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2005/09/17

概ね

*ちなみに、このエントリーは直接は関係ないのですが、私にいつもインスピレーションを与えてくれるstandpoint氏のコメント欄でBigBang氏とのやり取りで見かけた「扇動」という言葉をみて触発されて書いた物です。

うまく纏まらず、実は私自身、納得行かない部分もあるのですが思考過程として恥をしのんで掲載してみます。



私は思想家でも歴史家でもないので実際にどうかはわからないのだけれども、「独裁」でもそうであるけれども「革命」でも「扇動」はなされるように思う。

いずれにしても「扇動」という言葉には、なにか刺激的で危険な物をそこに予感させる。
「ある意思」が意図を持って、「別の意思」に刺激を与えてその「ある意思」の望む行為を「別の意思」がするように、あるいは「ある意思」の望む「思い」を「別の意思」が持つように「しむける」というようイメージだろうか?(「される」イメージ)
(辞書では 「法」他人に特定の行為を実行させるため、その決意を生じさせ、またはすでに生じている決意を助長するような勢いのある刺激を与えること。あおり行為。 とある)
この言葉が使われる多くの場合そこに「悪意」を見出そうとする事が多いように思う。

「共感」という言葉には、なにやら安心感や喜びを与える物をそこに予感させる。
ある意思とある意思が触れ合い、その触れ合いを通して自然に同じ思いを共有するというようなイメージだろうか。(「する」イメージ)
(辞書には 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。 とある)
この言葉が使われる多くの場合そこに「悪意」を見出そうとする事はあまり無いように思う。

現象としてみれば「あるものに対して同じような見地を持つにいたる」ことには代わりがないといっても良いのではないかと思うのだけれども、過程や立場が違いを生み出しているようだ。

おそらく「独裁国家」「革命国家」ではその意思の統一の過程を「扇動」という言葉を使って表現する事はなく、むしろこのエントリーの文脈で言うなら「共感」のほうにに近い言い回しで表現されるのではないだろうか?
それに対して、その外にあり、それらを好ましく思わぬ立場が同じそれを表現するときは逆に「扇動」を好むのではないだろうか?

「あるものに対して同じような見地を持つ」ようになる過程が「自然発生的」「自発的」であるか「他からの意図的であるか」の違いや、そこに「悪意」があるか「善意」があるかの違いによって使い分けがなされていくようにも思える。

「認識論」(学術的に探求したわけではないので一般知識としてのそれでしかないのだけれど)的に考えれば「自然発生的」であるか「意図的であるか」の区別は難しそうである。もちろん「善意」「悪意」もそうである。

だからこそ「扇動に対する許容」や「共感に対する警戒」がなされ、それがやがてニヒリズムにも繋がるのかもしれないのかもしれない(などと私のような一般人は考える)。

もし「自然発生的」であるか「意図的であるか」の区別や、「善意」「悪意」の区別をあえて望むのなら、そこには相対化から零れ落ちた捨てきれない物がそこにありそうである。



これを「扇動」と「共感」に限ってこのように考えてしまうのはやはり不公平かとも思う。
「独裁」「ヒトラー」「ナチス」といった「ファシズム」と「合理性のための権力の集中」との間にも同じような事がいえるのではないだろうか。
歴史的記憶が刻まれた言葉の持つイメージに囚われず現象に注目すれば、2つの正規分布がその中心値を僅かにずらして重なるごとくやはり多く共通する部分はあるのではないだろうか?
「ファシズム」と「効率化のための権力の集中」の関係において「あえてその区別を望む」ならそこには相対化から零れ落ちた捨てきれない物がそこにありそうである。

そのように見る事が可能ならば、そこに相対化から零れ落ちて捨てきれない物による違いが無ければ「効率化のための権力の集中」から「ファシズム」への道を歩んだとしても(違いが無ければ歩むという過程すらないのだが)、変換点を補足し「感知」することはできそうもないように思える。
いつの間にやら「戦争」や「紛争」や「飢餓」に至ってしまッたといっても不思議ではない。
現実的に合理的に進めてきたはずの到達点にあたりまえのようにそれがありうる。
それはそうである、全てを相対化してしまえば「戦争」や「紛争」「飢餓」「貧困」「格差」「殺戮」「抑圧」そのものに何の「罪」があろう。
徹底した相対化の視野にはそもそもそのようなものを避けなければいけない何かがあるとは思えない。




