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2005/04/15

責任と反省

責任とか反省とか言うものは簡単なようで難しい。
最近の日中関係、日韓関係を見てもつくづく思う。
でもここでは別の事を書きたい。

私は法治国家に住んでいるので法律に従わなければならない。
事の善悪、責任に何らかの結論を必要とするときがあればこれに従う事になる。

交通事故等では、当方の過失が少なくとも、もし先方が怪我をしたならば「申し訳ない」と思うのは古き良き日本人の「人としての情」としては好ましい事であるはずだが、法や一般的な解決の手続きを意識すれば、それをその場で言葉として表明してしまうとあらぬ誤解や混乱を招く事が有る。
守りたい物がなければ関係無いが、そうでなければこれから逃れる事は難しい。
俗人である私も初めて事故を経験した時にその洗礼を受けて周りを巻き込んで難渋した思い出が有り、それは今も忘れることはない。

特に「自由」とか「多様性」とかが一般化すればするほど、価値観も錯綜し「常識」や「慣習」や「人情」でトラブルを解決する事が難しくなり「法」の重みは増して来ることになる。
そして情状酌量や裁判所の裁量があるにしても「情」が通用する範囲もまた狭まってくる。


先日NHKで以前起きた六本木ヒルズの回転ドアの事故について、特集を放送していた。
この事故では子供がドアに挟まれ亡くなっている。
「人の命」が失われただけに社会的(行政,民事)な責任のありかを裁判を通じて追求する事が求められた。
それは結果的に賠償(損失)や当事者(メーカーや管理者)の信用に直結する。
「裁判」が関わってくると当事者は「不幸な事件」として「申し訳ない」と「反省」する気持があろうとも、それを口にして表明してしまう事は裁判で「責任」を認めたとの言質を取られる事にもなりかねず、場合によってはそのことによって必要以上の責任を負わされることもありうる。
「人の命」が「何にも変えられない物」とする秩序を維持する為(その価値があるからなのだが)にはその責任も大きいものとせざるを得ず、残念なことに当事者は裁判で不利になるような事を口にはできなくなるのが現実だ。

この番組では「責任の在り処」が焦点となる事で、本来重要視されるべき「真の原因究明」が置き去りになってしまうという構造を浮き彫りにしていた。
番組自体はこのような問題に対して、裁判とは関係無い第三者を主体とするチームが結成され、それに当事者であり対立し合っていたメーカーの技術者や管理者の協力を得て一つになって「真の原因究明」を進めていく姿、そしてそこから得られた成果をそれに自主的に参加していた各業種の技術者が自らの分野にフィードバックしていく姿を描いていた。

「責任」にはこの事故で見られるように「糾弾」「罰」などの見せしめにより将来の再発防止を期待する役割を果たす一方で、社会の多様化、複雑化、細分化に伴い一種の「利害」構造が発生することもまた避けがたく、これにより重くなった「責任」が「真の問題解決」を阻害してしまうというジレンマを生み出してしまうのも現実である。
今の社会ではこれに加え、法を超えたところでも「失敗」や「間違い」を起こした者をマスメディアも徹底的に糾弾し、「世間」もそれに触発され再起不能なまでに無制限に叩き潰してしまうから尚更だ。(実際は古くなれば関係者以外はそれをすぐに忘れ、そのフォローがされる事も殆どないのだが...)

「人の命」に対する「責任」を軽んじてはいけないのが人の道であると思う。
その認識が社会の安全や安心を支えている。
社会がそのことに関心を示し、被害者(遺族)を労わり、同様の悲劇が起こらないように監視・糾弾する事は問題を顕在化させ、そのような行為に圧力を掛けて再発を防ぐ為にはけして悪い事だとは思わないが、これが無制限に、権力のように、原理主義的にそれを振りかざし完膚なきまでに糾弾する事で「同様の悲劇が起こらないようにする」という使命を忘れさせてしまうようであればそれは単に感情的な「行き過ぎ」となり現実的な損失を社会にもたらしてしまうように思える。
三菱自動車のリコール隠しの際には「悪者」である三菱の車で発生したトラブルであれば,他社でも同様の内容・発生確率で起こりうる不具合に対してさえ鬼の首を取ったように報道され糾弾の材料にされたことが思い出される。
「罪を憎んで人を憎まず」と言う格言は、感情や勢いに任せ大事な事を見失いがちな傾向に対する誠に現実的なアンチテーゼに思える。
「失敗」や「間違い」に寛容ではないことは一つの手段ではあるのだが、一方で無制限の(割り切りの無い)「責任」を生み出しそれが排他的に作用してしまいかねない。
人の命が関わる問題では「責任」の重さを定量化できないだけにさらにこの矛盾は大きな物となる。
将来について考える時、社会にとっては「真の問題解決」こそが重大な関心事であるのだが、「責任」の在り処がそれをはるかに上回る関心事となってしまい、その存在すら忘れてしまいがちになりやすい。

これは前述の三菱同様、最近後を絶たない「企業の隠蔽体質」や「官僚機構の腐敗体質」とも関わる問題だと思う。
これらも本当に求めらるのは「真の問題の解明と合理化」なのだが無制限に拡大する「責任」からの回避が現実的な問題となって立ちはだかり、それを阻害してしまう。
難しいのは「責任」追及がいけないことだとは効果の面からも道義の面からも言いえない事だろう。
「責任」を何かしらの有限な物として合理的に割り切る事もできず,かといって徹底した一つの倫理観でこれをコントロールする事もできない状況では内からこれらを解決していく事は非常に困難なことになってしまう。
このあたりにも日本独自の価値観を犠牲にしても、グローバル化という「外」の力(合理性)を借りなければ変えることができないという外圧依存体質を生む一つの要因があるのかもしれない。

しかし、「糾弾」も良いが、私たちはその陰にあるもう一つの大切な「責任」の意義を見失ってはいけないと思う。
それはいずれも「将来に生かされなければいけない」ということに有るのだと私は思う。
失敗を犯した当事者は真摯に原因を見つめ同じ失敗を繰り返さない事。
社会は失敗の犠牲者をいたわり,失敗を犯した当事者の適切な「責任」を「罪を憎んで人を憎まず」の立場で冷静に評価し、失敗の原因をこれも冷静に解明し社会の資産に還元していく事。

ジレンマがあるところでは「これが正しい」と明確な答えを出す事などできないにも拘わらず明確な答えを求めたくなる。
しかし、このような状況でも何らかの選択をせざろう得ないときには、少なくともこれらに「自覚的」である事により検証無しに一方の極に走る愚を犯さないように気をつけるだけでも結果は違ってくるのではないだろうか?
世間や集団の「勢い」というものはある極限を越えたなら「制御」は難しくなり、制御できなくなるまではなかなか感知する事はできなくなりがちだ。
そこに至ってしまえば「勢い」にかき消され合理性も思慮も道義も必要とされなくなるだけに尚更そう思う。

今の日中・日韓の関係悪化を見ながら直接関係は無いのだけれども漠然とこんな事を考えてしまう。

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