« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »

2005/05/31

いつもそう

先日米軍の大規模掃討作戦のニュースがあった。
その前にはテロの激化のニュースがあった。

そして今日も
自爆テロのニュースがあり
それとほぼ同時に
スンニ派政党党首の誤認逮捕と言うニュースが流れる。

今の米軍が何を好き好んで批判を受けるような誤認逮捕をする必要があるのか?
そんな思惑はどう考えても無かったと思う。
したくは無くとも起こってしまったのである。

つい、この間まで米国内で大問題になっていたNewsWeekのコーランをトイレに捨てたと言う記事
これは、誤報であると言う扱いになっているが、その実それを否定する当局のコメントが有ったわけでは無く、有ったとも無かったとも曖昧なままだ。
仮に有ったとしても、もちろん、この時期に米国が望む物ではないはず。
でも、有ったと言っても「さもありなん」と受け止めてしまう状況があることは否定できない。

それは、アブグレイブがあり、イタリア人記者の誤射があり,武装勢力の攻撃激化があり、現場の米軍兵士の緊張や苛立ちが充分予想できる状況では、そのような行為(コーラン事件)があっても不思議ではないと思うからだ。
常に死ぬか生きるかの現実の中で、どれだけ全ての兵士に「的確な理性」を期待することができるのか?
(真偽は不明なれど)起こりそうなことが報道され、それにより望みもしない反発が起こる。

統治側に思惑は無くとも、自爆攻撃が続き不安が募れば、治安を取戻す為に強攻策を採らざるを得ない状況に陥り、その強化された取締りの中でスンニ穏健派政党党首の誤認逮捕というような事件が起こる。

益々反感は増し、後に引く事ができない為に放置もできず、(米軍にとっては)さらに強攻策を「採らざるを得ない」のだが,それは相手には理解されない。
一方は理解されない事に苛立ちを募らせ、一方は傲慢さに怒りを募らせる。

「理解せよ」と言う事が如何に人にとって非現実的であるかに何故か「リアリスト」は目を向けようとはせず、そこだけは理想主義者になってしまう。
いつか、どちらかが疲れ果て、それまでに蓄積された膨大な恨みを転化できるだけの「諦め」や「悲しみ」が醸成されるまで悲劇を繰り返さなければ、収束しないのだろうか。
(収束しても一度生み出された「膨大な恨み」は影を潜めるだけで,時が経てば「歴史」として亡霊のように違った世代でよみがえるようだが。)
多くの人はそこに至って、初めてその「愚かさ」に気付くのだろうか?。
かつての日本のように、そのときになって初めて「間違いであった」と思うのであろうか?


恐らく満州事変・日中戦争における日本軍の状況にも似たような物があったのだろう。
虐殺と言われる物が一般人のものなのか民兵の物なのかは判らないが、(日本にとって)反発を抑える為に強攻策を「採らざるを得なく」なった状況は充分すぎるほど予想できる。
(実数はともかく)異常な状況の中で行き過ぎが無かったと信じる事にむしろ無理を感じる。
今のイラク北・西部で米軍が陥っている状況を見れば見るほどその状況が目に浮かぶ。
日本軍が必ずしも中国人の殺害を意図せずとも、『せざるを得ない』と思いながら「行なわれた」のではないのか?
その「せざろう得ない」と言う理屈が『理解されるべき』で『正当』だと思っていながら「なされた」のではないか?
今もまだそれが「理解されない」ことに苛立ちを持っているのではないか?
日本にとって「日本がそれを必要とした理窟」であろうとも、それを「理解せよ」と言う事がどういうことなのか、それも今の米軍の苦境を見ればよく分かる。
日本の「正当性」が「日本に影響を与える相手」の行動を決めるわけではない。

望んだ理想があろうとも、争いの中で「人である事」の現実がそれを捻じ曲げてしまう。

それが紛争や戦争なのだと思う。

今も、どんなに立派な国家像を掲げ強攻策を口にし、それに心地よさを感じても、それが何らかの些細な間違いで争いに一歩でも足を踏み込めば「現実」の前にそれは捻じ曲げられ二の次に成り下がってしまうのだろう。
現実の前に『理想』も『立派な国家像』も後回しとなり手段は選べなくなり,それが好むと好まざるとに関わらず歴史の汚点として付きまとう。

そして、争いがおこるまでは相手が「どこかで引く」ことを当てにして、そこだけ根拠の無い『信用』をしているのだからなんとも我侭な話ではないか?
現実に対しての抵抗が難しいと自覚するならばするほど,修正ができる間に、その現実に陥らないように細心の注意を払わなければいけないのではないかと私は思うのだが...