そのような「絶対」の欠落(言葉として適当ではないが)した不確かさの中にありながら、使い分けがされるのはこれら相対化の中にあっても(世界や日本の中といった共同体の)秩序の中に生き残っている共有された価値観があるからなのだと思う。
でなければ「扇動」が「共感」より概ねネガティブに捉えられたり,「ファシズム」が「「合理性のための権力集中」よりも概ねネガティブに捉えられる事も無いだろうと思える。
これは厳密に吟味すれば相対化されてしまうのかもしれないし、神でも持ち出さない限り絶対的根拠は見出せ無いのかもしれないがとにかく「信じて共有している部分」があるからではなかろうか。
もっともそれが秩序というものなのかもしれないが...。
(信じ込んでしまうと、そこから零れ落ちる物がでてきてしまうので、そのときこそ相対化の出番なのだけれど)


そして私の場合「信じている部分」に「人権」があったりする。
相対化すれば「所詮人権など」とする事も恐らく可能だろう。
相対化すればそこに傲慢もまた潜んでいるかもしれないが、「人権」そのもの自体は「概ね」良い(共有できる)のではないかと信じている(選択して割り切っている)部分がある。
だから、アメリカが「人権」を掲げて起こした軍事行動に異議を持っていても、「人権」そのものは良いのではないかと思っていられる。
「人権」にはコバンザメがついていて、その信頼を貶める事もあるが「概ね」良いのではないかと信じている部分がある。
「概ね」だからいつだって例外はある。


「信じている部分」に「人は殺されたくない、傷つけられたくない」があったりする。
生きるために死のうとする人もいるかもしれないが、「概ね」そう(共有できる)なのではないかと信じている部分がある。
殺されたくない、傷つけられたくないとか「誇り」などといった様々な前提が逆に殺したり傷つけたりする事はあっても、「概ね」そうなのではないかと信じている部分がある。

「信じている部分」に先人が言い残した「人を殺してはいけない」「隣人を愛せ」「情けは人の為ならず」があったりする。
それが、その場では自らに不利益をもたらすことがあっても「概ね」そうなのではないかと信じている部分がある。
これは上述のような「概ね」の前提があるからそうなのだが。

それはちょうどギャンブルの持つ確率上のばらつきに刺激を求めることがあっても、このようなばらつきという偶然性の中にもその先にはそれに起因する「収束する確率」があることは疑っていないと同じ事だろうと思う。
(補足:パチプロのように常に勝つとしたならば偶然性にまぎれた別の規則性が、つまり別の母集団がそこに同居しているのである。)


だから、「概ね」共有できるフィールドの上で「扇動」や「ファシズム」を語ることも、「概ね」無駄ではないのではないかと思うのである。
違いを違いとして尊重する事もまた、相対化から零れ落ちた「概ね」があるからそれも可能なのではないかと思うのである。



基本的なこと,例えば青い空を見たとき、相手が同じ青を認識しているとは限らないとしても、あるいは色眼鏡をかけて違う色を見ようとすることがあったとしても、「概ね」相手が青であると認識しているとして信じている。
ただ、何かそこにその違いの気配があって、それが意思疎通の妨げになっているようであったなら、恐らくそこに色眼鏡が無いか考えてみるが,それでも変わらぬならば「そういう事も起こりうる」という事を忘れずに真剣に考えたいとは思う。
でも恐らく私は「相手も青い空をみている」という「概ね」に例外があったとしても、「相手は『常に』私と違う青い空を認識している」として生きていく事はしない(できない)だろうとは思う。

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2005/09/14

国民主権

>彼らは「国民を導くのは我々だ」と考えている。
>彼らにとっては我々国民は「自由」と「身勝手」の区別もつかぬ未熟者でしかない。
>国民などは信用していない。
>つまり、民主主義を信用していない。
>民主主義の自己責任を理解していない。
>日本の将来を決めるのは政治家ではない。
>どのような将来になろうとも日本の将来を決めるのは国民だ。
>民主主義は国民の自己責任の産物である。
>政治家の思い込みで決めた国の将来に政治家が責任など取れるわけが無い。
>国の将来に責任をとる事ができるのは国民自身以外には無い。
>結果的に、どんなに間違った将来になろうともである。
>政治家が尊敬に値するのは、より良い方向に向かう為のビジョンを持ち、それを国民に訴え納得を得る能力があるから>ではないのか?
>政治家は国民の指導や規制ではなく、理解を得るのが仕事のはず。
>そうすることで国民も政治に関心を持つのであって指導も規制も必要ない。
>さもなくばこの国の「民主主義」などという看板はさっさと下ろすことだ。

