« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »

2005/06/29

ブラックゴースト団

ブラックゴースト団
これは私が子供の頃夢中になって読んだ「サイボーグ009」に出てくる「主体」の知れぬ「死の商人」。
主体の知れないことは子供心に釈然としなかったのを覚えているが、今思えば「そうある必然性」も何となく理解できる。

様々な「負の事情」を持つ多国籍の若者が、彼らブラックゴースト団により拉致もしくは勧誘され様々な戦闘能力を備えた戦争の為のサイボーグ戦士として作り出される。
その彼らが、ブラックゴースト団を裏切り、彼らと戦うと言う物語だ。
主人公のジョーこと009も少年院出身、ジェットこと002はウェストサイドストーリに出てくるようなギャングのリーダーだったと思う。
001(赤ん坊のイワン)と003(女性のフランソワーズ)以外はどちらかと言えば見捨てられた者ばかり。

NHKスペシャル「戦争請負人」の再放送を見ながら、ぼんやりこの昔のコミックの事を思い出していた。
子供の頃に読んだ「作り話」としてのストーリーが、なんとも「リアル感」を持って現れてきたような感覚と言ったら言いのだろうか。(今思えば当時から見る人が見ればリアル感を持ってみていたのかもしれないが)

後半の途中から見たのでイラクに派遣される南アフリカの「請負人」たちの話しである。
傭兵の話を発端に戦争ビジネスの話は出てくるが「ニュース」のような物でこのようなものは出てこないので見ようと思わなければ目にしない。
イラク戦争ではアメリカ正規軍の死傷者はカウントされ注目されても彼ら「請負人」達が注目されることも少ない。
ついでに言えば軍法会議もない「請負人」たちにより殺されたイラク人のことも当然のように注目される事はない。

背景には「アパルトヘイト」廃止後の職を失った白人たちの困窮があるようだ。
南アフリカではこれまで虐げられてきた黒人の復権の影で、それまで定職を持ち文化的な生活を送ってきた白人たちの失業・困窮がある。
ここに出てきた白人たちはある程度まともな住まいに住んでいるところを見ると、まだまだバラックのようなところに住む多くの黒人の困窮よりはましだとは思うのだが、これまでの生活との格差からみれば別の意味での「困窮」はやはり「深刻」なのだろう。
同様に経済生活に組み込まれ囚われた私には想像可能である。
貨幣による経済生活からもともと疎外された人々と、どっぷり組み込まれた人々とではそれを絶対的な「持つ持たない」だけでその「度合い」を比較する事もできない。
「生きるため」といいながら「なりふり構わぬ」ものというより「経済生活を成り立たせる為」に「命」をリスクとしてかけているような印象もあり、その部分にも思うところはあるが、本当のとことは分からないのでそれは今は触れない。

ここでは元軍人、元警官がイラクでの警護の仕事を請け負っており、現職警官(?)も休暇を利用して派遣されたりもしているようだ。
それを斡旋するのは「企業」であり、これも元軍人がかかわっているという。
立派な資本主義経済の中の一部である。
扱う物が「人」であり、付加価値は「命のリスク」、「その安さ」が競合差別化の要因、それを調達(供給)する事ができる条件がそこにあり、その市場(需要)が「イラク」にあることが「ビジネスチャンス」となって、資本主義的な市場原理が働き、成り立っている。
「倫理観」や「人の命の重さ」といった理性が生んだ「不純物」を取り払った誠に分かりやすい「純粋な」市場原理が働いている。

ドキュメンタリーの中では派遣された夫を失った家族、後遺症を負った「元請負人」がでてくるのだが、それを後悔するのは彼らだけ。
保険の利かないリスクに呆然とするのも、後遺症を負ってこの仕事の酷さを知るのも彼らだけ。
経済生活の危機にある者は、その他のお金を持って無事に帰ってくる「請負人」だけを自分に重ね合わせ、市場に「労働」と「命のリスク」を提供しつづける。

そこに見るのは「したいからする」というよりは「せざろう得ないからする」姿。
「勝ち組みとなった少数の元軍人・警官  と  負け組みになった多くの元軍人・警官」の物語。

確かに、本当の飾り気のない市場原理がそこで働き、現存する。
一見すると「混乱」でしかない状況の中に「整然」と現存する。

日本もそれを目指すのだろうか?
その気配はある。

私はいつまでもブラックゴースト団を「悪」にしておきたいのだが、もう「悪」としては成り立たないようだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/06/28

最悪を想定する事

最近「リスク管理」的に「最悪を想定」するのも良し悪しだななどと思う事がある。
物を対象にして「科学的」な手法で「最悪」を想定する事にはそれほど違和感を感じないのだが、「安全保障」などを考えたときなどにそれを強く感じる。

