つぶやき
今日は「アチラ側」に行ってつぶやいてきます。
「梅雨の合間の青空は綺麗だなぁ。」
「ああ、うきうきしてくるよなぁ。」
共感以外、何も生みはしないのだが,なんてことない会話に小さな喜びがある。
「でも、露に濡れたアジサイも趣があるから梅雨もまんざらでもないよ」
なんて言ってみても良い。
(文学的才能はゼロなのでその点はご容赦)
でも認識論のように厳密な正しさを問題にすると
同じ青空を見ていても、「私」が見ている青空の「青」と相手が認識している「青」が同じ物である保証など無い....なんて事になる。
もしかすると相手に乗り移って青空を見てみたら「緑空」だったなんてことがあるかもしれない。
ひっそりとたたずむアジサイの「紫」や「淡いピンク」もまた人により別の認識をしているかもしれない。
恐らく相手も同じ色を同じように認識してくれているのだろうと思ってはいるものの、それを確かめる術は実は(少なくとも今は)無い。
科学的に光の波長を計ってみてもそれが「同じように認識している」という証拠にもならない。
「共感」に喜びを感じても、実はそれは「幻想である」なんていわれてしまうかもしれない。
そこに囚われてしまっては何とも味気ない。
実際には「違う可能性もある」、「確認できない」というだけのことでしかないのだが、人の生み出した「認識論」の成果により、この小さな齟齬により「誤解」が生じる「可能性」が無いわけではないことになってしまった。
安全の為に「誤解」が起きる可能性に必要以上に「注目」するならば「疑い」を持たなければならない。
こうして、シンプルな共感による喜びはそこで「厳密な正確さ」の為に、損なわれてしまうことになる。
科学は論理を携えて「分からない事」を知ろうと試み、実際にそれを解明はしていくのだが「分からない事」は逆に増えていくような気がする。
(科学的な論理を取り入れた哲学もまたそうではないだろうか?)
科学で発見された事象の先に「新たな疑問」をもたらさない発見があるのだろうか?
実際には、新たな発見はその先にさらに多くの「新たな疑問」を我々に投げかける。
科学は「認識」だともいえるかもしれない。
発見する以前にもその原理や現象などは存在していたはずだが、それが人にとって意味を持って認識されていなかっただけ。
考え様によっては、科学はこの世の万物を人が認識しようとする壮大で無謀な試みであると言ってもいいのかもしれない。。
解明すると言う事は「認識する」ことで、そのいずれもが「厳密な正確さで断定できない」可能性を有するとするならば、それによって生ずる「小さな齟齬」もまた「分からない事」と同様増えつづけそうである。
もしそうであるならば、やはり謙虚でありたいと思う。
知識(認識)が増えても、「知らない事」や「疑問」はそれ以上の勢いで増える事に対して。
それに伴って増加する「齟齬」に対して。
そして何より、人は「知りたい」という本能を満たす事に喜びを感じ、その本能に抗う事ができないからそれを求めているに過ぎないのに、それによって万物の未知を支配しているような錯覚に陥りがちな事に対して。
既知にだけ注目すれば傲慢にもなろうが、未知に注目すれば謙虚にならざるを得ない。
その謙虚さがあれば「青空」にも「アジサイ」にも感動し、その喜びを人と共感しつづける事ができるのではないだろうか?