以前のエントリーで私はこう書いた。
今回の総選挙でも
>どのような将来になろうとも日本の将来を決めるのは国民だ。
>結果的に、どんなに間違った将来になろうともである
に何ら変わりはない。
今回の選挙の結果は私には好ましくなかろうと、この価値観が揺らぐ物ではない。

そして
>民主主義は国民の自己責任の産物である。
から、選択により定まった方向性による起こりうるリスクも私を含めた国民自らの物である。
(リスクを負わ「ねばならない」などと指導される筋合いはないが、負う事に「なる」のである。それがOwnRiskの本質だと思う。)
国の施策はその方向性によって行われる事になり,その影響は直接私に降りかかり、その影響を避ける事はできない。
国民の審判と違う投票をしたといっても、その違う意思を語らう事ができなかった事においてはやはりOwnRiskであろう。
得票率を問題にしようとそのシステム(小選挙区)を取り入れることに無関心であった事においてOwnRiskであろう。
生活の中で,社会の中で、その触れ合いを通じて共感を得られなかった事においてOwnRiskであろう。

しかしそれはそれ。

たしかに、本当に私が思うその方向に好ましさがあるかどうかの結果は常に不定である。
同様に、国民の総意がその方向に国民にとっての好ましさがあるかどうかの結論も常に不定である。
でも,同時にOwnRiskであるが故に、自らが好ましいと思う事をOwnRiskで主張していくしかないのである。
「日本の将来を決めるのは国民」であり、私も国民である。
個々の国民が、OwnRiskで国民としての自らの主張をしてしのぎを削る事、それが不完全でも「とりあえず現時点での最良のシステム」をもっとも有効に生かす道であると私は今でも思っている。

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2005/09/12

創出

これまで毎年果実を実らせた大樹が寿命を迎えた。
新しい果樹を植えねばならない。
しかし、新しい果樹は必ず実を実らせるかどうかも判らない。
育てる手間もかかる。
何が実るかもわからない。
何しろ育てた実績も、実を実らせた実績がないのだから。

そんな当てにならないことをやっていられるかと馬鹿にする。

背に腹は代えられない。
何とか栄養を与え、古い枝を落とし、接木をし、古い果樹の体裁を整え、それに引き寄せられ皆がそれに群がる。
これまで実った事を当てにして、今年も実がなることを祈るのである。
その果樹が朽ち果て共に飢える日まで。

これは政党のこと?
いや違う。
我々が選択したグローバル市場経済での敗者のコミュニティーの事だ。

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なだれ

選挙が終った。
自民が勝つことは予想していたが正直言ってここまでの大勝するとは思っていなかったので空恐ろしさを感じる。

先の不透明な閉塞状態がどれだけ「変化」への欲求を強烈なものにするか思い知らされた気がする。

「郵政民営化」がどうのこうのとかそんな事よりも、短期間でこうまでシンプルな理由で一方になだれを打つ現象が起こりうるということが私には今回の選挙での一番ショックあった。

それは逆からみれば前回の民主党の躍進の時にその予兆があったと言えばいえるのだが、今回の結果はそのときの比ではない。

それだけ財政赤字に危機感を持っているということなのだが,その事がこれだけ多くの人にその他のことを些細な問題にさせてしまう物だと言う事に怖さを感じる。

私も今「変化」を求めているから、「とにかく変えたい」気持ちは痛いほど良くわかる。

しかし,このような重要な局面になればなるほど民主主義のフェールセイフが機能するためにも均衡が必要で,そのあたりにこそ民主主義の長所が現れるのだと思うのだが、そうはならない。
国が間違った方向に進みやすいのもまた「絶頂」か「閉塞状態」のときであろうから,特に注意が必要なはずだ。
人は誰でも間違いを犯す,政治も同じで、しかもその間違いは国民にとって致命的となりかねない。
今回のようにシングルイシューでの大勝によって一方に強力な力が集中してしまうということは今後四年間はそれを検証する装置が機能しない事を意味する。

4年の任期を持つ議員の選挙であった。
今後4年間にどれだけ多くの難問が国の内外に起こる事だろう。
4年前から現在に至るまでどれだけ様々な問題が発生し、それにより4年前と現在とでどれだけ社会を取り巻く環境が変化したかを考えるとぞっとする。
それに関する基本姿勢が争点にもならず、これらを些細な問題にしてしまう今回の選挙とは何なのだろうか。