たとえば、BSE問題(公共交通機関の安全問題などもそうだが)などを想定した場合、トコトン「最悪を想定」しても基本的に「(異常プリオンなどの)問題の対象」そのものが、それにより「変質」してしまう事はないのだが、「安全保障」で「最悪を想定」した場合、その「最悪を想定した」事により「対象」(例えば仮想敵国)そのものがそれに呼応して「変質」していく。
その変質の仕方がまた「予想」しにくいと来ているから性質が悪い。
前者は最悪を想定すればするほど、少なくとも「安全への選択肢」を増やすことに繋がるとは思うのだが,後者は一概にそうとも思えない。
場合によっては「最悪を想定」すればするほど「危険への選択肢」を増やしてしまうような気がしてくるのだ。
典型的な例は冷戦時代の米ソだろう。
互いに「安全」の為に「最悪」に備えることで、実際に増したのは「危険」だったのではなかろうか。
戦争や紛争の多くもそうだろう。
最悪を想定する事で「安全」が指の隙間から零れ落ち,「逃げ水」のように逃げていく。


仕事などを通じて「リスク管理」の重要性を肌で感じたり,社会生活で「リスク管理」の必要性を悟ったり、政府の対応(内政)を見て「リスク管理」の欠落を憂いたりする事は多い。
大抵の場合、それは合理的で有用であるのだと思う。
だから、それをどの対象に当てはめても有用と思いがちなのは私も同じだが、やはり何か違うような気がしてくる。


最悪を想定して防犯を高める。
最悪を想定して厳罰を求める。
最悪を想定して人を疑って掛かる。
なども、似たようなところがあるように感じる。

余談だが,浅学の私には哲学的な論理的思考で、真理に近付いたと言われても、そこにある思考すべき対象は、思考前の対象とは既に別物(思考の結果に「囚われた」現在の思考すべき対象)に変質し、ただそれがそこに横たわっているだけで(それだけならまだしも),ふと気がつくと人の本質とは益々隔たったところにそれが立っているような錯覚に陥る事がある。
囚われが増え、求めるものは逃げていく。
これも「逃げ水」のようだ。

それはさておき、一体何が違うのだろう。
「人」が対象としてそこにあり、「恐れ」「不信」がそこに介在している事だろうか?
それとも突き詰めれば同じなのだろうか?
もう少し足りない脳みそで「逃げ水」を追ってみたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/06/02

凡庸

BigBangさんが凡庸に対する怒りを搾り出していた。
初めて、一つのエントリーに向けてTB用のエントリーを書いてみようと思う。


この文章を読んで、以前「内にある矛盾」を書いた時の心情を思い出す。
自己責任などを考えた時の抑制と自由を思い出す。
これまで書いたエントリーの断片が頭を掠める。

考えてみればこれまで書いたエントリーでいつもこのあたりと格闘しているような気がする。
どうしたら私自身の中で整合性を付けるか、どう処理するか。
処理すべき物なのか、そのまま受け入れるべき物なのか。

このあたりまで来るとBigBangさんのエントリーとは離れてしまうのだが、私の中の何かのトリガーを引くような文章だった。

何をきっかけに凡庸をイメージするかは違うと思うけど、BigBangさんは戦後日本や日中関係を置いている。
そのことを直接考えればいろいろ思う事はある。
・戦勝国には凡庸は訪れないのか(いや訪れるだろう)とか
・明確な勝敗など有りうるのか(いやないだろう)とか
・凡庸をもたらす抑制や卑怯を取り払ったならば凡庸を振り払う事ができるのか(いやできないだろう)とか

でも、それは大した問題ではない事も分かる気がする。(あくまで気がするだけだが)
凡庸を振り払う事ができなくとも、振り払おうとする事(過程、行為)そのものに絶大な誘惑がある。
そこにもまた(愚かだと言われようと)人らしさ、何か失いがたき物、生きている証・・・言葉にすると違う物になってしまうがそのような物が有るように感じる。

このことを考えると色々な事に話が広がってしまう。

そんな思いの中でも、あえてBigBangさんのエントリーに記された物に「限定」し、かろうじて、考えるならば。

「卑怯」は「平和」の中にもあるが「戦争」にも有る。
「凡庸」は「平和」の中にもあるが「戦争」の中にもある。

「平和」の中にいて「平和」と戦う事。
「平和」の中にいて「平和」の為に戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」と戦う事。
「戦争」の中にいて「戦争」の為に戦う事。

これらを放棄したところに凡庸があるのではないか。
そのいずれにも本気でコミットしてこなかった数十年に凡庸を見るのではないか。

身に降りかかる不幸や損失を覚悟できない事に対する後ろめたさ、恐れ、保身、迎合・・・・

凡庸に対する怒りは状況に拠るのではなく、むしろ状況への対し方にあるのではないか。

「今」凡庸に甘んじる姿を見るならば、武器を持った戦いの中でもまた凡庸な役割しか演じられないのではないか。
その場合、その対極が実感できないから、凡庸を振り切る事ができるような気がするのではないか。
武器を持つことを決意した一瞬間だけ凡庸を離れ、また次の瞬間凡庸に埋没するのではないか。

自身の凡庸に対する苛立ちは自身の中にある凡庸への苛立ちで、対象は二次的なものなのではないか。
でも、これは私の事。

プラグマティックな世界では考える必要すら無いのかもしれないが、だからこそ立ち止まりたくなる。

BigBangさん BigBangさんの伝えたかった事とずれているかもしれません、もしそう感じられたらご容赦ください。

| | コメント (2) | トラックバック (2)

« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »