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2005/10/22

つぶやき(道理)

尊厳を侵されたものが、自らの尊厳を取り戻すために他の尊厳を脅かす。
その尊厳を脅かされたものが、自らの尊厳を守るために、また他の尊厳を脅かす。
これはたとえば強硬なレジスタンスでありテロ(の応酬)である。
よく見られる光景だ。
実は、(ほぼ)誰もが自らの尊厳は求めている。
尊厳の重要性は(ほぼ)共有しているのである。
でも、どちらの尊厳に正当性「正しさ」があるかは共有できない。

同時に、正しさを無視できない「人」にとっては理不尽ではあるのだが、それが一切考慮されないところに
「互いにこれを続ければ互いの尊厳が失われてしまう。」
という現実がある。
これは「道理」のひとつなのではないだろうか?


平和を侵されたものが、自らの平和を取り戻すために他の平和を脅かす。
その平和を脅かされたものが、自らの平和を守るために、また他の平和を脅かす。
たとえば、この繰り返しの行き着く先は戦争である。
これも歴史では良く見られる光景だ。
実は、(ほぼ)誰もが自らの平和は求めている。
平和の重要性は(ほぼ)共有しているのである。
でも、どちらの平和により正当性「正しさ」があるかは共有できない。

互いにこれを続けていけば互いの平和が失われてしまう。
これも「道理」なのではないだろうか?


それぞれの「正しさ」がどうであろうと「道理」は「道理」である。
テロの応酬で「正しさ」を手に入れたように見えても、テロの応酬で大きく尊厳は失われるのであって「道理」の「道理」たる所以は揺るぎもしない。
戦争によりたとえその結果として平和がその後に現れようとも、戦争が起これば平和は失われるのであって「道理」の「道理」たる所以は揺るぎもしない。(あたりまえといえばあたりまえなのだけど...)

だから、自らの「正しさ」を信じても、少なくともそのために「道理」を歪めてはいけないと思うのである。
「正しさ」の喪失で「なんでもあり」に思えたとしても、それでもなお、それとは関係なく「道理」は「道理」で変わることは無いのではないかと思うのである。

でも、そもそも「道理」の翻訳こそが「正しさ」なのではないかとも思う。
翻訳者とそれを解釈する継承者が[常に不完全]なだけなのではなかろうか?


なんとなくこんなことが頭に浮かんだので、そのままつぶやいてみた。

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2005/10/18

オプションをなくす政治

過去を振り返ると「既成概念・事実」を積み上げ、避けがたい「現実」を作り出し、その現実を駆使していつのまにかそれを「普通」に変えていくのが小泉首相の政治手法のように思える。

国内的にも、対外的にもあまり差はなさそうだ。

「靖国参拝」に見られる手法なども同じように見える。
おそらく首相は、今反対されようと、強引といわれようと、それを「粛々」と続けていくことで、やがて国民も、中国や韓国においても、国際社会においても、いずれそれが「普通の事」として定着していくという見通しを立ててこれを続けているのではないかと思う。

実際の話、内政においてはイラクへの自衛隊派遣にしても、年金問題にしても、郵政民営化にしても、総選挙にしても、動かしがたい「現実」を伴った概念や事実を作りだすこの手法でことごとく成功を収めたといってもいいと思う。

首相にとってはこの成功体験はかなり大きいのではないだろうか。

内政においては「既成概念・事実」を積み上げる効用は「選択肢」(オプション)を制限することができる点にありそうだ。

多少強引であるといわれようとも、ひとつの概念・事実が積み上げたなら、整合性を維持するためには積み上げられた事実を無視するわけには行かず、次の選択の「前提」として方向性を制御できる。

自らの過去を棚に上げて正論をぶち上げることに躊躇のない欧米人ならいざ知らず、連続性・前後の整合性を重視し間違いを犯してはいけない日本人にとっては一度積み上げた概念・事実を無視することは簡単ではない。
現在こそが基準である「昨今の」現実主義傾向を考慮すれば、これに対してはほとんど無防備に近い。

失われた10年と言われる90年代も「問題」を知りながらも連続性を断ち切れずにズルズルと時を失なった。
今は逆に「既成事実」という契機を与えて過去の価値観を「変えていくこと」に首相は上手にこの連続性向を利用している。


国際問題ではどうなのであろう。
事実を見るならば、特に領土問題などは、既成事実となってしまえば戦争でもしない限りなかなか論理では太刀打ちできない。
北方領土は未だにロシアが実効支配している。
竹島も同様に韓国が実効支配している。
尖閣諸島は逆に日本が実効支配している。
これらもたとえ正当だと互いに主張しようとも、実際には既成事実がものをいっていることには違いない。