何年後かにこの選挙はどのように評価されるのだろう。

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2005/09/10

グローバル化と選挙

私はイラク人質事件の際の首相や政府の閣僚の発言、それによって引き起こされた自己責任論による非難中傷が頭を離れない。
その時点で日本はグローバル市場経済化の下地も準備もまだないのだなとなんとなく感覚的にそう直感した。
また同時に、「自己責任」と言う概念を使って「人の選択」になんの尊重もなく、非難するその姿に「日本は自己責任による自由よりも、共同体の価値観からはみ出るものへの責任の方が重要である。」のではないかと言う思いを強くした。


私はそれまで自己責任とは「OwnRisk」のことであると認識していたのである。
私自身海外に5年ほど住み「OwnRisk」と言う概念が如何に「自由」を積極的に補佐しているかを実感したつもりでいたのだが、どうも「自己責任」と訳された「OwnRisk」は本来の「OwnRisk」とは全く別物であるようだ。

例えばグローバル市場経済が社会として前向きに受け止められるためには、「自助」を活性化するためにも多様な起業や失敗後の再起業に寛容である事は必要不可欠なことである。
常に敗者に復活の可能性がなければ「自助」と言う言葉自体が絵に描いたもちに終わってしまい、グローバル市場経済が人にとって好ましいという理屈は幻想でしかなくなる。(私は本当は、敗者に自助だけを求める事こそ理想にすぎないと思うのだがそれはここでは置いておく)

「創出」「起業」にも常にリスクが付きまとう。
多様性の中から生まれる既存の物にこだわらない新しい発想、着眼点こそが、新しい価値観を創出し「起業」も可能にするはずである。
しかも、それが国家の枠に囚われていてはグローバルではありえない。

自己責任論による非難の構図はどんな物であったろう?
「Riskを省みず、日本国民に迷惑をかけた。」
「自衛隊撤退を主張し政府の施策に支障をきたした。」
その一方で
「専門の知識もないボランティアなど偽善に他ならない」
「売名行為だ」

言うなれば共同体の価値観に照らし合わせ、彼らの行動がその価値観にそぐわないものであったと言う事ある。
また、個人が何か行動を起こすときには「正しい」資格・素養が必要で、それがないにも係わらず起こした行動は浅はかでしかないと言う事だ。
そして、それは「非難」「中傷」に値するという判断がなされたということだ。。

その根底にあるのは(善意に受け止めれば)同朋が危険に陥らないようにという「共助」(の変形)であり、共同体の価値観にしたがって間違いを正してあげようということである。
あるいは「迷惑」をかけるものへの懲罰を与える事で同じ過ちを犯すものを出さないようにしようということである。
(特定の価値観に照らし合わせて)間違いを犯すものを放っては置けないという「老婆心」といってもいいかもしれない。
途中から多少論調は変わったが当初見られた「反応」は上記のような物だった。


問題はこれらが首相の持ち出した「自己責任」という言葉で行われた事である。

このような価値観は単なる[責任]としてならば、それなりに共同体の維持には有効な日本らしい保守的な「世間」の効用であり、その存在意義がないなどとはいえない。

しかし、このような価値観が活発に創出と消滅をエネルギッシュに繰り返す事を必要とされるグローバル市場経済下で果たしてどのような役割を演じるのだろうか?

これが本来の「OwnRisk」ならば活性化にも寄与するだろうが、「自己責任」に名を変えた「既存の価値観への責任」はどのように作用するだろうか?

世間の「自己責任」は失敗による個人の損失だけで済ませてくれず,失敗そのものに対しそれを予期しなかった未熟さが非難の対象としてしまうだろう。
おそらくこのような価値観の元では損失に対する失敗者救済措置(免責等)もただ単に「甘い」という事になるだろう。(日本的には身のほど知らずとして処理されるだろう)

自己責任で何かを行った者が失敗をすれば、恐らく放っておく事はぜず、その事を非難するに値すると捉え、たたく事だろう。
何か新しいことをはじめようと思えば、既存の概念を基準にして、その計画の至らなさを目を皿のようにして探し出し、直接関係のない第三者があらゆる忠告を駆使して無言の圧力をかけるのではないだろうか?
新しい価値観によって起こされた「間違い」や「失敗」を許さないのがどうも日本の「世間」であるようなのだ。
許さないが故に(世界の潮流[個人主義]で使うことができなくなった共同体への責任の代わりに)共同体が個人に「自己責任」という形で責任を「求める」。

