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2005/10/18

選択の結果の検証

未来に起こることにはいつも大なり小なり不確実性がある。
おおよその見当はついてもやはり不確実性は残る。
だから人によってその展望や予想にも大なり小なりばらつきと多様性があってもおかしな事だとは思わない。
そのような多様性の中で何らかの決定手段を経て協同体としての選択が行われ、そして何らかの結果がもたらされる。

そんな時などに
「いずれにしても時がたてばその結果は出て、その成否は明らかになる。」とか思ったりする。
選択に肯定的であればそれが「正しかったこと」、否定的であれば「間違っていたこと」という違いはあるが、時がたてば明らかになるだろうなどと思ったりすることがある。

そして、その結果が思わしくない結果ならばそれが検証され修正されるだろうなどとも思ったりする。
でも最近は、これについてはほとんど懐疑的である。

果たして未来が現在になった時点でその結果に対する評価を共有し評価できるものなのであろうか?
直近の例でいえば郵政民営化などはどうであろうか?
その選択に起因する何らかの結果が出たときに、それがよかったのか悪かったのか、どのように評価できるのだろう。
さまざまな結果を「事実」としてもたらすことは間違いないのだが、そのことと評価とは別の問題である。

先の衆議院選挙では「何か」を期待して、国民は小泉改革を選択した。
普通に考えれば、その選択の評価は選択時点に思い描いたその「何か」がどれだけ達成されたかによってなされることが期待されるが、果たして未来においてそのような評価が可能なのであろうか?

これを考えるにはちょっと過去を遡ってみればいいのかもしれない。
前回の参議院選挙ではどうであったのだろう。
前々回の衆議院選挙はどうであったのだろう。
当時はイラク戦争や北朝鮮問題を含めた外交もあるにはあったが、いずれのケースも道路公団、年金を含めたより生活に影響のある国内問題としての「構造改革」が主であったように思う。
その選択の時々で何を思い描いて選択したであろう。
その選択の後に、その「何か」に照らし合せて何らかの評価ができたのであろうか?


どちらかと言うと、「選択時点」で思い描いたことを評価の基準とするよりも、未来が現在になった時点「評価時点」で直面する「何か」に基準をおくことが多いのではないだろうか?
つまり選択当時に「期待」したこと、「危惧」したことを基準にした評価よりも、現在直面する問題に基準をおいて評価されることが多いのではないだろうか?

そして、今ではこれは「現実的」であるためにはむしろ正しい態度であると言われるのではなかろうか。

何かを評価・検証するには、検証するための「皆が共有する指標なり基準なり」が必要である。
科学ならば原因から結果にいたるまで、その指標や基準が一貫しているから評価・検証ができる。
しかし、人の世界ではその不確実性のために「何が普通であるか」(皆が共有する指標・基準のひとつ)は時代とともに、そして「さらされる」現実とともに変化してしまい、簡単には一貫性を保てない。

「ある時点」で「これにはこのような問題がある」と指摘したとして、「しばらくした時点」で「まさに」そのような結果が現象として現れたとしても、上記のような「指標」「基準」が変わってしまえば「評価」も変わり、「ある時点」では問題と評価されるべき同じ「事実」は、もはや「しばらくした時点」では問題ではない可能性は十分にある。
選択された選択肢とは違い、選択されなかった選択肢の不確実性は現在にいたってもそのまま不確実であり、それを再評価する事もまた難しいことである。

初期の純粋な勤皇の志士はたとえ「誇り」「独立」を願っていたとしても、後の夷人の文明による「文明開化」や「富国強兵」のようなものまでを望んでいたのであろうか。

明治の元勲も当初は「富国強兵」で「近代国家」を願っても、清国やロシアと実際に戦争することまで望んでいたであろうか。

明治・大正の人々は「アジアの開放」「差別撤廃」「有色人種の人権」は願っても、その手段としてそのアジア人、有色人種と戦い、その相手を自らが蔑むことまで望んだであろうか。
また、その為に築き上げてきた国力ゆえに、英米に戦いを挑むことになることまで望んだであろうか。

朝鮮戦争や冷戦の中で「自衛隊」が強化され安保条約により米軍との連携を強化されようとも、それが海外に派遣(派兵)される事まで望んでいたであろうか。

いつの場合も「当初の願い」はそれによりもたらされた選択の結果「=現実」によって、願いの「予想範囲外」が持ち込まれ、しかも、その時点ではあたりまえのようにそれが当然の「前提」に置き換わってしまう。

過去の歴史だから特別なのではなく今でもそれは同じである。
そこに時代を超えて一貫した人為的な理念なりが共有されることががあれば別だが、先代の価値観で予想し取り決められたことも、次代においては先代でなされた選択の「結果」が次代の前提となるだけである。
本来ならば、国の理念であったり、それを明文化した憲法なりがその一貫性を保とうとするのであろうが、それ自体が「現実」に無抵抗であれば一貫した指標にはなりえない。
ある意味それが良くも悪くも今の日本の(日本だけではないが)「現実主義」の姿であろう。

