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2005/08/25

私の主観

私は首相に対して信頼感を持っていない。
その前提をどうしても取り去る事ができない。
それは、郵政問題に関する評価にも影響している。
つまり,言葉には道理を見出すところはあっても、それが言葉通りには行われないだろうと言う思いである。
そして、その通り行われなかった部分に関しては様々な言説で煙にまかれてしまうのではないかという思いさえある。

手をつけやすい部分に手をつけ、事態が一息ついたらそこに生まれる「現実」を盾に今回先送りされる核心部分に潜む問題が緊急避難の後には「なし崩し」的に放置されるのではないかと「疑って」いる。
それを私に植え付けているのは
道路公団での新規建設凍結の反故であり、特殊法人の放置である。
年金問題で言うならば、国民への保険料UPのみが早々決められ、その一方でこれも特殊法人は放置、一元化問題も言及するだけで実際には先送りした経緯である。
先送りした期限が来る頃には恐らく任期切れ(正確には首相自身が1年後の辞任を表明している)を迎え、それに対し責任を問われるとも思えない。
過去を検証するのが苦手なこの国では、先送りされた難問の責任を押し付けられるのは「後任」であり、「後任者」は「前任者」の引き立て役にしかならない公算も高い(と私は今のところ思っている)

道路族や建設族は今どこに所属しているのだろう?
厚生族は今どこに所属しているのだろう?
残された難問にいよいよ取り組まなければならないそのときに、今回「郵政族」を追い出したように、理念にもとずいて再び彼らを追い出すと言うのだろうか。
今回の分裂で「改革派」と「抵抗勢力」が分かりやすく分裂したように言われるが「構造改革(一般)」に対する「抵抗勢力」は改革の対象ごとに存在し、今回「改革派」に属性分けされた中に厳然と同居していながらその顔は隠れているのである。
私は、自民党が古い自民党の集票システムで選ばれた議員で構成されている限り、この根本的な構造は維持されつづけると思っている。
たとえ代替政党が頼り無く見え,時間が余計掛かりそうでも政権交代を願わずにはいられない理由がここにある。

上に書いた事は首相が公約した「構造改革」に関する事柄を述べただけである。
つまり、小泉首相在任中に起こった様々な事柄からみえてきた物
(イラク戦争を通して浮かび上がる様々な「市場原理」のもう一つの姿、環境問題を通して垣間見られるグローバル経済との関係性、欧米の対立から感じ取られるグローバル化へのアプローチの多様性、常任理事国入り運動で見られた各国の思惑、6カ国協議で思い知らされた日本の立場等々。)
に対して採られた外交政策が殆どその成果をあげていないことは考慮の外である。

本来ならば「必然としての世界の潮流である(あらゆる価値観の)グローバル化」に如何に対応するか、その選択として経済至上主義的なグローバル経済が本当に妥当なのか,それが日本にどのような未来をもたらすのかに対するビジョンを提出されてしかるべきだと思うがそれはここでは触れていない。

これら、(私から見て)マイナス評価を加味したならば「何もしないよりはましである」とか「郵政民営化もできないようでは構造改革はできない」という説得力を感じさせる言葉に接しても空しく響くだけなのである。
閉塞状態におけるリーダーシップに魅力を感じさせてもそれだけでは暴君であるか名君であるかの区別にはならない。
そして、郵政民営化よりも「過去の実績から見える首相の持つ構造的な性質への不信」こそが別の大きな切実な問題をもたらすリスクとして迫ってくるのだ。


この差し迫った財政危機の中にあっても、悲しいかな,私の場合「今のところ」この「不信」こそが投票行動を決めるの唯一の前提である事は変りそうも無い。

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2005/08/16

語り継ぐ事

8月15日を一日過ぎてしまった。

昨日は正午近くになり、時刻表示のあるチャンネルに切り替え正午を待って黙祷をした。
戦争が終わり60年。
考えてみるとこの60年の内、ここ数年ほど戦争について考えた事たことは無かったように思う。


