過去を振り返ると「既成概念・事実」を積み上げ、避けがたい「現実」を作り出し、その現実を駆使していつのまにかそれを「普通」に変えていくのが小泉首相の政治手法のように思える。
国内的にも、対外的にもあまり差はなさそうだ。
「靖国参拝」に見られる手法なども同じように見える。
おそらく首相は、今反対されようと、強引といわれようと、それを「粛々」と続けていくことで、やがて国民も、中国や韓国においても、国際社会においても、いずれそれが「普通の事」として定着していくという見通しを立ててこれを続けているのではないかと思う。
実際の話、内政においてはイラクへの自衛隊派遣にしても、年金問題にしても、郵政民営化にしても、総選挙にしても、動かしがたい「現実」を伴った概念や事実を作りだすこの手法でことごとく成功を収めたといってもいいと思う。
首相にとってはこの成功体験はかなり大きいのではないだろうか。
内政においては「既成概念・事実」を積み上げる効用は「選択肢」(オプション)を制限することができる点にありそうだ。
多少強引であるといわれようとも、ひとつの概念・事実が積み上げたなら、整合性を維持するためには積み上げられた事実を無視するわけには行かず、次の選択の「前提」として方向性を制御できる。
自らの過去を棚に上げて正論をぶち上げることに躊躇のない欧米人ならいざ知らず、連続性・前後の整合性を重視し間違いを犯してはいけない日本人にとっては一度積み上げた概念・事実を無視することは簡単ではない。
現在こそが基準である「昨今の」現実主義傾向を考慮すれば、これに対してはほとんど無防備に近い。
失われた10年と言われる90年代も「問題」を知りながらも連続性を断ち切れずにズルズルと時を失なった。
今は逆に「既成事実」という契機を与えて過去の価値観を「変えていくこと」に首相は上手にこの連続性向を利用している。
国際問題ではどうなのであろう。
事実を見るならば、特に領土問題などは、既成事実となってしまえば戦争でもしない限りなかなか論理では太刀打ちできない。
北方領土は未だにロシアが実効支配している。
竹島も同様に韓国が実効支配している。
尖閣諸島は逆に日本が実効支配している。
これらもたとえ正当だと互いに主張しようとも、実際には既成事実がものをいっていることには違いない。
第二次大戦の戦勝国の秩序、これも言い換えれば既成事実である。
最近の例でいうならばパキスタン・北朝鮮の核保有もそうだろう。
核不拡散が正しいという世界の秩序にあっても核を保有するという既成事実を積み上げることができたから、それを前提として北朝鮮も6者協議を進めることができた。
中国の春暁油田開発などももはや既成事実化しつつあるといっていいだろう。
イラクは既成事実を積み上げることに失敗し、イランはなんとかつぶされる前に既成事実を作ろうと必死である。
靖国参拝の先には歴史認識があるといって差し支えないだろう。
首相の口から直接その言葉を聞くことはないにしても、彼の行為を支持する支持層が歴史認識をわが手に取り戻したいと願っていることは間違いないと思うし、その支持があるからこそ首相は参拝を止めることができないはずだ。
国内的には敗戦国として「決められた」歴史認識は戦後既成事実であったともいえるかもしれないが、我が身にとっては都合の悪い決まりである。
これに対してアンチとしての既成事実を打ち立ててもそれを受け入れる土壌がある。
そして、首相はその布石として靖国参拝という既成事実を着々と定着させようとしているのだと思う。
しかし、世界においては、この歴史認識は第二次大戦の戦勝国の価値観に基づく国際秩序の上にほぼ既成事実として既に位置付けられている。
これは、第二次世界大戦という悲劇を避けることはできなかったが、連合国が勝利したことで世界はより良くなったという既成概念であり既成事実である。
それと同時に現在の世界の先進国の世界のリーダーとしての正当性の根拠でもある。
ドイツも日本もその正当性を認めたからこその秩序で今の位置を確保できたといってもいい。
戦争はいずれの側にも欺瞞があると私は思う。
しかし、「自衛戦争」であったとする歴史認識に立つならば現在の秩序を形作る諸国(元連合国)は侵略者、それを認めた戦後の日本やドイツは「正当性」に対する裏切り者でなければならない。
これは一面では事実であるかも知れないが現在の実効性のある既成事実でも秩序でもないということは言えるだろう。
ある意味この史観は現在の既成概念・事実に対する壮大な挑戦である。
国際社会において既成事実が既成事実であるためには、それがもはや無視することができず、受け入れざるを得ないものでなくてはそれは単なる「独り善がり」で終わってしまう。
それを現在の国際社会を相手に展開しなければいけないのである。
国際社会はひとまず置くにしても、少なくとも中国や韓国がそれを既成事実として「もはや無視することができず、受け入れざるを得ないもの」と思わせる見通しはどのようにして成立するのであろうか。
首相が言いつづけることはもちろんできるだろうが、先方が「日本がまた言っている」程度で済ますことができるならばいつまでたっても意味のある「既成事実」とはならない。
そうならないための布石はどのように打たれているのであろうか?