「自衛隊を軍隊として交戦権を認めたとしても自衛のための組織であることに変わりはない」等といった表現がされたとしても「現実的」には、そのことによってもたらされる「現実」が、未来においてそこに留まることを許してくれることを期待するのはおかしな話である。

少なくとも自衛隊がもはや自衛隊でなく交戦権を持つ軍隊になることは次代においては「あたりまえ」の前提となり、次代にとってはそれは単なる起点としかなりえないと考えるのが妥当であろう。
同様に「現実」で原理原則が変わるならば、現在の自制や制約が次代にとっても同様に意味を持つと期待するのもおかしな話である。
次代が「現実」に直面すれば我々がするのと同じように、彼らの前提の想定内と「思いながら」それをベースに更なる変化を遂げて行くはずである。

だから、現在の潮流である「現実的」な選択に対し「戦争をする国になるのではないか」という危惧を「ナンセンス」と片付けてしまうのもまたそれ以上に「ナンセンス」であると私は思う。

「戦争ができる国」というとなかなか受け入れられないからその言及を避けるのもそれを望むものの戦術としては意義もあろうが、やはりこの問題は「戦争ができる国」を良しとするか否とするかを問われることになるのではないだろうか?
そして再び戦争に巻き込まれる事もまた前提として覚悟し、受け止めることをこの問題を考慮する際の前提として共有しておく必要があると思う。


同様に、米国の経済至上主義的グローバリズムもそれは突然実現されるのではなく、前提の微小な変化が積み重ねられる事による連続の果てにその格差等も顕在化していくのであり,今は猶予される「まさかそこまで」と思う事がいつのまにか実現され、それが当然となっていく性質の物であろう。
以前NHKで「戦争請負人」(関連エントリー)を見たとき、余計な概念(=不純物)を取り除いた純粋な「市場原理」を見るような気がしたが経済至上主義的グローバリズムの中で、このような過程を経て過去においては異常と思われたことが徐々に「当然」になっていったのだろうなと思う。
現実だけを見つめれば「戦争請負人」だとて特別視されるものではなく、それが当然となる未来があたりまえのように日本の未来にも起こり得る。

「やがて修正されるだろう」と言う思いは「現実的」コミュニティーではおそらく当てにはならないだろう。
現在の価値基準で想像する「未来の修正」は現在においてしか想定されないと思っていたほうが良さそうだ。

理念・理想が突出したり、原理主義的に凝り固まればそれはそれで別の問題を生むことになるのだとは思うが、その理念・理想(指標・基準)の影響力の無い現実主義では「連続である事」のみが重要なのであり、その連続がどこに向かうかは常に「想定外」「コントロール外」。
その検証もまた困難であると言う事は念頭に置く必要はあると思う。
(むしろ理念・理想の突出や原理主義はこの連続にひずみが出はじめたときにこそ現れやすいような気もする)

それと同時に、連続であることは必ずしも破綻を避けてはくれないことも忘れないほうがいい。
何が絶対的かは言えなくとも破綻に遭遇すれば、それが「間違いであること」を否応なく自らが実感し、その時はじめて見えなかった基準が実際にはあることを(それが何であるか、何ゆえそれが基準でありえるのかは依然として証明できなくとも)実感はする事にはなるのだろうと私は思う。

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コメント

最後まできちんと読ませていただきました。
とても興味を持ちました。
今私は卒業論文で選挙について
書いています。
もしよろしければこのように
きちんと自分の考えを持っていらっしゃる方に
アンケートに答えていただきたいのですが、
よろしいでしょうか。
お手数ですが、よろしければご協力
お願いいたします☆

↓アンケートです。

http://www.supreme.co.jp/cfm/ask3/preview.cfm?nID=530334511&P=1113533812

投稿: ami | 2005/12/04 00:36

amiさん こんにちは
まとまりのない長文を最後まで読んでいただいてありがとうございます。
文書力が無いのでそうしても長くなってしまうんですよね。

アンケートのページにも行ってきました。
回答できるところだけ回答しようと思ったのですが、全ての項目が記入されていないと受け付けられないようでしたので今回は遠慮させていただきまいした。

私の場合、「選挙だから」という事はあまり無く、日常の生活の中で普段触れる情報であったり、ニュースであったり、それについて考えた事であったりを選挙時に反映させるだけなので、全く選挙と関係ないときに選挙や政治に関するエントリーを立てたる事もあり、項目的にちょっと回答し辛かったのです。

アンケートには協力できませんでしたが「卒論」がんばって下さい。

投稿: FAIRNESS | 2005/12/04 13:19

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