私の祖父は兵隊として当時の満州に行き、父の兄弟のうち1人は戦死、1人は南方へ行き生還、1人は戦後直後の混乱の中で妻子を残して突然行方不明、父も母も東京大空襲を体験した。
当時の話を折に触れ聞いていたにもかかわらずどこか遠い過去の話を聞くようなところがあった。
当時は当時で真剣に聞いていたつもりではあったのだが、今考えるとそう思う。

父も母も戦争を語るときはあまり感情を出さずに話す。
(当時父は板橋、母は本所に住んでいたらしい)

橋の上で敵の戦闘機の機銃掃射に遭った事も、
東京大空襲で隅田川に多くの死体が浮かんでいた事も、
遠くを見渡せる焼け野原の話をするときも、
乗り合わせた船で高射砲の破片によって切り裂かれた子の話も

むしろ淡々と語った。


「死ぬ事は怖くなかった」と言った。
「焼け焦げた死体を見ても何も感じなくなる」と言った。
「今思えば~だけど、当時は~」とよく言った。

「それがあたりまえだった」とも言った。

そういえば母は疎開先で「英語」を教えてくれた先生の話もしてくれた。
疎開組と地元組みの食糧事情の違いも語ってくれた。
当時、父は朝鮮人や中国人に偏見を持っていたことや、今でもそれをいいことだとは思わなくとも心の底にはそれが残っている事、そしてそれは理屈ではないという事なども率直に話してくれた。(祖父はそれを隠そうともしなかったが)

B29が落す焼夷弾の音
B29が意外に低空を飛んでいた事
B29を迎え撃つ戦闘機や高射砲の情景、そしてそれを「きれい」だと思った事
川に逃げた人を表面をなめるように炎が襲う光景

そんな話もしてくれた。

これほど話してくれたのに...
戦争を語り継ぐ事の難しさを、受け継ぐ側の私の過去の内面を辿る事で今更ながら実感する。
でも、今だからこそ考えなければならないのだろう。
語ってくれた一つ一つがどういう意味を持つのかを。

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2005/08/15

党の存在意義(2)

以前、参議院選後に「党の存在意義」と言うエントリーを書いた。

現在の郵政民営化法案をめぐる解散劇を見ていて、改めて「党の存在意義」を考えさせられる。

本来,党は理念を同じくする集団である事が政党政治が機能する為の前提であり建前だと思う。
しかし、価値観が多様化した現在、一部弱体化した政党を除き、その前提はすでに形骸化してしまっている様に思う。

現行の日本の政党政治では、政権与党に与さなければ、どんな立派な政策や理念を持っていようともそれを実現する事はできないという政治家が「無視できない前提」がそこにある。

これは皮肉な事に私のような「現実的」な国民の意識がこれを支えている。

旧社会党が自ら「墓穴を掘った」原因の一つは、この前提を重視する過程で理念との矛盾を埋められなかった所にあるだろうし、公明党が自らの理念を大きく制約しながらも現在の座に居座るのも同じような理由があると思う。

自民党が(本来)理念を共有しない公明党と手を組むのだってそうだ。

もともと自民党自身も様々な理念があるにもかかわらず「政策の実現」の為に、それらが同居している党であり、以前の小泉首相の「自民党には様々な人材が揃っている」と言う発言もこの置き換えに過ぎないと思う。

もちろん民主党も例外ではない。
旧社会党から旧自由党まで、本来ならば相容れない理念を持つ人々が同居していて、それはとりもなおさず自民党と言う既得権集団から「政策実現に加わる権利」を奪う為だと思う。
自民党との間に多少の理念の違いはあっても本質的には「既得権者」か「新規参入者」かの違いの方が理念の違いよりも(今のところ)大きいように見える。

この党が自民党に次いで2番目の勢力を維持できるのもまた、「現実的」な国民の意識が「政策実現に加わる権利」を得る事が可能な自民党への対抗勢力を「とりあえず」必要としているからだと思う。


自民党と言う組織(民主党も政権をとればそうなるだろうが)は、窓口を広くして集票効率を上げ「政策実現に加わる権利」を得た上で、そこに所属する集団内の個々の議員や派閥が互いに政策・理念をすり合わせて政策を練り上げていくような集団である。(あった。)
そして、本来、国会で行なわれるべき事を党内に囲ってしまったのである。
(冷戦下で、ある意味避けがたい必要性があって、左派政党を「政策実現に加わる権利」から遠ざけようとする「知恵」だったのではないかと、最近邪推しているのですが。)

