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2005/09/10

グローバル化と選挙

私はイラク人質事件の際の首相や政府の閣僚の発言、それによって引き起こされた自己責任論による非難中傷が頭を離れない。
その時点で日本はグローバル市場経済化の下地も準備もまだないのだなとなんとなく感覚的にそう直感した。
また同時に、「自己責任」と言う概念を使って「人の選択」になんの尊重もなく、非難するその姿に「日本は自己責任による自由よりも、共同体の価値観からはみ出るものへの責任の方が重要である。」のではないかと言う思いを強くした。


私はそれまで自己責任とは「OwnRisk」のことであると認識していたのである。
私自身海外に5年ほど住み「OwnRisk」と言う概念が如何に「自由」を積極的に補佐しているかを実感したつもりでいたのだが、どうも「自己責任」と訳された「OwnRisk」は本来の「OwnRisk」とは全く別物であるようだ。

例えばグローバル市場経済が社会として前向きに受け止められるためには、「自助」を活性化するためにも多様な起業や失敗後の再起業に寛容である事は必要不可欠なことである。
常に敗者に復活の可能性がなければ「自助」と言う言葉自体が絵に描いたもちに終わってしまい、グローバル市場経済が人にとって好ましいという理屈は幻想でしかなくなる。(私は本当は、敗者に自助だけを求める事こそ理想にすぎないと思うのだがそれはここでは置いておく)

「創出」「起業」にも常にリスクが付きまとう。
多様性の中から生まれる既存の物にこだわらない新しい発想、着眼点こそが、新しい価値観を創出し「起業」も可能にするはずである。
しかも、それが国家の枠に囚われていてはグローバルではありえない。

自己責任論による非難の構図はどんな物であったろう?
「Riskを省みず、日本国民に迷惑をかけた。」
「自衛隊撤退を主張し政府の施策に支障をきたした。」
その一方で
「専門の知識もないボランティアなど偽善に他ならない」
「売名行為だ」

言うなれば共同体の価値観に照らし合わせ、彼らの行動がその価値観にそぐわないものであったと言う事ある。
また、個人が何か行動を起こすときには「正しい」資格・素養が必要で、それがないにも係わらず起こした行動は浅はかでしかないと言う事だ。
そして、それは「非難」「中傷」に値するという判断がなされたということだ。。

その根底にあるのは(善意に受け止めれば)同朋が危険に陥らないようにという「共助」(の変形)であり、共同体の価値観にしたがって間違いを正してあげようということである。
あるいは「迷惑」をかけるものへの懲罰を与える事で同じ過ちを犯すものを出さないようにしようということである。
(特定の価値観に照らし合わせて)間違いを犯すものを放っては置けないという「老婆心」といってもいいかもしれない。
途中から多少論調は変わったが当初見られた「反応」は上記のような物だった。


問題はこれらが首相の持ち出した「自己責任」という言葉で行われた事である。

このような価値観は単なる[責任]としてならば、それなりに共同体の維持には有効な日本らしい保守的な「世間」の効用であり、その存在意義がないなどとはいえない。

しかし、このような価値観が活発に創出と消滅をエネルギッシュに繰り返す事を必要とされるグローバル市場経済下で果たしてどのような役割を演じるのだろうか?

これが本来の「OwnRisk」ならば活性化にも寄与するだろうが、「自己責任」に名を変えた「既存の価値観への責任」はどのように作用するだろうか?

世間の「自己責任」は失敗による個人の損失だけで済ませてくれず,失敗そのものに対しそれを予期しなかった未熟さが非難の対象としてしまうだろう。
おそらくこのような価値観の元では損失に対する失敗者救済措置(免責等)もただ単に「甘い」という事になるだろう。(日本的には身のほど知らずとして処理されるだろう)

自己責任で何かを行った者が失敗をすれば、恐らく放っておく事はぜず、その事を非難するに値すると捉え、たたく事だろう。
何か新しいことをはじめようと思えば、既存の概念を基準にして、その計画の至らなさを目を皿のようにして探し出し、直接関係のない第三者があらゆる忠告を駆使して無言の圧力をかけるのではないだろうか?
新しい価値観によって起こされた「間違い」や「失敗」を許さないのがどうも日本の「世間」であるようなのだ。
許さないが故に(世界の潮流[個人主義]で使うことができなくなった共同体への責任の代わりに)共同体が個人に「自己責任」という形で責任を「求める」。

それが首相をはじめ閣僚、少なくない国民の「自己責任」に対する認識である。
これがなくとも様々な問題を含むグローバル市場経済なのに、このような認識で迎えるグローバル市場経済はいっそう悲惨な結果を日本にもたらすのではないだろうか?
アメリカのように日本よりは多様性に寛容で、失敗に対して寛容(ほとんど無関心といったほうがいいか?)である社会でさえ格差は社会的に深刻になりつつあるのだ。