| | コメント (2) | トラックバック (0)

失言

強硬な発言(人によっては正論となるのだろうが)が政府・与党の要人から躊躇無く出てくるようになった。
実際には以前からこのような発言はあったと思う。
さらに言えば、このような「本音」は敗戦直後にも、一部にはもう既に有ったはずだ。
既にそのときから「憲法改正」にしても「再軍備」にしてもそこでは「悲願」であったように思われる。
しかし、「敗戦」による「悲劇」と「占領」と言う現実の前にその「本音」を正面きって出すこともできず、受け入れられる事も無かったのだろうと思う。
その後も、日本にとっての戦勝国の筆頭である米国の価値観の浸透や国際社会(国連)への復帰により、日本の豊かさが実現され、目に見える概ね好ましい現実として認識されるにいたっては「本音」は出る幕さえ無かったとも思う。(一方で共産主義が根付かなかったのも同じような庶民の現実がその必要性を感じさせなかったのだとも思う。)


しかし、以前はそれは「失言」であり、その後に発言撤回なり修正などが行なわれることが普通であった事を考えると、その必要性が薄れた事は国民の受け止め方が変わってきたと言うことだろう。

これらの発言がその対象を刺激し、その対象との関係が悪化したとしても、そもそも、その悪化を必ずしも避けたいなどと思っていなければ大した問題ではない。
日本の「平和主義」が「無防備」で「危険」だと認識し、「国家」としての体に危機感を抱いていたならば、その「無防備さ」や「危険」な状態を「悪化」により目に見えるものにする事になんの躊躇があるのだろう。

むしろ、庶民の「不安」や「警戒感」は「願ったりかなったり」だろう。
発言の経緯を見るとどうにも確信犯的だから。
(ちょうど自己責任を自覚しない若者に「責任」による痛手を与えて自覚させてやろうと言う感覚に近い。深読みすれば、思考停止した国民が自ら気づく事には期待できないと言う危機感さえ根底にあるのかもしれない。)
「不安」の根拠も「警戒感」の根拠も、見えにくい物ならば目に見えるものにすれば、それは途端に「現実味」を帯び日本人にとっては無視しがたい物になる。

その状況が不十分なら、その状況を作ればいいのであり、一政治家の発言一つでそれができるのが今の状況であるように思える。
日中、日韓問題はこの意味でこれ以上の好材料は無い。
それにより国民は、自らその必要性を現実的なものとして感じるようになるのだから、かなり有効な手段だ。
最初は好ましくないと思われようと、既成事実を積み上げ、「それによりもたらされる」次の「現実」を目の前に突きつければ事足りる。
今の日本では既に起こってしまった「現実」の前では『何によりもたらされたか』はあまり問題にされないのだから。

経済的な成功体験も既に薄れ、不安が広がる中で「先進国」としてのプライドは以前と変わりが無い「今」はやはりこの「悲願」にとっては好機だろう。
「米国ですらも実現したくともできない理想」を織り込んだ憲法も、その後の米国の事情の変化により顔色をうかがう必要も無く、それを変える事がむしろ意に添う事柄になってきているのだからこれも「悲願」にとっては好機だ。
不安を自身喪失に置き換えれば日本人としての「アイデンティティー」や「誇り」もこの時期には好材料だ。

実際には高度成長期には高度成長期なりのそれを達成した日本人の誇りも自信もあったはず。
その成長の中で「平和主義」に対する誇りもあったはず。
それが行き詰まったからと言って、これらを無かった物にするのはあまりにも都合が良すぎる。
それを考えると、戦後の~が日本人の誇りを失わせたと言う論調は「悲願」達成の方便に思える。
その実はこれまで割を食っていた「悲願」を切望する立場にとって好機が訪れ、それらの「意思」がその好機を捕らえ、「現実」を武器に、(その意思にとって)良かれと思う望ましい方向に思考停止した国民を導こうということだろう。

これまでのところ、これはそこそこ成功しているのかもしれない。
今の「現実」に対するスタンスでは、「必然」と思わせる材料を提供する事さえできれば容易に方向を操作できそうだし、現に様々な既成事実に我々は無力さを露呈している。

ただ、「現実」に過大なコミットを与え、このように物事が進んでいくと、どちらを選び取るにせよ,本来注目すべき『「悲願」達成の暁の世界』と『そうでない世界』との違いを選び取る為の選択材料を目にする事も、その悲願達成の過程で生み出される別の「現実」が孕む「危険」を顧みる機会も与えられそうも無い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/02