この集団が集団である所以は「政策実現に加わる権利」を確保する事にこそあるのであり、「理念」はその前提が満たされてはじめて俎上に上る。
だから常に現実的で、実行性を持っているように見えるのも当然と言えば当然のような気がしてくる。

ある時期以降(90年代)、新たな政策が持ち上がるたびにこの「党内」の理念の対立で融合,離散を繰り返し、その度に短命政権が生まれては消え政治的停滞をする事になる。
これは、今から思えば冷戦終結により、唯一党内をつないでいた左派に対する(政治的)危機感が消滅して、世界がそうであったように本来内包していた多様な価値観が表面化しはじめたからだったのかもしれない。
(こんな混乱の中にいた政治家なればこそ、「愛国心」のようななんらかの求心力を切実に必要としたのかもしれない。)

以前のイデオロギー的な「全体を貫く価値観」を考慮する必要の無い中での「方法論的な価値観」の相違であるため、仮にある政治課題で理念を共有できても、新たな政治課題が持ち上がると、そのたびに全体で理念を共有する事がないまま、それが対立へと発展してしまう。

単一の理念を共有するのが党であるならば、離党なり新党結成なりして新たな集団を形成し再編していくのが「筋」ではあるが、皆が共有する価値が多様であるから苦悩しているのが今の世界であって、その世界に対応した単一の理念を求めようにも、どこにも収束して行きようが無いのが現実なのではないだろうか。
だからといって多様な価値観は否応無く「存在」するのであって,結果的には、限定された現実的条件によって同じ集団に違った理念が同居せざろう得ない状況がどうしても現れてしまう。
幾ら新党を結成しようと融合,離散しようと出口は見えない。

私はそこに現在の「理念の元に集結する政党政治」の限界を感じてしまうのである。


今回の自民党議員の造反劇も、このことと無縁だとは思えない。
今回の造反議員は「理念」と「政策実現に加わる権利」を計りにかけ、従来の自民党の「すり合わせ」による影響力行使を期待して「政策実現に加わる権利」を選択し、「首相の公約」に相乗りすることになったのだと思う。
それはまた、そのまま彼らを支持する多くの有権者の意思でもあったろう。(たぶん)
それはそれで、それまでの最も「現実的」な自民党スタンダードであったことは事実であり、その時点では最小リスクを想定した「現実主義者」らしい選択だったはずである。
問題は、その「すり合わせ」が持つ「派閥の力学」「妥協」「取引」「密室政治」の重鈍さに「うんざり」している国民の意識を軽視しすぎた事なのではないだろうか。
その国民の意識を熟知した首相に「古い自民党」とい言うレッテルを貼られ、大義名分を失い、窮地に立たされてしまった。
気の毒と言えばいえないこともないが、たとえそれが当時は現実的選択であったといえども、もともと大儀を持ちえない「政策実現に加わる権利を得る行為」を選択した時点で予定されたリスクなのだから受け止めるしかない。
「現実的」であったはずの「選択」が状況の変化と共にスタンダードとしての妥当性を失ってしまっただけのことであり、そこは諸行無常、それを盲信もしくは過信してしまったのだから仕方がない。(とはいっても以前の自民党に戻る事がないとは言えないのでがんばってください。)

話は戻って、このような限界に直面し、小泉首相のようにあくまで現在の政党政治を踏襲し党内に存在する多様な価値観を強制力により単一の理念に押し込める方法も確かに一つの方法ではある。
閉塞状態にあっては実効性もあるだろうし,合理的でもあるだろう。
しかし,民主主義の本道から離れていく方向であると言うことは可能なのではなかろうか?
そこにはブレーキの利かない特急列車のような危険性を感じてしまう。