明日はもう選挙だ。
「郵政民営化」?
ちがうだろう?
それは直面するグローバル市場経済化という大きな潮流に対する、ひとつの象徴に過ぎない。





・・・・・・・・・・・・・・・・・追記 OwnRisk・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつだって、誰だって、どこに居たって、選択の結果に確信を得る事はできない。
必ずそこには偶然がある。
事実に真摯であればあるほど「100%」や「絶対」を口にする事はできない。

我々が信頼し選択して利用している様々な文明の利器もその生産工程を見てみれば統計的手法で危険率を割り出しながら管理され生産されている。
どんなに目標とする危険率を下げようと(つまりいくら工程能力を上げようと)不具合発生の危険率は常に抱えている。

その意味でどこまで行っても「Risk」から逃れる術はない。
だから誰しも何かを選択する際には常に何らかの「Risk」を負っている。
ここには「Risk」を負わ「ねば」ならないとか、意識しなくては「いけない」とかと言う事ではなく自然界も人間社会も「そのようになっている」と言う事だ。
これは突き詰めればそういうことになるという話である。
これはどのような社会にあろうともこのこと自体に変わりはない。


人が崖から飛び降りる選択をしたとする。
崖が人を死に至らしめるほどの角度がなく転げ落ちる事で助かるという「十分ありえる話」もあれば、急峻な崖から飛び降りたが途中の木に引っかかり助かるという「起こりにくい」幸運もある。
飛び降りた瞬間に地割れが起き、そこに近くの湖の水が流れ込みその水に落ちて助かるなどの「荒唐無稽の可能性」すら「否定」はできない。

この偶然を加味すればいつだって「先のことは誰にもわからない」ことは疑う余地はないぐらい真実である。
しかし、疑う余地はないと言って「先のことは誰にもわからないのだから崖から飛び降りようと飛び降りまいと変わりはしない」とは普通は判断しない。
確かに厳密に真摯に導き出した真実は「やってみなければ判らない」と言うことではあるのだが、それだけを根拠に人は行為を選択できない。

普通は「可能性」や「起こりやすさ」がそこにあり、それを頼りに判断をする。

何の理由もなく命の危険性にさらすことはないだろうが、崖の上にとどまる事の危険性が同時に存在したならば崖から飛び降りる行為も選択肢のひとつと言う事になり、それをこの可能性やら個人的な理由を判断材料にして選択を行う。

このように複雑に選択肢が存在し、可能性が存在し、その蓄積である経験や知識が存在している中で選択をしながら生きていかねばならないのが私たちだ。
しかも、その可能性(確率)はそれ自体が明白ではない。
またこれを正しい判断、誤った判断、もしくは善行、悪行に置き換えても同じように必ずしも明確ではない。
かといって、選択による(期待に対する)誤りを恐れて選択を留保しても、留保もまた選択である以上その事による誤りの可能性を避ける事はできない。

だからこそ意思的に生きるために「OwnRisk」と言う概念が必要とされるのではないだろうか?
「OwnRisk」を意識すると言う事は、常に存在する誤謬を恐れポジティブな選択を躊躇してしまう事がないように持ち込まれた、もともとは積極的な概念ではないのだろうか?
あるいは問題を自覚しながらも既存の概念に縛られ閉塞状態に陥る事がないように、進んで意思の赴くままに変化を成し遂げる事を可能とするための物なのではないのだろうか?
自己責任として「リスク」が「責任」と訳され、それが「責任」である以上その選択が予想を違えた場合[非難]に相当すると受け止められてしまった時点で既に「捩れ」が起きているのかもしれない。

小さな政府だけが意志が生かされる自己責任社会のように語られるが、OwnRiskで大きな政府を選択しても何ら矛盾はないのである。
自らの選択に対し、そこに潜むRiskに意識的であるか,そうでないかの違いこそが重要なのではないか?

