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2005/04/18

体験ツアー

半年ほど前、最近の現実論には「人の要素」が加味されているのかというエントリーを書いたことがある。

力の強い物が暴力を使って従わせる事はできるだろう。
しかし、それで終るわけではない。
殴られれば痛いと思うのが人であり、理不尽を受ければ恨みを持つのが人であり,それを簡単には忘れないのが人である。
そして、その思いを「合理的」な反応などで処理しないのも人である。

目的合理の為だといって暴力に対し恨みを持つことを不合理で間違っていると非難しても、人が全てを合理的に論理的に感情をコントロールできるならば、同様に暴力の根源である野生もコントロールできるはずであり平和などもわけも無く実現できるはずである。
力が「現実」であるならば、それにより生み出されるネガティブな感情も「現実」であり、その感情が引起す行為もまた「現実」である。
それを「現実」と見る事ができなければ、その「現実論」は「現実的」とはとてもいえないと思えるのだが前者のみが「現実論」としてまかり通っている。

感情には「恨み」や「憎しみ」や「ねたみ」や「悲しみ」や「不安」や「せつなさ」もある代わりに「喜び」も「安らぎ」も「共感」も有り、これらが幸福感や生きがいと一体をなしている以上、人らしくあるためには、これらを抹消する事もできない。

「安らぎ」を得たいが為に「他」に対する「不安」を取り除こうとすれば「恨み」をかうことも有る。
「喜び」を得たいが為に富を求め「他」を踏みつけるなら「ねたみ」をもたれることも有る。
身近な者との「共感」を持ちたいが為に「他」を相対化して利用してしまえば「不安」をもたれることもある。

人らしくあるために大事にしたいポジティブな「感情」も、それだけしか見ずに振り返る事が無く闇雲にそれを求めれば、ネガティブな「感情」を生み出してしまう。

今報道されている中国、韓国の反日気運の高まりは合理的なのだろうか?
中国や韓国の(合理的な)陰謀だという人もいるだろう。
しかし、最初はそうだったかもしれないが、今はそんな秩序立った物だとは私は思わない。

日本人がそれに対して反感を持つのは合理的なのだろうか?
日本の政治の国内向けの政策や外交の駆け引きだという人もいるだろう。
しかし、最初はそんな思惑が有ったかもしれないが、今はそんなに高尚な物だとは私は思わない。

10年前よりも後には引けない「感情」がある、1年前よりも後に引けない「感情」がある、昨日より後に引けない「感情」もある。
合理性や論理性で流れができているのではない。

もともとの願いであるポジティブな「目的」や「感情」が次第に影をひそめていき、ネガティブな「感情」を着々と生みつつ、それが行為となって、形となって少しずつ少しずつ現れそれに囚われ始めている。
以前より互いに引けないところに感情が向かっているのに、互いに「相手がいつか正しさに気付く」と言う結論を頼りない根拠を当てにして、たいしたことでは無いとタカを括っている。

一部の中国人は「愛国無罪」と掲げていたが、これこそが非難すべき「過去に日本が犯した間違い」である事に気がつかない。
一部の日本人は枝葉である歴史の記述の齟齬を理由に「国土を荒廃させ、膨大な被害を自国民にも隣国にも与えた」過去の明らかな「失敗」を反省し同じ悲劇を繰り返さないという本道にまで結び付けこれも葬り去ろうとしている。

ちょっとした注意深さがあれば、ポジティブだと信じている「感情」がネガティブな「感情」を生み出している「過程」をいま見る事ができ、感じる事ができるはずだ。
将来の歴史に記される「争いに向かう不幸な過程」を体験できるチャンスである。
太平洋戦争に向かった先達がどのように「正しさ」を信じ、時代の流れに巻き込まれ日本を荒廃に導いていったかを知る絶好の機会である。
先達も「異常」や「明らかな間違い」などで悲劇に突入した訳ではない事が実感できるだろう。
これをレッスンとできるか、それとも歴史の1ページとして残してしまうのか。
この先に有る「悲劇」を歴史で学んでいるいる我々がこれからどんな過程を歩むのか、それはまだ分からない。
私もこの機会に、しっかりと「現実」を体験させていただき想像力を養いたいと思う。

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コメント

 「破壊行為を『愛国無罪』などといって正当化するのはケシカラン」などといっている政治家たちが、よりによって首相の「謝罪表明」の日に、みずからの「愛国心」を示すべく靖国神社を参拝。ますます憎悪をかきたてる悪循環ですね。

 中国の反日デモのように物理的な破壊行為はないとしても、日本のネット言論にあふれかえる嫌中、嫌韓の悪意の流布もさまざまなものを破壊します。
 サッカー場のサポーター同士の乱闘に正邪が問えないように、これらは鏡の両面のようなものだということに「彼ら」は想像がめぐらないものなのでしょうかね。

 また、そのことに危惧を抱いているはずの私たちにはいったいなにをすることができるのでしょう。
 なにもしないでいると、津波のように「現実」というものがやってきて、取り返しのつかない事態になってしまうことは、なんとしても避けたいものです。可能な限り想像力を巡らせ、これを避ける方法を考えていきたいと思っています。

投稿: Rough Tone | 2005/05/01 06:46

RoughToneさん おはようございます。
初めてRoughToneさんからいただいたTBが愛国心に関する物だった事が遠い昔のような気がします。
今私たちが囚われている「現実」はあまりに近すぎる「現実」に思えて仕方がありません。
これでは私たちとは違う「理想」を持つ「現実主義者」のなすがままになりそうです。
このような現状で「憲法論議」や「安全保障論議」をされてはかないません。
想像力、リアル感
これらを補うものはないものでしょうか?
とにかくリアルな場でも身近で機会があるごとに、このあたりを共有できるように努力をしていこうと思います。

投稿: FAIRNESS | 2005/05/02 05:58

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大陸に渦巻く巨大な敵意は、黄砂とともに海を渡り、この国に、こうして日常を暮らして [続きを読む]

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