概ね
*ちなみに、このエントリーは直接は関係ないのですが、私にいつもインスピレーションを与えてくれるstandpoint氏のコメント欄でBigBang氏とのやり取りで見かけた「扇動」という言葉をみて触発されて書いた物です。
うまく纏まらず、実は私自身、納得行かない部分もあるのですが思考過程として恥をしのんで掲載してみます。
私は思想家でも歴史家でもないので実際にどうかはわからないのだけれども、「独裁」でもそうであるけれども「革命」でも「扇動」はなされるように思う。
いずれにしても「扇動」という言葉には、なにか刺激的で危険な物をそこに予感させる。
「ある意思」が意図を持って、「別の意思」に刺激を与えてその「ある意思」の望む行為を「別の意思」がするように、あるいは「ある意思」の望む「思い」を「別の意思」が持つように「しむける」というようイメージだろうか?(「される」イメージ)
(辞書では 「法」他人に特定の行為を実行させるため、その決意を生じさせ、またはすでに生じている決意を助長するような勢いのある刺激を与えること。あおり行為。 とある)
この言葉が使われる多くの場合そこに「悪意」を見出そうとする事が多いように思う。
「共感」という言葉には、なにやら安心感や喜びを与える物をそこに予感させる。
ある意思とある意思が触れ合い、その触れ合いを通して自然に同じ思いを共有するというようなイメージだろうか。(「する」イメージ)
(辞書には 他人の考え・行動に、全くそのとおりだと感ずること。同感。 とある)
この言葉が使われる多くの場合そこに「悪意」を見出そうとする事はあまり無いように思う。
現象としてみれば「あるものに対して同じような見地を持つにいたる」ことには代わりがないといっても良いのではないかと思うのだけれども、過程や立場が違いを生み出しているようだ。
おそらく「独裁国家」「革命国家」ではその意思の統一の過程を「扇動」という言葉を使って表現する事はなく、むしろこのエントリーの文脈で言うなら「共感」のほうにに近い言い回しで表現されるのではないだろうか?
それに対して、その外にあり、それらを好ましく思わぬ立場が同じそれを表現するときは逆に「扇動」を好むのではないだろうか?
「あるものに対して同じような見地を持つ」ようになる過程が「自然発生的」「自発的」であるか「他からの意図的であるか」の違いや、そこに「悪意」があるか「善意」があるかの違いによって使い分けがなされていくようにも思える。
「認識論」(学術的に探求したわけではないので一般知識としてのそれでしかないのだけれど)的に考えれば「自然発生的」であるか「意図的であるか」の区別は難しそうである。もちろん「善意」「悪意」もそうである。
だからこそ「扇動に対する許容」や「共感に対する警戒」がなされ、それがやがてニヒリズムにも繋がるのかもしれないのかもしれない(などと私のような一般人は考える)。
もし「自然発生的」であるか「意図的であるか」の区別や、「善意」「悪意」の区別をあえて望むのなら、そこには相対化から零れ落ちた捨てきれない物がそこにありそうである。
これを「扇動」と「共感」に限ってこのように考えてしまうのはやはり不公平かとも思う。
「独裁」「ヒトラー」「ナチス」といった「ファシズム」と「合理性のための権力の集中」との間にも同じような事がいえるのではないだろうか。
歴史的記憶が刻まれた言葉の持つイメージに囚われず現象に注目すれば、2つの正規分布がその中心値を僅かにずらして重なるごとくやはり多く共通する部分はあるのではないだろうか?