第二次大戦の戦勝国の秩序、これも言い換えれば既成事実である。

最近の例でいうならばパキスタン・北朝鮮の核保有もそうだろう。
核不拡散が正しいという世界の秩序にあっても核を保有するという既成事実を積み上げることができたから、それを前提として北朝鮮も6者協議を進めることができた。
中国の春暁油田開発などももはや既成事実化しつつあるといっていいだろう。

イラクは既成事実を積み上げることに失敗し、イランはなんとかつぶされる前に既成事実を作ろうと必死である。


靖国参拝の先には歴史認識があるといって差し支えないだろう。
首相の口から直接その言葉を聞くことはないにしても、彼の行為を支持する支持層が歴史認識をわが手に取り戻したいと願っていることは間違いないと思うし、その支持があるからこそ首相は参拝を止めることができないはずだ。
国内的には敗戦国として「決められた」歴史認識は戦後既成事実であったともいえるかもしれないが、我が身にとっては都合の悪い決まりである。
これに対してアンチとしての既成事実を打ち立ててもそれを受け入れる土壌がある。
そして、首相はその布石として靖国参拝という既成事実を着々と定着させようとしているのだと思う。


しかし、世界においては、この歴史認識は第二次大戦の戦勝国の価値観に基づく国際秩序の上にほぼ既成事実として既に位置付けられている。
これは、第二次世界大戦という悲劇を避けることはできなかったが、連合国が勝利したことで世界はより良くなったという既成概念であり既成事実である。
それと同時に現在の世界の先進国の世界のリーダーとしての正当性の根拠でもある。
ドイツも日本もその正当性を認めたからこその秩序で今の位置を確保できたといってもいい。

戦争はいずれの側にも欺瞞があると私は思う。
しかし、「自衛戦争」であったとする歴史認識に立つならば現在の秩序を形作る諸国(元連合国)は侵略者、それを認めた戦後の日本やドイツは「正当性」に対する裏切り者でなければならない。
これは一面では事実であるかも知れないが現在の実効性のある既成事実でも秩序でもないということは言えるだろう。
ある意味この史観は現在の既成概念・事実に対する壮大な挑戦である。

国際社会において既成事実が既成事実であるためには、それがもはや無視することができず、受け入れざるを得ないものでなくてはそれは単なる「独り善がり」で終わってしまう。

それを現在の国際社会を相手に展開しなければいけないのである。

国際社会はひとまず置くにしても、少なくとも中国や韓国がそれを既成事実として「もはや無視することができず、受け入れざるを得ないもの」と思わせる見通しはどのようにして成立するのであろうか。
首相が言いつづけることはもちろんできるだろうが、先方が「日本がまた言っている」程度で済ますことができるならばいつまでたっても意味のある「既成事実」とはならない。

そうならないための布石はどのように打たれているのであろうか?

これには相当の外交力を必要とするところだろうが日本外交の現状は「常任理事国入り」で見たとおりである。

常任理事国入りではまったく期待通りの賛同を得られなかったばかりか最も信頼する米国の支持すら得られなかった。
この事実は本来ならば日本外交が己を知るリトマス試験紙として真摯に受けとるべきものだと思うのだけれども、それを反省する事も重要視することもなく「予想されたこと、粘り強くやっていく」などというのんきなことをいっている。

「靖国参拝」が日本人の大切な心の問題であったとしてもとしても、その先に待つものを考えれば、これではまったく心もとない。


立ち止まってよく周りを見てみるとここ数年の間に外交的な選択肢は減る一方に思える。

イラク問題では「米国の方針」以外の選択肢があるだろうか。
北朝鮮による拉致被害者問題では実効的な選択肢も友好的な仲介者もほぼ消滅してはいないだろうか(2国間協議になってしまった)
6者協議でも影響力をほぼ失いつつあるのではないだろうか。
中国が着々と欧州やロシア、インド、アセアンと将来に向けた多面的関係作りに奔走する一方で、日本はアジア圏でもより強い関係を築けず信頼できる友好国の選択肢は米国だけになりつつあるのではないだろうか。
ほぼフリーであったロシアと「経済協力」で友好関係を築いていくこともできず、北方領土の4島どころか、一時現実的に思えた2島返還の選択肢もほぼ失いつつあるのではないだろうか。(もし中国に既成事実を突きつけたいならロシアやインドなどとの関係は要ではなかろうか)
比較的友好的であった中東の信頼も低下し、石油の供給も米国の支配力に頼る選択肢に絞られつつあるのではないだろうか。
西側の一員という構図が崩れ、米国を意識しながら欧州と接していかなくてはならない方向に向かっているのではないだろうか。