これを独裁と言ってしまうと聞こえも悪く反発を買うが、「実効性」や「合理性」だけを問うならば「独裁」もまたけして他の手法に劣る物ではなく、このような「実効性」や「合理性」といった価値観が他を差し置いて第一義として認識されれば、それもまた魅力的に見えるに違いない。
ただそのような状態になっても(金正日総書記やフセイン元大統領を引き合いに出すまでもなく)その内部では誰もそれを「独裁」と言う言葉では表現しないからそれが多くの人にとって悪名高い「独裁」だとは認識されない可能性は考慮されるべきだと思う。


その一方で、私は以前「党の存在意義」で触れたように、逆に党の枠を緩め流動性を持たせ、個々の課題に対し、国民の代表である代議士の個々の価値観に従う事を可能にする方向にももう一つの糸口を見出せるような気がするのだ。


私は自民党一党支配がこれ以上長く続く事を望んでいない。
民主党に政権が移動しそれに固定してしまうのも嬉しくない。
党の政権維持にのみ固執した流動性の無い2大政党制も結果的に国民の選択可能性を狭めそうなので躊躇がある。
かといって小党が乱立するのもどうかと思う。

でも、超党派に対して寛容であるならば、2大政党制でも魅力を感じる。

もしそうならば夫々の党内に多様な価値観を持つ人々が同居していても構わない。
いや、むしろ様々な価値観を同居させて欲しい。
選挙で公約した個々の議員は自らの理念に忠実に、そして党の枠に囚われることなく政策ごとに自在に政策グループ間を移動してはいかがだろう。

党是を建前にした「自らの道理・理念を押殺した」中身の無い議論などはいらない。
妥協するなら党是に左右されるより、進んで自らの道理・理念に「より近い者」と妥協し、取引して、その姿をあからさまに見せてほしい。
信念に基づいた身内意識を超えた熱い議論を見せてほしい。
密室ではなく、国会でその姿を見せてほしい。
どうしても国民の目に触れさせる事ができない物ならば、党是よりも道理・理念にしたがって泥を被ってほしい。
党是と理念に苛まれたなどと言って棄権せず、躊躇なく理念にしたがって「賛成」「反対」を明確に表明して欲しい。
党の存続に寄与する為だけの「議員であるだけの議員」は淘汰されてもいいだろう。
そのような政治家の姿によって国民を啓蒙し、影響を与える事で議員の座を維持して欲しい。

それにより議員が何を約束し、それに対して実際に何をし、何に対し責任を持つか、議員そのものの顔が良く見えてくる。
顔が見えてくれば、差別化が可能になり、それが選挙での選択肢に繋がる。

選挙においては党は共有できる範囲での大枠の理念(傾向程度)で選択され、個々の議員は個々の議員の理念,実績で選択される。
こんなことが可能で、流動性によりそのいずれもが生かされるならそれに越した事は無い。

これまでのように一党支配なら「政策実現に加わる権利」が個々の理念遂行の足かせにもなるだろうが、流動的である事が可能ならばその影響も少しは緩和されるだろう。
党の枠をはみ出る事を「裏切り」と言えば印象悪いが、支持者を裏切る事よりそれが優先されると言う事も無いと思う。


今の現実を見ても民主党のある人が同じ党内の人よりも、自民党のある人に近い人といったケースは少なくない。
逆もしかりだ。
ヨーロッパ的社民思想(修正資本主義的)の持ち主は民主党に限らず、自民党にも存在する。
外交政策、経済政策、憲法問題、など個々について色分けしていけば、「入り乱れ状態」こそが現実なのではなかろうか?
そのような多様性が現実に存在するにも拘わらず、党議拘束のような「日本」を忘れた狭い思念(党利)で議論を形式化し、合理性を疎外して曖昧な結論を生み出しつづけているのが「今の姿」なのではなかろうか?

いずれにしても、今のような酷い状況でも国が成り立っているのだから、仮に超党派を容認し流動化が促進されても、今より収集が付かなくなるような事も無いのではなかろうか。

と素人はつらつらと無い頭を絞って考えるのである。

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2005/08/10

争点

衆議院の解散により9.11に選挙が行われるそうである。

選挙のたびにいわれる「争点」とは何なのだろう。
「解散して国民の信を問う」
と言う事であれば普通に考えれば解散に至った「理由」に争点があるということになるのか。

解散には、いつも「~解散」と言う風に名前が良く付けられる。
この「~」が争点になるのだろうか?