利益優先

今回のJR福知山線の列車事故に関して「利益優先」がたびたび批判されている。

いろいろ見ると、この「利益」をどのような捉え方をするかによって見方も変わってくるようだ。
単に「金儲け」と捉えれば、そのイメージには「安全」を犠牲にしてもひたすら利益を追求する姿が目に浮かび嫌悪感を示す人は多いだろう。
一方、「安全」を犠牲にするようでは人々からの支持を失い、長い目で見て「利益」を優先する事にはならないとの考えから「利益」を捉えれば名誉も回復できる。

実際に今回のような事故が起きれば、直接的な損失、信頼の喪失は明らかであり、公共交通機関において利益を追求する為には「安全第一」が無視できない事も自明となる。
三菱、雪印の例を見ても同じだ。

(自由に選択できる)人に受け入れられ、支持される事が結局は「利益」に繋がるのであり、その「事実」が社会や人にとって「好ましい物」をもたらしてくれる根拠とされるのだと思う。
「利益」といっても人を阻害しているわけではなく、そこには人が介在し人の思いも反映される。
何が好ましいかが人によって多様である今の世の中で,このような形で「好ましさ」を反映させていく方法は優れていると言っても間違いではないのかもしれない。
ある意味、ここに資本主義の倫理があるのだろう。


しかし、「それだけ」ではやはり気になる事が有る。
実際には「信頼」を失うのも「利益」を損なうのも、何かしらの齟齬が起きなければ顕在化しないという現実があることだ。
顕在化しなければ評価する側は選択の材料とする事もできず、企業側は利益に反すると認識する事もできない。
顕在化した時点では、企業の側にも選択する人や社会の側にも既に「損失」は起こってしまっているという事である。

規模も小さくシンプルなものならば齟齬を繰り返しても、その中で全体として「好ましい」方向に進むのを期待していればいいのだが、現代は流動化により規模も影響も大きくなり、複雑さも増す一方である現在の状況では「起こってしまう」事が致命的なものになりかねないからこれが無視できない。

小さな競合する2つのパン屋があって、そのパンの値段の違いで選んだら値段の違い以上にまずかった。
などというのは別に致命的な失敗ではないので、それが繰り返されるうちに支持されないパン屋が淘汰されるのは放っておけるのかもしれないが、大規模に大量生産している食品メーカーがコストを下げるために新しい合成原料を使いそれが人の遺伝に重大な影響を与える事が後から分かるなどといったケースが発生したとしたら、それが露見して、その結果として食品メーカーがたとえ淘汰されたとしても人や社会に与える被害は甚大で時には致命的となるかもしれない。

人が受け入れたり、支持することで「好ましいもの」が決まり,生き残ることで「好ましさ」を社会にもたらすという資本主義の「原則的な倫理」だけでは増えつづける「影響が大きく好ましくない致命的なもの」を防ぐにはあまりに頼りない。

そこでは、人は選択の材料を正しく「予期」することが要求され、企業の側にも齟齬により利益を損ねることがないように因果を正しく「予期」する事が前提とならなくてはならない。
新しい技術,新しい物質、新しいシステムが次々に生まれる中でこれらをしなければいけないのである。
より客観的で明らかであればルールや法制化により予期を補助する必要も考慮しなくてはなるまい。

しかし、この「予期」は「顕在化」していないだけに、必ずしも身近な「現実性」を伴っていない。
より客観的であることも保証されない。
「予期」が明らかに正しいとも確認できず、しかも大抵リスクが発生する確率は低いので、もっと身近な「現実的」な別の理由で「予期」は信頼されない可能性もまた高いと思える。
システムの複雑性は構成要素が「予期」を曲解してしまう可能性も含んでいるので尚更予期を信頼するのは難しくなるだろう。
宝くじがあたるかもしれないと期待する人はいても、それと同じ確率でアクシデントに遭って死ぬかもしれない事を気に止めもしないのもまた人である。
かなりキワドイ綱渡りではないだろうか?

資本主義は発展を前提にすれば優れた面も多いとは思うが、身近な現実性によほど懐疑的でなければ危険を回避できないほど、今の私たちの社会は発展してしまっているような気がしてならない。

これは事故に対してはもちろんだが、食の問題、環境問題、平和の問題などを(経済至上主義のように)「修正や規範を最小化した資本主義」の現実に身を委ねがちな今の風潮に対する私の大きな危惧でもある。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »