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2005/08/15

党の存在意義(2)

以前、参議院選後に「党の存在意義」と言うエントリーを書いた。

現在の郵政民営化法案をめぐる解散劇を見ていて、改めて「党の存在意義」を考えさせられる。

本来,党は理念を同じくする集団である事が政党政治が機能する為の前提であり建前だと思う。
しかし、価値観が多様化した現在、一部弱体化した政党を除き、その前提はすでに形骸化してしまっている様に思う。

現行の日本の政党政治では、政権与党に与さなければ、どんな立派な政策や理念を持っていようともそれを実現する事はできないという政治家が「無視できない前提」がそこにある。

これは皮肉な事に私のような「現実的」な国民の意識がこれを支えている。

旧社会党が自ら「墓穴を掘った」原因の一つは、この前提を重視する過程で理念との矛盾を埋められなかった所にあるだろうし、公明党が自らの理念を大きく制約しながらも現在の座に居座るのも同じような理由があると思う。

自民党が(本来)理念を共有しない公明党と手を組むのだってそうだ。

もともと自民党自身も様々な理念があるにもかかわらず「政策の実現」の為に、それらが同居している党であり、以前の小泉首相の「自民党には様々な人材が揃っている」と言う発言もこの置き換えに過ぎないと思う。

もちろん民主党も例外ではない。
旧社会党から旧自由党まで、本来ならば相容れない理念を持つ人々が同居していて、それはとりもなおさず自民党と言う既得権集団から「政策実現に加わる権利」を奪う為だと思う。
自民党との間に多少の理念の違いはあっても本質的には「既得権者」か「新規参入者」かの違いの方が理念の違いよりも(今のところ)大きいように見える。

この党が自民党に次いで2番目の勢力を維持できるのもまた、「現実的」な国民の意識が「政策実現に加わる権利」を得る事が可能な自民党への対抗勢力を「とりあえず」必要としているからだと思う。


自民党と言う組織(民主党も政権をとればそうなるだろうが)は、窓口を広くして集票効率を上げ「政策実現に加わる権利」を得た上で、そこに所属する集団内の個々の議員や派閥が互いに政策・理念をすり合わせて政策を練り上げていくような集団である。(あった。)
そして、本来、国会で行なわれるべき事を党内に囲ってしまったのである。
(冷戦下で、ある意味避けがたい必要性があって、左派政党を「政策実現に加わる権利」から遠ざけようとする「知恵」だったのではないかと、最近邪推しているのですが。)

この集団が集団である所以は「政策実現に加わる権利」を確保する事にこそあるのであり、「理念」はその前提が満たされてはじめて俎上に上る。
だから常に現実的で、実行性を持っているように見えるのも当然と言えば当然のような気がしてくる。

ある時期以降(90年代)、新たな政策が持ち上がるたびにこの「党内」の理念の対立で融合,離散を繰り返し、その度に短命政権が生まれては消え政治的停滞をする事になる。
これは、今から思えば冷戦終結により、唯一党内をつないでいた左派に対する(政治的)危機感が消滅して、世界がそうであったように本来内包していた多様な価値観が表面化しはじめたからだったのかもしれない。
(こんな混乱の中にいた政治家なればこそ、「愛国心」のようななんらかの求心力を切実に必要としたのかもしれない。)

以前のイデオロギー的な「全体を貫く価値観」を考慮する必要の無い中での「方法論的な価値観」の相違であるため、仮にある政治課題で理念を共有できても、新たな政治課題が持ち上がると、そのたびに全体で理念を共有する事がないまま、それが対立へと発展してしまう。

単一の理念を共有するのが党であるならば、離党なり新党結成なりして新たな集団を形成し再編していくのが「筋」ではあるが、皆が共有する価値が多様であるから苦悩しているのが今の世界であって、その世界に対応した単一の理念を求めようにも、どこにも収束して行きようが無いのが現実なのではないだろうか。
だからといって多様な価値観は否応無く「存在」するのであって,結果的には、限定された現実的条件によって同じ集団に違った理念が同居せざろう得ない状況がどうしても現れてしまう。
幾ら新党を結成しようと融合,離散しようと出口は見えない。

私はそこに現在の「理念の元に集結する政党政治」の限界を感じてしまうのである。


今回の自民党議員の造反劇も、このことと無縁だとは思えない。
今回の造反議員は「理念」と「政策実現に加わる権利」を計りにかけ、従来の自民党の「すり合わせ」による影響力行使を期待して「政策実現に加わる権利」を選択し、「首相の公約」に相乗りすることになったのだと思う。
それはまた、そのまま彼らを支持する多くの有権者の意思でもあったろう。(たぶん)
それはそれで、それまでの最も「現実的」な自民党スタンダードであったことは事実であり、その時点では最小リスクを想定した「現実主義者」らしい選択だったはずである。
問題は、その「すり合わせ」が持つ「派閥の力学」「妥協」「取引」「密室政治」の重鈍さに「うんざり」している国民の意識を軽視しすぎた事なのではないだろうか。
その国民の意識を熟知した首相に「古い自民党」とい言うレッテルを貼られ、大義名分を失い、窮地に立たされてしまった。
気の毒と言えばいえないこともないが、たとえそれが当時は現実的選択であったといえども、もともと大儀を持ちえない「政策実現に加わる権利を得る行為」を選択した時点で予定されたリスクなのだから受け止めるしかない。
「現実的」であったはずの「選択」が状況の変化と共にスタンダードとしての妥当性を失ってしまっただけのことであり、そこは諸行無常、それを盲信もしくは過信してしまったのだから仕方がない。(とはいっても以前の自民党に戻る事がないとは言えないのでがんばってください。)