「争点」が明確であれば国民も何を基準に投票すればよいかわかりやすく、投票もしやすくなる。
そして、その争点によって投票を性格付ける事ができる。

一体この争点は誰が決めるのだろう。

武部幹事長や小泉首相は
「郵政民営化に賛成か反対かを聞く選挙である。」
とシンプルな「争点」を繰り返し語ってくれている。

郵政以外の優先順位を気にしている人にはご丁寧に次のように教えてくれる。
「郵政民営化もできずに構造改革はできない」

造反組みや民主や他党よりもいち早く「争点」を明確に打ち出した。
国民にとってはわかりやすいし、シンプル好みであるからそのように定着するのだろう。
今の日本では、すばやさ、わかりやすさが「争点」に定着するための条件でもあるようだ。

マスメディアもすばやさとわかりやすさは大好物だから、動きの遅い造反議員や民主党の「争点」に目を向ける暇も無く、実際ぱっとした文言を準備していたようにも見えないので、媒体に乗るのは彼ら(政府側)の文言が主である。

これが現在の政治だと言えば「いかにも」である。
最も小泉首相が得意とするのはこの点だ。

それはそれ、そういうものなのかもしれない。


ただし、だからと言って勘違いをしてはいけない。
「争点」にしたがって信任を与えたからと言って、選挙後に「郵政民営化に信任を与えたのだよ」
と言っても当然のことながら誰も相手にはしてくれない。
争点を明確にわかりやすく教えてくれたご両人に言っても恐らくまともには取り合ってくれないだろう。
選挙と言うブラックボックスを通過すれば「郵政民営化に」は消え去り「信任を与えた」のみにスリム化される。
現与党が信任されると言う事は、与党が過半数を維持する事を以って宣言され,一般にも認知される事になるだろう。
そうすれば、政局をコントロールするだけの体制ができるのである。
そしてそれは「郵政民営化」に限って適用される体制などでは決して無い。
さらに、今回の選挙で信任されると言う事は「造反は許されない」も結果的におまけとして承認する事となり、強力な求心力を持つ事になろう。
そのような仕組みになっている。
そして、それを熟知し、意志をもって国がそのようにして運営される事を心から望む国民もいる。
あたりまえの事。


「エー俺は自衛隊派遣まで承認した覚えは無いぜ」
「俺は小泉さんが自民党を壊しても構造改革をするって言うから投票したのに」
「僕はもともと自民党なんかに投票してないし」

「何言ってんだ、政府は民主主義の手続きを踏んで決められたんだよ」
「政府の決めた自衛隊派遣は国民の総意なんだ。いまさら何言ってんだ。民主主義を知らないか?」

「そういわれればそうだけど、選挙も無いし、まあ今更どうなる物でもないけど、所詮世の中そんな物だし」


以前、掲示板でこんな感じのやり取りを目にしたような気が...

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2005/08/06

モノクロとカラーと青空

戦後生まれの私にとって戦前、戦中、戦争直後の日本は長い間モノクロだった。
映像として写っている戦争もまた、その多くはモノクロ。
当時の両親の写真はセピアだ。
だから、両親から聞く当時の話も私の頭の中ではモノクロやセピアに自動的に変換された。
米軍の撮影した映像にはカラーもあったが、それに特に注目もしていなかったのでイメージはあくまでモノクロであった。

小さいころ私はプラモデルに夢中だった。
田宮の1/35のMMシリーズでディオラマを作っては地元のプラモデル屋のプラモデルコンテストに出品したりしていた。
そのころはテレビでビッグモローの「コンバット」を見て、戦争映画を見て、プラモデル屋に置いてあった第二次大戦中の特にヨーロッパ戦線の事が書かれた写真入の雑誌を少ない小遣いで買って読み、研究に余念がなかった。
「コンバット」はほとんどは白黒だったのだが、たまにカラーの時があり、それをプラモデルを塗装するときの参考にしたりしていた。
部活と受験のためにコンテストで賞をとったのを機に止めてしまったが、戦争にも色があるんだよなと思ったのはそのころだろうと思う。
それでもそこにリアル感が湧き上がるというようなことなどなかったような気がする。