それが首相をはじめ閣僚、少なくない国民の「自己責任」に対する認識である。
これがなくとも様々な問題を含むグローバル市場経済なのに、このような認識で迎えるグローバル市場経済はいっそう悲惨な結果を日本にもたらすのではないだろうか?
アメリカのように日本よりは多様性に寛容で、失敗に対して寛容(ほとんど無関心といったほうがいいか?)である社会でさえ格差は社会的に深刻になりつつあるのだ。

明日はもう選挙だ。
「郵政民営化」?
ちがうだろう?
それは直面するグローバル市場経済化という大きな潮流に対する、ひとつの象徴に過ぎない。





・・・・・・・・・・・・・・・・・追記 OwnRisk・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
いつだって、誰だって、どこに居たって、選択の結果に確信を得る事はできない。
必ずそこには偶然がある。
事実に真摯であればあるほど「100%」や「絶対」を口にする事はできない。

我々が信頼し選択して利用している様々な文明の利器もその生産工程を見てみれば統計的手法で危険率を割り出しながら管理され生産されている。
どんなに目標とする危険率を下げようと(つまりいくら工程能力を上げようと)不具合発生の危険率は常に抱えている。

その意味でどこまで行っても「Risk」から逃れる術はない。
だから誰しも何かを選択する際には常に何らかの「Risk」を負っている。
ここには「Risk」を負わ「ねば」ならないとか、意識しなくては「いけない」とかと言う事ではなく自然界も人間社会も「そのようになっている」と言う事だ。
これは突き詰めればそういうことになるという話である。
これはどのような社会にあろうともこのこと自体に変わりはない。


人が崖から飛び降りる選択をしたとする。
崖が人を死に至らしめるほどの角度がなく転げ落ちる事で助かるという「十分ありえる話」もあれば、急峻な崖から飛び降りたが途中の木に引っかかり助かるという「起こりにくい」幸運もある。
飛び降りた瞬間に地割れが起き、そこに近くの湖の水が流れ込みその水に落ちて助かるなどの「荒唐無稽の可能性」すら「否定」はできない。

この偶然を加味すればいつだって「先のことは誰にもわからない」ことは疑う余地はないぐらい真実である。
しかし、疑う余地はないと言って「先のことは誰にもわからないのだから崖から飛び降りようと飛び降りまいと変わりはしない」とは普通は判断しない。
確かに厳密に真摯に導き出した真実は「やってみなければ判らない」と言うことではあるのだが、それだけを根拠に人は行為を選択できない。

普通は「可能性」や「起こりやすさ」がそこにあり、それを頼りに判断をする。

何の理由もなく命の危険性にさらすことはないだろうが、崖の上にとどまる事の危険性が同時に存在したならば崖から飛び降りる行為も選択肢のひとつと言う事になり、それをこの可能性やら個人的な理由を判断材料にして選択を行う。

このように複雑に選択肢が存在し、可能性が存在し、その蓄積である経験や知識が存在している中で選択をしながら生きていかねばならないのが私たちだ。
しかも、その可能性(確率)はそれ自体が明白ではない。
またこれを正しい判断、誤った判断、もしくは善行、悪行に置き換えても同じように必ずしも明確ではない。
かといって、選択による(期待に対する)誤りを恐れて選択を留保しても、留保もまた選択である以上その事による誤りの可能性を避ける事はできない。

だからこそ意思的に生きるために「OwnRisk」と言う概念が必要とされるのではないだろうか?
「OwnRisk」を意識すると言う事は、常に存在する誤謬を恐れポジティブな選択を躊躇してしまう事がないように持ち込まれた、もともとは積極的な概念ではないのだろうか?
あるいは問題を自覚しながらも既存の概念に縛られ閉塞状態に陥る事がないように、進んで意思の赴くままに変化を成し遂げる事を可能とするための物なのではないのだろうか?
自己責任として「リスク」が「責任」と訳され、それが「責任」である以上その選択が予想を違えた場合[非難]に相当すると受け止められてしまった時点で既に「捩れ」が起きているのかもしれない。

小さな政府だけが意志が生かされる自己責任社会のように語られるが、OwnRiskで大きな政府を選択しても何ら矛盾はないのである。
自らの選択に対し、そこに潜むRiskに意識的であるか,そうでないかの違いこそが重要なのではないか?

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