いつもそう
先日米軍の大規模掃討作戦のニュースがあった。
その前にはテロの激化のニュースがあった。
そして今日も
自爆テロのニュースがあり
それとほぼ同時に
スンニ派政党党首の誤認逮捕と言うニュースが流れる。
今の米軍が何を好き好んで批判を受けるような誤認逮捕をする必要があるのか?
そんな思惑はどう考えても無かったと思う。
したくは無くとも起こってしまったのである。
つい、この間まで米国内で大問題になっていたNewsWeekのコーランをトイレに捨てたと言う記事
これは、誤報であると言う扱いになっているが、その実それを否定する当局のコメントが有ったわけでは無く、有ったとも無かったとも曖昧なままだ。
仮に有ったとしても、もちろん、この時期に米国が望む物ではないはず。
でも、有ったと言っても「さもありなん」と受け止めてしまう状況があることは否定できない。
それは、アブグレイブがあり、イタリア人記者の誤射があり,武装勢力の攻撃激化があり、現場の米軍兵士の緊張や苛立ちが充分予想できる状況では、そのような行為(コーラン事件)があっても不思議ではないと思うからだ。
常に死ぬか生きるかの現実の中で、どれだけ全ての兵士に「的確な理性」を期待することができるのか?
(真偽は不明なれど)起こりそうなことが報道され、それにより望みもしない反発が起こる。
統治側に思惑は無くとも、自爆攻撃が続き不安が募れば、治安を取戻す為に強攻策を採らざるを得ない状況に陥り、その強化された取締りの中でスンニ穏健派政党党首の誤認逮捕というような事件が起こる。
益々反感は増し、後に引く事ができない為に放置もできず、(米軍にとっては)さらに強攻策を「採らざるを得ない」のだが,それは相手には理解されない。
一方は理解されない事に苛立ちを募らせ、一方は傲慢さに怒りを募らせる。
「理解せよ」と言う事が如何に人にとって非現実的であるかに何故か「リアリスト」は目を向けようとはせず、そこだけは理想主義者になってしまう。
いつか、どちらかが疲れ果て、それまでに蓄積された膨大な恨みを転化できるだけの「諦め」や「悲しみ」が醸成されるまで悲劇を繰り返さなければ、収束しないのだろうか。
(収束しても一度生み出された「膨大な恨み」は影を潜めるだけで,時が経てば「歴史」として亡霊のように違った世代でよみがえるようだが。)
多くの人はそこに至って、初めてその「愚かさ」に気付くのだろうか?。
かつての日本のように、そのときになって初めて「間違いであった」と思うのであろうか?
恐らく満州事変・日中戦争における日本軍の状況にも似たような物があったのだろう。
虐殺と言われる物が一般人のものなのか民兵の物なのかは判らないが、(日本にとって)反発を抑える為に強攻策を「採らざるを得なく」なった状況は充分すぎるほど予想できる。
(実数はともかく)異常な状況の中で行き過ぎが無かったと信じる事にむしろ無理を感じる。
今のイラク北・西部で米軍が陥っている状況を見れば見るほどその状況が目に浮かぶ。
日本軍が必ずしも中国人の殺害を意図せずとも、『せざるを得ない』と思いながら「行なわれた」のではないのか?
その「せざろう得ない」と言う理屈が『理解されるべき』で『正当』だと思っていながら「なされた」のではないか?
今もまだそれが「理解されない」ことに苛立ちを持っているのではないか?
日本にとって「日本がそれを必要とした理窟」であろうとも、それを「理解せよ」と言う事がどういうことなのか、それも今の米軍の苦境を見ればよく分かる。
日本の「正当性」が「日本に影響を与える相手」の行動を決めるわけではない。
望んだ理想があろうとも、争いの中で「人である事」の現実がそれを捻じ曲げてしまう。
それが紛争や戦争なのだと思う。
今も、どんなに立派な国家像を掲げ強攻策を口にし、それに心地よさを感じても、それが何らかの些細な間違いで争いに一歩でも足を踏み込めば「現実」の前にそれは捻じ曲げられ二の次に成り下がってしまうのだろう。
現実の前に『理想』も『立派な国家像』も後回しとなり手段は選べなくなり,それが好むと好まざるとに関わらず歴史の汚点として付きまとう。
そして、争いがおこるまでは相手が「どこかで引く」ことを当てにして、そこだけ根拠の無い『信用』をしているのだからなんとも我侭な話ではないか?
現実に対しての抵抗が難しいと自覚するならばするほど,修正ができる間に、その現実に陥らないように細心の注意を払わなければいけないのではないかと私は思うのだが...
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