ミリタリーものに興味があったちょうどその頃、図書館でベトナム戦争の写真が掲載されていた雑誌を偶然目にした。
それはアメリカ兵が銃を肩にかけ、一方の手で、下半身の吹き飛ばされたベトナム兵士の遺体を持ち上げながらなんとも複雑な(眉間にしわを寄せ少し疲れたような)表情でポーズをとってる写真だった。
最近でこそ、このような死体の画像は珍しくもないが、当時は今ほど「自由」に目にすることができなかっただけに衝撃的だったことを今でも覚えている。
その雑誌の写真もまたモノクロであった。
もしカラーだったらさらに衝撃は大きかったかもしれない。

戦争には色がある。
そんなことはあたりまえすぎるほどあたりまえなのに、モノクロのイメージで当時をイメージする自分に何の違和感も感じてはいなかった。
色があるのはプラモデルに色を塗るとき。
近年に作られた映画を見るとき。
いかにも質の悪い色の褪せたカラーの記録フィルムを見るとき。
それはモノクロ画像を見るのと大して違いはなく、作り物を見るような感覚で、リアル感などは微塵もなかった。

ある程度の年齢になって、子供のころのある一場面を思い浮かべることがよくあった。
それは近くの海で、真っ青な空、ぎらぎらと照りつける太陽の下、うつ伏せになり、暑さで汗をにじませながら、BGMのように「せみの声」や「波の音」や「子供たちの嬌声」が聞くとはなしに耳に入ってくる、そんな場面だ。
それは記憶の中で「鮮やかな色」を持ち、暑さでにじむ汗の感覚があり、聞こえるBGMもそこに感じることができるそんな一場面の記憶だ。
あるとき母の疎開時代の話を聞いていて、戦争当時をイメージしたときの色と、自らの記憶の持つ感覚を伴う色とでは全くの別物であることに不意に気がついたのである。
なんとも鈍感なことだが、その違いを感知するまでに長い時間を要した。
いや、おそらく今もその違いを正しく認識し想像できているとも思えないが…。

戦争にも鮮やかな色があったはず。
鮮やかな青空があり、目を刺すような緑があり、ギラギラ照りつける太陽があり、流れ落ちる汗を感じる感覚があり、今私が感じるものと同じ感覚がそこにもあったに違いない。
あたりまえのことなのだが、未だにそれがなんとも不思議に思える。
「不思議な感じ」を持つ私は、戦争というものへのリアル感とは遠く隔たった所にいるということなのだろう。
想像しようとして、重ね合わそうとしてもそれに近づくことはできない。

8月6日の8:15AMまでの広島にも鮮やかな青空があったにちがいない。
それは白黒でもセピアでも色あせたカラーでもなく、2005年8月の今、私がいる場所で私が感じるものと変わらないはずだ。

8:15AM広島ではどんな色が飛び交ったのだろう。
閃光、業火、砂塵はどんな色をしていたのだろう。
それは私が知っている色ではない。
私が知る原爆は米軍機から撮影された質の悪いカラー映像の俯瞰的な「空」と「きのこ雲」の色だけだ。

衝撃のあとの8:16AMにはどんな色を見たのだろう。何を感じたのだろう。
それは、私が想像できる色でもなければ感覚でもない。

それからしばらくたった広島はどんな色をもっていたのだろう。
瓦礫や犠牲者はどんな色を放っていたのだろう。
青空はそのまま鮮やかであったかもしれない。
その変わらない青空をどんな思いで見たのだろう。
その思いは私にはわからない。
私が知っているのは米軍の報道管制をくぐって公開された映像や(日本)軍の検閲を逃れた白黒の映像だけ。

分かった気になるなよ。
その色さえも想像できないおまえは原爆の何も知りはしない。
おまえが知ったかぶって戦争を語ろうとその実態を想像などできはしない。
おまえが覚悟を口にしようと、それはおまえの想像をはるかに超えるものなのだ。

戦後生まれの私は、この時期がくる度に戦没者からそう言われ続ける。

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