つぶやき(道理)
尊厳を侵されたものが、自らの尊厳を取り戻すために他の尊厳を脅かす。
その尊厳を脅かされたものが、自らの尊厳を守るために、また他の尊厳を脅かす。
これはたとえば強硬なレジスタンスでありテロ(の応酬)である。
よく見られる光景だ。
実は、(ほぼ)誰もが自らの尊厳は求めている。
尊厳の重要性は(ほぼ)共有しているのである。
でも、どちらの尊厳に正当性「正しさ」があるかは共有できない。
同時に、正しさを無視できない「人」にとっては理不尽ではあるのだが、それが一切考慮されないところに
「互いにこれを続ければ互いの尊厳が失われてしまう。」
という現実がある。
これは「道理」のひとつなのではないだろうか?
平和を侵されたものが、自らの平和を取り戻すために他の平和を脅かす。
その平和を脅かされたものが、自らの平和を守るために、また他の平和を脅かす。
たとえば、この繰り返しの行き着く先は戦争である。
これも歴史では良く見られる光景だ。
実は、(ほぼ)誰もが自らの平和は求めている。
平和の重要性は(ほぼ)共有しているのである。
でも、どちらの平和により正当性「正しさ」があるかは共有できない。
互いにこれを続けていけば互いの平和が失われてしまう。
これも「道理」なのではないだろうか?
それぞれの「正しさ」がどうであろうと「道理」は「道理」である。
テロの応酬で「正しさ」を手に入れたように見えても、テロの応酬で大きく尊厳は失われるのであって「道理」の「道理」たる所以は揺るぎもしない。
戦争によりたとえその結果として平和がその後に現れようとも、戦争が起これば平和は失われるのであって「道理」の「道理」たる所以は揺るぎもしない。(あたりまえといえばあたりまえなのだけど...)
だから、自らの「正しさ」を信じても、少なくともそのために「道理」を歪めてはいけないと思うのである。
「正しさ」の喪失で「なんでもあり」に思えたとしても、それでもなお、それとは関係なく「道理」は「道理」で変わることは無いのではないかと思うのである。
でも、そもそも「道理」の翻訳こそが「正しさ」なのではないかとも思う。
翻訳者とそれを解釈する継承者が[常に不完全]なだけなのではなかろうか?
なんとなくこんなことが頭に浮かんだので、そのままつぶやいてみた。
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