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2005/06/28

最悪を想定する事

最近「リスク管理」的に「最悪を想定」するのも良し悪しだななどと思う事がある。
物を対象にして「科学的」な手法で「最悪」を想定する事にはそれほど違和感を感じないのだが、「安全保障」などを考えたときなどにそれを強く感じる。

たとえば、BSE問題(公共交通機関の安全問題などもそうだが)などを想定した場合、トコトン「最悪を想定」しても基本的に「(異常プリオンなどの)問題の対象」そのものが、それにより「変質」してしまう事はないのだが、「安全保障」で「最悪を想定」した場合、その「最悪を想定した」事により「対象」(例えば仮想敵国)そのものがそれに呼応して「変質」していく。
その変質の仕方がまた「予想」しにくいと来ているから性質が悪い。
前者は最悪を想定すればするほど、少なくとも「安全への選択肢」を増やすことに繋がるとは思うのだが,後者は一概にそうとも思えない。
場合によっては「最悪を想定」すればするほど「危険への選択肢」を増やしてしまうような気がしてくるのだ。
典型的な例は冷戦時代の米ソだろう。
互いに「安全」の為に「最悪」に備えることで、実際に増したのは「危険」だったのではなかろうか。
戦争や紛争の多くもそうだろう。
最悪を想定する事で「安全」が指の隙間から零れ落ち,「逃げ水」のように逃げていく。


仕事などを通じて「リスク管理」の重要性を肌で感じたり,社会生活で「リスク管理」の必要性を悟ったり、政府の対応(内政)を見て「リスク管理」の欠落を憂いたりする事は多い。
大抵の場合、それは合理的で有用であるのだと思う。
だから、それをどの対象に当てはめても有用と思いがちなのは私も同じだが、やはり何か違うような気がしてくる。


最悪を想定して防犯を高める。
最悪を想定して厳罰を求める。
最悪を想定して人を疑って掛かる。
なども、似たようなところがあるように感じる。

余談だが,浅学の私には哲学的な論理的思考で、真理に近付いたと言われても、そこにある思考すべき対象は、思考前の対象とは既に別物(思考の結果に「囚われた」現在の思考すべき対象)に変質し、ただそれがそこに横たわっているだけで(それだけならまだしも),ふと気がつくと人の本質とは益々隔たったところにそれが立っているような錯覚に陥る事がある。
囚われが増え、求めるものは逃げていく。
これも「逃げ水」のようだ。

それはさておき、一体何が違うのだろう。
「人」が対象としてそこにあり、「恐れ」「不信」がそこに介在している事だろうか?
それとも突き詰めれば同じなのだろうか?
もう少し足りない脳みそで「逃げ水」を追ってみたい。

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