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2005/06/02

凡庸

BigBangさんが凡庸に対する怒りを搾り出していた。
初めて、一つのエントリーに向けてTB用のエントリーを書いてみようと思う。


この文章を読んで、以前「内にある矛盾」を書いた時の心情を思い出す。
自己責任などを考えた時の抑制と自由を思い出す。
これまで書いたエントリーの断片が頭を掠める。

考えてみればこれまで書いたエントリーでいつもこのあたりと格闘しているような気がする。
どうしたら私自身の中で整合性を付けるか、どう処理するか。
処理すべき物なのか、そのまま受け入れるべき物なのか。

このあたりまで来るとBigBangさんのエントリーとは離れてしまうのだが、私の中の何かのトリガーを引くような文章だった。

何をきっかけに凡庸をイメージするかは違うと思うけど、BigBangさんは戦後日本や日中関係を置いている。
そのことを直接考えればいろいろ思う事はある。
・戦勝国には凡庸は訪れないのか(いや訪れるだろう)とか
・明確な勝敗など有りうるのか(いやないだろう)とか
・凡庸をもたらす抑制や卑怯を取り払ったならば凡庸を振り払う事ができるのか(いやできないだろう)とか

でも、それは大した問題ではない事も分かる気がする。(あくまで気がするだけだが)
凡庸を振り払う事ができなくとも、振り払おうとする事(過程、行為)そのものに絶大な誘惑がある。
そこにもまた(愚かだと言われようと)人らしさ、何か失いがたき物、生きている証・・・言葉にすると違う物になってしまうがそのような物が有るように感じる。

このことを考えると色々な事に話が広がってしまう。

そんな思いの中でも、あえてBigBangさんのエントリーに記された物に「限定」し、かろうじて、考えるならば。

「卑怯」は「平和」の中にもあるが「戦争」にも有る。
「凡庸」は「平和」の中にもあるが「戦争」の中にもある。

「平和」の中にいて「平和」と戦う事。
「平和」の中にいて「平和」の為に戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」と戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」の為に戦う事。

これらを放棄したところに凡庸があるのではないか。
そのいずれにも本気でコミットしてこなかった数十年に凡庸を見るのではないか。

身に降りかかる不幸や損失を覚悟できない事に対する後ろめたさ、恐れ、保身、迎合・・・・

凡庸に対する怒りは状況に拠るのではなく、むしろ状況への対し方にあるのではないか。

「今」凡庸に甘んじる姿を見るならば、武器を持った戦いの中でもまた凡庸な役割しか演じられないのではないか。
その場合、その対極が実感できないから、凡庸を振り切る事ができるような気がするのではないか。
武器を持つことを決意した一瞬間だけ凡庸を離れ、また次の瞬間凡庸に埋没するのではないか。

自身の凡庸に対する苛立ちは自身の中にある凡庸への苛立ちで、対象は二次的なものなのではないか。
でも、これは私の事。

プラグマティックな世界では考える必要すら無いのかもしれないが、だからこそ立ち止まりたくなる。

BigBangさん BigBangさんの伝えたかった事とずれているかもしれません、もしそう感じられたらご容赦ください。

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コメント

Fairnessさん、お久しぶりです。
TBと、そして記事は、私にとって身に染み渡るようなものでした。

少し考えてみたいと思います。

また・・

投稿: BigBan | 2005/06/02 17:27

BigBangさん おはようございます。
ここに書いたような単純なものでない事は判っているつもりなのですが、同じような苛立ちをもつ身として自分の中にある何かを吐き出さずにいられなかったと言うのが本当のところです。
私の自分の苛立ちに対するささやかな抵抗にすぎないので、(後から読んで思ったのですが)エントリーから読み取れる押し付けがましさは許してください。

投稿: FAIRNESS | 2005/06/03 09:56

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