そうすれば、ちょっとばかり幸せになりそうな気がしてくるのだ。
つぶやき 終わり
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コメント
こんにちは。
このところの雨、雨、雨。
洗濯物の中でうんざりしていました^^;
昨日は久しぶりの晴れ間。
感慨、感嘆することもなく「それ〜〜〜〜」とばかりに洗濯。
空を見上げながら「今日は大丈夫か?」とそればかり^^;
FAIRNESSさんの記事を拝見して、恥ずかしくなったりして、、、
そうですよね。
梅雨の合間に見せる空の青は、それだけでウキウキしてきます。
葉っぱに丸まっている水滴はまるで万華鏡のように虹色に輝いています。
あじさいは、本当に梅雨には似つかわしい。
そして、そんなあじさいから更に世界は広がり宇宙は深まっていくような、素敵な記事に考えること大でした。
大自然の前に、あまりに小さな人類。
そんな人類が限りなく愛しい。
と、思いながら読ませていただきました。
投稿: せとともこ | 2005/07/06 10:07
瀬戸さん こんばんは
>葉っぱに丸まっている水滴はまるで万華鏡のように虹色に輝いています。
このような表現がすらっと出てくるところが「瀬戸さんならでは」ですよね。
これを見ると,つい本文に手を加えたくなってしまいます。(笑)
瀬戸さんの郵政関連のエントリーも拝見しています。
介護保険改正法案にしてもそうでしたが、国会の答弁では「青空」について話すのに、夫々が同じものを見ながらも「緑空」や「黄空」や「赤空」と全く違う物を認識し、前提としながらかみ合わないコミュニケーションを繰り返している様な気がしてきます。
といってもこの場合はそれ以前に、「意識して色眼鏡をかけている」ようなところが有って、あえて裸眼で「青空」についてコミュニケーションを取ろうとする気がそもそもないように見えてしまいます。
国会討論から見えるのは「曇り空」だけでなんともやり切れません。
無理やりエントリーにこじつけてしまいました。
でも、このエントリーは前提を共有できない昨今のディスコミュニケーション状況を頭の片隅に浮かべながら書いたのであながち無縁ではないのですが...
投稿: FAIRNESS | 2005/07/07 02:54
こんにちは
トラックバックだけしておいて、コメントがおそくなりました。すみません。
「意識して色眼鏡をかけている」というのは、なるほどと思いました。我らが首相は、国会の答弁でもよく「あなたと私では考え方が違う」などと答弁することがあります。これこそ「前提を共有できない昨今のディスコミュニケーション状況」そのもの。
物の見方が違うから認識に共通点がないのは仕方がないのだという詭弁。ネットでの罵詈雑言も同様。
またテロが起きました。
真実が見える目がほしい。
なにか、普遍的な、共有できる法則があるはずだと考えたいものです。傲慢なのかもしれませんが、
共有できる原則と思ったものが、ときには新しい事実の発見が前提を覆し、否定し、混沌を生むかもしれません。しかし、科学は宗教ではないので、新たな認識の地平はその先に見えてくると思うのです。
投稿: Rough Tone | 2005/07/08 07:47
RoughToneさん こんばんは
どこにTB、コメントしようか迷ってました。
ありていですが、私は科学はやはり諸刃の剣だと思います。
それに対する姿勢によってどちらの面も見せるような気がします。
既知にだけ注目すれば傲慢・・・
と書きましたが、解明された既知が全てではなく、まだ解明されない(将来科学的に解明されるかも知れない)未知に、もっと妥当な物があるのかもしれないと言う大いなる(無限の)可能性に目を向けない事に「傲慢」が有ると感じてこんな表現をしました。
「分かろうとしながらも増えつづける分からない事」は一見「絶望感」や「無力感」や「無意味」を連想してしまいそうですが、同時にこれは人が生きる「糧」、「可能性」,「希望」でもあるはずです。
それが減る事はないということは「だから人はこれからも生きていける」と考えても別段不都合もなさそうです(都合よすぎますが...)。
RoughToneさんが仰った
>新たな認識の地平はその先に見えてくると思うのです。
は「既知」に謙虚に、そして「未知」の膨大さを素直に受け止められるからいえるのではないでしょうか?
青空の色を互いに認識し合えないから「感動・共感」を失う
考えが違うからコミュニケーションは無意味
などの「既知」から来る縛りも、「コペルニクス的転換」で変わってしまう可能性は大いに有って、未知を素直に受け止めようとすればするほどほど、むしろその可能性は無限に広がっているのではという方に一票を投じたくなります。
感覚系の発想なのでその点ご容赦ください。
投稿: FAIRNESS | 2005/07/08 21:08