靖国問題をこれまで成功した国内問題同様 既成事実により国民の選択肢を制限し後戻りできなくし現実化することはできるかもしれないが、それは相手の選択肢を制限するものではなく、自らの選択肢を制限するだけのものでしかないのではないだろうか。
実際には参拝を「止めることができなくなってしまった」のが実態で、外交的にはただ単に選択肢を失ってしまっただけなのではないだろうか。

彼は政治家であり、一国の長である。
国民の利益・生命・財産を守るのが仕事である。
政治家は国民の望む理想・理念を維持しながらも、矛盾をはらむ現実世界の中で虚実を交え、自らが泥(虚の部分)をかぶっても「実」をもたらさなければならない。
その虚の部分をオブラートに包むことができなければ国内の「秩序」「誇り」「モラル」が維持できず、「実」をもたらさなければ衰退する。
国の外と内には常に矛盾がある。
内にばかり整合性を求めれば、外との乖離を招き、外との整合性ばかりを求めれば内に矛盾を抱えることになる。
そして、外との乖離は内の矛盾に影響し、内の矛盾もまた外との乖離に影響しあう。
一つ一つの選択が内と外とに影響し、そして、内と外からその反応が結果としてもたらされる。
そのトータルの結果に「実」がなければ、とても優れた政治家とは言えないのではないだろうか。

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選択の結果の検証

未来に起こることにはいつも大なり小なり不確実性がある。
おおよその見当はついてもやはり不確実性は残る。
だから人によってその展望や予想にも大なり小なりばらつきと多様性があってもおかしな事だとは思わない。
そのような多様性の中で何らかの決定手段を経て協同体としての選択が行われ、そして何らかの結果がもたらされる。

そんな時などに
「いずれにしても時がたてばその結果は出て、その成否は明らかになる。」とか思ったりする。
選択に肯定的であればそれが「正しかったこと」、否定的であれば「間違っていたこと」という違いはあるが、時がたてば明らかになるだろうなどと思ったりすることがある。

そして、その結果が思わしくない結果ならばそれが検証され修正されるだろうなどとも思ったりする。
でも最近は、これについてはほとんど懐疑的である。

果たして未来が現在になった時点でその結果に対する評価を共有し評価できるものなのであろうか?
直近の例でいえば郵政民営化などはどうであろうか?
その選択に起因する何らかの結果が出たときに、それがよかったのか悪かったのか、どのように評価できるのだろう。
さまざまな結果を「事実」としてもたらすことは間違いないのだが、そのことと評価とは別の問題である。

先の衆議院選挙では「何か」を期待して、国民は小泉改革を選択した。
普通に考えれば、その選択の評価は選択時点に思い描いたその「何か」がどれだけ達成されたかによってなされることが期待されるが、果たして未来においてそのような評価が可能なのであろうか?

これを考えるにはちょっと過去を遡ってみればいいのかもしれない。
前回の参議院選挙ではどうであったのだろう。
前々回の衆議院選挙はどうであったのだろう。
当時はイラク戦争や北朝鮮問題を含めた外交もあるにはあったが、いずれのケースも道路公団、年金を含めたより生活に影響のある国内問題としての「構造改革」が主であったように思う。
その選択の時々で何を思い描いて選択したであろう。
その選択の後に、その「何か」に照らし合せて何らかの評価ができたのであろうか?


どちらかと言うと、「選択時点」で思い描いたことを評価の基準とするよりも、未来が現在になった時点「評価時点」で直面する「何か」に基準をおくことが多いのではないだろうか?
つまり選択当時に「期待」したこと、「危惧」したことを基準にした評価よりも、現在直面する問題に基準をおいて評価されることが多いのではないだろうか?

そして、今ではこれは「現実的」であるためにはむしろ正しい態度であると言われるのではなかろうか。

何かを評価・検証するには、検証するための「皆が共有する指標なり基準なり」が必要である。
科学ならば原因から結果にいたるまで、その指標や基準が一貫しているから評価・検証ができる。
しかし、人の世界ではその不確実性のために「何が普通であるか」(皆が共有する指標・基準のひとつ)は時代とともに、そして「さらされる」現実とともに変化してしまい、簡単には一貫性を保てない。

「ある時点」で「これにはこのような問題がある」と指摘したとして、「しばらくした時点」で「まさに」そのような結果が現象として現れたとしても、上記のような「指標」「基準」が変わってしまえば「評価」も変わり、「ある時点」では問題と評価されるべき同じ「事実」は、もはや「しばらくした時点」では問題ではない可能性は十分にある。
選択された選択肢とは違い、選択されなかった選択肢の不確実性は現在にいたってもそのまま不確実であり、それを再評価する事もまた難しいことである。

