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2005/04/26

責任と反省(2)

悲惨な列車事故が起きてしまった。
人はいつか死ぬし、毎日何人もの命を交通事故や様々なアクシデントで亡くしている事を知ってはいても、車内で起こったであろう地獄絵図の中に私自身を置いて見ればその理不尽は言葉に言い表せない。
実際にその場に居て命を落とされた方の本当の恐怖はもう分からない。
実際にその場に居てその光景を目にした方の本当の恐怖は私には分からない。
私の想像などはしばらくすれば薄れてしまうのであろうが、被害者の方はそれを忘れる事は無いだろう。

大事な人を失った遺族には、普通の一日を送るべく交わしたごく普通の会話も、もう二度と訪れない。


何気なく、普通に身の回りに有り,それほど危険を感じずに利用している様々な物は膨大なエネルギーをもっていて、一度そのコントロールやそれを成り立たせている信頼を失うと、それは突然狂気になって人に牙を向く。
交通事故も、飛行機事故も、原発事故も、貿易センタービルの崩壊も、環境破壊も、戦争も皆そうである。
等身大の人が耐えうるエネルギーよりも、大きなエネルギー生み出しそれを操るのが文明である以上それから逃げる事はできない。
そこから逃げられないのなら、生存の為に、それをコントロールし,確かな信頼を維持することを宿命づけられる事からも逃げられない。

今回の事故も、どこかで信頼が損なわれているのだろう。
それが
JRの安全意識にあるのか
運転手のモラルに有るのか
車両設計技術者の意識に有るのか
置石をしたかもしれない人が現れるような世間のモラルにあるのか
全く、予期もしない物に有るのか
それは分からないが、きっとどこかに信頼を裏切る物があるのだろう。

マスメディアでは早速、非難の対象探しに躍起である。
明言せずとも、運転手の資質に充分な焦点をあてたりしている。
(今はまだ、運転手もまた救出されていない犠牲者でしかないのであり、彼の安否を心から気遣う家族も居るはずだ)
記者会見などではどこかの記者がJRを早々と糾弾口調で問い詰めている。

それを見越したようにJRも早速、責任を意識した、置石を思わせる「粉砕痕」なる私の知らない語を紹介してくれた。

理不尽なインシデントが起きた時、「分からない」事は私も不安で,少しでも早く「この事故は一体なんだったのか」を知りたいが、「不確かな情報」で「不確かな予想」をしてどこかに「不確かな非難の対象を見つけ出す」ことが「今」すべき事とも思えない。
「まだ分からないこと」は「わからない」のだ。

先日のエントリー反省と責任で取り上げた「回転ドアの事故」と似たような構図が頭をよぎる。

まずは非難よりも救出であり、被害者、遺族、レスキュー、医師等への「いたわり」「理解」であり、不確かな情報の確実化であり、原因究明であり、その後にやっと来るのが責任や(来るとしても)糾弾ではないだろうか?
今の時点での不確かで過度な糾弾は「真の原因解明」の妨げにしかならないのではないだろうか?
どんな原因が今後明らかにされるにせよ、人命が失われた以上「そのこと」だけでも、「安全に人を運ぶ責任」を負った「JR」等の責任が回避される事が無いのは言うまでも無いが、それがすなわちマスメディアに当事者をトコトン糾弾する「錦の旗」を与える事にはならないと思う。
「錦の旗」が与えられる事があったとしたら被害者であり、遺族であると思う。
仮に被害者や遺族が「責任所在の不確かな当事者」に不確かな糾弾をしたとしても、それは理解されなければいけないと思う。
ただ、マスメディアや世間がそれに過度に同調して「真の原因解明」を阻害してはいけないと思う。
「同調」する代わりに「いたわり」と「理解」の目を向ける立場であって欲しい。

責任や糾弾も必要では有るが同じ悲劇が起こらぬように「真の原因究明」がその後ろに隠れてしまわないように願わずにはいられない。

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