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コメント

そうか、明日は衆院選。ちょっと争点を考えてみようかな。郵政民営化ってそんなにみんなが望んで゜いることなのか?小泉さんによると民営化すると無駄がはぶけて、税収が増えて国の借金も減るんだって?この深刻な財政赤字は小泉さんの在任中に減るどころかさらに増えたんだけど、その財政赤字をなんとかしないことには、少子高齢化で破綻しそうな年金問題の解決もないんだって。だから民間にできることは民間に任せて、サービスの中身を良くして、法人税などをとって税収をあげればいいんだって。ふーんそうかなるほどね。パチパチ、拍手なんてね。でも本当にそんな単純なものなのかな。今の郵政公社は黒字で、無駄な公務員はなくせなんて言うけれど、その郵政職員の給料に国の税金なんて1円も使われていない。それどころか国庫納付金だってある。もちろん法人税はないけれど。郵政職員の所得税等はもちろんある。諸外国はどうかって言えば、アメリカも含めてほとんど郵政は公共性のゆえに公有なのだ。ニュージーランドは小泉改革と同じことをやろうとしたが、過疎地などに廃止される郵便局が増え、都市部以外の住民の不満が高まり、また国営に戻そうかなんてなってるって言う。つまり小泉改革の失敗を見るような例だ。それからドイツは成功例のように言われるが、その実態はドイツポストは海外部門への進出で黒字になっているだけで成功とは言えないという。それなら日本の郵政民営化っていったい何やってことになる。過疎地の郵便局はなくさない。基金も設けるなんていうけれど。民間になった郵政会社は黒字になって初めて、小泉の言う税収となるんやろ。株主にも配当をあげれるんやろ。自分が経営者になったとして考えてみれば、完全民営化後の株主総会で株主に解任されないよう、ちゃんと利益をあげなくてはならない。儲からない局はお荷物として切り捨てていくのはニュージーランドのように切り捨てていくのは目に見えている。基金なんてそれを十分なほど設けるとすれば、そこから税収をあげて国庫をみたすという小泉の目的からして矛盾するし、だから法案には郵便局をなくさないという法的担保は実はどこにもない。減った分の一部はコンビニなどに委託するというが、ぼくの今の勤務場所から一番近いコンビニまで二時間近くかかるように、日本全国そんなところはいたるところにある。それにフランチャイズ制のコンビニは本部だけが儲かるシステムで個々の店は、立地条件等で盛衰が激しく、つぶれる店も多く、そもそも過疎地には向いていなく、たくさんある都会ではなるほど利便性があがる面もあるけれど、過疎地等の田舎の住民はきりすてられてしまう。またコンビニ等の片手間の業務で郵便局のすべてのサービスをカバーできるものでもない。国鉄の民営化で地方路線が次々に廃止となって過疎地等と都市との落差が大きくなり、また利潤追求一本やりの体質を生んで、今年は何年か前の事故の反省が口先だけだったことを証明するごとく福知山線の大事故を生んでしまったような弊害を生んだことを思い出させられる。およそ、資本主義社会での公的部門はそもそも、不採算部門を受け持つからこそ公共的役目を果たしていたのだ。国鉄も実は、その赤字によってこそ公共性が守られ、都市部と過疎地の落差を埋め、その必要な赤字によって社会全体を支えていたのだ。それが今度は道路公団まで民営化されるという。たしかに資本主義にかこまれた公的部門は汚職や権益や無駄といったことも生まれやすくそこをつかれた形だが、これではこんご儲かるところしか道路をつくらなくなってしまう。そうすると過密地帯と過密地帯をつなぐような道路しかできなくなり、ますます都市と都市との間ばかりが便利となって、都市は過密化し、公害やごみ問題や地価高騰や都市問題は深刻化することとなる。結果はたとえば先日、東京では豪雨で水害が襲ったが、地下の貯水施設が未完成で被害が防げなかったというが、この未完成の理由も地価も高騰し用地買収が思うようにいかなかったからという。そのように都市の過密化も道路やその他の交通も都市にばかり集中して都市ばかり利便性が増すこととの悪循環になってしまう。これも市場原理にのみまかせればそうなってしまうのだ。いっぽう道路公団は民営化されてしまえば、儲からない過疎地なんかへの投資なんか株主にも納得されず、結局、過疎地はますます不便になり、そんなところに住めない、雇用もないとみんな都市へと出てしまうことになる。結局、過疎地のコミュニティは崩れ、過密地はますます過密となって都市問題、過疎地はますますさびれてコミュニティ破壊でどちらも住みにくくなってしまう。郵政改革も同じことだ。郵便局も道路も鉄道もコンビにも就職口もない過疎地はますますコミュニティが破壊されていくことに結果しよう。そして郵便貯金等の国民の資金はアメリカのはげたかファンドや国内の金融資本のターゲットになっていくんだろうな。まあ個人的には「みずほ」の株主だからその株価が上がっていいけれど、庶民の公平な立場からすると郵政「改革」とやらはおかしいと言わざるをえないね。それにその小泉改革の影にかくれて、民主的で平和的な憲法、まさにそれがあったからこそ日本は戦後平和の中で復興することができたと思うけれど、その憲法が変えられようとしていることとか、年金・雇用その他大きな問題が見えなくさせられているような気がしてならない。そのことも大きな問題だろう。そんなことを考えて明日の投票には行こうかな。

投稿: K・IKGY | 2005/09/11 00:28

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受信: 2005/09/12 09:16

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