初期の純粋な勤皇の志士はたとえ「誇り」「独立」を願っていたとしても、後の夷人の文明による「文明開化」や「富国強兵」のようなものまでを望んでいたのであろうか。

明治の元勲も当初は「富国強兵」で「近代国家」を願っても、清国やロシアと実際に戦争することまで望んでいたであろうか。

明治・大正の人々は「アジアの開放」「差別撤廃」「有色人種の人権」は願っても、その手段としてそのアジア人、有色人種と戦い、その相手を自らが蔑むことまで望んだであろうか。
また、その為に築き上げてきた国力ゆえに、英米に戦いを挑むことになることまで望んだであろうか。

朝鮮戦争や冷戦の中で「自衛隊」が強化され安保条約により米軍との連携を強化されようとも、それが海外に派遣(派兵)される事まで望んでいたであろうか。

いつの場合も「当初の願い」はそれによりもたらされた選択の結果「=現実」によって、願いの「予想範囲外」が持ち込まれ、しかも、その時点ではあたりまえのようにそれが当然の「前提」に置き換わってしまう。

過去の歴史だから特別なのではなく今でもそれは同じである。
そこに時代を超えて一貫した人為的な理念なりが共有されることががあれば別だが、先代の価値観で予想し取り決められたことも、次代においては先代でなされた選択の「結果」が次代の前提となるだけである。
本来ならば、国の理念であったり、それを明文化した憲法なりがその一貫性を保とうとするのであろうが、それ自体が「現実」に無抵抗であれば一貫した指標にはなりえない。
ある意味それが良くも悪くも今の日本の(日本だけではないが)「現実主義」の姿であろう。

「自衛隊を軍隊として交戦権を認めたとしても自衛のための組織であることに変わりはない」等といった表現がされたとしても「現実的」には、そのことによってもたらされる「現実」が、未来においてそこに留まることを許してくれることを期待するのはおかしな話である。

少なくとも自衛隊がもはや自衛隊でなく交戦権を持つ軍隊になることは次代においては「あたりまえ」の前提となり、次代にとってはそれは単なる起点としかなりえないと考えるのが妥当であろう。
同様に「現実」で原理原則が変わるならば、現在の自制や制約が次代にとっても同様に意味を持つと期待するのもおかしな話である。
次代が「現実」に直面すれば我々がするのと同じように、彼らの前提の想定内と「思いながら」それをベースに更なる変化を遂げて行くはずである。

だから、現在の潮流である「現実的」な選択に対し「戦争をする国になるのではないか」という危惧を「ナンセンス」と片付けてしまうのもまたそれ以上に「ナンセンス」であると私は思う。

「戦争ができる国」というとなかなか受け入れられないからその言及を避けるのもそれを望むものの戦術としては意義もあろうが、やはりこの問題は「戦争ができる国」を良しとするか否とするかを問われることになるのではないだろうか?
そして再び戦争に巻き込まれる事もまた前提として覚悟し、受け止めることをこの問題を考慮する際の前提として共有しておく必要があると思う。


同様に、米国の経済至上主義的グローバリズムもそれは突然実現されるのではなく、前提の微小な変化が積み重ねられる事による連続の果てにその格差等も顕在化していくのであり,今は猶予される「まさかそこまで」と思う事がいつのまにか実現され、それが当然となっていく性質の物であろう。
以前NHKで「戦争請負人」(関連エントリー)を見たとき、余計な概念(=不純物)を取り除いた純粋な「市場原理」を見るような気がしたが経済至上主義的グローバリズムの中で、このような過程を経て過去においては異常と思われたことが徐々に「当然」になっていったのだろうなと思う。
現実だけを見つめれば「戦争請負人」だとて特別視されるものではなく、それが当然となる未来があたりまえのように日本の未来にも起こり得る。

「やがて修正されるだろう」と言う思いは「現実的」コミュニティーではおそらく当てにはならないだろう。
現在の価値基準で想像する「未来の修正」は現在においてしか想定されないと思っていたほうが良さそうだ。

理念・理想が突出したり、原理主義的に凝り固まればそれはそれで別の問題を生むことになるのだとは思うが、その理念・理想(指標・基準)の影響力の無い現実主義では「連続である事」のみが重要なのであり、その連続がどこに向かうかは常に「想定外」「コントロール外」。
その検証もまた困難であると言う事は念頭に置く必要はあると思う。
(むしろ理念・理想の突出や原理主義はこの連続にひずみが出はじめたときにこそ現れやすいような気もする)

それと同時に、連続であることは必ずしも破綻を避けてはくれないことも忘れないほうがいい。
何が絶対的かは言えなくとも破綻に遭遇すれば、それが「間違いであること」を否応なく自らが実感し、その時はじめて見えなかった基準が実際にはあることを(それが何であるか、何ゆえそれが基準でありえるのかは依然として証明できなくとも)実感はする事にはなるのだろうと私は思う。

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