話は戻って、このような限界に直面し、小泉首相のようにあくまで現在の政党政治を踏襲し党内に存在する多様な価値観を強制力により単一の理念に押し込める方法も確かに一つの方法ではある。
閉塞状態にあっては実効性もあるだろうし,合理的でもあるだろう。
しかし,民主主義の本道から離れていく方向であると言うことは可能なのではなかろうか?
そこにはブレーキの利かない特急列車のような危険性を感じてしまう。

これを独裁と言ってしまうと聞こえも悪く反発を買うが、「実効性」や「合理性」だけを問うならば「独裁」もまたけして他の手法に劣る物ではなく、このような「実効性」や「合理性」といった価値観が他を差し置いて第一義として認識されれば、それもまた魅力的に見えるに違いない。
ただそのような状態になっても(金正日総書記やフセイン元大統領を引き合いに出すまでもなく)その内部では誰もそれを「独裁」と言う言葉では表現しないからそれが多くの人にとって悪名高い「独裁」だとは認識されない可能性は考慮されるべきだと思う。


その一方で、私は以前「党の存在意義」で触れたように、逆に党の枠を緩め流動性を持たせ、個々の課題に対し、国民の代表である代議士の個々の価値観に従う事を可能にする方向にももう一つの糸口を見出せるような気がするのだ。


私は自民党一党支配がこれ以上長く続く事を望んでいない。
民主党に政権が移動しそれに固定してしまうのも嬉しくない。
党の政権維持にのみ固執した流動性の無い2大政党制も結果的に国民の選択可能性を狭めそうなので躊躇がある。
かといって小党が乱立するのもどうかと思う。

でも、超党派に対して寛容であるならば、2大政党制でも魅力を感じる。

もしそうならば夫々の党内に多様な価値観を持つ人々が同居していても構わない。
いや、むしろ様々な価値観を同居させて欲しい。
選挙で公約した個々の議員は自らの理念に忠実に、そして党の枠に囚われることなく政策ごとに自在に政策グループ間を移動してはいかがだろう。

党是を建前にした「自らの道理・理念を押殺した」中身の無い議論などはいらない。
妥協するなら党是に左右されるより、進んで自らの道理・理念に「より近い者」と妥協し、取引して、その姿をあからさまに見せてほしい。
信念に基づいた身内意識を超えた熱い議論を見せてほしい。
密室ではなく、国会でその姿を見せてほしい。
どうしても国民の目に触れさせる事ができない物ならば、党是よりも道理・理念にしたがって泥を被ってほしい。
党是と理念に苛まれたなどと言って棄権せず、躊躇なく理念にしたがって「賛成」「反対」を明確に表明して欲しい。
党の存続に寄与する為だけの「議員であるだけの議員」は淘汰されてもいいだろう。
そのような政治家の姿によって国民を啓蒙し、影響を与える事で議員の座を維持して欲しい。

それにより議員が何を約束し、それに対して実際に何をし、何に対し責任を持つか、議員そのものの顔が良く見えてくる。
顔が見えてくれば、差別化が可能になり、それが選挙での選択肢に繋がる。

選挙においては党は共有できる範囲での大枠の理念(傾向程度)で選択され、個々の議員は個々の議員の理念,実績で選択される。
こんなことが可能で、流動性によりそのいずれもが生かされるならそれに越した事は無い。

これまでのように一党支配なら「政策実現に加わる権利」が個々の理念遂行の足かせにもなるだろうが、流動的である事が可能ならばその影響も少しは緩和されるだろう。
党の枠をはみ出る事を「裏切り」と言えば印象悪いが、支持者を裏切る事よりそれが優先されると言う事も無いと思う。


今の現実を見ても民主党のある人が同じ党内の人よりも、自民党のある人に近い人といったケースは少なくない。
逆もしかりだ。
ヨーロッパ的社民思想(修正資本主義的)の持ち主は民主党に限らず、自民党にも存在する。
外交政策、経済政策、憲法問題、など個々について色分けしていけば、「入り乱れ状態」こそが現実なのではなかろうか?
そのような多様性が現実に存在するにも拘わらず、党議拘束のような「日本」を忘れた狭い思念(党利)で議論を形式化し、合理性を疎外して曖昧な結論を生み出しつづけているのが「今の姿」なのではなかろうか?

いずれにしても、今のような酷い状況でも国が成り立っているのだから、仮に超党派を容認し流動化が促進されても、今より収集が付かなくなるような事も無いのではなかろうか。

と素人はつらつらと無い頭を絞って考えるのである。

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