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2005/04/01

内なる公共心

卒業式シーズンだったこともあり国歌、国旗の話題がblogでも多く取り上げられていた。
憲法改正草案、教育基本法でも愛国心は関心の的である。

このような話題が注目される理由はいろいろあるのだろうが「公共心」「モラル」の低下もその数ある理由のうちの一つだと思う。

「公共心」の欠落に対する危機感がそこにあり、国民の中でも同様にこれに危機感を感じる人は多いのだと思う。
自由や個人主義にその責任を押し付ける趣味は無いが、私自身も「公共心」や「モラル」が衰退した社会はとても住みにくいものになると思う。
現状に対する問題意識は自民党の先生方とあまり変わらない。

公共心をいかに再生するか、そのアプローチの問題だと思う。

私の印象では戦前も、自由と民主主義の国となった戦後も日本人の公共心は個人の外に置かれてきたのではないかと思っている。
日本人として持つほぼ共有できる国の道徳があり、世間の持つ道徳があり、各コミュニティーが持つ道徳があった。
それらは長年培った人と人が穏やかに共存する為の知恵の集大成のような物で、規範として存在し、世代が世代にその知恵(答え)を生活や教育を通して伝えてきた物なのだと思う。

嘘をつく事は悪い事だ。
人に迷惑を掛けてはいけない。
人を傷つけてはいけない。
身勝手はいけない。
思いやりを持たなければいけない。
物を大事にしなければいけない。
目上の者を敬いなさい。

世間がそれを用意し、世間がそれをサポートし、世間がそれを体現しているから、別に「なぜ必要なのか」疑問をはさむ必要も無い。
従わなければならない者の反発は現在同様あったろうが世間が揺ぎ無く、権威のあるものは権威があり、権威があるから威厳も自尊心もあり、だからこそそれらを誰しも信頼できたのだと思う。
小ざかしい屁理屈を言えば「生意気を言うな」の一言で終わりである。
大人になるということはこれらを身につける事だったのではないだろうか。
このような中では個人の「外」にあるものに沿った振る舞いをする事が「公共心」となる。
それを支える世間などの「外」が期待通りの見返りを与えてくれるのだから従う事に不都合も無いのである。
だから、国家,世間、コミュニティーなどの「外」は常に正しくなければいけない。
それゆえ、国家や世間,そして地域コミュニティーそのものに偏見があっても、それを修正する事は難しいという一面を併せ持っていると思う。

そんなことは無いだろうというかもしれないが、戦後も「国」「世間」「コミュニティー」など「外」にある規範が公共心やモラルであったことは変わらなかったと思う。
ただ違うのは、この個人の「外」にある「公共心」は個人主義の系譜を持つ自由とその文化の浸透により力を失ってしまったところだと思う。

自由がもたらした多様性が「外」の持っていた「正しさ」に齟齬を生じるようになり、信頼を失ってしまったのではないだろうか。
その結果
「身勝手はいけない」はそれだけでは信頼できなくなってしまうのである。
「世間はどうなんだ、身勝手なやつが大手を振っているじゃないか」となってしまう。
本来は「身勝手」が社会全体の安定に悪影響を及ぼす事実も理由もあるのだが、個人の「外」に用意された公共心やモラルは「外」への信頼が前提なので「外」が信頼を失うと外が用意した「身勝手はいけない」自体も信頼できなくなってしまうのである。

自由が「外置き」公共心やモラルを荒廃させたというなら、それはそうなのだと思う。

しかし、「自由」にはそれに対応した「個人主義」をベースにした公共心やモラルの維持装置が有るように思えるのだ。
それは言うなれば「内なる公共心」のような物ではないかと思う。
「身勝手はいけない」ではなく「身勝手をするとこうなる」だから「しない」と自発的なものとして個人に内在させる事なのではないだろうか。
個人主義は自己選択なので「身勝手をするとこうなる」しかし「敢えてする」という自発的な選択も当然生じる。しかし、そこでは選択に伴う自己責任が自覚的となるのである。
「外」に用意されそれに沿うことを要求されるモラルではその責任を「外の齟齬」に転嫁してしまうことも可能となってしまうのであるが,「内」にあるものであればそれはあくまで自己の選択の結果生ずる責任となるのである。
別角度から見ればこれが自由のもう一つの側面でも有る。
モラルや公共心を押し付けられても、そのおしつける主体が信用できなければ守る気にならなくとも不思議な話ではない。
モラルや公共心への反発よりも、それを押し付ける主体や権威への反発ではないだろうか。

「公共の場所にゴミを捨ててはいけない」という外置きモラルでは、それを用意する「世間」で「皆が捨てている」という現状があれば個人がその「世間」の齟齬に責任を転嫁してしまうことも可能である、
しかし「内なる公共心」に「外」がどうであるかは関係無い。
「公共の場所にゴミを捨てると」いう意味を知った上での個人の選択である。

もちろん「外なる公共心」を採用していても徳のある人は「内なる公共心」まで深める事もあるだろうし、逆に「内なる公共性」を採用していようが社会が「外なる公共心」を全く採用していないということでもないが、どちらが「主」であるかの違いは大きいと思う。

確かに「自由」は日本の公共心やモラルを低下させた。
しかし、それは「自由」を教えると共にそれとセットであるはずの「個人主義」をはなから「利己主義」として敵視して教えてこなかったこと、そして公共心やモラルをその本来の意義を個人に内在させる教育を軽視し「守ればよい」として押し付けてきた事による弊害がそうさせたのではないかと思う。
これは民主主義についてもいえることで「個人」の自らの責任に自覚的であることで初めて機能するシステムなのである。

「自由」や「民主主義」は国際社会の中で生きていく以上、これらは日本が取らざるを得ないシステムであり,そして現在のところそれに変わる優れたシステムも他に無いと思う。
そのような中で「外置きの公共心」を取戻すべく「公共心」を国家の信頼や威厳を強制により回復させて機能させようとすれば多様性も自由も制約する事になる。
国際社会の中で、それが意味する事は重大なのではないだろうか?

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