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2005/07/06

つぶやき

今日は「アチラ側」に行ってつぶやいてきます。


「梅雨の合間の青空は綺麗だなぁ。」
「ああ、うきうきしてくるよなぁ。」
共感以外、何も生みはしないのだが,なんてことない会話に小さな喜びがある。

「でも、露に濡れたアジサイも趣があるから梅雨もまんざらでもないよ」

なんて言ってみても良い。
(文学的才能はゼロなのでその点はご容赦)


でも認識論のように厳密な正しさを問題にすると
同じ青空を見ていても、「私」が見ている青空の「青」と相手が認識している「青」が同じ物である保証など無い....なんて事になる。

もしかすると相手に乗り移って青空を見てみたら「緑空」だったなんてことがあるかもしれない。
ひっそりとたたずむアジサイの「紫」や「淡いピンク」もまた人により別の認識をしているかもしれない。

恐らく相手も同じ色を同じように認識してくれているのだろうと思ってはいるものの、それを確かめる術は実は(少なくとも今は)無い。
科学的に光の波長を計ってみてもそれが「同じように認識している」という証拠にもならない。
「共感」に喜びを感じても、実はそれは「幻想である」なんていわれてしまうかもしれない。

そこに囚われてしまっては何とも味気ない。


実際には「違う可能性もある」、「確認できない」というだけのことでしかないのだが、人の生み出した「認識論」の成果により、この小さな齟齬により「誤解」が生じる「可能性」が無いわけではないことになってしまった。

安全の為に「誤解」が起きる可能性に必要以上に「注目」するならば「疑い」を持たなければならない。

こうして、シンプルな共感による喜びはそこで「厳密な正確さ」の為に、損なわれてしまうことになる。


科学は論理を携えて「分からない事」を知ろうと試み、実際にそれを解明はしていくのだが「分からない事」は逆に増えていくような気がする。
(科学的な論理を取り入れた哲学もまたそうではないだろうか?)
科学で発見された事象の先に「新たな疑問」をもたらさない発見があるのだろうか?
実際には、新たな発見はその先にさらに多くの「新たな疑問」を我々に投げかける。


科学は「認識」だともいえるかもしれない。
発見する以前にもその原理や現象などは存在していたはずだが、それが人にとって意味を持って認識されていなかっただけ。
考え様によっては、科学はこの世の万物を人が認識しようとする壮大で無謀な試みであると言ってもいいのかもしれない。。
解明すると言う事は「認識する」ことで、そのいずれもが「厳密な正確さで断定できない」可能性を有するとするならば、それによって生ずる「小さな齟齬」もまた「分からない事」と同様増えつづけそうである。

もしそうであるならば、やはり謙虚でありたいと思う。
知識(認識)が増えても、「知らない事」や「疑問」はそれ以上の勢いで増える事に対して。
それに伴って増加する「齟齬」に対して。
そして何より、人は「知りたい」という本能を満たす事に喜びを感じ、その本能に抗う事ができないからそれを求めているに過ぎないのに、それによって万物の未知を支配しているような錯覚に陥りがちな事に対して。

既知にだけ注目すれば傲慢にもなろうが、未知に注目すれば謙虚にならざるを得ない。
その謙虚さがあれば「青空」にも「アジサイ」にも感動し、その喜びを人と共感しつづける事ができるのではないだろうか?
そうすれば、ちょっとばかり幸せになりそうな気がしてくるのだ。

つぶやき 終わり

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