「ファシズム」と「効率化のための権力の集中」の関係において「あえてその区別を望む」ならそこには相対化から零れ落ちた捨てきれない物がそこにありそうである。
そのように見る事が可能ならば、そこに相対化から零れ落ちて捨てきれない物による違いが無ければ「効率化のための権力の集中」から「ファシズム」への道を歩んだとしても(違いが無ければ歩むという過程すらないのだが)、変換点を補足し「感知」することはできそうもないように思える。
いつの間にやら「戦争」や「紛争」や「飢餓」に至ってしまッたといっても不思議ではない。
現実的に合理的に進めてきたはずの到達点にあたりまえのようにそれがありうる。
それはそうである、全てを相対化してしまえば「戦争」や「紛争」「飢餓」「貧困」「格差」「殺戮」「抑圧」そのものに何の「罪」があろう。
徹底した相対化の視野にはそもそもそのようなものを避けなければいけない何かがあるとは思えない。
そのような「絶対」の欠落(言葉として適当ではないが)した不確かさの中にありながら、使い分けがされるのはこれら相対化の中にあっても(世界や日本の中といった共同体の)秩序の中に生き残っている共有された価値観があるからなのだと思う。
でなければ「扇動」が「共感」より概ねネガティブに捉えられたり,「ファシズム」が「「合理性のための権力集中」よりも概ねネガティブに捉えられる事も無いだろうと思える。
これは厳密に吟味すれば相対化されてしまうのかもしれないし、神でも持ち出さない限り絶対的根拠は見出せ無いのかもしれないがとにかく「信じて共有している部分」があるからではなかろうか。
もっともそれが秩序というものなのかもしれないが...。
(信じ込んでしまうと、そこから零れ落ちる物がでてきてしまうので、そのときこそ相対化の出番なのだけれど)
そして私の場合「信じている部分」に「人権」があったりする。
相対化すれば「所詮人権など」とする事も恐らく可能だろう。
相対化すればそこに傲慢もまた潜んでいるかもしれないが、「人権」そのもの自体は「概ね」良い(共有できる)のではないかと信じている(選択して割り切っている)部分がある。
だから、アメリカが「人権」を掲げて起こした軍事行動に異議を持っていても、「人権」そのものは良いのではないかと思っていられる。
「人権」にはコバンザメがついていて、その信頼を貶める事もあるが「概ね」良いのではないかと信じている部分がある。
「概ね」だからいつだって例外はある。
「信じている部分」に「人は殺されたくない、傷つけられたくない」があったりする。
生きるために死のうとする人もいるかもしれないが、「概ね」そう(共有できる)なのではないかと信じている部分がある。
殺されたくない、傷つけられたくないとか「誇り」などといった様々な前提が逆に殺したり傷つけたりする事はあっても、「概ね」そうなのではないかと信じている部分がある。
「信じている部分」に先人が言い残した「人を殺してはいけない」「隣人を愛せ」「情けは人の為ならず」があったりする。
それが、その場では自らに不利益をもたらすことがあっても「概ね」そうなのではないかと信じている部分がある。
これは上述のような「概ね」の前提があるからそうなのだが。
それはちょうどギャンブルの持つ確率上のばらつきに刺激を求めることがあっても、このようなばらつきという偶然性の中にもその先にはそれに起因する「収束する確率」があることは疑っていないと同じ事だろうと思う。
(補足:パチプロのように常に勝つとしたならば偶然性にまぎれた別の規則性が、つまり別の母集団がそこに同居しているのである。)
だから、「概ね」共有できるフィールドの上で「扇動」や「ファシズム」を語ることも、「概ね」無駄ではないのではないかと思うのである。
違いを違いとして尊重する事もまた、相対化から零れ落ちた「概ね」があるからそれも可能なのではないかと思うのである。
基本的なこと,例えば青い空を見たとき、相手が同じ青を認識しているとは限らないとしても、あるいは色眼鏡をかけて違う色を見ようとすることがあったとしても、「概ね」相手が青であると認識しているとして信じている。
ただ、何かそこにその違いの気配があって、それが意思疎通の妨げになっているようであったなら、恐らくそこに色眼鏡が無いか考えてみるが,それでも変わらぬならば「そういう事も起こりうる」という事を忘れずに真剣に考えたいとは思う。
でも恐らく私は「相手も青い空をみている」という「概ね」に例外があったとしても、「相手は『常に』私と違う青い空を認識している」として生きていく事はしない(できない)だろうとは思う。
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