これには相当の外交力を必要とするところだろうが日本外交の現状は「常任理事国入り」で見たとおりである。
常任理事国入りではまったく期待通りの賛同を得られなかったばかりか最も信頼する米国の支持すら得られなかった。
この事実は本来ならば日本外交が己を知るリトマス試験紙として真摯に受けとるべきものだと思うのだけれども、それを反省する事も重要視することもなく「予想されたこと、粘り強くやっていく」などというのんきなことをいっている。
「靖国参拝」が日本人の大切な心の問題であったとしてもとしても、その先に待つものを考えれば、これではまったく心もとない。
立ち止まってよく周りを見てみるとここ数年の間に外交的な選択肢は減る一方に思える。
イラク問題では「米国の方針」以外の選択肢があるだろうか。
北朝鮮による拉致被害者問題では実効的な選択肢も友好的な仲介者もほぼ消滅してはいないだろうか(2国間協議になってしまった)
6者協議でも影響力をほぼ失いつつあるのではないだろうか。
中国が着々と欧州やロシア、インド、アセアンと将来に向けた多面的関係作りに奔走する一方で、日本はアジア圏でもより強い関係を築けず信頼できる友好国の選択肢は米国だけになりつつあるのではないだろうか。
ほぼフリーであったロシアと「経済協力」で友好関係を築いていくこともできず、北方領土の4島どころか、一時現実的に思えた2島返還の選択肢もほぼ失いつつあるのではないだろうか。(もし中国に既成事実を突きつけたいならロシアやインドなどとの関係は要ではなかろうか)
比較的友好的であった中東の信頼も低下し、石油の供給も米国の支配力に頼る選択肢に絞られつつあるのではないだろうか。
西側の一員という構図が崩れ、米国を意識しながら欧州と接していかなくてはならない方向に向かっているのではないだろうか。
靖国問題をこれまで成功した国内問題同様 既成事実により国民の選択肢を制限し後戻りできなくし現実化することはできるかもしれないが、それは相手の選択肢を制限するものではなく、自らの選択肢を制限するだけのものでしかないのではないだろうか。
実際には参拝を「止めることができなくなってしまった」のが実態で、外交的にはただ単に選択肢を失ってしまっただけなのではないだろうか。
彼は政治家であり、一国の長である。
国民の利益・生命・財産を守るのが仕事である。
政治家は国民の望む理想・理念を維持しながらも、矛盾をはらむ現実世界の中で虚実を交え、自らが泥(虚の部分)をかぶっても「実」をもたらさなければならない。
その虚の部分をオブラートに包むことができなければ国内の「秩序」「誇り」「モラル」が維持できず、「実」をもたらさなければ衰退する。
国の外と内には常に矛盾がある。
内にばかり整合性を求めれば、外との乖離を招き、外との整合性ばかりを求めれば内に矛盾を抱えることになる。
そして、外との乖離は内の矛盾に影響し、内の矛盾もまた外との乖離に影響しあう。
一つ一つの選択が内と外とに影響し、そして、内と外からその反応が結果としてもたらされる。
そのトータルの結果に「実」がなければ、とても優れた政治家とは言えないのではないだろうか。
最近のコメント