょっとした工夫で勝ち負けが入れ替わったりする程度がいい。
勝つものがいつも決まっていると面白くない。
勝ちつづけるほうも負けつづけるほうもやがてしらけてしまい、その遊びは楽しくないから淘汰されてしまう。
そのあたりの緊張感を維持しようとして「ずるいやつ」はのけ者にされたり、小さい子がいて体力的・技術的にハンディがあると、その子に「特権」(私の地方ではオミソなどといったが)を与えて鬼になるのを免除したり、チームを編成するときは強いもの、弱いものが均等に分配されるように強いものは強いもの同士で、弱いものは弱いもの同士でジャンケンをしたりして調整したりする。
時には、自分たちでローカルルールを決めて「楽しい」遊びであるための緊張感を保とうとさえする。
ルールを決めるときは「ずるい」「ずるくない」と遣り合うのだが、遊びたいから適当なところにいつの間にやら落ち着く。

ここでは別に「強い者」がいても「弱い者」がいても楽しければいいんだ。
「強い者」や「弱い者」がいるから「いけない」などともあまり考えず、それが当然だと思っている。
その代わり「楽しむ」ために「強い者」は「弱い者」をかばい、「弱い者」は「強い者」をたてる。
喧嘩もあるが、「強いもの」と「弱いもの」を決めることもここでは大事なのだ。
どちらが強いかを決めるもので、それさえ判ればいい。
それさえわかれば周りが適当なところで止めるようになっている。
だって「楽しく」ないもんね。
喧嘩があったって、ここで「楽しく」遊ぶために謝ったり仲直りしたりする。
これもせいぜい小学校の低学年ぐらいまでのことだが...
多分、子供だけの世界・社会の境界があるからできたんだろうな。


大人が入り込む隙のない子供だけの世界・社会で
「ルールの制定」
「ルールの改変」
「違反者の処罰」「再起」
「アファーマティブ・アクション」
「再分配」
が誰にいわれることもなく見事に自己運営されていたんだなーと思う。
「楽しい」を共通認識として共有しているから自然に調整していこうとするんだよなぁ。

これは「知識」ではなくただただ「楽しく」遊ぶための「知恵」だと思う。

今はなかなかこのような遊びの場もないだろうし、子供の世界に「強い」「弱い」を認めることもできないだろうし、喧嘩もいけないことだし、子供が「楽しく」だけに浸ることも許されないし、大人も皆が自分の子を「強い」ものにしたいのだから自己運営は難しいだろうな。

このあたりはCPU相手のゲームではなかなか得ることのできない「人」を知るための「社会の知恵」教育だったのかもしれないと今だから思う。

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危機意識は作られる

そこに事実があり、その事実のなかに危険があると分析されるから危機感を持つというのは普通のことである。
が、必ずしもそうでなくても元々あった事実以上の危機感は生み出される。
緊張を作り出すことで危機感を作り出すこともまた可能なのである。
現実的には、危機感は「不安」でしかなく、その原因となる危険要素を低減する事は有益である。
しかし、それを上回る有益性が期待できるなら危険要素を高めることも「現実的政治の世界」ではよくあること。

緊張という既成事実を作り出し、無視できない既成事実を利用し、政権が目指す選択肢に絞り込むには都合はよい。

これは昨日の「新閣僚」の「強行を伺わせる面々」を見ていて思った事だ。
これまでの手法同様、既成事実を利用した小泉首相らしい政策は続きそうだ。

政権担当者がある理念を抱きその視点から現在に対し何らかの問題意識や危機意識を持ったとしても、それに対していつも国民の多数が同じ意識を持って居るとは限らない。
国民とは得る情報の「種類」も「量」も「関心」も違う。
何よりも「国家」という視点で見るかどうかに大きな違いがある。(もっともこの国家をどう捉えるか自体が問題でもあるのだと思うが)
その理念も問題意識も危機意識も現時点で表明すれば理解も支持もされないと思われる場合(価値観が交錯していればなおのさらこのような状況を生む可能性は大きい),そこに「導く」事を「使命」と捉え上記のような手法でステップを踏みながら理念に近づけようとしてもおかしな事ではない。
何かを成し遂げるときに必要な実行力(実現力)である事とは確かだ。
ただし、「実行力のある政権担当者という事」と「好ましい未来をもたらす指導者である事」は同じではない。
なぜならばこの場合、政権担当者が描く理念は成就するまで表に出される事は無く、その理念はあくまで間違いを起こしうる「人」であるところの彼が描く理念でしかないからだ。


今の政権が信任を受けてから「改憲草案提出」「共謀罪」「日米安全保障会議」等、構造改革内閣とは別の一貫性のある動きが活発になってきている。

憲法改正や国内の安全のための管理統制強化や日米緊密化は、「既成事実」としての(対中)「危機感」が高まれば高まるほど、中国に非難させればさせるほど国民には現実問題となり正当性を持つようになる。
それらを成し遂げるには国民の同意が必要であり、そこをクリアするには対外的な「危機感」は必要不可欠である。

おそらく、改憲、共謀罪法案をはじめとする国民管理が軌道に乗るまでは多少の調整はしながらも「緊張」を維持しようとするのではなかろうか。

米国でもブッシュ政権がイラク戦争前夜から現在にいたるまで一貫して利用してきた手段でもあり、この二人は頑固なところもそうだがよく似ている。
米国ではイラク戦争の評価も大統領のこのような手法に対しても国民、マスコミいずれも既に懐疑的になりつつあり、ミスリードであったとして糾弾が始まっている。
(言い換えれば政権担当者の理念が好ましい未来をもたらさなかった事がほぼ国民の共通認識となり,それゆえ成就していれば問題にならなかった「手段」の不当性に焦点が当てられるようになってしまったともいえるのではなかろうか)
米国の対中姿勢を当てにし過ぎて、緊張が高まった中で建前はそのままに実質的にやんわりと梯子を外されることがないとも限らない。米国にとっては対中関係は建前上はともかくプラクティカルには優先順位は高いのだからブッシュ政権も力を失えば微妙な立場に追い込まれかねない。

もともとなかった危険要素を敢えて作り出す事が本当に国益なのだろうか。
今回、危機感で積み上げられた既成事実により生み出される既成概念は「本当の現実」に対応できるものなのだろうか?
今の米国は、イラク政策により作られた危機感によって積み上げた既成事実が「本当の現実」に直面し身動きが取れない状態に陥ってしまった。
危機を演出したが「理念」はならず、その「手段」であったはずの「危機」だけが現実として残ってしまった。
多くの国民が、マスメディアが、知識人が「現実的に良し」として熱狂的に支持した「ブッシュ政権が演出した既成事実に対する現実的対応」が「行き詰まり」に直面し、初めて「本当の現実」と乖離した別のところに来てしまったことに気が付き始めたのである。(でも、そこを検証しようとするところはさすがに米国だと思う)

道理は道理、それに反する覇道ではなく王道を歩むことはできないのであろうかと思ってしまうのである。

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